2022年6月22日水曜日

信じて託す――母が認知症(4)


  亡き父の墓石には「絆」という一文字が刻まれている。父が亡くなったのは平成22年(2010年)のことで、「絆」はその当時の流行語であったと思う。ご近所付き合いがなくなった、とかその手の社会学的な問題が、当時のマスコミを賑わせていた。そこでキーワードとなった「絆」は、東日本大震災(2011年)を契機に、より大きなものになっていった。

 私は、そんな流行語を墓石に刻むのは反対だった。実際に口にも出したはずだ。しかし、なにより母が望んだことだったので了承した。ふだん自分の意見をあまり言わない母が、珍しく強く主張したからだった。私には三十年も共に暮らした連れ合いを亡くすという感覚はわからないし、どうせ私が頻繁に墓参りに行くわけでもないし、母のために建てる墓なのだから、母の意見を通そうと思った。世間的には、喪主であり長男である私が建てた父の墓だったが、当時の私には墓を建てる費用を捻出する手立てもなく、実質母が建てた墓でもあった。

 そんな父の十三回忌となる2022年、母は認知症となった。母が認知症、と気づいたとき、私がまず思ったのは、なによりも私自身の生活だった。私が生きていくことを優先しよう、と思った。もちろん医療や介護とつながり、母を支えていくことは必要であるし、重要な問題だった。しかし、同時に、私が潰れてはどうしようもない、と思ったのだ。そのとき、いちばん問題となるのは、やはりお金だった。

 父が亡くなったころ、私の金銭感覚は壊れていて、しょっちゅうお金を使い果たし、なんかいつまでもお金を使えるなァと思っていたら、いつの間にかキャッシュカードでローンに手を出していたりした。親になんど泣きついて、ローンを返してもらったかしれない。いまはお金を使うことと言ったら競輪をやることくらいで、しぜんと貯金ができるくらいになったが、それでも母の生活まで支えるほどの金銭は、私の稼ぎではどうしようもなかった。

 認知症とお金の問題を、母が認知症と気づいたその日から、猛然と調べた。単純な問題として、認知症患者自身がじぶんのキャッシュカードの暗証番号を忘れてしまう、という問題があるのだと知ると、私はすぐに母から暗証番号を聞き出した。聞きにくいことだったが、母がこの先安心して暮らせるように、母のお金の管理を私がしていくようにしていきたい、と伝えた。当然反対されるものかと思ったら、母は案外すんなりとその意見を受け止め、お願いしたい、と言われた。言われたことが、少しさみしかった。

 だが、キャッシュカードの暗証番号を知っていたところで、母の預金を私が下ろして使うことは、たとえ母のための費用であっても、正確には犯罪であるらしかった。実際には目をつぶってやられていることらしいが、私は犯罪におびえながら暮らしていきたくはなかった。また、預金者が認知症であるとわかると、銀行は預金口座を凍結し、引き出すには成年後見人を立てて、ということになるらしかった。そんな面倒なこと、そしてそれを維持するにも多大な費用がかかる。銀行に母の認知症を気づかれる前に、別の仕組みを見つけなくてはならない。

 ということで、話は「信託」にすぐに行き着いた。「信託」には銀行の金融商品としての「商事信託」と、また法律的な書面を家族間で交わして家族が金銭管理を行う「家族信託」とがある。まずは「商事信託」の相談に、母の口座のある銀行とは別の、信託銀行に相談に行った。老親の生活を見守る信託商品の説明を受け、これだ、と思ったが、タイミング的にその相談は、私が母の認知症的な側面に気づき、病院を1回受診し、認知症の検査の予約をとった、という段階でのことだった。
 そのことを銀行員に伝えると、銀行員の顔色がくもった。「商事信託」の商品はたしかに、将来的な認知症の備えを目的とした商品だが、現在認知症でない人、を対象とする商品のため、手続きの間に医師から「認知症」という診断が下ってしまうと、その時点で「商事信託」は組めなくなるのだ。銀行員は「あと3ヶ月くらい早くご相談いただければ…」と残念そうに微笑み、私も微笑み返した。

 しかし、微笑んではいられないと、信託銀行を出た足で、もう八王子の街を歩きながらスマホで、相談のメールを送ったのが、最終的にたどり着けた「家族信託」の仕組みのはじまりであった。メールの返信は翌日だったが、「家族信託」ならば認知症患者であっても組成することができ、ただそれは本人が仕組みを理解しうなづけるうちにやっておく必要がある、認知症は進行していくものだから、ほんの少しの手遅れということもあるので、早急に手続きを進めたほうが良い、というメールは、宣伝文句だったのかもしれないが、その通りだとしか思えなかった。

 それからの日々は、猛スピードだった。最初の相談から「家族信託」の組成まで3ヶ月くらいかかったはずだ。宣伝みたくなるが、相談したのは「ファミトラ」という会社だ。最初の説明と面談には「ファミトラ」の人が家に来てくれた。弁護士の先生に会いに、六本木まで母を連れていく途中で、母は2回も転んだ。浅草の公証役場で、公正証書をつくってもらい、「家族信託」が成立した日、「ファミトラ」の人は雷門の前で記念撮影をしようと言い、そんなんと思ったが、送られてきたその日の写真を母はとても大切に飾っているようである。

 正直ギリギリだったと思う。弁護士の前でよだれを垂らし、また幼児のようにしょっちゅう意識を他に向ける母に、意思があると認めてもらえるのか、どきどきしていた。しかし、まだ母は自分の名前が言え、生年月日が言え、弁護士の説明を聞いたあとで、わかりましたか?と質問されると、かすれた声で「子に、信じて、託す、信託」と言ったのだった。その瞬間、私が思い出したのが、父の墓に刻まれた「絆」という一文字のことだ。

 読書の好きだった母らしい、信託とは信じて託すことである、という言葉を、私はずっと忘れない。

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