西暦2021年の秋、感染拡大がはじまって一年半となる新型コロナウイルスの勢いが弱まり、緊急事態宣言も解除された。土曜日の京王閣競輪場はよく晴れて、久しぶりに太陽の光を浴びた。弥彦親王杯の準決勝場外売りと本場開催が重なり、入場者数制限5000人が設定されていたが、入場できない人が出ることはなく、競輪場はガラガラだった。ソーシャルディスタンス。入口で手指消毒と体温計測をして入場する。一度も座れたことのない、売店のテーブルにも人は少なく、名物というモツ煮込みの定食をはじめて食べたが、生ぬるく、もう食べることはないだろう。併売の競輪場は、本場のレースと場外のレースがほとんど同時に行われて、いそがしい。本場のゴールを見届けて、場外の中継テレビに移動すると、場外はすでに赤板を迎えているくらいだ。もう少しずらせばいいのに、と競輪ファンは常に言っているが、一向に改善されない。
競輪場に行くと、知らないおじさんが話しかけてくる。これは間違いないので、競輪場に行ったことのない人は、一度行ってみるといい。競輪場は、誰とも話すことのない淋しいおじさんのたまり場であるから、誰でもいいから話がしたいというおじさんが集まっているのだ。喫煙所のベンチでタバコを吸っていると、知らないおじさんがいつの間にか目の前に立っており、「弥彦は難しくてダメだネ」と話しかけてきた。「筋違いばっかりだネ」と返すと、「ああ、だけど本場の5車立てでも当たらないんだから、どうしようもないよネ」とおじさんは笑った。あいまいに微笑み返すと、おじさんはタバコを消して立ち去った。久しぶりに人間と話すと、心が和んだ。
競輪場に通い始めたのは、西暦2006年の春のことだ。雨の日にバイクに乗っていたら、後ろから乗用車に跳ね飛ばされ、3ヶ月の昏睡状態を経て、目覚めたらケガも治っていた。リハビリ期間中、家の近所にあった富山競輪場に毎日通い、自分の命の対価として受け取った慰謝料を全て競輪に使い果たした。100円が700000円になったことが忘れられず、いまでも競輪を続けている。そんな21世紀の初頭、競輪はすでに廃れはじめていたが、それでも適当に競輪場は混んでいて、淋しい人間が多く集まっていた。当時はまだ新型コロナウイルスなんていうものはなく、ソーシャルディスタンスという病理学の概念はなかったが、心理学の用語としてパーソナルスペースという語が既にあった。
人間には、知らない人間に近づかれると、不快に感じる距離というものがある。しかし、淋しい人間は、知らない人間に近づきたくてしようがない。競輪場に行くと、そんな知らないおじさんに、わざとぶつかられるということがよくあった。知らないおじさんは、見知らぬ他人にぶつかることで、自身の存在を証明していた。ぶつかられるたびに、その叫び声が聞こえて、あまりの哀しさに胸が締め付けられたものだった。いや、知らないおじさんにぶつかられると、自分の存在が消えてしまうようで、ぶつかってくるおじさんに気づかれない程度に足を踏みしめて、ぶつかり返したこともあった。競輪がますます廃れ、ソーシャルディスタンスも導入されたいま、競輪場に行って知らないおじさんにぶつかられることはなくなった。それもまた淋しいことだ。
107期の阿部拓真は、以前の職場で仲が良かった後輩と同じ名前なので、見かけるたびに買っており、相性も良い選手だ。京王閣本場の準決勝に乗っており、頭から買ったが、番手の菊池圭尚がわずかに遅れて3着となり、逃してしまった。菊池圭尚はもう金輪際買わない。とこうして歪んだデータを蓄積していくのが、競輪の楽しみである。一日買い続けて、かすったのはそれだけで、本場と場外とで20000円も負けた。昼間は晴れてあたたかだったが、最終レースが終わると風が冷たく、急いで京王線に乗り、家に帰った。京王閣競輪場は、京王線の京王多摩川駅のすぐ近くにあり、レースを観戦していると、高架線を走る京王線もよく見える。
2021年10月24日日曜日
2019年5月19日日曜日
合理的配慮とセルフアドボカシー
発達障害者として次の仕事を探している田中は、いま就労移行支援の学校に通っている。明日からはじまる週は、火曜と水曜に休みを取って別の学校つまりは放送大学の面接授業に出る。毎日学校に通って勉強ばかりやっている。以下は先週の授業ノートより。
