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2022年6月22日水曜日

信じて託す――母が認知症(4)


  亡き父の墓石には「絆」という一文字が刻まれている。父が亡くなったのは平成22年(2010年)のことで、「絆」はその当時の流行語であったと思う。ご近所付き合いがなくなった、とかその手の社会学的な問題が、当時のマスコミを賑わせていた。そこでキーワードとなった「絆」は、東日本大震災(2011年)を契機に、より大きなものになっていった。

 私は、そんな流行語を墓石に刻むのは反対だった。実際に口にも出したはずだ。しかし、なにより母が望んだことだったので了承した。ふだん自分の意見をあまり言わない母が、珍しく強く主張したからだった。私には三十年も共に暮らした連れ合いを亡くすという感覚はわからないし、どうせ私が頻繁に墓参りに行くわけでもないし、母のために建てる墓なのだから、母の意見を通そうと思った。世間的には、喪主であり長男である私が建てた父の墓だったが、当時の私には墓を建てる費用を捻出する手立てもなく、実質母が建てた墓でもあった。

 そんな父の十三回忌となる2022年、母は認知症となった。母が認知症、と気づいたとき、私がまず思ったのは、なによりも私自身の生活だった。私が生きていくことを優先しよう、と思った。もちろん医療や介護とつながり、母を支えていくことは必要であるし、重要な問題だった。しかし、同時に、私が潰れてはどうしようもない、と思ったのだ。そのとき、いちばん問題となるのは、やはりお金だった。

 父が亡くなったころ、私の金銭感覚は壊れていて、しょっちゅうお金を使い果たし、なんかいつまでもお金を使えるなァと思っていたら、いつの間にかキャッシュカードでローンに手を出していたりした。親になんど泣きついて、ローンを返してもらったかしれない。いまはお金を使うことと言ったら競輪をやることくらいで、しぜんと貯金ができるくらいになったが、それでも母の生活まで支えるほどの金銭は、私の稼ぎではどうしようもなかった。

 認知症とお金の問題を、母が認知症と気づいたその日から、猛然と調べた。単純な問題として、認知症患者自身がじぶんのキャッシュカードの暗証番号を忘れてしまう、という問題があるのだと知ると、私はすぐに母から暗証番号を聞き出した。聞きにくいことだったが、母がこの先安心して暮らせるように、母のお金の管理を私がしていくようにしていきたい、と伝えた。当然反対されるものかと思ったら、母は案外すんなりとその意見を受け止め、お願いしたい、と言われた。言われたことが、少しさみしかった。

 だが、キャッシュカードの暗証番号を知っていたところで、母の預金を私が下ろして使うことは、たとえ母のための費用であっても、正確には犯罪であるらしかった。実際には目をつぶってやられていることらしいが、私は犯罪におびえながら暮らしていきたくはなかった。また、預金者が認知症であるとわかると、銀行は預金口座を凍結し、引き出すには成年後見人を立てて、ということになるらしかった。そんな面倒なこと、そしてそれを維持するにも多大な費用がかかる。銀行に母の認知症を気づかれる前に、別の仕組みを見つけなくてはならない。

 ということで、話は「信託」にすぐに行き着いた。「信託」には銀行の金融商品としての「商事信託」と、また法律的な書面を家族間で交わして家族が金銭管理を行う「家族信託」とがある。まずは「商事信託」の相談に、母の口座のある銀行とは別の、信託銀行に相談に行った。老親の生活を見守る信託商品の説明を受け、これだ、と思ったが、タイミング的にその相談は、私が母の認知症的な側面に気づき、病院を1回受診し、認知症の検査の予約をとった、という段階でのことだった。
 そのことを銀行員に伝えると、銀行員の顔色がくもった。「商事信託」の商品はたしかに、将来的な認知症の備えを目的とした商品だが、現在認知症でない人、を対象とする商品のため、手続きの間に医師から「認知症」という診断が下ってしまうと、その時点で「商事信託」は組めなくなるのだ。銀行員は「あと3ヶ月くらい早くご相談いただければ…」と残念そうに微笑み、私も微笑み返した。

