ラベル 41数学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 41数学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年4月3日水曜日

情緒なし


積読(つんどく)という言葉がある。この言葉はてっきり新語なのかとばかり思っていた。15年ほど前、田中は社会人になってから、積読という言葉を知っただろう。その当時、田中が通じていたなにかのチャンネルにおいて積読という言葉が流行していた記憶が田中にはあった。だから新語なのかと思い、その新語が生まれたのはいつだったのだろうと調べてみたら、積読という言葉の歴史は案外長い。由来・語源辞典の「積ん読」の項には明治31年の用例が載っていた。

ともかく本は読まなくても買っておけばそれだけで意味があるという言葉に甘えて田中は本を買いまくってきた。積読の効用を聞けば金銭感覚も計画性もない田中もなにがしかを認めてもらえているような気分だった。しかし田中はそんな人生を改めるべくミニマリストという思想に出会った。ミニマリストにとって積読は着ない服と同じものだ。使わないものは捨てて、ただし残すと決めたものだけは残す。

田中はすでに読み終えている本に関してamazonで売り飛ばしながら、積読の棚に関しても読まないものは新品同然でも売り払い、読みたい積読はつんどくのではなくどんどん読んで売るか残すかを決めている。そのような田中の活動は「田中はにわリサイクル」という屋号のamazon内お店屋さんごっことなっているが、この屋号のホームページのようなものは存在せず各出品のそれぞれの商品ページのなかにまぎれて存在している。田中のツイッターでは出品を随時報告しているので、ツイッターをチェックしてみてください。



そのように積読を解消していく中で十数冊を読んではじめて、はじめて「売らないよ」という大事な本が出てきた。その本は平凡社がつくっている科学者による随筆の選書シリーズ「STANDARD BOOKS」のなかの一冊『岡潔 数学を志す人に』だ。このシリーズの視点そのままに田中も昔から思っていた。理系の学者の書くエッセイはたいていおもしろいと。たぶん理屈の捏ね方が文系頭とはちがうんだと文系頭だろう田中は思っている。

岡潔は明治時代の生まれで、田中が生まれる直前くらいに亡くなっている。数学者だというがいったいどんな数学を研究していたのだろう。この本を読んでもわからない。この本の最初に載っている「生命」というエッセイの最初のページに「大脳前頭葉」という言葉が出てきて、大脳前頭葉について研究中の田中はさっそく興味を持ったのだがそれはたまたまのこと、脳のことはそんな中心的な話題ではなく次第に数学の話になっていくのだろうと思っていたら彼は脳の話ばかりしている。

岡潔はこの本にまとめられている随筆の範疇において、医学者の名前を出さないがその知識を「医学的にも最先端をゆくものではないかと思う」と誇っておりそれなりのブレーンの存在を想像させる。そのブレーンにもいずれたどり着きたいと思うがここではまず、岡潔のエッセイの脳科学の議論がどれほど正確かを見るために、弊ブログで提示しておいた現代精神医学の「脳を前と後に分ける話」を振り返っておこう。

田中をはじめとするニューロマイノイティは、前頭葉の機能が後ろにくらべて機能的に弱いようだ。後ろ側では<分析や計算>などを分担しているのに対して、前頭葉は<高次脳機能>と呼ばれる<制御や理解>を担当している。ここに計算という言葉が出ていたのだった。数学者の岡潔が研究のために使っていたのは後ろのほうのはずだ。なぜ彼はまず前頭葉を語ってしまうのか。この疑問を解くことが人物像を理解することとなるだろう。

これは日本のことだけでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。

代表的なエッセイ『春宵十話』のなかにこんな言葉がある。数学者が脳科学に関心を持つ理由はまずこうした学問上の問題意識なのだ。だから「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は情緒が中心になっているといいたい」という話になり、岡潔のキーワードとも言えよう「情緒」が出てくる。しかし本当のポイントはここからで、情緒というふんわりしたイメージを脳機能の問題にまで具体的に結びつけていたこと、それを理解しておくことが大事なんだろうと思うのだ。