障害者雇用の応募履歴書には<障害と合理的配慮>の欄がある。この合理的配慮とはなんだろうか、ということはしばしば話題となることだ。合理的配慮という言葉は、あまり聞きなじみがない言葉だがほんらい、セルフアドボカシーという言葉とセットで理解するべきものである。これが先週、学校で習ったことである。
このとき合理的配慮もセルフアドボカシーも、語の構造が同じ、ということがポイントになってくるだろう。
・合理的配慮=合理的+配慮
・セルフアドボカシー=セルフ+アドボカシー
配慮という言葉は、おもてなしに近くて、配慮する側される側があり、一方的なものだ。しかし障害者雇用において、障害者はおもてなしを受けようとしても就職できないのである。自身の障害はどのようで、だからこういう配慮が欲しいと説明をしなくてはならない。この理屈に合った配慮をすることで、企業側の利益にもなりますね、というwin-winを合理的配慮と呼んでいる。
セルフアドボカシーのアドボカシーは「権利擁護」と訳される。従来の障害者福祉では、支援者が障害者の権利を一方的に擁護していたが、現代では障害者がセルフで権利を主張すること、おまかせにしないことが重要とされている。
これを障害者の側から見た時、そこには自己決定とそれについてまわる責任の問題が生じている。この文句は、もし弊ブログを読み込んでいる読者様が仮にいらっしゃれば(データ上、弊ブログの熱心な読者様は世界中に7名様いらっしゃります、ありがとうございます)、このところの関心事としてつながってくる部分である。
授業の参考文献として出てきた2冊は、きょう田中も図書館で借りて読んだものだから、ここに紹介しておく。
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つまり、簡単に書いてしまえば、障害者が社会で生きていくにあたっては、自分を知ったうえでそれを表明するという、人間が誰しも行っていること、がやはり重要になってくる、ということだ。インターネットで自身を発達障害者として表現活動を行っている方々はたいてい、これがうまい。自分の弱みはこういうところにある、というようなツイートが、日に何十も流れてくる。それを田中はうらやましくみている。
田中はたしかに発達障害者だろうが、実際になにに困っているのか、そのあたりがうすぼんやりとしている。このままでは就職なんかできないのである。自己理解。それはたいへんなことだ。とにかくノートになんか書いてみましょう、と授業で言われたのだが、いったいどう書いたらよいだろう。
学校は田中がいちばんおじさんの生徒で、他のみなさんは一回り若い。その生徒らの間でいま話題のひとつは、世間でも評判になっている
田中はこの世の中に「自己分析の本」なんていうものが存在することを知らなかった。就職活動というものに本腰を入れるのは、なんども転職しているのに、今回がはじめてだからだ。本屋には「就職活動」という棚があり、「自己分析」という本がたくさんあるのだった。ためしにひとつ買ってみよう。と買って、夕方、その書き込み式の本で自己分析をはじめたら、これがおもしろい。とにかく仕事を見つけても、また辞めるというのでは意味がない。きちんと自己分析をして、自分に合った職場を見つけて働きたい。という夢が文字化されると、気持ちも明るくなり、自己肯定感も高まるような気がする。
一冊おわったらまた一冊と、しばらくは自己分析なるものを続けてみようという気になった。前田裕二に負けないくらい自己分析をしたい。いま仕事についている人も、自己肯定感で悩んでいる人はもしかすると、自己肯定感をあげる本の類よりも、就職活動コーナーで自己分析の本を買って読んでみるとよいかもしれないよ、と思ったので報告しておく。新卒用でない自己分析の本がオススメである。以下にもきょうはじめた本をのせておく。
2019年3月26日火曜日
生涯発達障害概論A
発達障害という言葉は「発達」と「障害」で出来ている。このうち「障害」という言葉についてはさいきん議論が盛んだ。「障害」の「害」の字が好ましくないとして「障がい」と書いたり「障碍」と書いたりしてはどうか、という意見があるが、字面にそんな意味があるんだろうかと思って聞いている。「障」の字は「障る」(さわる=差し支えがある)である。田中の感覚からすれば、ストレートに「害」と言ってもらったほうがありがたく、むしろ「障る」というジャパニーズomotenashiな京都嫌味ふうの響きのほうがよほど癪に障る。
