2019年6月29日土曜日

QWERTYをめぐる冒険


東京都にお住いの障害者の方で、仕事を探しているみなさんはご存知の通り、来週の木曜日、池袋でハローワーク主催の大規模な合同面接会がおこなわれます。194の会社が集まり、面接を受けることができる催しです。田中もなかば学校に強制される形で面接を受けに行きます。194の会社の求人票を見ていると、いったい事務職ってなんなんだろうという感じになってきます。一般事務、その殺伐とした響き――。

学校に強制される、と書いてしまいましたが、そのことを田中はありがたいと感じています。194の求人票が束になったものをハローワークで渡されても、どうみたらよいかわからず、どこを受けたらいいのか分からなかったところを、カウンセリングでここにはこう書いてある、この求人は田中にあっているのではないかと、先生は全てに〇×をつけてくれました。先生の意見があったから、うなずいたり否定したりができて、4つ受ける企業を決めました。こんなことをいうのもなんですが、どうでもいい順に受けて、面接の練習を積んでこようと考えています。

それにしても事務職はパソコンを使えないとどうしようもありません。いまこうしてブログを書く時、田中はテキトーな指使いでキーボードを叩いています。このとき田中はある程度のキーの場所を覚えていますが、ほとんどキーに視線を落としていますし、指も人差し指しか使っていません。それでもみなさんに読んでいただく文章は書けるのだからと思ってきたのですが、やはり模擬の会社で仕事をしたり、またタイピングの訓練をしていても、スピードに限界が訪れてしまい、指が正しく使えてキーを見ないタッチタイピングの人とはスピードがまったくちがいます。これでは話にならないです。

そこで月曜日から、つまりは7月いっぱいは、学校の授業でタッチタイピングの特訓コースに移籍することになりました。会社のおままごとのコースは休みです。おままごととはいえすごい訓練だという話はこれまでも弊ブログで話してまいりました。ですからここでそれを抜けるのはどうなのか、けっこう迷いました。これで特訓コースに行ってついていけず、無為な時間を過ごしてしまうのではないかというプレッシャーもあります。しかし、このプレッシャーがいま必要と思いました。模擬会社はすごい訓練と思う一方で、どうも遊びにしか思えない感じがして――。

この意味不明なキーボード配列、その意味を勉強すれば覚えやすいかもしれない、と調べてみると、キーボードの上のほうにQWERTYと並んでいるこの配列のことを「QWERTY配列」というそうですが、これはタイプライターあるいは電報の時代の名残であるということがわかっただけで、現代においてこの配列は何の意味もない、いつ変えればいいのかどう変えたらいいのか考えているうちに21世紀もだいぶん進んでしまったようです。

ただこれを調べての収穫がなかったわけではなく、というのは、この配列が英文のタイプライターの成れの果てであるならば当然のこと、この配列にはアルファベットの順序が透けて見えています。右手をいわゆるホームポジションに置いた時、そこにある「JKL;」はいうまでもなく「HIJKLMN」の「JKL」なのであり、「HIJKLMN OP」までが右手の守備範囲に収まっているのです。

学校で買ったタッチタイピングの教科書も、まずは英単語が打てるようになってはじめて、日本語のローマ字入力にうつるようになっています。さてタッチタイピングが1か月の特訓コースでどこまでできるようになるでしょうか。がんばります。

2019年6月24日月曜日

コイツの性格は


長く待たされた1社目の書類選考がお祈りされましたので、すぐに2社目に応募しています。こちらはすぐに返信があったので、今のところ脈ありと見ています。やはり「コイツはいらねえわ」いう判断となると、しばらくほっといてお祈りするのが、どうも企業の定石のようです(いろんなとこにそう書いてあります)。

その返事がすぐにあった2社目については、web適性検査受験案内がやってきまして、受験をしたところです。これは仕事のスキルを見るというよりは、「性格的に大丈夫かコイツ」いう検査であるようでした。受けたテストの名前をメモっておきましたが、「NETーHCAS」というものです。たしか142問だか144問だか、イエス・ノー・わかりまへん、の3択で、じゃんじゃん質問に答えていきます。じゃんじゃん答えないと時間切れになるようになっていて、それで嘘がつけないということなのかもしれません。

受験する前に、ちらっとだけ調べると、こういうテストにも攻略法みたいなのがあって、マニーを払いますと特訓を受けられたりするようなのですが、田中はもちろんそんな授業を受けたりはしませんで、さっさと受験して回答を送信しました。こういう性格のもので嘘をついていい点数をとり、会社に入ったところで無理が出て、また辞めても仕方がありません。田中は発達障害者です。性格に難があって当然じゃないですかねえ。もうわかんねえよなんこんな試験をするかね。

まあ採用してくれるならしてくれたで、ぐらいのゆるい感じで、就職活動を進めていきます。時間切れになってしまうようだったら、学校にはアルバイトも、在宅ワークも、副業可の低賃金も、いろいろありますから、どうにかなるはずと、そう思っています。働き方改革ですね。