岡潔は脳内に「情緒の中心」というものがあると設定した。そしてそれが「大脳前頭葉」に「結びついている」と考えていた。「情緒の中心だけでなく、人そのものの中心がまさしくここにあるといってよいだろう」。大脳前頭葉の具体的機能については、「調和」「衝動の抑止」「ここからは交感神経、副交感神経系統が出ていて、全身との連絡がついている」「他人の感情がわかるというアビリティ」と現代医学から見てもかなり正確だろう。逆に言えば、このような具体的機能をこそ彼は<情緒>と呼んでいる。

そしてこの<情緒>がないと人間は生きていかれないだろうと岡潔は考えていた。交感神経と副交感神経のバランスが崩れることで、たとえば下痢になり大腸がただれるといった身体的不調が発生することはもちろん、「大脳前頭葉がだめにな」るとそれは「自殺の原因」ともなると言っている。


おそらくは時代のズレで表現は適当でないだろうが、<だめな大脳前頭葉>というものが仮にあるとして、それはたとえば教育がうまくいっていないこと、「計算機やタイプライターのキーをたたきすぎ」といった話が出てくるのだが、ここに田中はニューロマイノリティの脳の形をあてはめる。

田中の実感としても、ニューロマイノリティの脳は<情緒>なるものをきっと欠いている。だからニューロマイノリティは積読なんて情緒が許せないのではないかと、そんな気がする。ミニマリズムという思想とニューロマイノリティは非常に相性がよい、と直感的に思っている。以前にもどこかに書いたかもしれない。

許せないと書いたが、これまでの田中は許していたから積読を増やしていた。しかしその情緒を味わえていたかといえば、田中の場合、ただ部屋が雑然としていただけであったような気が、いまとなってはしてくる。そう考えたとき、田中はこれまで、またいまでも文学を愛しているような気がしていたが、それもなんだか怪しく思えてきた。

簡単に書いてしまえば、脳の前後は文系/理系という区別となにか関係があるのだろうか、という問題だ。おそらくニューロマイノリティには理系が多いだろうと思うのだが、文系のニューロマイノリティだと思っていた田中はいったいなんなんだろうという疑問が大きくなってきて、これはまたいずれの宿題としたい。

2019年2月26日火曜日

文学のなかの数学のなかの文学の


引っ越してきた東京都日野市は大学の多い街だ。南平駅の駅前にあるスーパーマーケットは数日に一度利用するのに名前が覚えられない。しかし、その大きなスーパーの隣が大学の寮になっていることは知っている。看板が出ているからわかるのである。ただし何大学の寮だかは忘れた。どの大学も南平駅のそう近くにはない。この近辺は坂道が多く、こんな坂道ばかりのところで学生が暮らしているから、この大学は箱根駅伝に出ているんだわ、と思ったことは覚えている。


大学は頻繁に公開授業をする。授業を公開して大学はいったいなんの得になるのか知らない。しかしそれが「地域貢献」であるのならば、田中こそが地域である。授業に参加して得た知識をインターネットにばらまくのは、ごみだらけのインターネット無料域にあって、なかなか有益な仕事なのではないかと考え、無職の田中は授業に出るようにしているのだが、ノートをまんま公開したところで、学生がテストでいい点が取れるわけでもないので、どうにか役に立つ形にしたいと寝かしているうちに、発表の時期を逸する。いや、まだあたためているのだ。

放送大学多摩学習センターは、生徒募集の説明会にあわせて公開講演会を定期的に開いている。田中は仕事が苦しくて仕方なかった時期、多摩学習センター公開講演会に来て、「日本人の自尊感情」の話を聞いて、従業員の自尊心を傷つける企業に身を捧げるのは時間の無駄だわと悟り、退職を決意した。職を失った田中は放送大学の選科履修生となった。東京都日野市に引っ越してきた。再び公開講演会の時期がやってきた。この授業は田中の興味関心にかなり沿ったものであった。放送大学多摩学習センターは東京都日野市にはない。


飯高茂・学習院大学名誉教授が語る、この日のテーマは「文学の中の数学」。この登壇した数学者は東大の教授職を定年で退き、現在は放送大学多摩学習センターの生徒でもあるということだった。「数学を情感たっぷりに語ってみたい」という目標で、きょうは講義する、とはじまった。だとしたらそれって「文学の中の数学」じゃなくて「数学の中の文学」でしょ、と思った。ただ話の冒頭の「九九」の話は大変興味深かった。