それに障害は障害だろうと思う。障害物競走も「障がい物競走」にするのだろうか。というのは、発達障害の「障害」はあくまで「障害者手帳」の「障害」だろうと考えるからである。できることならば障害者ではない形で生活したかったが、「障害者手帳」をもらう以上は「障害者」としての責任を持って生活しなくてはならないと、弊ブログは繰り返し主張している。
「障害者手帳」を持つ者にはそれなりのおとくな得点がもらえる。多摩動物公園に無料で入れたり、軽自動車税が安くなったり、高幡不動駅の自転車置き場が無料で使えたり、いろいろ得点があるのではやく障害者手帳がもらえないかと心待ちにしている(申請中)。つまりいくらマスコミやらインターネットやらで「障碍」だ「障がい」だと言ったところで、かえるならまずは「障害者手帳」の表記を変更し、その紐付けで全てが変わるようでないと、得点と責任とが見失われるのではないかということを心配している。
また、「障害」の表記に引っかかるくらいならば、障害という言葉自体を使わない方向のほうに興味関心がある。弊ブログは書物で(いわゆる「健常者」にあたる意味の)「ニューロティピカル」(神経学的典型)という言葉を見つけて以降、この言葉を積極的に採用してきたが、ところで発達障害者じたいを別の言葉で、ニューロティピカルと対になる言葉はないのかなあと思っていたところ、
1990年代の後半、自らもASD(自閉症スペクトラム障害=田中と同じ)であるSinger Jは「神経多様性」という概念を提唱した。これは「障害」という捉え方じたいをすっ飛ばし、あくまでも「相違」として捉えるという考え方の刷新であった。
田中が読んだ本には「神経多様性」と日本語で出てきたが、wikipediaで調べてみると
そうです、マイノリティであるから私たちは障るんです、ということでして、じゃあ多数派になんでも合わせなくてはならないんですかと、権利運動を起こす権利も「マイノリティ」という視座を得ることで見えてくるのである。LGBTの運動とかがすぐに思い浮かぶ。ああいうのと同じことを私たちだってやっていけばよいということになる。
と「障害」という言葉についてまずは軽く触れておこうと思ったらすっかり長くなってしまったが、田中がそもそも気になっていたのは「障害」よりも「発達」のほうだったんだ。田中は2019年度1学期、放送大学で
この授業のいちばんはじめに「中年期における主な発達理論」という文言が出てきて、ニューロティピカルの方々はふーんと通り過ぎるところかもしれないが、ニューロマイノリティてか発達障害者の田中は、大人の発達障害らしい田中は、やはり「発達」という言葉に引っかかった。しかも中年も発達するらしいそのとき、大人の発達障害とやらはいったいどうなるんだと。そして高齢期の課題として授業に登場する「認知症」の話題を読んでいると、どうもわれわれニューロマイノリティと認知症者はかなり似ている感じがしてくる。次回、このような視点から「発達」について勉強したことをまとめてみようと考えている。
2019年3月1日金曜日
自閉症とeyes(4)田中ってだれやねん(完)
自閉症者は一般に「空気が読めない」。なんでそんな文化的な、つまりは生物学的とは考えづらい問題が発生するのでしょうか、というお話になっていたと思います。そして、前回すでに答えを書いているように、これがやはり生物学的に、すなわち脳機能的な問題として説明されるのだ、ということがポイントになります。
それでは発達障害者の脳がニューロティピカルとくらべて、どのような機能的特徴を持っているのでしょう。ウタ・フリスはここで「脳を前と後にわける」という話をしています。そして発達障害者では、この前後の機能差が大きい。より具体的には、後ろの活動が過多で、そのぶん前が機能不全であると言っているのです。
人間の脳の構造の図解をインターネットで見てみると、顔の表面(前)のほう半分を「前頭葉」と呼んでいる。後ろの部分はいろいろに分かれていますが、前頭葉とそれ以外との間には「中心溝」「外側溝」という名前のミゾがあって、ここで脳の前後がきっぱりわかれています。ウタ・フリスの本にも「前頭葉」以外の言葉が出てこないことから、「脳を前と後ろにわける」という言葉の意味は「前頭葉」とそれ以外、ということだとわかります。