 しかし、微笑んではいられないと、信託銀行を出た足で、もう八王子の街を歩きながらスマホで、相談のメールを送ったのが、最終的にたどり着けた「家族信託」の仕組みのはじまりであった。メールの返信は翌日だったが、「家族信託」ならば認知症患者であっても組成することができ、ただそれは本人が仕組みを理解しうなづけるうちにやっておく必要がある、認知症は進行していくものだから、ほんの少しの手遅れということもあるので、早急に手続きを進めたほうが良い、というメールは、宣伝文句だったのかもしれないが、その通りだとしか思えなかった。

 それからの日々は、猛スピードだった。最初の相談から「家族信託」の組成まで3ヶ月くらいかかったはずだ。宣伝みたくなるが、相談したのは「ファミトラ」という会社だ。最初の説明と面談には「ファミトラ」の人が家に来てくれた。弁護士の先生に会いに、六本木まで母を連れていく途中で、母は2回も転んだ。浅草の公証役場で、公正証書をつくってもらい、「家族信託」が成立した日、「ファミトラ」の人は雷門の前で記念撮影をしようと言い、そんなんと思ったが、送られてきたその日の写真を母はとても大切に飾っているようである。

 正直ギリギリだったと思う。弁護士の前でよだれを垂らし、また幼児のようにしょっちゅう意識を他に向ける母に、意思があると認めてもらえるのか、どきどきしていた。しかし、まだ母は自分の名前が言え、生年月日が言え、弁護士の説明を聞いたあとで、わかりましたか?と質問されると、かすれた声で「子に、信じて、託す、信託」と言ったのだった。その瞬間、私が思い出したのが、父の墓に刻まれた「絆」という一文字のことだ。

 読書の好きだった母らしい、信託とは信じて託すことである、という言葉を、私はずっと忘れない。

2019年8月19日月曜日

あたらしいしごと


前の仕事を辞めたのは去年の秋で、去年の今頃はというと、仕事を辞めようと決心して職場と相談をはじめたころだった。だからちょうど一年くらいかかって、ようやく次の仕事が決まったということになる。来月の頭から次の仕事に就くことになった。

決まったのは先週末だ。長い長い就職活動だった。めちゃくちゃ長いブランクを経て、というのは就職活動に苦戦したというよりは、発達障害者として障害者雇用の職を得るために必要な時間だったという感じだ。障害者手帳を取得するまでにまず時間がかかり、発達障害者の就労移行支援を受けるために東京に引っ越してきて、訓練の施設に通所して、施設を通して求人に応募、応募してからも何回も面接やら実習やらがあり、ようやくたどり着いたのである。

前にも書いたが、前職は農業であったので、業界そのものが低賃金であった。だから今度の職業は障害者雇用とはいえ、以前の給与より多くもらえる。田中は前職に就くとき、山の中に逃げ込んでセミリタイアなりよ、と思っていたので、給与の低さを気にすることがなかった。しかし、山の中なら精神的にうまくいくなんて幻想であり、また精神を壊して、そして貧乏にも耐えられなくなった。障害者雇用のメリットとしてよく語られるところだが、田中の次の職場も、よくわからない田舎のおじさんが就職できるなんて全く思いもしなかった、全国に名を轟かす大企業であり、それなりに生活も安定できるので、ほんとうによかった。

工場で働いたり、野菜を育てたり、果物をやったりしていた人が、急にトーキョーのビジネスマンとなることは、ふつうの職歴ではなかなかないことだろう。しかも田中はもうすぐ40歳なのであり、転職する期限切れのおじさんだと思っていた。しかし、障害者になります宣言をすると、こういうことができる。就労移行支援の学校は池袋だったが、あたらしい職場は京王線で新宿に出てから、地下鉄で都心に少し入ったところに行く。ほんとうに都会の都会だ。毎日スーツを着ていく。こんな生活ができるとは思ってもみなかった。夢のようだ。

