2019年5月23日木曜日

実存主義と分人主義の弱点


実存主義は、私個人の問題は概念では語れない、という個人の特殊性に着目するところからはじまる思想です。このときカミュ『異邦人』のいわゆる不条理は、まさしく実存主義の具体的説明として理解することができます。しかし講義中にも質問させていただいた通り、そのような実存はどう責任を取るのかという問題をカミュが避けているように感じられるのが田中には不満であり、またその思想の問題点であろうと感じました。

この講義を受けるための準備としてはじめて『異邦人』を読んで、田中が即座に想起した別の文学作品、それは平野啓一郎の『顔のない裸体たち』でした。想起したその時点ではただの閃きでしたが、昨日先生から「分人主義」の話題が提供されて、平野の熱心な読者でない田中は昨夜改めて調べてみると、平野には『顔のない裸体たち』とほぼ同時期に「異邦人#7-9」という短編がありました(未読)。平野の分人主義はおそらく、『異邦人』また実存主義に着想を得たものとして、『顔のない裸体たち』あたり(2005)に端を発しているでしょう。

『異邦人』も『顔のない裸体たち』も犯罪小説です。人間社会において罪を犯した者は責任を取るものですが、不条理なムルソーあるいは『裸体たち』において分人主義的にハンドルネームを使う女は責任的態度をまぬかれ、そうした思考をもたない理性的な変態犯罪者=『裸体たち』の男は裁きを受けます。

これらの作品を読んで想起するのは、精神障害者が事件を起こした際、その精神状態によって減刑無罪となる現実のニュースです。「普遍的な人間」を考える立場とは別の、一種の不条理は時に、犯罪の被害者を苦しめます。ムルソーの言い分はわかった。そのとき殺されたアラブ人はどうなのか。

田中が平日に放送大学の講義に参加しているのは、田中が仕事をいましていないからです。田中も精神障害者です。そのような田中はやはり自分の人生に責任を取りたい。たとえ実存主義が人間存在は世界に投げ込まれてしまっているものと、そう理解するとしても、そのような実存がとりうる責任というものがあるのではないでしょうか。田中はムルソーの生き方を手放しに称賛することはできないと思いました。

 

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