前頭葉は、人が行動を開始し、または抑制する機能を司ります。さらに、生活をする上で必要な情報を整理、計画して処理、判断することも前頭葉の役割です。加えて、自己を客観的に捉えることや感情をもつこと、言葉を発することができるのも、前頭葉が発達しているからです。(引用してきた場所からもわかるように、「前頭葉」の役割はいわゆる「高次脳機能」と呼ばれるものですが、ウタ・フリスはこれを端的に「制御」という言葉に代表させ、また別の箇所ではその仕事内容を「理解」であるといっています。これに対置させるかたちで脳の後ろ側がしている仕事は「分析や計算」であり、それを前頭葉という「トップ」に向かって「配送」する「ボトム」の仕事をしている、とウタ・フリスは説明するのでした。「前頭葉の損傷と傷害」)
すなわち「自閉症では脳のトップダウン調節が欠如している」のです。引用してきた前頭葉の説明にあるように、「制御」という言葉は自己のうちなるものを抑制するということに留まらず、周囲の状況情報から判断する、まさしく「空気を読む」ということを含む概念です。ウタ・フリスも「制御」は「文化や他の人たちとの社会的な関係によって強力に形作られ」ると書いています。だから発達障害者は「空気が読めない」のです。
しかしウタ・フリスはもっと直接的に、自閉症者の前頭葉機能不全を「自己の不在」という言葉であらわしています。「自閉症とは自己の不在である」。入門書でありながら丁寧に仮説をならべてできているウタ・フリスの本を、あえてわかりやすく抽出したとき、結論にあたる核心はこれです。
このとき自閉症者が「偶発的な事柄にとらわれ」「心の柔軟性」を欠いているようにみえること、これは「かたくなな自己」ではないのか、という反論が予想されます。しかしウタ・フリスはそれはそう見えるだけであって、「制御」に「根拠を持ち合わせていない」自閉症者にはやはり自己が「不在」なのだ、と言っています。
以上ここまで、わかりやすい自閉症の入門書を読みながら、「自己の不在」という発達障害者(田中)の問題の根本に至りました。が、だとすれば、発達障害者が生きる道は、「不在である自己」を生かすことに尽きよう、という話が田中の結論です。「計算や分析」といった得意分野を生かし、「自己」が必要とされる部分はご容赦ねがう「障害者就労」に向かって、田中も動いています。
しかしもっとちがう方法もあるでしょう。この連載はそもそも田中をウタ・フリスという精神医学者に出会わせた『ワインの味の科学』(ジェイミー・グッド)からはじまっていました。『ワインの味の科学』の結論「間主観的」と「自己の不在」は、響きが似ていると感じています。「このワインは黒い果実の味がする」が「正解」とされる場面にあって、その「正解」はあくまでも「空気」なのです。だとすれば「空気が読めない」ことと「ワインをたのしむこと」には何の関係もありません。
そういうふうに人生をたのしむことに、「自己の不在」という言葉は、田中にある種の希望を与えました。そしてこの文章を書いている人は、田中ってだれやねん、と笑いながら毎日このブログを書いています。これも「自己の不在者」として生まれた田中が人生をたのしんでいる方法であるのだなあ、と思いながら、そんで田中ってだれやねん、とまた思うのでした。
2019年2月7日木曜日
自閉症とeyes(2)ポストモダンワイン、20年ぶりの「顔」
3.2018年6月11日
山梨県で暮らしていた時、仕事上の必要があって、県特産品のワインを勉強していた。酒に弱く酒が好きでもない私はしかし、ワインの知的な佇まいには惹かれていた。中途半端に放り投げて東京都に引っ越してきたのはもったいなく、これからも勉強を続けていこうと思っている。
その知識体系の全貌が文理の境界に位置するという点を特に私は愛していたが、ただ一方であまりにモダンな知識のあり方には疑問が多かったのも事実だ。ワインが好きな人やワインの専門家には、モダニズムの信奉者があまりにも多い。
世界共通のワイン専門家の称号にMW(マスターオブワイン)という資格がある。その中でも広く知られた人物のひとりにジェイミーグッド氏がいる。日本のワインファンの間で彼は特に『新しいワインの科学』という著書で知られる。ブドウ栽培とワイン醸造の実際をサイエンスとつき合わせて理論的に語るこの本は、ワインサイエンスの基礎を全ておさえている教科書のような本だ。
