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2019年6月17日月曜日

発達障害という孤独をもう田中は恐れない


昨日(直前記事)で取り上げた、吉村萬壱『ボラード病』の「同調圧力」の問題を、逆から語ろうとしているのが、田中慎弥『孤独論』の「主体性」です。以下のように、「同調圧力」に対置される形で、「孤独=主体性」の価値が語られています。
友だちの数の多さや、場を盛り上げたり場に馴染むコミュニケーション能力を重宝する風潮は、過剰防衛の虚しい反転にすぎません。そんなものはなくても立派に生きていける。独りになり、陰口をささやかれ、後ろ指を指されようとも、気に病むべきではない。むしろ同調圧力から解放されて、自分を顧みる機会を得たのだから、喜んでいいくらいです。(太字=田中)
発達障害論を主にやっている弊ブログにしてみれば、昨日の議論も踏まえれば、発達障害者のコミュニケーション不全は、「孤独に過ぎる」ということになる、気がしていたのですが、この本は当の「コミュニケーション」をいったん棚に上げていることを特徴としています。現代社会の多数派が「同調圧力」によって「思考停止」に陥っているという想いが、著者にはあるからです。そしてなにより、元も子ないようで、だからこそ正しく響くのは、「人間は根本的に孤独なものである」という事実でしょう。
孤独であることは社会のシステム上、忌避されている。しかし、人間は根本的には孤独です。わたしたちはそうしたアンビバレンツにさらされています。
さて、この『孤独論』という本では、「孤独」ということ以上に「文学」が語られ、しかし一貫して語られ終着点ともなるのは「職業」というものです。大きく言って「人生論」といえる本書が職業の話に行きつくのは、「わたしたちの生涯の大半は仕事に捧げられ」るからであり、「人生観と職業観はほぼ等号で結ばれる」からと言えるでしょう。

求職活動中の田中にはまさしくタイムリーな内容でした。きょう、最初に応募した企業から「お祈りメール」がやってきました。人生で初めて「お祈りメール」をもらいましたが、人生で初めて就職活動らしい就職活動をしているのですから、仕方がありません。これまで田中はなんとなく雇ってくれそうな企業に応募して、そこで仕方なく働くことを繰り返してきたような気がします。そして、今度は違います。いくら高望みでも、やりたい仕事にどんどん応募していきます。障害者になったことを利用して、華麗にキャリアチェンジをしようとしています。
独りの時間、孤独の中で思考を重ねる営みは、あなたを豊かにします。そうした準備、練習が、仕事に幅をもたらす。あなたを開放する。
この『孤独論』という本を読むと、生きていく勇気が自然とわいてきますので、みなさんも読んでみてください。コミュニケーション不全はコミュニケーション不全なりに、強く生きていけばよいのかもしれません。あるいはそうとしか生きることができないのかもしれないのだとしたら、その孤独をこそ活かすべきなのかもしれないというのは、新しい視点です。田中もしたい仕事をきちんと見つけて、たくさん良い仕事をしていきたいと思いました。

 

2019年4月19日金曜日

私はいつも緊張している


きょう書きたいと思うのは、本日のツイッターで会話の話題とした「過集中」(かしゅうちゅう)の話だ。発達障害者の特性のひとつとして語られる「過集中」これはどういうものなのだろう。田中は発達障害者として認定を受けている者だが、これまで自分が「過集中」つまりは「集中しすぎ」と思ったことがなかった。しかし就労移行訓練で「過集中」が「緊張」と言い換えられる性質のものであると説明された時、じゃあ私はやっぱり「過集中」なんだわえとそう思ったという、この話をする。


私はとにかくいつも、生きていることに緊張している。たとえば何かを話さなくてはならない。発言に際する緊張はきっとニューロティピカルより数段高いレベルにあると、田中は推測する。周りのニューロティピカルを見ても、あるいはテレビジョンのドラマなんかを見ても、そう推察されるのだ。そして発言しなければ発言しなければ、と「過集中」していくのである。すると結果的にその発言は「冗長」となり、ポイントを見失っていることが多い。だから緊張しないで言葉を出すのが一番よいが、そうはできないようにどうやら脳が組んであるらしいので、とにかく発言を一言で終わらせる訓練、というのを田中は施設でやっている。

