放送大学生をやっている無職の田中はきょうで、今学期受講している講義のひとつ
中間テストのために課題としてシェイクスピア『ロミオとジュリエット』を読んでレポートを書いたが、正直まったく関心を抱けなかったことを告白しておく。ただし、後半戦で出てきたバルザック『ゴリオ爺さん』と各種ロシア文学なかでもドストエフスキー『罪と罰』は読んでおもしろそうな作品と感じ、さっそく『ゴリオ爺さん』を図書館で借りてきたところだ。はじめての開講ということで、他の科目と違って期末テストの対策が立てにくい。ふつうは大学のホームページで期末の過去問を見ることができるのだが、はじめてやる期末テストだから過去問がない。自分なりに勉強していって期末を落としたらあきらめ、この科目を再履修することはないだろう。
ただし講義のまとめである第15回、各講師の対談で進んだ講義とそれにうっすらリンクしているテキストの文章はとてもおもしろかった。この放送の中で、一時期「比較文学」と言われていたジャンルは、現在「翻訳研究」と呼ぶほうが通りがよいという事情がある、という話が出てくる。田中は大学時代、まさしく比較文学を専攻しており、そのまま社会に出たので、その学問がどういう進展をもって現在どうなっているのかを聞いたのは、久しぶりのことだった。
当時から現在に至るまで、田中が「比較文学を専攻」と言うと、各国の文学を比較した人でいろんな文学を知っているという「誤解」を受け続けてきたが、たしかに田中が当時勉強しそれからずっと考えてきたことは、第1回から第14回のような各国の文学がうんぬんということでは実はなく、「比較」ということ自体にあったのだった。たとえば比喩による言いかえ、小説が映画や漫画に置き換わる「アダプテーション」、当時そういうことを勉強していたことを思い出した。
そしてあくまでも「翻訳じたいについて」考えるために、フランス文学を読んだり郷土の古典資料を現代語訳する授業などを受けていたのである。この翻訳にスポットをあてた第15回が、弊ブログでこのところとりあげつづけている、小説の視点と「内面」の問題にきれいにつながってきて、いよいよおもしろくなった。
小説中の内面描写では、必ず言い換えや解釈といった要素がからんでくるからである。そもそも内面が奥に隠れていて見えないのなら、それを外にさらすのは本来、不可能のはずだ。だから、何らかの形でそれを外に出すための「加工」や「変換」が必要となってくる。内面描写が翻訳という行為と重なるのはそこである。小説が内面を描く形式として当初発見したのは「書簡体小説」つまり小説の全編が誰か宛の手紙という形式の小説で、そのような自然な他者の語りによって他者の内面を覗くということがはじまった。しだいに「クライマックスの手紙」形式の小説が流行し、ついには「全知の語り手」が登場する。こうして他者がまったくの他者となったとき、小説はその他者の内面をどう描いたのか。そこには「共感という価値への注目」があったとまとめられている。他者の内面は見えないが、共感により翻訳・言い換えをすることはできる、ということを発見した、というのがヨーロッパ近代小説300年の歴史であると。
いま、その内面なるものそもそもの存在が疑われる時代を迎えて、田中はサイエンスの視点から人間を翻訳してはどうか、と言っているのだ。こうしてまとめると、田中が大学で学んだことから現在の発達障害者としての当事者研究までが一本のレールにのっかり、いよいよ人生がおもしろくなってきたというわけである。おもしろがっているのが田中だけだったら申し訳ないので、わかりやすくなるようにこれからも問題をどんどん勉強していく。
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