2021年10月27日水曜日

発達障害と障害年金


 いまの職場に、障害者雇用で採ってもらって、3年目がはじまっている。今週は年に一度の健康診断があり、インフルエンザの予防接種もうけた。今年の冬は、インフルエンザウイルスと新型コロナウイルスの同時流行という見立てが強いようだ。みなさんもお身体を大切になさってください。

 さて、障害者雇用について、久しぶりに話したい。発達障害というのは、実は自分でもよくわからないのだ。しかしまァ、それまで仕事がうまくいかなかったのは事実だし、失業のたびになんどもウツの沼に飲み込まれ、発達障害の検査を受けて晴れて発達障害となったのだから、誰にも文句は言わせないのである。だが、診断に安心した反面で、当初は自分でも納得が行かなかった。それが証拠に、前職はいわゆる「クローズ」(発達障害を公言せず)で就業し、やはり仕事がうまくいかなくなって、「実は発達障害なんですよ、ごめんなさいね」と言って、ばっくれたのだった。

 もう障害者雇用の職に就くしかない、となったとき、田中がこだわったのは、きちんと生活していけるだけのマネーをどのように得るか、ということだった。やりたいこととは別に、障害者雇用の給料の良さで、いまの会社を選んだのはまぎれもない事実である。おまけに誰にも邪魔はされないし、昇進なんてことも考えなくてよく、電話を取る必要もないのだから、障害者雇用というのはありがたい。しかし、それでも初任給以下の給与で、一体どうやって生きていくんでしょう、ということで、田中は「障害年金がもらえなければ、障害者雇用はあきらめる」という方針で、職探しよりもまっさきに、障害年金の手続きをとったのだった。

 いま、田中が障害者雇用で就業しているということは、田中は障害年金をもらっているのである。1ヶ月55000円。これは大きい。京王線南平駅の近所の、つまりは線路沿いの、電車が通るたびに轟音がする貧民窟のようなアパートメントに暮らせば、障害年金だけで家賃と光熱費はまかなえ、給与は食費と貯金にまわせるのである。貯金は、また失業した時のセーフティーネット、だと思っている。が、できれば、いまの職場を失わずに死にたい。障害者雇用は1年更新だが、原則70歳まで雇用してもらえるという契約でやっている。

 発達障害者と障害年金について、それをお商売とする業者の、さまざまな文言が、インターネットに無数に漂っているが、田中の経験上、最初の手続き時の書類揃えをきっちりやること、が一番重要なようである。はじめて精神科にかかったのはいつ・どこかを証明するのが、いちばん手間なようであり、また書類を精神科医に丁寧に細かく書いてもらうことも必要らしい。田中は、障害年金を専門とする行政書士の先生を見つけて、依頼した。業者によっては、べらぼうな高額の手数料をとり、手続きは指示をするだけで、実際にはやってくれないというのも多く存在していると聞くが、田中は良い先生にめぐりあった。書類揃えも精神科への書類の書き直し依頼も、全部やってくれて、手数料は障害年金がもらえてから、その初回入金分だけください、というシステムだった。

 それにしても、障害年金がもらえなくなったら、どうやって生活していきましょうか、ということはよく考える。そのうち、副業がOKになったら、田中はまっさきに副業に取り掛かるだろう、なにかはわからないが。

  このたび、障害年金の更新の時期が来て、いま通っている精神科に、更新するための書類を作成してもらったら、とんでもない殴り書きで、こりゃ終わったわ、と思ったものだったが、きちんと更新されて、次の更新は4年後です、というハガキがきょう、日本年金機構から届いた。そりゃ発達障害者であることに変わりはないのだから、もらえなくなるほうがおかしいが、それでも初回の丁寧な書類と比べると、どうみても投げやりな書類をみて、これじゃあ通らないんじゃないか、と思ったがフツーに通った。精神障害の障害年金の更新は難しい、という文言も各地で見るのだが、発達障害はまた別なのだろうか? もしくは「難しい」というのも業者の宣伝文句だろうか? 90パーセント以上は更新される、というデータも見たが、このあたりは田中にはどれが正解かわからない。