2019年6月17日月曜日

発達障害という孤独をもう田中は恐れない


昨日(直前記事)で取り上げた、吉村萬壱『ボラード病』の「同調圧力」の問題を、逆から語ろうとしているのが、田中慎弥『孤独論』の「主体性」です。以下のように、「同調圧力」に対置される形で、「孤独=主体性」の価値が語られています。
友だちの数の多さや、場を盛り上げたり場に馴染むコミュニケーション能力を重宝する風潮は、過剰防衛の虚しい反転にすぎません。そんなものはなくても立派に生きていける。独りになり、陰口をささやかれ、後ろ指を指されようとも、気に病むべきではない。むしろ同調圧力から解放されて、自分を顧みる機会を得たのだから、喜んでいいくらいです。(太字=田中)
発達障害論を主にやっている弊ブログにしてみれば、昨日の議論も踏まえれば、発達障害者のコミュニケーション不全は、「孤独に過ぎる」ということになる、気がしていたのですが、この本は当の「コミュニケーション」をいったん棚に上げていることを特徴としています。現代社会の多数派が「同調圧力」によって「思考停止」に陥っているという想いが、著者にはあるからです。そしてなにより、元も子ないようで、だからこそ正しく響くのは、「人間は根本的に孤独なものである」という事実でしょう。
孤独であることは社会のシステム上、忌避されている。しかし、人間は根本的には孤独です。わたしたちはそうしたアンビバレンツにさらされています。
さて、この『孤独論』という本では、「孤独」ということ以上に「文学」が語られ、しかし一貫して語られ終着点ともなるのは「職業」というものです。大きく言って「人生論」といえる本書が職業の話に行きつくのは、「わたしたちの生涯の大半は仕事に捧げられ」るからであり、「人生観と職業観はほぼ等号で結ばれる」からと言えるでしょう。

求職活動中の田中にはまさしくタイムリーな内容でした。きょう、最初に応募した企業から「お祈りメール」がやってきました。人生で初めて「お祈りメール」をもらいましたが、人生で初めて就職活動らしい就職活動をしているのですから、仕方がありません。これまで田中はなんとなく雇ってくれそうな企業に応募して、そこで仕方なく働くことを繰り返してきたような気がします。そして、今度は違います。いくら高望みでも、やりたい仕事にどんどん応募していきます。障害者になったことを利用して、華麗にキャリアチェンジをしようとしています。
独りの時間、孤独の中で思考を重ねる営みは、あなたを豊かにします。そうした準備、練習が、仕事に幅をもたらす。あなたを開放する。
この『孤独論』という本を読むと、生きていく勇気が自然とわいてきますので、みなさんも読んでみてください。コミュニケーション不全はコミュニケーション不全なりに、強く生きていけばよいのかもしれません。あるいはそうとしか生きることができないのかもしれないのだとしたら、その孤独をこそ活かすべきなのかもしれないというのは、新しい視点です。田中もしたい仕事をきちんと見つけて、たくさん良い仕事をしていきたいと思いました。

 

2019年6月16日日曜日

コミュニケーション能力の「発達」とは


病める時も健やかなる時もブログを書き続けて5か月半、この記事が100記事目となりました。なんとか記事にできた文章も読み返せばそれなりで、書いてよかったと思えるものばかりで安心しています。100記事という数字はブログにとって、存在が世間に認知される最低限度のボリュームであると、以前にどこかで読んでから、この数字は常に気になるもので、はやく到達したいと考えていたものでした。そこできょうは一日で3つも記事を、というわけでもないのですが、読み終えた本の感想を書き留めておきたいと思います。
私はノートを書いています。書きながら、思い出しています。色々なことを。このノートが頼みの綱です。順番に思い出しながら書いているのです。しかしもう随分昔のことなので、スラスラとは書けません。肝心なところを避けて書こうとする自分に、打ち克つように心がけています。そして書かなければならないことは、私にはすっかり分かっているのです。嘘は絶対に書きません。全て本当のことを書いています。急いでは駄目です。ゆっくり、時間を掛けて自分の経験を正確に記していかなければなりません。そもそも急ぐ必要などどこにもありません。ここでは、時間はたっぷりあるのですから。
吉村萬壱『ボラード病』にある不気味さは、いわゆる「同調圧力」に由来するもので、舞台となる架空の都市の空気が、あるいはその土地の海産物が、なにやら人間に不調をきたすらしく、そのこと自体もうっすら隠されている、ということは言うまでもなく、フクシマ後の日本社会、を指し示すブラックユーモアであることは明らかです。「ぽぽぽぽーん」という公共広告機構のコマーシャルを思い出します。

このコマーシャルを思い出す理由はもう一つあって、ここが案外この物語のポイントと踏んでいますが、主人公が少女(こども)である、ということです。タイトルの「ボラード病」とは作品内において、社会の同調圧力を受け入れられない人間を指す語として機能していますが、主人公にその病が見られるのは、主人公がこどもだからなのだ、というフシが読み取れるように書いてあるのです。主人公の母も同じ病気の患者でありつつ、必死にそれを隠すことで生きのび、また主人公に「教育」しようとしています。