この仕事で定年まで頑張りたいと思う。そのためには、毎日毎日、努力がいるし、考えることが必要なんだと思っている。考え続けることが大事だと思う。そういう感じで、このブログを続けていきたい。引き続きよろしくおねがいします。読んだら、広告をクリックしてください。田中がお金をもらえるので。もう何ヶ月も誰もクリックしていませんので、どうかおねがいいたします。

2019年5月7日火曜日

クルマがいらなくなったので


ゴールデンウイークの四国遍路で歩きまわったら、すっかり身体がかるくなって、ちょっとコンビニに郵便局に銀行にと、全くクルマを出す必要を感じなくなった。そこでクルマを売却することに決定した。旅行なんて行ってこんなことを言うのもなんだが、働いていないのだから生活は苦しいし、自動車を持っている限りついてまわる「維持費」を先回りで節約することに決めたのだ。

「クルマの維持費」という言葉は、ガソリン代や整備費用みたいなことを思わせる言葉だが、ここには誰かの陰謀が働いているはずで、維持費の最たるものは言うまでもなく車検費用ついで保険料そして駐車場代となる。はっきりともう売ると決めたきょう、任意保険の会社には電話で連絡をして、きょう付で自動車保険を解約した。つまり、まあ乗ってもよいのではあるが、田中はきょうからもう自動車には乗らない。事故をしたらたいへんだからだ。買取の話も正式にきょうの昼休みから電話で動かしはじめた。クルマがなくなる日付がわかったころには、駐車場も解約したい。

トーキョーに越してくるとき、新居探しの決め手と考えていたことは、安い駐車場がついていることであった。そうして決めた家に持ってきたクルマなのだが、トーキョーでこんなにクルマが不要とは、非トーキョーにずっと住んでいた田中には想像もできないことだった。田中はそもそもトーキョーの出身であったが、田中の父がクルマを持っていたのは、田中家という家族があったからなのだ。いま田中は一人で暮らしており、若者のようにクルマが必要になる将来を夢見ることもなくなったので、クルマはもういらない。

クルマはいらないとは、トーキョーに来てすぐに気づいていたことだったが、一度売ってしまったらまた買うのはとても面倒と知っているので、踏ん切りがつかないところがあった。そこでクルマにビデオカメラを積んで、車載動画をつくることを趣味にすることを考え、カメラを買って動画を一本YouTubeにあげてみたのだったが、これがまあつまらなかった。出来上がった動画がつまらないことはおろか、動画を撮影することにも動画を編集することにも、ひとつも面白みがなかった。ツイッターでは特によく話すように、田中はYouTubeばかり見て暮らしている。だから視聴者として動画制作者は尊敬しているが、自分にはむかないということなのだろう。

そしてクルマを売るとはっきり決めた、もっとも直接的なきっかけは、アパートの大家である。アパートの大家と田中はただの一度も会っていないが、不動産屋を通じてこれまで4回、つまりは入居後毎月一回、田中のクルマの止め方に文句を言ってくるのだった。田中が借りている区画の真っ中央に、タイヤをまっすぐにしてきちっと止めないと文句を言ってくるんである。どおりで他の区画がそれぞれに工夫して、三角コーンやブロックを使って駐車位置をきっちりきっちりしていることが、それが入居当初不思議だったのだが、ようやくわかった。めんどくせえ。そんな文句ばっか言ってると、駐車場からクルマが減って、てめえの不労所得が減るのである、と痛い目を見させようと田中は決めた。いまから解約の連絡を楽しみにしている。なんと言ってやろう。「真ん中に止めなくてもいい駐車場を見つけたので解約したいんですけれども」がいま一番の候補のセリフである。


クルマを売るために、一括見積サイトなるところに依頼をかけたところ、依頼をかけた瞬間から電話がしばらくなりやまなかった。むかし引っ越し見積サイトに入力をしたときとまったく同じである。これはめんどくさい。何十もの業者に見積もりを取っている間に、売るのがめんどくなること請け合いである。そこでYouTubeをみていたら、ローラのコマーシャルが出てきて、これだわとなった。業者が見積もりをとったうえで、それをオークションに出してくれ、いちばん高い値の業者にうっぱらってくれるというサービスである。これが吉と出るか凶と出るか、まあわからないが面倒でないからいいんでしょう。続報もする予定である。※弊ブログはこの業者からマネーをもらっていません。