また発言に込める想いというのも時に尋常でないことがある。発言を終えてみてなんでそんな力説していたんやと思うことが多い。ただこれについては田中の場合、勝手に適当なことを言ってる馬鹿をやりこめようという明らかな意図がある場合があるので(前職場の馬鹿農業大学の馬鹿を想起)なんともいえないのだが、もう永劫に会うことの無い馬鹿を56してやりたいと毎日思い返しているのだから、これはやはり異常なんだ。こういうのも一種の緊張であり、「過集中」とは考えられないだろうか。

一般に「過集中」とはまさしく文字通りで、ある物事に没頭しすぎてしまうことを指す。そういう意味で言うと田中は、これまでの仕事において定時というものを無視して、残業代なんかいらないから残業でやるとこまでやらしてくれと言ったことが、数限りなくある。いままで4回も仕事を辞めている田中は、4つの職場でいずれもそういうことをしてきた。最初の工場では交代の時間が来ても自分のミスで起こった機械トラブルをなおすまでは帰らなかった。次の工場では7時始業なのに5時半から作業していてアルソックに逮捕されたことがある。次の農業でも6時始業なのに真っ暗な2時から草刈した。最後の農業でも真っ暗な夜の9時まで草刈していた。

これをよく言えば「責任感が強い」ということなのだが、これはやはり異常なのだと思う。就労移行施設では「会社に仕事を置いていける能力をつくろう」という言い方をされている。「集中」のよい状態は、適度な「緊張」のなかにある程度の「リラックス」があるものだと、きょうツイッターで話していた。しかし「過集中」となると、そこにはやはり「緊張」しかないのではないか。会話の相手様がおっしゃっていたところとは違う結論だが、田中はやはりこれが自分でしっくりくる。

となれば重要なのは「どうやってリラックスして生きるか」という問題に焦点がしぼられてくる。田中はとにかく疲れてしまい、夕方はすぐに寝てえらい早く起きるのだ。ようやくいま訓練を始めて、夜が少しだけ延びているが、朝は3時に起きて10時の始業でドアを開けて「おはようございます」と言わなければ言わなければと7時間も緊張している。もの忘れがひどかったり、ミスをおこしたりするのも、元凶は「緊張」にある気がしてならない。リラックス、リラックスと言っていてもはじまらないので、具体的方策をどんどん訓練で試している最中なのであった。

2019年4月7日日曜日

「どうせ」の真意は


きょうも発達障害者の就労移行支援の話だ。ニューロマイノリティとニューロティピカルを分けるもの、それは端的にはIQ(知能指数)ということになる。世の中には自分のIQなんて知らないよという人も多いだろう。IQはクイズ番組の世界ということになるが、ニューロマイノリティとして障害者と認定されるには必ず知能検査を必要とするため、ニューロマイノリティは必ず自分のIQを知っている。その診断にもっとも多く使われているのが、WAIS(ウエイス=ウェクスラー知能検査)であり、その最新版はWAIS-Ⅳだがまだ現段階では実用されることが少なく、たいていの人がWAIS-Ⅲの数値をデータとして認識している状態だ。

ニューロマイノリティはできることとできないことの差が激しいことを特徴としているが、では何ができて何ができないのかはまさしく千差万別である。田中の場合は、という感じでたいていの人々は「●●ができない」という説明を自分でできるのだが(それを「障害特性」という)田中はそれができずできるようになるために訓練に通っている。現段階でわかっているのは、WAIS-Ⅲの知能指数だけだ。WAIS-Ⅳではその概念じたいが否定されることになるが、WAIS-Ⅲでは全IQを動作性IQと知能性IQにわけるという方針をとっており、それによれば田中の全IQは偏差値がやや低め、しかし言語性IQは高く動作性IQが足を引っ張っている。