終盤、主人公は「同調圧力」の側に引っ張り込まれますが、そのとき主人公は同時に、コミュニケーションの喜びを感じてもいます。ここに至って、この物語は単なる政治的な寓話を脱していると、田中は読みました。すなわち、世の中にはコミュニケーションの文脈というものがあって、それを読み取れるように人間は「発達」していく。しかしそのように「発達」することで大きく損なわれるものもあるし、一方で得られるものもあるのだという、いわゆる少女の成長物語の典型にはまるようにできているのです。
それは周囲の動きに、偶然自分の石拾いの手の動きが同調した瞬間でした。その時、「海塚讃歌」のリズムが不意に体の中に入って来たように感じました。音楽のリズムに、体の動きがピッタリと嵌ったのです。全身が痺れたような気がしました。しかしそれは少しも不快なものではなく、寧ろとても気持ちよいものでした。波に乗る、と言うのでしょうか。ところがそんなことを頭で考えた途端、私は音楽から弾き出されてしまいました。野間夫妻を見ると、彼らは若者たちの倍のリズムで体を動かしていることが分かりました。つまりここにいる人たちは皆、「海塚讃歌」のビートにピタッと合わせて無心に踊っていたのです。私はもう一度そのビートに乗りたいと意図しました。何も考えずに石拾いのスピードを調整するだけで、それは簡単に実現しました。石拾いはダンスなのでした。私はすぐにコツを摑みました。今まで頭の中に壁を作って撥ね返していた「海塚讃歌」という歌に、こんな風に体ごと聴き入ったことはありませんでした。学校で、みんながこの歌を歌う時必ず体を揺らしていたことの意味が、この時初めて分かった気がしました。
発達障害者、なかでもコミュニケーション不全を持つ者としての田中には、同調圧力の恐ろしさと同じくらい、いやそれ以上に、コミュニケーションの輪に入った主人公の喜びに、その「発達」に羨望することになりました。ひらたく言ってしまえばこの物語は、自分が正しいのか、周囲が正しいのか、どちらかわからない、ということを書いているのだと、田中は考えました。

田中が行く池袋は


田中が4月1日から行っている「学校」、と呼んでいた場所は、正確には学校ではない。ではなになのかと言うと、よくわからない。発達障害者専門の就労移行支援事業所に通所している、というのが正式な言い方である。この就労移行支援事業というものは、支援する側がまずあり、支援することに対して役所からマネーをもらっているのだ。そのマネーがあるから支援される側は、無料で福祉サービスを受けている、ということになる。

が、その受けている福祉サービスとはいったいなになのか、最近よくわからなくなってきた。なにもしていない、とか言って、告発しようとしているのでない。たしかになんかやっているのである。それは仕事のままごとのようなもので、しかしよくできており、まさしく職業訓練と呼ぶにふさわしい。

田中はかつて自分が発達障害者だなんて思いもよらなかった失業期に、いわゆる職業訓練を受けて簿記検定2級を取得しているが、はてあれは職業訓練だったろうかと言えば、いま受けているものと比べた時、はなはだあやしい。あれは職業訓練という名前のモノであるに違いないが、実際の職業とはなにも関係していない。だから田中は簿記2級を取得してけっきょく、農業に従事することになったのである。

だから田中は、職業訓練という名の、社会にアジャストするための、福祉サービスを受けているのだな、と思っていたのだが、すると先日、その施設いわゆる学校からメールが来たのだ。東京都の指導により6月1日からみなさんには工賃を支払うことになりました。は?という話である。だって田中はなにひとつ働いていないし、ままごとをしているのだし、つまり何も生み出してはいないのである。ままごとで何かを作りそれをバザーで売ったりしているのではなく、ただよくできた偽物の会社に毎日通い、偽物の上司になんだかわからない文字の羅列された紙を持っていき、報告の練習をしたりしているだけなのだ。

それに対して工賃が出るという。工賃が出るとなれば、それは仕事なんじゃないか。とはいえ工賃は1日200yenだというから笑う。拘束5時間ままごと4時間である。時給50yenはアルバイトの最低賃金を大きく大きく下回っており、じゃあやはり仕事ではないのですね、ということになる。じゃあなんなんだよと。何のために工賃を支払うことにしたのだろう。不思議な話である。

一方でこの施設は、いわゆる転職支援人材業のように、田中に仕事を紹介し、企業から紹介料をもらうビジネスもやっている。そのおかげで田中は次の仕事が見つかるのかもしれないのだが、それにつけても田中は営業のエサなのである。そしてカウンセリングは、田中の心を癒す一方で、発達障害に関するデータどりに利用されていることも、田中にはわかっていることだ。いったいあそこは、田中が行く池袋は、なんなんだ。はやく抜け出したい、と思いながら、明日も田中は池袋に行くだろう。

2車単4-2―場外で、ネットで、駅のホームで―

今週は書類選考の結果をひたすら待ち、結局なんの返答もありませんでした。日曜日、失業者の障害者のおじさんも、たまには息を抜かねばつぶれてしまいますので、きょうは久々の競輪の日としまして、1万円を自由に使いましょうとしましたが、夕方、手元にお金が6000円も余っています。最終レースを当てたわけでもないのに。


それは昔なら考えられないことです。いままでならば、勢いに任せてカネをぶちこみ毎回破産し、お金が無くなることに醍醐味を感じていたところがありました。そういう生き方はやめようということなのでしょう。決勝戦を観戦して、元気が出てきました。中川誠一郎が勝ちました。


きょうは立川競輪場に競輪観戦に出かけました。今年のあたまに立川記念競輪の本場観戦をして以来なのではないでしょうか。前回は自家用車で来ましたが、いまはもうクルマを売っぱらってしまいましたので、きょうは公共交通機関で行きました。家の目の前の京王線南平駅、ここから隣の高幡不動駅で多摩モノレールにのりかえます。立川北駅で降りますと、伊勢丹のところから競輪場行の無料バスが出ています。


きょうの決勝戦は第70回高松宮記念杯競輪、GⅠ(ジーワン)という年に数回の大きな大会の決勝戦でしたが、その決勝戦は大阪の岸和田競輪場で行われており、立川競輪場は場外車券売り場のひとつということで、やや閑散としていました。いまどき競輪なんてネットで見たほうが快適で、場外に行くなんて暇つぶし以外のなにものでもないのかもしれません。しかし、家でパソコンに向かっているより、場外に出かけたほうが気分がよいだろうと思って、出かけました。