2019年4月14日日曜日

上野文化の杜の夜


先日、六本木の森美術館に葛飾北斎の浮世絵を見にいったのは現在受講中の放送大学に関連した内容だったことが大きいが、それ以上に純粋な感動というものがたしかにあり、田中はまた近日に芸術鑑賞に出かけようと決めていた。土曜日、就労移行訓練が半日あり内容的には充実していたものの教室の微妙な雰囲気の平日との違いが田中のこころを沈ませ、こういうときこそ美術館に出かけたら元気になるのではないかと田中は考えた。

学校の終わった放課後、田中は上野に出かけた。上野公園の中には多数の美術館博物館動物園があるが、これらの施設は金曜日土曜日に限って20時まで開館している。この仕組みが始まった当初ニュースで見てなるほどおもしろいと思ったきりその仕組み自体を忘れていたが、いったいどの期間どの施設までがこの制度をやっているのか田中は詳しく知らない。ともかく田中が気になっていた東京国立博物館の東寺展のサイトを見ると夜間開館のことが書いてあるので田中は出かけた。


東寺から仏像がたくさんやってくるのかと、その宣伝のビジュアルを見て田中は早合点していたが、「東寺―空海と仏教曼荼羅」という展覧会のため、曼荼羅が主体の展示になっていたことに田中はがっかりしたのが正直なところだ。立体像は最後の広い展示室にたくさんあることはあるが、クライマックスをそこまで引っ張りすぎていてその前の展示に波が無いように感じた。


そこに仏像が集まっているのは東寺の講堂を再現してあるのか、ともかく平面の曼荼羅と同じようにその並びに意味があるという展示。平安京の入り口「羅生門」の左右に作られた都を守る東寺と西寺、そのうち東寺を任されたのが唐で密教を学んで帰国した空海であった。田中にとって空海は、十五年も前から少しずつ進み今月も出かける予定の四国遍路の節々に、香川県出身の空海は、という形で登場する人として認識されていたが、彼が遣唐使に行ったことは知っていても、その後のことはよく知らなかったので勉強になった。


空海が唐で学んできたこと、それは密教の偉大な教えは深すぎて理解がなかなかできないが、それを図で説明するとみんなにわかりやすい、ということがその要点だった。それまで日本の神々は図案化されたことがなかった。仏教の仏が絵に描かれ立像とされるなかで、はじめて神社にも神様の絵や像がつくられることになった。現在田中は、就労移行支援訓練でパワーポイントを勉強している。パワポで聞き手に主張をわかりやすく伝える、この伝統芸能は空海が日本に伝えたのである。空海は日本ではじめてパワポを使った。


うち一像だけは写真撮影が許可されていて、みんな集まっていたので田中も帝釈天をうまく撮ろうとそこに長くいた。その写真をならべてみているがどうだろうか。写真を撮ろうとなるとどう撮ったらうまくなるか考えてモチーフをよく見ることになり、観察の勉強にもなる。また写真には撮れなかったが、御神輿を担ぐ人たちがかぶる面だったかあれはカラフルな立体でたのしい。きのう土曜日は仏像を見るつもりで出かけたから余計に立体がよく見えたのかもしれなかった。


しかしよく調べて行かなかったものの入館料が1600円するというのは高い。東寺展をみたついでに、国立西洋美術館の「ル・コルビュジエ展」もみたら楽しいという計画もあったのだが「東寺」が1600円なら「ル・コルビュジエ」も1600円するのだった。高い。高すぎる。こういう施設の料金は精神障害者の健康を助けるため障害者手帳の提示で割引が効くことが多い。田中は障害者手帳を現在申請中だが、一刻もはやく手帳を発行してほしいと言っているのは、無職の田中が次の就職活動に使うからだが、一方では手帳のメリットを生かしてこうした施設で遊び倒そうという計画があるからだ。