しかし、そのジェイミーグッドの邦訳最新書『ワインの味の科学』の評判は、私の周りのワイン関係者の間ではあまりよくなかった。ある人いわく「ブログ書いてるみたい。ちょっと気になることを書いて、次に移るための話題をウィキペディアで探して、またちょっとウケがいい話を書いて、次の話題をネットでさがして、みたいな」。
そう言われるとそんな感じもするし、『新しいワインの科学』と比べると、ワイン以外の話が多いのは事実だろう。けれども私は、この本を読んで「救われた」という気持ちが強かった。
たとえばワインのテイスティングは、暗記科目みたいな仕事である。この赤ワインは「黒い味」がするか「赤い味」がするかには必ず正解が存在する。土のような香りがするもの、生木の感覚があるもの、などを探して、これはエイジングポテンシャルが高いです、などという。
そんななかでひとり「なんかコフキイモみたいな味がしませんか」と型にはまっていない奇妙な発言があると、みなさん心中で「はい?(笑)」と言いながら黙っている。
そしてまた「これはうーん、シュガーハニートーストですね」と、特殊ながらもまさしくビンゴなタトエがどこかから出ると、みなさん「くっそ負けたわ」と心中を煮えたぎらせて、やはり黙っている。
そんな近代という時代の遺産のようなスノッブの応酬。それがワインテイスティングなのだということがわかってから、私は果たしてこんな無駄なことをして残りの人生を生きていくのだろうか、と本気で悩んでいた。
その悩みは直後の数ヶ月で、全く別の側面からなぎ倒されるように状況が変化して、私はいま無職のおじさんになっている。その土砂崩れ自体についてはこれからなんどもなんども書いていかなくてはならないが、きょうはその話はとりあえずいいのだ。
あとですぐにつながってくるから。
ジェイミーグッド『ワインの味の科学』は、ワインを飲むときに聴く音楽ぐらいでワインの味は変わるし、従来のワインテイスティングのように個別の風味要素を取り出すことに重きを置かず、味の全体性を捉えたいと主張した。また味というものが「間主観的」に立ち上がるはずだと言い切ったことは、この本にこれ以上ない価値を与えている。
味が「間主観的」であるとはどういうことか。それは「味に答えなんてもんがあるはずがない」ということである。Aさんは「赤い果実、またコーヒー」を感じたが、Bさんは「腐葉土のような」と言い、Cさんは「こふきいも」であるとしたときに、どれが正解でどれが不正解ということはなく、みんなでそうやって意見を出し合って飲んだこの一本はおいしいね、とそこが大切でしょうよと。
ようやくワインの世界にもこういうことを言う人が出てきたのだなと、私はほっとした気分だったのだ。
いま私の手元にはこの本はなくなってしまった。同じ職場で同じ業務を担当していた新卒のたくまくんと山梨県甲府市のワインバーで仕事終わりに2人で飲んでいたとき、ワインの世界にやはり同じような息苦しさを感じているのがわかったので、そのとき読み終えたばかりでカバンに入っていた本を、そのままあげてしまった。この記事を書こうと思って近所の図書館など検索をかけたがどこも所蔵していなかった。
だから以下は(というか以上も)完全に記憶を頼りに当てずっぽうで書いているのだが、この『ワインの味の科学』という本のなかに、どういう文脈かわすれてしまったのだが、
「画像認知」の話が出てくるのだった。
たとえば「不気味の谷」の話。かわいらしい絵(アニメ)をどんどんリアリズム化していくと、ホンモノの写真(ビデオ)の直前に、「不気味の谷」といわれるココロの空洞が強調された人形のような図像があらわれるという話。
そして前回の記事で、思わず20年以上も前の自分で書いたブログ記事を、インターネットの粗大ゴミ置き場のような場所に行って拾ってきた、そこに書いてあった「人間は逆三角形にならんだ3つの点を見ると、それを顔と認識する」という話。
こんなおもしろいはなしもあったなあと拾ってみて、あれ?この話ジェイミーグッドにも出てきてたよな、と思い出したのだったんである。
より記憶に正確に書くならば、本のその部分ではウタフリスという心理学者が登場していた。彼は自閉症を専門にする心理学者で、そのウタフリスによれば、自閉症の患者は3つの点を顔に感じることができない、また三角形がぐるぐる回転しているアニメに健常者は
「ダンスをしている」といった認識をもつが、自閉症の患者は三角形がまわっているだけという認識しかできない、といった話が書かれていたでしょう?