競輪場のデザインセンスはいかにも古めかしく、若い人もきっと楽しめると思うのですが、宣伝の仕方がへたくそなんでしょうか。老後までに2000万円貯金しないといけないらしいので、競輪なんかにつぎ込むマネーもないのかもしれません。田中は2000万円も貯めるのはあきらめています。


きょうは2レースから買いはじめて、当たったのは4レースだけでした。2車単4-2なんて縁起の悪い番号で当てたのははじめてです。ふつうはこういう番号は当たらないように番組が編成されるものだと理解していますが、きょうはなんだか、4稲毛健太は南潤の番手だし、2吉澤純平が絡んでくるだろうという、まっとうな予想に4-2が当てはまっており、4-2だわと思いながら買いましたが、当たりました。


お昼過ぎ7レースまで買いましたが、これしか当たらないので、食堂でカツカレーを食べました。当たらないといっても、きょうはどのレースもいい線までは当たっており、許せる範囲の外れしかなくて、気持ちはクリーンでした。太田竜馬くんが来ることは当たりだし、山崎賢人は案の定すえが甘いし、古性くんも地元で最後に勝ったし、大枠はみんな当たりです。お金がもらえないだけで。


カツカレーを食べたら、家に帰ってきまして、決勝戦だけはネットで見ました。ネットから投票したのは3連単。3着が外れました。ワッキーが3着に残ってほしかったですが、ちょっと調子が悪かったです。


なんども書こうと思ってやめたことで、今週ずっと考えていたことで、ツイッターに書いてみては投稿する前に消していたことですが、ここになら書いてもいいと思ったので、書きます。木曜日、田中が豊田駅のホームで電車を待っていたら、国立駅で人身事故があって電車が止まってしまいました。人身事故の交通混乱に出くわすのは、田中が東京に引っ越してきて2度目のことでしたが、すごいムカついて。


田中が精神の調子を崩しているのは、就職活動のせいだと思おう思おうとしていますがやはり、この誰かの死が田中の気分を沈めたのは事実で。勝手に死なないでくれんかね。田中は就労移行支援とやらに通い、なんとか生きようとしている障害者です。この数十年ずーっと、心のどこかで死にたいと思いながら生きている。そんなこと想像もできない人もいるでしょう。


バカみたいじゃないですか。死にたいと思いながら死ねずに生きてるやつもいるんですよ。そんな簡単に電車に飛び込まんといてください。ということが、どうしても言いたかったので書きました。きょうのレジャーの費用が余りましたが、なにに使いましょうか。

2019年6月15日土曜日

佐伯祐三幻想



佐伯祐三(1898-1928)の生涯は短く、東京美術学校を卒業した25歳を画家としての出発と見たとき、その画業はわずか5年である。卒業とともにパリに立ちパリに客死している佐伯だが、そのちょうど中間地点に親族の心配に促された日本への帰国があり、一般にその作品は<第一次渡仏期><帰国期><第二次渡仏期>と整理されている。

本稿で問題とするのは、佐伯祐三の<帰国>の画業における意味である。画学生時代から生涯を通じて佐伯と親交の深かった山田新一は「いやがおうでも日本の風物を、取材せざるを得なくなった一カ年半位は、文字通り佐伯の苦悩煩悶、或はスランプの時代といってもさしつかえないのではなかろうか」と書いている(1)

これまで佐伯の視線は常にフランスに向いていたと評され、<帰国>が大きく取り上げられることはなかった。しかし欧州体験が祖国回帰につながるような典型的な動きはなかったにせよ、佐伯祐三がそれまで目も向けなかった日本に、このとき向き合わなかったはずはない。病身の画家自身が命を懸けた短い画業において、只のスランプなどという無為な時間があったとは考えにくいからだ。

それが証拠に<第二渡仏期>があるとは言えないだろうか。すなわち、佐伯祐三の作品に<帰国>が影響を与えたからこそ<第二渡仏期>という区分が存在するのだ。それは単純な時間と場所の区分ではないということである。

<第二渡仏期>の作品の特徴は「『線』の野放図な乱舞」(2)である。熊田司は「《ガス灯と広告》や《カフェのテラス》では、ポスターの文字やイラスト、ガス灯の鉄柱、人物の手足、パイプ椅子やテーブルの等々、すべては等質で跳ね上がるような線描と化し、いくつかの簡素な色面に還元された背景の上で、蠱惑的なダンスを舞うかのようだ」と評している(3)

この線を佐伯祐三が日本画に学んだ可能性をここで指摘する。<帰国期>の日本の風景をモチーフとした作品の評価は一般に低調だが、作品には残らない部分で佐伯が日本を再評価することはなかっただろうか。そのように考える時、小説家の芹澤光治良に対して発したとされる「日本には帰りたくないが、日本に帰って、古い日本の山水と宗教画を見ることで自分の絵を完成できるかも知れないから、あきらめて日本に帰ります」という発言が改めて注目される (4)

安村敏信『線で読み解く日本の名画』(5)は、「日本美術の特色」を「線」に見ようとする試みである。ここで雪舟が発明したと位置づけられる「無重力の線」は、リアリズムの画面から線だけが浮き上がるような特徴をもつもので、日本独特の線の誕生と位置付けられている。その線を受け継いだとされる雪村の線を佐伯祐三と比較してみたい。