少し前の田中ならば、一度決めたことには歯止めが利かず、3200円も使ってしまってから後悔することが多かったが、昨日は素直に3200円は使いすぎだろと思うことができた。一方で、「ル・コルビュジエ」は我慢ができても、同じ美術館のなかの「林忠正」は我慢ができなかった。これを見逃したら一生見ることが無いかもしれないと思ったからだ。そもそも北斎を見にいったのは、北斎の浮世絵がヨーロッパに紹介されて「ジャポニスム」という日本ブームを起こした、という内容の授業を放送大学で受講しているからで、林忠正とはその「ジャポニスム」におけるキーパーソンの一人、いま田中がまさにレポートに書いているところの人なのだった。

運命であった。運命には1600円を払う価値があると思った。が、この日は「ル・コルビュジエ」を見るのには1600円かかるが、通常展だけを見るならば無料開放の日であるとわかった。田中はツイていた。林忠正は通常展の一室で展示されているという。教科書にも出てきたゴンクールの『北斎』(解説書)を実際に見ることができて感動した。放送大学の「日本美術史の近代とその外部」を受講しているみなさんはいま上野に行ったらいいと思う。このへんの詳しい話はまた勉強が進んでから、このブログでも報告する。


しかしきのう一番田中の目を喜ばせたのは、西洋近代美術館の常設展に時代順にならんだ西洋絵画たちだった。いわゆる油絵の歴史はまさしく近代という時代とともにあるもので、その近代という時代は思った以上に短い。キュビスムくらいにくるともうその視界は田中も生きている現代で、明らかに美術の教科書に載っていただろう画家の生没年を見ると田中が生まれてから亡くなっていたりしておどろく。上記の授業を勉強しているということもあるが、昨夜おもしろかったのはやはり印象派とその前後くらいだ。この常設展も写真NGの看板が出ている絵以外はフラッシュをたかなければ写真に撮ることができる。


そうして美術芸術鑑賞をした田中は、気分が晴れたかといえば・・・帰りに聖蹟桜ヶ丘でビールを飲んで帰り目覚めた今朝も気分は沈みなんだか頭がぼんやりして風邪をひいたのではないかと思っていたら眠くなって昼寝をして、そしてようやく元気になってきた。そしてブログを書いたのだが、それにしてもあの学校には行きたくない。はやく仕事を見つけて卒業しようと思った。ともかく障害者手帳をはやく出してほしい。

2019年3月9日土曜日

競輪がいちばん儲かる


田中の就労移行支援がいよいよ始まろうとしている。東京都日野市の場合、就労移行支援を始めるにあたっては、日野市と面談をしてゴーサインをもらう必要がある。その面談の予約をとるためには、これから毎日通おうとしているその施設に、実際に1回行ったことのある人でないと予約を受け付けてくれない。田中はそこにまだ行ったことがなかった。

就労移行支援の相談や一日体験など、昨年末からなんどもやってきたが、これは同じ組織のさまざまな場所で、さっと予約が取れるところを順に使ってきたのだった。田中は、全事業所の順番待ち名簿に名前を入れて、2ヶ月半ほどでようやく池袋事業所に通うことが決まった。たまたま2月のはじめころ、池袋事業所土曜日体験の空きを見つけて予約しておいたのがちょうどよいタイミングとなり、きょう池袋に行くことで日野市に予約を入れる権利を獲得した。

これまで他の事業所を3箇所回ったが、おそらくは池袋がいちばんこじんまりしている。他の場所ではデスクの島が3つあったところもあったが、池袋には2つしかなかった。この島が会社の部署のようなもので、課長役をする人は定年退職後の人と聞いている。ここで実際の事務作業を行いながら、ビジネススキルや面接対策を含めて、発達障害者として生きていく準備をするのだ。