それは田中の認識どおりで、職業人生の入口において田中は「言語」を使う仕事に就くことを夢見ていた。しかしそれは夢としてついえた。夢のような職業に就けないことはよくある話だ。その時なにを代わりに選択するかそこからが本当なのだが田中はその選択を間違ったと、今となっては思っている。ひとつの夢がダメだとなったときに田中は田中の「言語」がダメだとそう思ってしまった。以来田中は「動作」の仕事ばかりを選んでは当然できない仕事ばかりすることになってやめてきた。これ以上「動作」を積み上げたところでなにもできない。だから、障害者雇用という仕組みを利用してまた「言語」方向へ舵を取ろうというのが今回の田中の目論見であった。

しかしそれはそれで間違いだと先生は言う。「まずやめるべきなのはあなたのそのゼロヒャクの考え方ですよね」。要するに田中は完璧主義がすぎるのだ。自己PRも障害特性もゼロヒャクの完璧主義では語れない。全部ゼロになってしまう自己肯定感の低さも問題だ。問題ばかりが見えてきて田中はまいっている。そのうえにたくさんの課題が出されている。勉強は好きだからこれは今はたのしいが、そのうち壁にぶつかりこれまた苦しくなるだろう。

さっそく壁に当たっているのがタイピングだ。コンピュータの教育というものを受けたことのない田中は、同じ教室のおそらくは学校教育でコンピュータを習ってきた若者たちと比べて、タイピングが明らかに遅い。タイピングの特訓ソフトを使って訓練をやっているが、あるところまできたらもうこれ以上は速度が上がらなくなってしまった。これはタッチタイピングができていないからだ。小学生の頃からワープロを使ってきたが、大学に入るまでずっとカナ入力をしており、右人差し指一本で入力していた。いまでもその時の悪い癖が残っているし、いったん手をどけてキーの場所を確認しているから遅いのだ。タッチタイピングをできるようにならなくては事務職はムリだろう。

というと先生はまたいう。「それもゼロヒャクですよね。できなくてもムリじゃないです。特に障害者雇用の場合は」。たとえば田中はむかしむかしに簿記検定2級をとったがいまではほとんど忘れている。ほとんど忘れているとなると通常は忘れていたら意味ないですねということになるが、障害者雇用では「昔とったってことは興味があるってことですよねすごいですね」ということになるらしい。教科書をひらけば思い出せるレベル、ということなら仕事について必要になってから勉強すればいいからいまは勉強はやめて、他を先にしましょうということになった。


そして田中は今年のはじめから校正の通信講座を受けている。これも次に仕事に生かせればと思っていたが、障害者雇用において「チェック作業」なる事務職、誤字脱字の指摘と再入力は主要ジャンルのひとつで、ここに生きてくる可能性が出てきた。そうなるとたのしくなってきて、近日勉強のスピードが上がっている。この通信講座は8ヶ月で資格が取れる講座で、ではスピードをあげてなるべく早く資格をとったほうがいいかと尋ねると、「いいえそんなことありません。校正の通信講座をやっているということ自体が評価されます。勉強が大変じゃなければ進めたらいいですが、時間的にむりならやらなくてもいいです」と言われる。

じゃあ何をすればよいのかということになる。毎日きちんと学校に通えること、指示を守れること、報告連絡相談ができること、などである。そういう生徒が企業に求められるという。どうせそういうことになるのか、というのが今の田中の正直な感想だ。田中は障害者雇用といったら、だまってスキルだけを発揮することが重要で、それ以外をご容赦いただけるのかと思ったらそうではないそうだ。一般に障害者雇用の現場では「叱責がない」などの「配慮」があるようだが、「配慮」があるというだけで求められることは人間として同じなのだ。


田中は自分を人間ではないと思ってきた。だからようやく障害者になれて人でなしになれると思っていたがそれは甘かった。この記事を書こうと思ったきっかけは昨夜ツイッターでまわってきた精神科医・名越康文の『人はなぜ「どうせ」思考に陥ってしまうのか』という記事を読んだことだ。人が「どうせ」という精神の空虚感を脱するには、身体に注目することが重要だ、と書いてある。田中もそう思っていたのだ。名越の「精神がダメなら身体に」と田中の「言語がダメなら動作に」「心がイカれているなら資格に」はまったくの相似形だ、「ゼロヒャク思考」というまさにその点において。