佐伯の『リュクサンブール公園』(6)に代表される立木の表現と、雪村の代表作『風濤図』(7)の立木は、描線のスピードを封じ込めたような表現に共通性が見られる。あるいは佐伯のカフェ連作(8)において踊る手足のような一筆書きの椅子をあらわす線の軽やかさは、『風濤図』において最も特徴的な、波頭の「水飴のような粘り気のある線」に似ている。
 
 証拠になる資料が見つからないため、推測の域を出ないことは承知で、ヨーロッパにひたすら憧憬した佐伯祐三が日本画から影響を受けていたことが証明される時、夭折の天才は真に近代日本を代表する洋画家となるだろうという幻想を提示した。

(1)『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版、1980)
(2)(3)(4)熊田司「佐伯祐三――いくつもの出発――」(『佐伯祐三芸術家への道展』図録、練馬区立美術館、2005
(5)安村敏信『線で読み解く日本の名画』(幻戯書房、2015
(6)佐伯祐三『リュクサンブール公園』(新潮日本美術文庫『佐伯祐三』、1997
(7)雪村『風濤図』(上記(5)より)
(8)佐伯祐三『テラスの広告』(新潮日本美術文庫『佐伯祐三』、1997

2019年6月11日火曜日

麻井宇介=浅井昭吾 著作リスト


麻井宇介は日本を代表する知性である。現在の日本ワインの礎として名高い彼を知らないワインフアンはいないが、日本においてワインを知る人はまだ少なく、ワインを知らない人は麻井宇介も知らない。これは大変不幸なことだ。元ワイン製造業勤務の田中が発信している弊ブログは、ワインを知る人と知らない人の懸け橋になりたい。ワインは飲まなくてもよい。しかし麻井宇介は読まなければならない。麻井宇介を読むことで得られる知は計り知れない。

ウィキペディアに「麻井宇介」の項がないことをついこないだまで嘆いていたが、最近になってようやくその項があらわれた。なければ田中が執筆しようかと思っていたところだったが、無事補完されたようでありがたい。ここではウィキペディアより詳しい、麻井宇介著作リストを公開する。■が単行本、◇が雑誌記事、★は本名・浅井昭吾名義である。このページをプリントアウトして図書館に行ってほしい。またここにない著作をご存知の方はご一報願いたい(手に入れやすい新版などもあるが、このリストでは基本的に時期のはやいものを記載している=重複を省略)。いずれ内容は紹介していく。

■『ウイスキーの本』(碧川泉・麻井宇介 井上書房 1963
★「ワイン業界の70(醸界70年の歩み)
(「日本醸造協会雑誌」70(8) 1975-08 p.p523526
★「ウイスキーの味 (醸造飲食品の味-1-<特集>)
(「日本醸造協会雑誌」75(8) 1980-08 p.p635640
◇「随想:飽食時代の酒」(「食品工業」23(3)(473)1980-01
■『比較ワイン文化考 : 教養としての酒学』(中公新書 1981
◇「ワインつくりと化学」(「化学の領域」35(5) 1981-05 p.p392395
■『「酔い」のうつろい : 酒屋と酒飲みの世相史』
(日本経済評論社 1988 <>の昭和史 ; 8)
◇「ウイスキーの香り」(「化学の領域」37(1) 1983-01 p.p3135
◇「国際商品としての酒」(「国際交流」20(3) 1998-04 p.687
★「農業と工業の間にあるもの」
(「日本醸造協会誌」 85(11) 1990 p.761-761
◇「「酔い」のうつろい--昭和の酒はいかに変遷したか」
(「酒研会報」29 1990-03
★「《対談》酒をのむ・水をのむ」
(「酒文化研究」2 / 石毛直道 ; 浅井昭吾 ; 田村義也 / p239 1992-09)
■『日本のワイン・誕生と揺籃時代 : 本邦葡萄酒産業史論攷』
(日本経済評論社 1992
■『ワインづくりの四季 : 勝沼ブドウ郷通信』
(東京書籍 1992)(東書選書 ; 122)
■『ワインを気軽に楽しむ : 豊潤なバッカスの世界への招待』
(講談社 1992(講談社カルチャーブックス ; 64)
★「ワイン用ブドウの現状と将来」
(「日本醸造協会誌」88(5) 1993-05 p.p338343
★「ワインあれこれ ワインの地平を展望すれば」
(「Vesta」通号 36 1999-11 p.7277
★「酒」(杉田浩一責任編集『調理とたべもの』味の素食の文化センター1999
■『「酒」をどうみるか:2麻井宇介対論集』
(醸造産業新聞社 2001-10
◇「特別講演 21世紀の『日本の酒』を考える」
(「醸造論文集」 56 2001 p.87107
■『酒精の酔い、酒のたゆたい : 酒論の拾遺』
(酒造産業新聞社 2003
■『ブドウ畑と食卓のあいだ : ワイン文化のエコロジー』
(日本経済評論社 1986
■『酒・戦後・青春』
TaKaRa酒生活文化研究所 2000 (酒文ライブラリー)
■『ワインづくりの思想 : 銘醸地神話を超えて』(中公新書2001
★「The Introduction of European Liquor Production to Japan
(「Senri Ethnological Studies64国立民族学博物館 pp.49-61  2003-11-25