ふだんは月曜日から金曜日までであり、きょう土曜日は少し特別なプログラムの体験だった。まずこの就労移行支援を受けたのちに現在は仕事をしている卒業生の話を聞く。そのあとおかしを食べながら話し合いをした。講演をされた卒業生も「すぐに就職したいというより障害を理解したかった」と言っていて、田中と同じだと思って安心した。ただ、講演者は特別なスキルをもともと持っている人で、そのまま同業の障害者対応のある企業にスライドしていた。また、周囲への配慮を常に考えている人で、とても立派だと思った。

それにくらべると、田中は他人への配慮を欠いている。正直に言って、話し合いとかどうでもいいと思っているのだった。グループで話し合いをしてください、ということになると、だれかが意見を言い出し、ああこの順序で順番がまわってくるんだなあと思って、順番が来たら意見は言うのだが、別に田中の意見なんて誰も聞かなくてもいいと思っており、田中だって誰の意見も聞いていない。

そのような消極的な態度や遠慮といったものこそが場合によっては失礼にあたる(というかすでに田中ははじめから失礼なヤツなのだが)、ということがきょうの話し合いの結論のひとつとしてまとまり、ああ、と田中は思った。


就労移行支援の話が動き出すと、その話の行方が気になって、他の一切に手がつかなくなり、気分も沈んでいる。何もせずに眠る日が多くなってきた。これはよくない。けっきょく仕事第一となって他には何もできず、そしてその仕事が崩壊するという過去と全く同じではないか、と気づいた。それでは、なにをしたらよいのか。ひとつには、仕事以外の収入の手段を持っておく、ということが大事な気がする。もうひとつは打ち込める趣味を見つけることだ。

いま田中は、失業保険をもらいながら、その訓練もできるありがたい時期だ。失業保険が減額されない範囲で、ここに書いているのと同じような文章を売っぱらっている。要らない本をじゃんじゃん売却している。これは単なる不用品処分なのでハローワークには文句がないということだが、しかし値付けにはセドリ的な感覚も必要とされる。今後はISBNのついていない、アマゾンでは売れない資料をオークションで金にすることも考えている。

どれも生活できるレベルにはとうていならない。これを生活できるレベルに育てることにはあまり興味が出ない。しぜんにやっていった結果として、そうなったらそれはよいだろう。しかし、いま田中にもっとも金をすばやくもたらす手段は他ならぬ競輪だ。競輪はアコムのむじんくんだ。競輪はそもそも死んだ父の趣味で、田中はこどものころから見ていたのだ。これは競輪選手が競輪選手になったきっかけとして話すはなしと同じだ。

なぜ田中は競輪選手を目指さず、賭博師となったのだろう。いまでも競輪選手は田中のあこがれだ。レースのユニフォームが白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃、紫、と番号順で決まっているのがいい。ゴレンジャーみたいだからだ。そして応援したとおりになると、金がもらえるシステムである。趣味と実益が兼ねているのだ。このように金がもらえる趣味は他にないだろうか、といま考えている。


誰にも何も言われず、ただ金だけをもらいたい。きちんと技能を身につけ、その機械的な事務作業の正確さで、ニューロティピカルを黙らせたい。そんなことをするためにこの施設はあるのでないと言われるだろう。かまわない。就労移行支援の話は、今後動き次第、常にここに書いていく。またしばらくは池袋に通勤することになるため、池袋についても書いていきたい。

2019年1月28日月曜日

暖房――安物買いの安物買いについて

日本国民は賃貸の住居を選ぶにあたって「エアコンがあるかどうか」を先日まで気にしていたはずでしたがいまやエアコンなんてどの賃貸にもあるようになりました。SUNRISE日本ですね。

嵐が解散いや活動休止になるというニュースを見て、そうだ私はマツジュンが会見で言ってた10年前のベストアルバム持っているんだったと、クラウドを検索してきょうはいちにち嵐を聞いていました。さすがにシングルは買ったことがなかったですが。

私はすっかりおじさんだと思っていたら大野くんと同い年だときょうのきょう気づきました。いちいちどの曲も懐かしくて懐かしい懐かしい言うていました。ツイッターでもここでも一人称を「私」で通してるんですが、きょう嵐について書いたときだけ思わず「ぼく」と言ってしまいました。