『ワインの味の科学』という本で、こうした話題がどう扱われていたのかを、私はほんとうに忘れてしまった。だから私が思うようにここに書いておくならば、ワインの味に「正解」がないように、人間の感じ方にも「正解」はないのではないか。
まわる三角形のペアを、親子があるいはカップルがダンスしていると捉える人がいれば、ちっちゃい三角形がなんかくるくるしとるわえと言う人もいる。クルマのヘッドライトとナンバープレートを動物の顔と見る人がいれば、クルマはクルマですよねという人もいる。ちょーリアルな人間の絵をみて、リアルだなあという人がいれば、なんか不気味だがねという人もいますと。
それのどちらかが健常で、どちらかが病気というのはどうなのか。なんで「赤い味」が正解で「黒い味」は不正解なのかと、そういう話なのではないかなあと、そういうことでありましょう。
といったことを記事にしようと思って書いていたら、ウタフリスの読みやすそうな本を近所の図書館で見つけて読み始めたので、次はその話を書こうと思っているところで。とりあえずおしまいです。
2019年2月4日月曜日
自閉症とeyes(1)画像認知と記憶
1.2001年12月23日
明日はクリスマスイブなんですが予定は特になにもなく、きょうから「画像認知と記憶」という心理学の集中講義が4日間つづきます。クリスマスイブよりも天皇陛下の誕生日よりも、Tokyoから集中講義をしにくる心理学者の予定が最優先されています。打ち上げには出ません。
――「見る」というプロセスは非常にふくざつなものですが、目に飛び込んでくるのは光という刺激にすぎません。入力された刺激は脳がすぐさま分析をとりかかります。物体のかたちを認識する、かたちに込められた意味を認識する。そうしてはじめて、「ものが見える」のです。
経験と記憶。自分が経験してきたことが脳の中で知識体系をかたちづくっています。その知識体系はカテゴリー分類されているかもしれないし、近い概念どうしが結びついたネットワーク状のものかもしれないけれども、詳しいことはわかっていないし、個人差もあるかもしれません。ともかくそうした知識体系から記憶を検索し照合することで、人間は世界を見ています。
明日がクリスマスイブの夜ならば、誰かの目をみつめてみましょう。相手の目はぴこぴこと常に動いているこれを眼球運動といいます。いわゆる凝視をしないかぎり、目は1秒の間に3~4回動いているのです。そして目は、止まったときだけ画像を処理しており、ぴこぴこ動くあいだは画像を認知しないようになっているのだって。
つまり、人間が「見る」世界は不連続な、まるで映画のフィルムのような世界。ただし映画のフィルムの場合、コマとコマを繋げているのは残像効果ですが、眼球運動の場合は単純な残像に感覚記憶が介在しているそうです。
感覚記憶とは、目に飛び込んできた光情報にあえて意味を見出さず、かたちのみが脳に照射されるタイプの潜在記憶。つまり人間は1秒間に3~4回、目をとめて世界のかたちを把握。把握されたかたちは、次に目をとめる1/3~1/4秒後までの自動バックアップであり、眼球運動をしている間の見てない世界は記憶がつないでいるのです。世界をなめらかに見るために、脳は常に活動を続けています。
2.2001年12月24日
つまり、人間が「見る」世界は不連続な、まるで映画のフィルムのような世界。ただし映画のフィルムの場合、コマとコマを繋げているのは残像効果ですが、眼球運動の場合は単純な残像に感覚記憶が介在しているそうです。
感覚記憶とは、目に飛び込んできた光情報にあえて意味を見出さず、かたちのみが脳に照射されるタイプの潜在記憶。つまり人間は1秒間に3~4回、目をとめて世界のかたちを把握。把握されたかたちは、次に目をとめる1/3~1/4秒後までの自動バックアップであり、眼球運動をしている間の見てない世界は記憶がつないでいるのです。世界をなめらかに見るために、脳は常に活動を続けています。