2019年6月9日日曜日

障害者手帳で行く多摩動物公園


障害者手帳をもらった田中は、障害者手帳のメリットを十分に行使しようと思っています。きょうは以前から計画していた通り、多摩動物公園に出かけました。


田中は京王線の南平に住んでいますから、隣の高幡不動駅から動物公園線でさらに1駅で到着です。距離感覚から言えばすぐそこ。いまも郵便局に用事があって府中まで行ってきたのですが、家が駅のすぐ近くだし定期券を持っているので、府中くらいまでは庭のようなものです。子供のころ親によく連れられていった思い出の地でもあり、引っ越してきてすぐに行ってもよかったのですが、障害者手帳をもらえば無料で利用できると知り、手帳をもらった記念に行くことに決めていたのです。



多摩動物公園の場合、切符売り場はスルーして入場門の改札で障害者手帳を見せるだけで入場できました。あとはもう自由です。田中は動物の写真を撮りに行きました。その写真をご覧いただきます。


どれもよく撮れていますね。ダチョウ、ウマ、ペリカン、キリン、ゾウ、ライオン、フラミンゴです。まだまだオーストラリアのほうがあったのですが、とちゅうでちょうしわるになったため、きょうは帰ってきました。天気もそんなよくないし、またいつでも来ることができるので、さらっと帰ってきて寝ました。


アフリカ園休憩所サバンナレストランでのんだケニアのビール「タスカー」は、麦の苦みがよく出ていて、これを飲むと日本のビールは甘すぎる感じがします。大変おいしかったので、みなさんも飲んでみてください。

2019年6月8日土曜日

障害は隠さず、そして機械に頼ろう


高齢者の運転操作ミスによる交通事故が問題になっています。俳優・杉良太郎が免許を返納して啓発活動としたことも話題となりました。これは難しい問題で自動車なしでは暮らせない地域もあるはずですが、ニュースになるのは不思議と都会ばかり。田舎でも対物自損事故みたいなのは多いのでしょうか。

きょう読んでいた『丹野智文笑顔で生きる 認知症とともに』(2017)、これは40歳を手前にして若年性アルツハイマーを発症した著者によるものですが、このなかにも高齢者運転問題が書かれていました。
車が生活の一部になっていた人にとって、認知症になったからといって、車の運転を禁じられることは、まるで自分の手足をもぎ取られたような辛さがあるのです。とくに公共交通機関の少ない田舎で、車の運転を取り上げられるほど辛いことはないと思います。イギリスのように、免許を更新しても車に乗りたいんだという人だけが実地試験を受ければいいのです。何もしないでだめと言われるよりも、実地試験をやってだめと言われたほうがあきらめはつくと思います。
現在、高齢者が違反でつかまると免許センターで認知症検査が行われる、 という施策はすでに日本でもあるのだと、このところのテレビニュースで見ました。しかしそうしたことより重要なのは、高齢者でも安全に運転できるクルマが、たとえば自動運転車などが、一刻も早く開発実用化されることだろうと、田中は考えています。

このブログでも書いていたように、田中は今年の初めまでの一時期、webライターのアルバイトをしていました。この時期、自動車関係のメディアに記事を売っていたことがあって。そのとき調べたところでは、ヨーロッパのクルマを中心に自動運転車はすでにある程度実用化されているし、日本車でも安全装備を売りにするクルマはどんどん増えていますよね。さいきんの事故のニュースでも「プリウスロケット」なる言葉があるように、ある車種に限って高齢者事故が多いということも、事実としてあります。

ついつい運転する高齢者を悪者と見てしまいがちですが、悪いのは自動車であり技術の進歩が至らなかったこと、という見方はできないでしょうか。前掲した本を田中が読んだのは、以前にも書いたことがあったように、発達障害と認知症はご近所さんだ、という認識が田中にあるからなのですが、この本で書かれる手帳やスマートフォンの活用はやはり、発達障害に対する方策としても読めるものに思いました。

これを広い視野から捉えなおせば、脳機能の障害は機械に補助を頼るに限る、ということで、以前から田中も思っていたところです。そしてこの文脈に照らせば、その「機械」というやつに「自動運転車」はまさしく当てはまるはずで、事故で犠牲者が出るのは悲しく避けなければならない問題である反面、冷静に考えればこれは人類の機械工学技術が追いつくまでもう少しの辛抱という感じに、田中には見えます。

奇しくも自動運転の電車が衝突する事故も起こったばかりで、どこまで行っても完璧ということはないことを知ったうえで、しかし人間が機械に頼る方向はこの先加速せざるを得ないし、それしか人間のさらなる進歩はないだろうと思っています。

認知症者による著書で、著者がタイトルの通り「笑顔で生きる」その理由を探せば、これも近日、田中が発達障害について考えていることに共通していました。
認知症を隠さなければ、たいていのことができるんじゃないでしょうか。認知症をオープンにすると、みんなやさしいことに気づくと思います。私がこれだけオープンにできるのは、やさしい人とどんどん触れ合っているからです。もちろん、中にはいやな人もいるでしょうが、その人と付き合わなければいいだけです。
認知症を隠しているということは、自分のなかの認知症に関するイメージが悪いからで、そのイメージの悪さに自分の首が絞められてしまう。そういった趣旨の論が出てきますが、これもそのまま発達障害にもあてはまるように思います。