嵐はともかくエアコンの話でした。私が引っ越してきた東京都日野市南平の賃貸アパートにもボロボロの黄ばんだ霧が峰がついており、引っ越してきた当初はエアコンをつけてあたたかいあたたかいとよろこんでいました。

しかし私は窓のすぐ外を電車が通っているのに窓をふさぐためのカーテンを購入するのはもったいない乾燥機もあるしと窓を完全に本棚でふさぐことにしたのです。家の中は一日中真っ暗なのですが我が家にはうつ病治療のための人工太陽装置がありますので光はオーケー大丈夫です。

ところがエアコンのすぐ下に本棚が来ることは想定されていないようで、風向きをどうやってもエアコンの風は明らかに部屋に行き渡らなくなり、本棚の天板がカンカンに熱くなるようになりました。これはもう霧が峰をやっても電気代が無駄なだけとなりました。通常なら霧が峰のために本棚を移動するのが本筋かもしれませんが、私にもう本棚を移動する気力は残されていませんでした。

エアコンのコンセントを抜きエアコンのブレーカーを落としました。どんなアパートでも部屋全体のおおもとブレーカーがあり、その下の位のブレーカーのうちひとつは必ず、エアコン専用のブレーカーというのがあるのです。エアコンはそれだけ電気をたくさん使うということですからもう霧が峰ストップとなりました。



そこで近所のリサイクルショップにでかけて買ってきたのが、この2000円のセラミックヒーターです。このリサイクルショップでいちばん安い暖房器具でした。セラミックヒーターは競輪場でおなじみですね。電気で金属板をちんちんに熱くする機械です。パソコンデスクのふもとに置いておくとこれがちょうどよい感じで気に入っていました。しかしわずか3週間ほどで昨日お亡くなりになったのです。スイッチーをいれても電気が通わなくなりました。このセラミックヒーターは2000円で買うにあたり電気は通りますがいつこわれるかわかりませんよと保証はおつけできませんよという意味で2000円ですよとそのように買ったものでしたからまあ仕方ないということになるでしょう。

きのうセラミックヒーターが故障して、さあきょうはまた寒いわということで同じリサイクルショップに出かけて今度は3500円でこのなんていうんでしたかジャギジャギしたかたちの暖房器具を買うてまいりましたのです。オイルヒーターか。今度の器具は3500円で3ヶ月以内に壊れたら返金しますというので安心ですね。この冬はこうして凍死を免れました。


「安物買いの銭失い」という言葉が思い浮かぶわけですが私はそうは思わないねという話がきょうの本題です。2000円の器具が壊れて次に3500円の器具を買いましてこれで5500円でしょう。それでよいではないですか。さいしょから20000円だか30000円の新品の器具を買ってそれをいったい何年使うかもしれないのに! 中古の安物を買うほうがどれだけ賢いかしれません。安物買いというのはイニシャルコストを倹約する方法なのです。「安物買い」が「銭失い」なら高いものを買ったら「もっと銭失いでしょう」ちがいますか。え?

というようなコスト論はもっときちんとした言葉で内職で売文したので、きっといつかインターネットのどこかで有益な情報として取引されることでしょう。お役に立つ情報を文章化するとお金になりますということで私は文章を売り、それを売るだけじゃもったいないから自分のブログを持っていたらもっともうかりますよとみんながいうからこうしてブログを書いています。ぶっちゃけこのブログに広告を貼り付けて儲けようとしているのです。

あの商品のような体裁で目次をつけたりなんだりしたら儲かるらしいと思いながらもしかし私はああいう文章を書くのは仕事だけでいいやと。また競輪のはなしとか書いたらダメな人として認定される可能性がありそうするとブログに広告が貼れなくなるらしいのですがもうそんなんどうでもいいやただブログで日本語を垂れ流すことに決めました。それが気持ちがよいからです。おやすみなさい。

田中はにわのツイッターもよろしく