2.2001年12月24日
こどもの頃からずっと疑問に思いつつ、だれかに尋ねるまでもないと放置していたことのひとつに、「自動車を正面から見るとなんだか動物の顔っぽいのだが、デザインしているひとは意識して顔っぽくしてるのだろうか」というものがあった。
きょう、大学の前で自動車3台が玉突き事故を起こし、クリスマスで浮かれているから事故るんだわと思ったが、それにしても自動車の鼻がひんまがっており、クルマがたいそう痛そうに見えるのだった。3台分の乗員がクルマの近くで会釈などしながら談笑しており、ドライバーに怪我がないのはよかったが、あれだけ自動車くんが「痛いよう、痛いよう」と泣いているというのに、クリスマスに浮かれたドライバーが無傷であると、少々しゃくにさわる部分も出てきても当然というものだ。
あらためて自動車を観察してみるに、ヘッドライトふたつが目のようであり、ナンバープレートが中央についていれば、おそらくそこが口である。
目の形にはさまざまなバリエイションが存在するわけだが、私はやはり軽自動車に多いまんまるな目がかわいいと思う。一般的傾向としては、四角い空虚な瞳やきつね目の車が増加傾向にあると思われるが、いかにも性格の悪さを露呈している。口は基本的にみなおなじだが、ナンバープレートが丁度いい具合に中央からずれ、おいら口とんがらかしてんだぜい、といった風情を醸し出してみるのも、また一興である。
心理学の集中講義で「人間は、点みっつが逆三角形に置かれていると、かならずそこに顔を発見してしまう」という話題が出た。だから自動車も顔のように見えるというわけだ。いったん「あれは顔なんだ」という思い込みをすると、その記憶の部分が活性化されるため、いつまで経っても顔であるどころか、どんどん顔に似てきているように感ずることもあるという。
樹皮を観察してみると、表面のでこぼこがなんとなし顔に見えることがあるが、これも同様のことだ。でこぼこが多い大木は神社仏閣の周辺に多いため、ついつい「心霊現象だ」などと騒ぎ立てたくなるが、実はそんなところにも人間の「顔発見心理」がはたらいていることが多い。天井のシミが顔に見えてくるなども同様である。
本日の聴講を終えて自転車で古本屋めぐりをしてきたのだが、国道41号線の大渋滞が顔の列に見えすぎて困った。ケンタッキーフライドチキンの駐車場へはいる車列から「肉をくれ、肉を食わせろ」という声が聞こえてきたのも、一種の心霊現象というものだろう。
2019年1月11日金曜日
発達障害者として生きていくための東京都日野市南平
こんにちは。田中はにわです。
これまで7年ほどでしょうか、ツイッターを使ってきました。
ツイッターを続ける一方で、長い文章を書きたくなって、このブログをはじめます。
毎日ここに、私の意見を書いていきますので、それを自己紹介にかえさせてください。
あるいはこのところの様子は、ツイッター@mrhaniwaをご覧ください。
このブログの体裁も、毎日少しづつ整えていきたいと思っています。
ブログとツイッターうまく使い分けて、両方とも生かしていきたいところです。
東京都日野市、京王線南平駅すぐ近く、京王線の線路沿いのアパートに
年末に引っ越してきて、きょうまででほとんど引越し関係の手続きが終わりました。
東京に引っ越してきた理由は、このところのツイッターに書いていた通り、
次の仕事を発達障害オープン就労で目指すため、
「就労移行支援」と呼ばれる福祉サービスの質や、
就職後のサポートまたこの先生きていくうえでの発達障害に関する情報量などが
これまでの数年間を暮らしてきた地方都市と、
東京都では段違いであるから、それに尽きるのですが、
しかし日本の首都である東京都の片隅で、
アーバンライフを満喫する余生というのも、なかなかよいではないか、