脳機能の障害は、生活の工夫とそして機械に頼ることによって、周囲からどんどん見えなくなります。それ自体はよいことですが、見えないがゆえにいざ困ったことが出ると、周囲の驚きも大きい。最初からオープンにしておけば問題にならないことも多かっただろうと、クローズで勤務していた前職のことも、本を読みながら思い出していました。

 

週末の郵便局


土曜日は決まった郵便局しか開いていない。田中の家からいちばん近い大きな郵便局は日野郵便局だが、日野郵便局はどう考えても自動車を持っている人向けの立地で、駅から遠く離れている。郵便物が自動車で全国に配送されるのだから、仕方ないことかもしれない。自転車で行ってもよいのだが、坂をのぼるのが面倒だった。

日野郵便局は、自動車を持っていたころはよく自動車で行った。この家に越してきたころ、引っ越しの当初は前居住地から重要な書類が次々と再配達となり、再配達を待つ時間がないのでしょっちゅう日野郵便局に行っていた。日野郵便局は国道20号線から細い道を入ったところにあり、いつ行っても渋滞していて行くたびにイライラしていた。ものすごい数の郵便局のバンやバイクが出入りする門に、渋滞をかいくぐって入るまでがたいへんで。そんな思い出も田中を日野郵便局から遠ざけている。

きょうは就職活動の応募書類を出さなくてはならなかった。が日野郵便局に行く気にはならなくて、インターネットで駅の近くの大きな郵便局をさがした。武蔵府中郵便局が府中駅の近くにあった。府中ならばいま田中が通っている学校の、通学路にあたるため、定期券で行けるから交通費がかからない。今度から週末の郵便局は府中に出ることに決めた。府中は大きな町で、喫茶店もたくさんある。喫茶店で本を読んでかえってきた。

2019年6月7日金曜日

手書きの履歴書を


障害者手帳をもらった田中の、就職活動がはじまっています。本日は病院に行くため、就労移行支援の学校がお休みでした。そこで病院に行った後ハローワークに出向き、最初に応募する企業の紹介状をもらいました。

さっそく試練でした。紹介状を出してもらうにあたって、応募企業からハローワークへ、履歴書は手書きでやってもらってくれ、と連絡がありました。いまどきそんなことありますかいな、とは思いましたが、お相手がそういうのですからということで、Excelでつくっておいた履歴書を、手書きで再現するのに本日一日が費やされました。

障害者雇用に対する応募で難しいのは、その募集が「障害者の募集」であって必ずしも「発達障害者の募集」ではないことです。いま通っている学校に直接来る募集なら発達障害の学校ですから発達障害者を募集していることが明らかですが、ハローワーク求人ではそれがわかりません。これについても紹介状をとるときに聞いてもらいましたが、「障害者ならば種類は問わずに募集は受け付けます」という微妙な答えしかもらえませんでした。まあこの質問の答えがどうでも、応募するつもりだったので、いいんすけどね。

学校では、障害者雇用のための応募書類はあらかたパソコン作成の応募書類が認められる、パソコンじゃダメ手書きじゃないとなんていう会社はこっちから願い下げくらいで構わない、と授業で習っていました。そしてさっそく例外にあたりました。10%くらい、はやくもこの会社じゃないのかなという思いが…笑。ふつうに残業も求められているし、障害者雇用の平均よりかなりキツイ業務なのかもしれない。が、田中はバリバリやりたいのです。ただ障害者手帳を持っているだけで、バリバリ障害者になりたいのです。

学校の同級生はどうも2-3社を掛け持ちで応募することが多いようですが、田中は第一志望から順に、一社ずつ受験することに決めました。第一志望と第二志望、第二志望と第三志望の間が、あまりに大差なので、一つずつやって決まったところに行きます。第三志望までで決められなかったときに、ようやく数社同時応募ということにしようと考えています。いずれにしろ失業保険が切れる秋までに決めなければなりません。だめだったら実家に帰って引きこもりとなります。

2019年6月6日木曜日

のりほうだい


障害者手帳3級となりました田中は、きょう新宿駅に行きまして、都営交通の乗り放題の券をゲットいたしました。身体障害や知的障害がありますとJRはじめ様々な乗り物が乗れますが、精神障害では都営交通だけが対象になってきます。

都営交通乗車証にはさまざまなタイプがあり、たとえばPASMOのタイプもあるのですが、田中は磁気券タイプ、つまり運転士に見せるか改札機の中を通すかという券になりました。現在、田中はSuicaを使用しているため、PASMOをさらに持ってしまうと、改札でうまく通れなくなるからです。

ちなみに聞いてみたのですが、PASMOタイプの乗車証を持ったところで、その乗車証に都営以外のPASMO業者、たとえば京王の、定期券の情報を載せることはできないのだそうです。なぜならこの乗車証は、まさしく定期券情報欄を利用して無料券としているものだからだそうで。

人類の技術の限界を見ました。

2019年6月5日水曜日

3級です


きょうは就労移行支援の学校が終わりましたら、特急で高幡不動まで戻りまして、日野市のミニバスで日野市役所に行きました。日野市役所に到着したのは16時57分。今までだったらもうあきらめていましたが、17時まで受け付けていると手紙が来ていたのですから、文句を言われる覚えはないし、どうせ障害者なのだものという甘えも発動して、障害者の窓口に飛び込みました。

そして田中の障害者手帳は発行されました。手帳がないと障害者として働くことはできないので、田中は障害者手帳が発行されるのをずっと待っていました。これでようやく障害者として就職活動をしていくことができます。さっそく応募したい企業についても学校で相談しているところです。