だから「ゼロヒャク思考」は完全に否定されるべきものではなく、まさしくの方向転換法であるにちがいないのだが、それを否定してくる障害者雇用の就労以降支援が目指すところはいったいなになのか。「どうせ死んでしまうのになんで生きているの」と「どうせ資格をとっても認められないのになぜ勉強は奨励されるの」も似ている。就労移行支援を受けて一週間の田中がはやくも陥っている空虚感の源泉はこんなかたちをしている。

この空虚を抜ける方法は、より本格的に就労移行支援を受けて実質本意を理解することであると同時に、WAIS-Ⅳが「動作性IQ/言語性IQ」という思考法を捨てた真意を理解することにもあるような気がしており、この点も近日中の調査課題となっている。

2019年3月24日日曜日

グレーゾーンは許さない


米田衆介『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』という本を図書館で借りて読んでいたら、弊ブログで中心的に扱ってきたウタ・フリスという精神科医がまた出てきた。以前詳しく説明した「トップダウンの障害」「自己の不在」としてのウタ・フリスによる発達障害を思考・認知・記憶など脳の「ソフトウエア」の問題と捉え、脳の神経回路という「ハードウエア」の問題として説明する学説と対置させている。その上で筆者は、ウタ・フリスの側に立って「情報処理過剰選択仮説」というかたちでアスペルガーを説明する。

中核がないという以上に「『特定の処理のみが優先されて、他の処理が抑制されてしまう』という偏りがアスペルガー障害の本質なのではないか」という仮説は、以下の図のようにまとめられるとなるほどその通りという感じがする。

この図はとてもよくまとまっていて、どれもこれも当事者としてその通りという感じ。きょうの話題としたいのは、中核的特性のひとつに数えられる「ハイコントラスト知覚特性」である。白黒はっきりさせたい、あいまいを許さないというのがこの特性であるが、フツーの人間社会はあいまいであるから発達障害者は生きづらい、というのがこの本での文脈で、なるほどその通りである。

しかし、弊ブログはここまでに「あいまい」という概念を別の意味で使用してきた。ポストモダンという時代が「あいまい」な方向に進むだろうこと、そのとき「自己の不在」を特徴とする発達障害者は時代に合うはずだ、という弊ブログの主張は真逆に聞こえていたかもしれない。これをきょうは詳しく考えてみたい。

自閉症スペクトラムのイメージ」という図を同じ本から抜いてきた。健常者と発達障害者は「連続的な分布の中で捉えられる」というキャプションがついており、図の中には「グレーゾーン」という中間的な人々が存在する。このように発達障害というものがそもそも「あいまい」な概念であるのだが、田中は発達障害者であるがゆえなのか「グレーゾーン」を名乗る人が許せない。

最近メディアで「グレーゾーン」を名乗る人を見た。「医師の診断は受けていないが自分に発達障害の特性は感じておりいわゆる『グレーゾーン』です」みたいなことを語っていたのだが、それだったらさっさと心理検査をして発達障害者になればいいと田中は思う。または検査の結果、発達障害には該当しないという判断が出ればそれまでだ。おめでとうございます。あなたは健常者である。

田中は4月から就労以降支援を使って、障害者として仕事口を探そうとしている。これは障害者という看板を売り物にするという自覚を持った行為である。そこには障害者としての責任がある。「グレーゾーン」なんていう言葉でどっちにも行けるようにして商売している感じが気に食わねえ。黙ってろと思った。

田中が使っている「あいまい」は、「グレーゾーン」なんていうものとは似ても似つかないものだ。きょう取り上げている本の最後に、アスペルガー障害を生きのびる方法として2つの「戦略」が出てくる。そのひとつは「『心』を理解しようとするのをやめる」ということで、たとえばものをもらったらありがたいと思っていなくても「ありがとう」と言うルールを覚えるといった徹底的な定型化。これは本の中で「社会的フォルマリズム」と呼ばれる。

