2019年5月8日水曜日

果実味とミネラル―ぺトロールをめぐって―

田中の家の流しの下にはまだまだワインがたくさん眠っている。田中の前職がワインに関係していたため、どこからかワインが流れてきたり、自分でも勉強のために買いためていた。これは読書家における「積ん読」と似ていないだろうか。

実際には、ワインは積んでおくだけで、質が日々変化していくものだ。それは通常「熟成」と呼ばれ、時には「劣化」に転ずる。しかし、そうした変化を操作しているという意識が失われた時、その積まれたワインは積まれた本と変わらなくなる。

ミニマリズムを学んだ田中は、積ん読を解消するまではもう本を一切買わないと決めたのとまったく同じく、いまのワインをすべて消費するまではワインを一切買わないと決めている。

そんなわけで引っ張り出されるワインは、あるものは会社で譲り受けた貴重なワイン、あるものは通販で手に入れて、あるものは出張先で購入と、それぞれに思い出があったりもするのだが、一方でどうしたものかよくわからないワインも出てくる。きょうはそんないつどうしたかわからないワインがおいしかったので、そのワインについて調査したんだ。


「オースティリティ シャルドネ アロヨセコ 2015」。これがこのたび田中が選んだおいしいワインである。まず来るのはトロピカルフルーツ系のシャルドネの感じ、また樽の焦げた感じやバニラ風の感じがきて、なるほどカリフォルニアのシャルドネである、ということになるのだが、他の人々の感想を読んでもそういうことになるのだが、田中はその奥にもう一つなんかあるなあと思って、ああこれは「ペトロール」ではないか、とわかったのである。そうしてペトロールを見つけると、このワインの印象は反転していった。透明感・ミネラリティが際立ち、そこに果実味と樽香がほんのりのっているような。そこまで分析的に飲んでみると、これは素晴らしいワインだということになり、調査をしたらこのワインはどうも2000yenぐらいで買える。おとくなのでみなさんも飲もう。

さて、この話でポイントになるのはやはりペトロールなのである。ペトロールとはガソリン・灯油の香りであり、シャルドネではなくリースリングというブドウ品種の特徴香として有名であるが、とくにリースリングのワインだけに発生するというわけでもないことは、仕組みを理解するとよくわかる。ペトロールという香りは、TDN(トリメチルヒドロナフタレン)という物質の香りである。この「N」つまりナフタレンというのは、タンスの防虫剤のナフタレンであり、ペトロールと表現されるワインの香りは、ナフタレンの香り(タンス防虫剤の香り)とも説明される。なぜワインからこの香りがするようになるか、これはTDNという物質がブドウの中でどうやってできるかを理解するとわかるのである。

ブドウは大きくわけて黒ブドウと白ブドウにわかれるが、白ワインになる白ブドウはその果実にカロテノイドという色素をつくっていく。黄色、オレンジ、赤系統の色素であり、完熟した白ブドウが黄金色に輝いている、あの色はカロテノイドである。あの色によってブドウは、直射日光や高温から身を守っているのだが、その色素の一部は果実の成熟とともに減少=分解される。このとき出来てくるのがTDNということになる。だから、この仕組みによれば、どんな白ワインからもペトロールが香ってしかるべきということになる。

それでもペトロールが目立つときとそうでないときがあるのはなぜだろう。これは2つの仕組みで説明できると思う。
(1)果実味が少ないから相対的にペトロールが目立つ
ペトロールがリースリングの品種特徴香とされるのは、リースリングというブドウがカロテノイド濃度の高い一方で、果実味を代表するテルペン系の物質に乏しいことによる。近年、ペトロールはリースリングの品種特徴香ではなく、未熟なブドウを使ったことによる欠陥臭であるという声が急速に広まっているが、これも果実成熟の香りが相対的に低いからペトロールが目立つんだろうという意見なのであり、仕組みは同じということになる。
(2)TDNは温度で遊離する
地球温暖化の影響でTDNは多くなる、また高温条件でのブドウ成長によりTDNは増えるのだといった文章も多くみられる。また、ブドウの成長成熟とは関係なく、機械で収穫したブドウのTDNは多いだとか、瓶内熟成の過程でもTDNは増えるのだとかいうようなことも言われている。これはどうしたことだろう。この答えになっていそうな文章を、かの名著から引用・紹介しよう。

若いワイン中で、TDNの一部は糖と結合して、無臭の状態で存在しているようです。これが数年の瓶内熟成の間に分解して、糖との結合が切れて遊離の形になると香ってくるようです。ですからこの香りは瓶内熟成にしたがって増加される傾向にあります。TDNの遊離型、結合型の果汁中の濃度はブドウが植えられている土地の性質と醸造条件に大きく左右されます。富永 敬俊『きいろの香り : ボルドーワインの研究生活と小鳥たち』

つまり結合型TDNが(たとえば温度によって)遊離すると香ってくるのである。ワインの香りの化学にはいくつかのパターンがあるが、この「結合-遊離」の仕組みはいろんなかたちで出てくる仕組みなので覚えておくとたのしい。

最初のワインの話に戻れば、他の方のネット上のテイスティングコメントに出てこないペトロールを田中が感じたのだとすれば、それは田中が流しの下でワインをほったらかしにしているあいだに、TDNが温度影響を受けて遊離したのだと、そういう可能性がある。

では、ワインセラーではなく流しの下に放置されたワインの、これは欠陥臭なのだろうかというと、田中は少なくともそうは思わない。なぜなら田中は、このワインのペトロールこそを、ミネラルな透明感こそを、おいしいと思ったからだ。このワインにペトロールを感じなければ、こんな文章を書くこともなかった。

よいシャルドネのワインには、火打石の香りがあるというが、火打石もペトロールも同じミネラルの仲間であり、田中は火打石の香りがどんなものか知らないが、たぶんそういう良い意味で田中は、このワインのペトロールをとらえているのである。

つまり何が言いたいのかというと、けっきょくはワインって好みの問題に集約されていくはずなんですよだって嗜好品なのだから、ということだ。が、価値判断はさておいて、そうした要素が今回まとめたような化学で語られるということは、やはりワインの魅力であるわなあ、という思いも新たにしたところであった。

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