2021年10月24日日曜日

競輪場とディスタンス

 西暦2021年の秋、感染拡大がはじまって一年半となる新型コロナウイルスの勢いが弱まり、緊急事態宣言も解除された。土曜日の京王閣競輪場はよく晴れて、久しぶりに太陽の光を浴びた。弥彦親王杯の準決勝場外売りと本場開催が重なり、入場者数制限5000人が設定されていたが、入場できない人が出ることはなく、競輪場はガラガラだった。ソーシャルディスタンス。入口で手指消毒と体温計測をして入場する。一度も座れたことのない、売店のテーブルにも人は少なく、名物というモツ煮込みの定食をはじめて食べたが、生ぬるく、もう食べることはないだろう。併売の競輪場は、本場のレースと場外のレースがほとんど同時に行われて、いそがしい。本場のゴールを見届けて、場外の中継テレビに移動すると、場外はすでに赤板を迎えているくらいだ。もう少しずらせばいいのに、と競輪ファンは常に言っているが、一向に改善されない。

 競輪場に行くと、知らないおじさんが話しかけてくる。これは間違いないので、競輪場に行ったことのない人は、一度行ってみるといい。競輪場は、誰とも話すことのない淋しいおじさんのたまり場であるから、誰でもいいから話がしたいというおじさんが集まっているのだ。喫煙所のベンチでタバコを吸っていると、知らないおじさんがいつの間にか目の前に立っており、「弥彦は難しくてダメだネ」と話しかけてきた。「筋違いばっかりだネ」と返すと、「ああ、だけど本場の5車立てでも当たらないんだから、どうしようもないよネ」とおじさんは笑った。あいまいに微笑み返すと、おじさんはタバコを消して立ち去った。久しぶりに人間と話すと、心が和んだ。

 競輪場に通い始めたのは、西暦2006年の春のことだ。雨の日にバイクに乗っていたら、後ろから乗用車に跳ね飛ばされ、3ヶ月の昏睡状態を経て、目覚めたらケガも治っていた。リハビリ期間中、家の近所にあった富山競輪場に毎日通い、自分の命の対価として受け取った慰謝料を全て競輪に使い果たした。100円が700000円になったことが忘れられず、いまでも競輪を続けている。そんな21世紀の初頭、競輪はすでに廃れはじめていたが、それでも適当に競輪場は混んでいて、淋しい人間が多く集まっていた。当時はまだ新型コロナウイルスなんていうものはなく、ソーシャルディスタンスという病理学の概念はなかったが、心理学の用語としてパーソナルスペースという語が既にあった。

 人間には、知らない人間に近づかれると、不快に感じる距離というものがある。しかし、淋しい人間は、知らない人間に近づきたくてしようがない。競輪場に行くと、そんな知らないおじさんに、わざとぶつかられるということがよくあった。知らないおじさんは、見知らぬ他人にぶつかることで、自身の存在を証明していた。ぶつかられるたびに、その叫び声が聞こえて、あまりの哀しさに胸が締め付けられたものだった。いや、知らないおじさんにぶつかられると、自分の存在が消えてしまうようで、ぶつかってくるおじさんに気づかれない程度に足を踏みしめて、ぶつかり返したこともあった。競輪がますます廃れ、ソーシャルディスタンスも導入されたいま、競輪場に行って知らないおじさんにぶつかられることはなくなった。それもまた淋しいことだ。

 107期の阿部拓真は、以前の職場で仲が良かった後輩と同じ名前なので、見かけるたびに買っており、相性も良い選手だ。京王閣本場の準決勝に乗っており、頭から買ったが、番手の菊池圭尚がわずかに遅れて3着となり、逃してしまった。菊池圭尚はもう金輪際買わない。とこうして歪んだデータを蓄積していくのが、競輪の楽しみである。一日買い続けて、かすったのはそれだけで、本場と場外とで20000円も負けた。昼間は晴れてあたたかだったが、最終レースが終わると風が冷たく、急いで京王線に乗り、家に帰った。京王閣競輪場は、京王線の京王多摩川駅のすぐ近くにあり、レースを観戦していると、高架線を走る京王線もよく見える。

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