また障害者手帳がもらえると、いろいろ特典があります。無料で利用できる場所がたくさんあるので、美術館や博物館にはどんどん通いたいと思います。また都営バスと都営地下鉄は無料になるはずですから、近日中に手続きをする予定にしています。

田中は精神障害者の3級をもらいました。認められたという感じがして、満足しています。弊ブログで研究してきたように、脳がそういうふうに特殊であるということについて、きちんと認められたのだということが、田中はとてもうれしいです。これから障害者としてどうどうと生きていきたいと思っています。

2019年6月2日日曜日

ドライブするためのチェックリスト


学校の先生は何でも知っています。田中が「日々の精神状態をチェックする記録簿のひな型みたいなものを探しています」と言ったらその場で「じゃあこんなのはどうですか」と言われたそれが、ちょうど田中のイメージ通りでした。

神奈川県川崎市が精神障害者の就労定着のためのセルフケアシートとして開発した「K-STEP」というものがあります。リンクから川崎市のホームページに行きますと、実際のシートをダウンロードすることができます。就労定着の面談の時に、障害者と職場の上司がこのシートをみて話し合いができるようにと作られたもののようですが、よくできているので、障害者が自分自身の傾向を把握し、把握するだけでなく良い方向に精神をしぜんにドライブするようにできていて、まさしくセルフケアのシートになっています。

田中は6月1日、つまり昨日から、K-STEPタイプ1を記入しはじめました。「良好サイン」「注意サイン」「悪化サイン」のそれぞれの項目は、自分にあうサインに書き換えてから使い始めます。また、田中の場合は、一日に3回も記入している暇がないので、朝昼晩の枠を撤廃して、毎日1回の振り返りをすることにしました。そうして精神の兆候(サイン)をつかまえたうえで、「セルフケア」の項目を実施して、精神状態をフロー方面へドライブしていきます。

飲食店のトイレ掃除の確認チェックとか、ああいうチェックリストはただチェックするだけのものになりがちです。しかしK-STEPはチェックしたことで次の方策をしぜんに考えるように設計されているところが、たいへんすぐれている、のではないでしょうか。まだ2日チェックしただけのユーザーの、希望的観測を多分に含んだ感想ですが、先日来田中がこうしたシートをさがしていたことについて、楽しみにしていた方がありましたら、ぜひ一緒にK-STEPをやりましょう、とお誘いいたします。

2019年6月1日土曜日

障害年金はベーシックインカムか


以前からお話ししていた通り、田中は前職を辞めるにあたって、障害者として生きていくことをきめましたので、前職を辞めるくらいのタイミングで行政書士の先生に相談して、障害年金の受給申請をしました。

以前話したときにも書いたことですが、大事なことなのでもう一度言いますと、障害年金の手続きは非常に複雑で面倒なものになっており、あきらめてしまう人も多いそうです。また行政書士の先生に支払う金額が数十万円するからそんなもんは無理やと、そういう話があります。実際、田中も最初はそういう業者に依頼することも考え、あきらめようとも思っていたのですが、結果的にたどり着いた行政書士の先生は、障害年金が支給開始になった時に、最初の一か月分を料金として請求しますという、そういう先生です。つまり、そういう先生をみなさんも見つけましょう、という話です。何十万も払うもんじゃないと、それは覚えておいてください。

さて、昨日のことですが、ついに田中の家に厚生労働大臣から手紙が来まして、田中は発達障害ですから年金を払うことに決まりましたということでした。そこで行政書士の先生に連絡をしたところ、いま手紙が来たら最初の支給は7月だろう、ということで。そのあとはひと月おきに2か月分の年金が支給されるとのことです。また2年にいっぺん、診断書がウチに届くのでそれを医者に持っていって書いてもらい送り返すと、たぶん一生金がもらえますということで、田中はよろこびました。

ところで田中はいくらもらえるのかというと、1か月あたり4万いくらであり、ひと月おきに10万円弱がもらえるという、これが障害年金のいちばん低いグレードになります。まあそんなもんだろうとは思っていました。が、もし仕事をしなくても生きていかれるくらいマネーがもらえるならばどれほどいいだろうと、そう思っていたんですね。田中はたいへん家賃の安いアパートに住んでいますから、だいたい年金で家賃と水道電気くらいまではまかなえる額ですが、それでも食べ物を買う余裕などはなく、やはり働かなくてはならないだろうと、そういうことになりました。

いつからかインターネットでは、ベーシックインカムという言葉が流行りだしました。田中にとって障害年金はベーシックインカムと言ってもよいものかも知らません。発達障害のケアにかかわる金額よりも多くもらえるからです。しかし、田中は障害者として仕事をするのですから、一般枠よりもお賃金が低いですので、そのぶんを補っているのだという言い方もできます。ところが田中が次に応募しようとしている障害者枠の求人は、前職のお賃金よりも高いところばかりです。これは前職が農業であるのに対して、次は事務職に就くためにいま勉強をしているからです。そんな農業してた人が事務職なんかできないでしょうというときに、田中は発達障害者になりましたということが、いわば利用されるわけです。

そのようにいろいろと考えると、田中は障害者になったほうがお金持ちになり、お金があることで精神が回復すれば、もっともっと田中はしあわせになるでしょうということです。そのとき、障害年金とはいったいなんなんでしょう。もらってもいいマネーなんでしょうかという気がしてくるのですが、厚生労働大臣がくれるのでもらいたいと思いました。きょうのおはなしはおわりです。

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