この「型」に対置されたもうひとつの「戦略」こそが「新しいあいまいのかたち」であるだろう。それは「あえて『心』を探求してみる」ということだ。これまで「心」という型であったもの、そのわからないものを徹底的に白黒つけて細分化し分析していくと、新しい図形が見えるだろう。その図形はこれまでの鮮明な「型」とはちがう形のはずで、その「非ー型」をとりあえずこれまで「あいまい」と呼んできているのだ。

田中はそういう戦略をとりたい。それが発達障害者として生きる田中の責任の取り方だ。弊ブログの近々の予定としては、「発達」ということ、また「記憶」について勉強をして、人間をアップデートしていくことを計画している。
 

2019年3月10日日曜日

レマン湖発、聖蹟桜ヶ丘行


日本の某企業が先日ついに、スイスのレマン湖岸で開かれたパーティーにおいて、新製品を発表した。以前から、「新製品を発表する」、「レマン湖で」、「2019年のはじめだぞ」、と企業は消費者の期待をあおる為に情報を小出しにしていた。その分野のマニアたちは、発表前に全貌を知りたがっている。そのような消費者のニーズに答える記事を書いてほしい。田中はかつてこの仕事を請け負った。

そのときスマホで散々調査をしたため、いまでも興味も関心も全くない製品の関連情報がgoogleのオススメとして表示される。googleさんに会うことがあれば、田中はこれ仕事で調べてたんで興味ないです、と伝えてほしい。しかしついにようやくレマン湖で発表されたことは、知ってよかったgoogleさん。

田中がありがちなデータから予想した新製品の形状も、消費増税を根拠としたもっともらしい価格設定や発売時期も、その「大予想!全貌!!」は全て外れていた。ワロタ。編集部の指示のもと発表会の形式まで予想させられ、発表の瞬間の照明の当て方や幕の引き方から、パーティーで出される料理まで全部書いてやったが、それが正解かどうかはもはや調査のしようもない。いまでも検索上位に田中の書いた記事が表示されており、めっちゃ草だ。


このブログは田中が田中の書きたいように書きたいものを書く場所なのだが、なんでその場所を作ったとかといえば、内職で求められる文章が自分の書きたいものではないからだった。このことは以前にも書いた気がするが、それをまた書く機会がやってきた。

田中が読みたくもない文章を、しかし編集部は求め、それが読者が求めているものだと編集部は言う。たとえば「web 文章」とgoogleで検索すると、編集部と同じような文章の書き方指南の記事が、「この指南の記事自体がお手本です」みたいなこと言って、何十と出てくる。えっ。ほんとうでしょうか。と田中はずっと疑っていたのだが、それについて明確に書かれている本があった。


高橋源一郎は、村上春樹と同じ頃に出てきた小説家だ。朝日新聞が先日発表した「平成の三十冊」に村上春樹は2冊入っていたが、高橋源一郎の名前はなかった。なぜ高橋源一郎の名前がないのか、高橋源一郎が一番よくわかっているだろう。高橋源一郎の小説はわかりにくいからだ。が田中は高橋源一郎の小説がとても好きだ。いまでは流石に全てを追えていないが、田中は20年も前、高橋源一郎論を書いて大学を卒業した。

このブログでは、田中が大学時代に影響を受けた本として、橋本治『「わからない」という方法』を紹介しているが、その本はもしかすると高橋源一郎が書評か何かで紹介していたのかもしれない。よく考えればそうでもないと田中が橋本治に手を出すとは思えない。そして今度田中が読んだ高橋源一郎の『今夜はひとりぼっちかい?』という小説のキーワードのひとつも「わからない」なのだった。
人は「わからない」ものにこそ、決定的に捕まってしまうのではないか。それは、「わかりあえる」時代には「わからない」ことなのかもしれない。
この作品の文脈を大きく捉えて整理すると、「文学」なるものは「わからない」の側にあるもので、しかし現代は「わかりあえる時代」だから「文学」が読まれなくなった、ということになるのだが、文学論はまたの機会として、ここで田中が興味を持っているのは高橋源一郎のフィールドワークだ。

