2019年5月19日日曜日

合理的配慮とセルフアドボカシー


発達障害者として次の仕事を探している田中は、いま就労移行支援の学校に通っている。明日からはじまる週は、火曜と水曜に休みを取って別の学校つまりは放送大学の面接授業に出る。毎日学校に通って勉強ばかりやっている。以下は先週の授業ノートより。

障害者雇用の応募履歴書には<障害と合理的配慮>の欄がある。この合理的配慮とはなんだろうか、ということはしばしば話題となることだ。合理的配慮という言葉は、あまり聞きなじみがない言葉だがほんらい、セルフアドボカシーという言葉とセットで理解するべきものである。これが先週、学校で習ったことである。

このとき合理的配慮もセルフアドボカシーも、語の構造が同じ、ということがポイントになってくるだろう。
・合理的配慮=合理的+配慮
・セルフアドボカシー=セルフ+アドボカシー

配慮という言葉は、おもてなしに近くて、配慮する側される側があり、一方的なものだ。しかし障害者雇用において、障害者はおもてなしを受けようとしても就職できないのである。自身の障害はどのようで、だからこういう配慮が欲しいと説明をしなくてはならない。この理屈に合った配慮をすることで、企業側の利益にもなりますね、というwin-winを合理的配慮と呼んでいる。

セルフアドボカシーのアドボカシーは「権利擁護」と訳される。従来の障害者福祉では、支援者が障害者の権利を一方的に擁護していたが、現代では障害者がセルフで権利を主張すること、おまかせにしないことが重要とされている。

これを障害者の側から見た時、そこには自己決定とそれについてまわる責任の問題が生じている。この文句は、もし弊ブログを読み込んでいる読者様が仮にいらっしゃれば(データ上、弊ブログの熱心な読者様は世界中に7名様いらっしゃります、ありがとうございます)、このところの関心事としてつながってくる部分である。

授業の参考文献として出てきた2冊は、きょう田中も図書館で借りて読んだものだから、ここに紹介しておく。
『障害者福祉の世界第5版』
竹端寛『権利擁護が支援を支える セルフアドボカシーから虐待防止まで』

つまり、簡単に書いてしまえば、障害者が社会で生きていくにあたっては、自分を知ったうえでそれを表明するという、人間が誰しも行っていること、がやはり重要になってくる、ということだ。インターネットで自身を発達障害者として表現活動を行っている方々はたいてい、これがうまい。自分の弱みはこういうところにある、というようなツイートが、日に何十も流れてくる。それを田中はうらやましくみている。

田中はたしかに発達障害者だろうが、実際になにに困っているのか、そのあたりがうすぼんやりとしている。このままでは就職なんかできないのである。自己理解。それはたいへんなことだ。とにかくノートになんか書いてみましょう、と授業で言われたのだが、いったいどう書いたらよいだろう。

学校は田中がいちばんおじさんの生徒で、他のみなさんは一回り若い。その生徒らの間でいま話題のひとつは、世間でも評判になっている前田裕二『メモの魔力』である。YouTubeかなにかでそのポイントやメモの取り方(ノートの分け方)なんかを見てしまったから、もう読む必要もないかと思っていたが、自己理解のヒントがあるかもと、書店で立ち読みをした。すると、前田裕二は自己分析の本を何十冊もやったそのノートが30冊になった、という話が出てきた。

田中はこの世の中に「自己分析の本」なんていうものが存在することを知らなかった。就職活動というものに本腰を入れるのは、なんども転職しているのに、今回がはじめてだからだ。本屋には「就職活動」という棚があり、「自己分析」という本がたくさんあるのだった。ためしにひとつ買ってみよう。と買って、夕方、その書き込み式の本で自己分析をはじめたら、これがおもしろい。とにかく仕事を見つけても、また辞めるというのでは意味がない。きちんと自己分析をして、自分に合った職場を見つけて働きたい。という夢が文字化されると、気持ちも明るくなり、自己肯定感も高まるような気がする。

一冊おわったらまた一冊と、しばらくは自己分析なるものを続けてみようという気になった。前田裕二に負けないくらい自己分析をしたい。いま仕事についている人も、自己肯定感で悩んでいる人はもしかすると、自己肯定感をあげる本の類よりも、就職活動コーナーで自己分析の本を買って読んでみるとよいかもしれないよ、と思ったので報告しておく。新卒用でない自己分析の本がオススメである。以下にもきょうはじめた本をのせておく。


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