実存主義は、私個人の問題は概念では語れない、という個人の特殊性に着目するところからはじまる思想です。このとき
この講義を受けるための準備としてはじめて『異邦人』を読んで、田中が即座に想起した別の文学作品、それは
『異邦人』も『顔のない裸体たち』も犯罪小説です。人間社会において罪を犯した者は責任を取るものですが、不条理なムルソーあるいは『裸体たち』において分人主義的にハンドルネームを使う女は責任的態度をまぬかれ、そうした思考をもたない理性的な変態犯罪者=『裸体たち』の男は裁きを受けます。
これらの作品を読んで想起するのは、精神障害者が事件を起こした際、その精神状態によって減刑無罪となる現実のニュースです。「普遍的な人間」を考える立場とは別の、一種の不条理は時に、犯罪の被害者を苦しめます。ムルソーの言い分はわかった。そのとき殺されたアラブ人はどうなのか。
田中が平日に放送大学の講義に参加しているのは、田中が仕事をいましていないからです。田中も精神障害者です。そのような田中はやはり自分の人生に責任を取りたい。たとえ実存主義が人間存在は世界に投げ込まれてしまっているものと、そう理解するとしても、そのような実存がとりうる責任というものがあるのではないでしょうか。田中はムルソーの生き方を手放しに称賛することはできないと思いました。
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