「九九」で「ににんがし」「にさんがろく」「にしがはち」と来て「にご、じゅう」となる。これは不思議だ。「にろくじゅうに」はテンポ的にわかるのだが、「にご、じゅう」と1拍あきになるのが、田中は子どもの頃からずっと不満だった。とくに田中は小学校で「九九」をウタで覚えさせられたので、なんで「にこがじゅう」ではダメなのか長いこと気にしていたのだ。

「九九」が庶民にまで広まったのは江戸時代だが、もともとは遣唐使が輸入した概念のひとつであったというのだから、かなり長い歴史なんだ。そのように「九九」は舶来品なのであった。「二二得四」「二三得六」「二四得八」という中国語を日本語で読んでいるから、「九九」はあの読みなのである。それまで「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ」と大和言葉で数えていた日本の人々は、掛け算を丸ごと覚えてしまうことで仕事効率化をはかる中国人に驚いて、数字の読み方から変えていった。だから「九九」は中国語なのである。

「二五一十」「二六十二」というのが中国語の「九九」だ。「いちじゅう」という言い方は現代日本語ではしない。「一」が落ちたかたちとして「にご、じゅう」が誕生した、と講師は言った。しかし現代でも、たとえば「一千万円」の「一」は残っている。なぜ「九九」ではそれが落ちたのかは謎だ、という話であった。

飯高茂には数学の初学者のための書籍も多い、ということだった。先生は自身の著書を会場にまわすと左右の席に配り、「ほしい人は持って帰っていいです」とテキトーなことを言うものだから、本は会場のどこかに吸い込まれて、田中のところまでは一冊もまわってこなかった。放送大学のこの公開講演会は毎回、クリアファイルとボールペンをおみやげに配っているようだが、このボールペンはとても使いやすいボールペンで、前回のオレンジとは色違いをくれたので、それはよかった。ピンクをもらった。


授業はまさしく「文学の中の数学」という話になった。沢木耕太郎『深夜特急』にマカオのカジノにいく話があり、そこでのカジノのサイコロの目の確率を計算するという、いかにも数学の話になっていった。その数式の話はここでは省略だ。数学者は言った。「カジノはカジノが儲かるようにできている。数学がわかっている人はカジノに金を賭けない。確率を計算したらわかるのである」と。

はいはいそりゃあそうでしょうよ、と田中は思った。ギャンブルは田中の得意分野だ。田中だってその程度のことはわかる。わかってるんだよ。授業は実際にカジノをやって確認だ、ということで、パソコンにサイコロを転がすプログラミングをつくってきた先生が、知り合いらしい生徒のおっさんたちを舞台にあげて模擬カジノをやっていたら、講義時間が終わってしまった。ほんとうはもっと数学の話をするつもりだったらしいが、すっかり商店街のゲーム大会のようだった。

本題に入る前の雑談的に教授が持ち出した「宝くじ」の話は、なんとも示唆的であった。知り合いの女性に宝くじのシステム、上記のような当たる確率と控除率を解説して、教授は「宝くじなんか買うのはやめなさい」と言ったという。その時女性は言った、「だって買わなきゃ当たらないじゃない!!!」。教授がそういう話し方をするからだが、このとき会場は大爆笑の渦となった。簡単に言ってしまえば、(バカだなぁオバハン)という意味の笑いなのであるが、私はオバハンがバカだとは思わなかったから、笑いもしなかった。

ギャンブルは買わなきゃ当たらない。これは真理なのである。教授だって言っている。「ギャンブルせざるを得ない場合には、一度だけするべきだ。一度やって勝ったら儲けものだと思ってやめなさい。確率論からしてやればやるほど負けがこむから」。しかし、そういうことでもないわなあ。と思いながら商店街のゲーム大会を見ていて思いついたのは、数学者が確率計算をするソレが「数学」なのだとしたら(いや完全に数学だが)、「だって買わなきゃ当たらないじゃない!!!」というのこそが、「文学」なのである、ということだった。

こうしてみると「文学」は、「数学」と対立させた時、バカで、笑われる対象で、といったふうに見えるところがある。実際、現代日本社会における「評価」と似たところを感じるのだが、それはほんとうにほんとうか。これ以上の話はまだできる頭がないのだが、田中の大きな関心はココにあり、今後もこの話は続けていく。

田中はにわのツイッターもよろしく