と思っているところです。
ツイッターから流れてくださった読者がいらしたら、
異なる文体に戸惑いをお感じの方もおられるかもしれません。
ツイッターの私はかなり「キャラクター化」をはかってきました。
そのほうが「つぶやき」はしやすい、
一方で本音を語りたいなあとか、真面目にうだうだ話したいなあとか、
また私情や地域情報的な、リアルな私の日常をどう表現したらよいのか、
といったところは、このところの悩みのだったように思います。
これもこのところのツイッターで話題にしましたが、
私は雑文ブログ書きのアルバイトをさいきんはじめました。
注文にしたがって、与えられたテーマに沿う内容を
調査して文章にまとめる仕事は私にあっているようで、
幸いにして注文が続いているもので、がんばっていくところなのですが、
一方で、いわば「関係ないこと」を長く文章化していると、
「ほんとうに話したいこと」、というのもたまってくるような感覚があり、
そこでブログをはじめます。
みなさん宜しくお願いします。
きょうはそうしてこのブログの準備をしながら、
内職の文章も一本仕上げ、
それから日野市立病院に今後のサポートに関して相談の電話を入れました。
発達障害者であるという医学的なお墨付きは、
精神障害者手帳というかたちになるのですが、
この手帳を得るためには、ひとつの病院に半年間通って、
そこの医師による診断というものが必要になってきます。
いまから東京の病院で半年間通院するのは、時間がもったいないので
私は前居住地の病院に通い続け、2~3月ころの精神障害者手帳発行を期に、
日野市立病院に転院しようと考えているわけです。
このような計画はきょうまで、私と前居住地の医師との間の、
勝手な計画に過ぎませんでしたが、
それをきょう、日野市立病院にも相談したというわけです。
精神科に関わりがある方はご存知の通り、
現代日本の精神病院は患者があふれていて、
初診の予約をとるといっても2~3ヶ月待ちがザラなのです。
そんなに待たされているうちに死にたくなったらどうすんだといつも思いますが、
本気で死にたくなっちゃった人の想いは、精神科病院には伝わるようにできており、
わたしもこれまでなんどかそのように救われてきましたから、
死にたくなっちゃったら「そんなに待てません」ときっぱり伝えれば伝わります。
ですが、こんどの私の転院は、それほど急を要するものではないので、
3月の終わりの予約をきょう入れて、あとはそれを待って過ごすことになりました。
発達障害は、ときに「二次障害」というかたちで「うつ状態」などを引き起こし、
いま現在のわたしも安定剤と睡眠薬をのんでいます。
しかし、それは「ときにそうなる」というだけで、
発達障害じたいを治す薬はないし、必ずしも医者に通い続ける必要はないのです。
が、発達障害者という「障害者」としての権利を得るために、
「障害者手帳」を持ち続けるためには、
治るはずのない脳の構造上の欠陥であるのに、
定期的に医師の診断書によって、
「このひとやっぱ障害者です」という認定を受けなければなりません。
そのための病院を持っておく必要があるのです。
というように、私は「障害者手帳」を使い倒してこの先を生きていこうとしており、
その権利獲得のために病院に通うのです。
治らない障害ですが、いまさら治そうとは思わなくなったし、
治ってもらったら困りますよね、手帳で得られるメリットが全部とびますから。
という不謹慎な態度で、いま流行りの「発達障害ブーム」の波にのっていきたい。
そう思っているところです。
障害のことだけを書くブログにするつもりもありません。
毎日の日記としていきますので、明日も読みに来てください!!
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