高橋源一郎は他者の作品の引用を多く含む作家として知られている。この作品にも多くの引用があるが、書店に並ぶ「わかる」とずばり書かれた書籍のタイトルの羅列は、もっとも端的に「時代」をあらわしているだろう。また現代の表現としてtwitterもこの小説では使われるが、この小説の中で、高橋源一郎のアカウントのツイートの引用というかたちで、twitterについて説明しているこの部分は、そうかそういえば、と思った。
なんか変でしょう。競馬の話題ばかりだから? いやそうじゃなくて、順番が逆だから。結果が先で、経過が来て、最後に前提。でも、twitterではこうなる。最近のものが最初に来て、古いものほど後ろになる。新しいものから古いものへと読んでいくのだ。 
ふつう、ぼくたちが読んでいるものは、古いものから新しいものへと並ぶ。最後に現在が来る。数千頁を読み終えて、最後の頁をめくると、大団円が来る。それってかなり人工的なことじゃないだろうか。しかし、古いもの→新しいもの、という進み方がふつうに感じられるほどに、ぼくたちの感覚はふつう 
ではないのだ。
 編集部から田中がよく注意を受けるのも、「結論をまず示せ」という「わかりやすさ」だ。そんな文章は文章じゃないし、論理もなにもないな、と田中は思っていたのだが、田中の好きなtwitterがそうだとなると、編集部になんも言えなくなる。高橋源一郎は「ふつう」と言い、田中も「ふつう」と思っていた文章の構造や論理じたいが、現代ではすでにアップデートされつつあるのかもしれないと思った。


現代の空気としてもうひとつ、高橋源一郎が提示しているキーワードが「正しさ」だ。それは東日本大震災を契機に決定的となった空気で、小説の中で高橋源一郎が大学の先生として生徒たちに語る挨拶文は、以前に別の本でも読んだことがあったと思うが、今回また読んであのころを思い出した。

以前にtwitterで書いたことがあり、ここでも必要があれば持ち出すこともあろうが、田中は東日本大震災の前からやっていたtwitterを、東日本大震災直後の混乱の中で、(この文脈にのれば「正しさ」によって潰され)、1年間twitterから離れたことがある。

この世界には、「現場」と「現場」ではない場所の二つしかない。そして、ほんとうのところ、「現場」に住む人たちと「現場」ではない場所に住む人たちは、理解し合うことはできないのかもしれない。

東日本大震災後の言語空間において、もうひとつだけキーワードをあげておけば、それは「現場」だ。こうしてそこにまた「わかりあえる」というワードが出てきて、田中によればこの小説は、こういう輪っかの中でぐるぐるする話になっている。

web文章の内職をやっていて、もうひとつつらいのが「正しさ」を求められることだ。しかし田中はフィクションを書きたいというわけでもなく、やる以上は「正しい」情報を書きたいと思って商品を提出する。ところが何度もキャッチボールをしているうちに、当初の調査で浮き彫りになった事実は、順番をかえてわかりやすく、結論はこっちなのでこっちを見出しにして、などとと叱られているうちに、思っても見ない方向に転がっていくのである。そうしてゴミ玉が完成でクッソワロタとなるのである。

けっきょくゴーストライターだろうが、ストレス解消ブログだろうが、twitterだろうが、高橋源一郎の文学とくらべるわけでもないが、わかりやすさと正しさと現場と、といった問題を、ぐるぐるやっているんだなあと思ったら、ゴーストライターもたのしいしごと、とは田中には思えなかった。それはなぜなんだろう。


写真は聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが焼いてくれたシュークリームだ。田中はいま「シュークリーム 簡単 作り方」というキーワードの商品を受注している。伯母さんのメモをOCRで読み取って、そのまま編集部に送ったら「ぜんぜん簡単じゃない」と付き返された。ファミマでシュークリームを買ってクリームを吸い出し、その口の中のクリームを別のシューに吹き込んでやれば簡単だ。オススメだよ☆

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