障害者雇用の職場を見つけて、もうすぐ2年となる。私の場合、周りと変わらないパソコン事務作業をしているが、電話の応対を免除してもらっている。電話の応対を我慢してやって、その分のマネーを貰うことを想像してみると、そんなことは到底出来そうにないので、障害者雇用というのはありがたい。周囲とやりとりするのも基本的には業務チャットで行うので、家からリモートワークする日と、会社に出社する日で、やることは全く変わらない。だったらずっとリモートワークでよいようなところだが、みんなは交代で出社して電話の応対もしているので、障害者にも出社の日があり、私が出るぶん誰かがリモートワークになる仕組みである。
就職して半年ほどは、毎日満員電車にゆられて会社に行っていたけれども、ニューノーマルとなったいま、それははるか昔のできごととなっている。あんな生活はもはや信じがたい。私の出社日は月曜日が多いので、月曜日が出社となると、前週金曜日のテレワークが終わってから、さて月曜日までにどのように会社にたどり着こうかと考え始める。週末はスーパー銭湯に行って入浴と読書を繰り返すのが最高の贅沢だったが、緊急事態のためそうした施設は軒並み休業となった。そうして編み出された趣味が、会社の近くのホテルに泊まってから出社する、というものである。
そもそもホテルに目的なく泊まることは、私の趣味のひとつであり、大浴場と朝食バイキングのあるホテルを第一の目的に、出かけることがあった。緊急事態となり、県境を越えることもタブーとなって、私のそうした趣味は、東京都内の、会社の近くのホテルめぐりに移行された。毎週高いホテルに泊まるわけにはいかないので、いまでは大浴場も朝食バイキングもなくても、とにかくホテルに泊まるというだけで満足している。喫煙者なので、喫煙ルームも重要な候補となるが、会社の近くの喫煙所は心得ており、ホテルで吸えなくても文句は言わないことにしている。ホテルで読むように本を抱えていくが、大抵それも読まない。とにかく疲れているので、ホテルに行ったら眠る。また家にテレビジョンがないぶん、ホテルに行くとテレビジョンばかり見ている。徳光と田中律子のバスの旅、相葉くんの料理のやつかバンキシャ、坂上と指原の潰れない店、ミスターサンデーと日曜日に観るものはきまっている。
私は東京都日野市の京王線南平駅の駅前に住んでいるが、会社の最寄駅は地下鉄の青山一丁目である。青山一丁目は駅の名前だけで、東京都港区青山一丁目という住所はない。京王線で新宿に出て、都営大江戸線で青山一丁目に行くのが正規のルートである。私のホテル巡りは、京王線の府中・調布にはじまり、新宿・青山外苑といった会社の近隣・また赤坂見附や永田町のあたりなど、もう数十を制覇しているはずだが、最近のお気に入りは浜松町の近隣である。都営大江戸線の大門駅はJR浜松町駅の近郊となる。浜松町は典型的なオフィス街で、喫茶店が多く、街頭の喫煙所も整備されていて、週末の人出が少ないから、快適な街だ。きのう泊まったホテルは、久しぶりに大浴場があったが、日帰り入浴をやっているため、大変な混雑で辟易としてしまった。いま世間的にもサウナがブームとなっており、面倒なことになったと思っている。しかし、ベッドはキングサイズで、よく眠れた。
東京にはホテルがたくさんあるが、まだここだというホテルには巡り合わない。以前住んでいた山梨県の甲府では、ホテルを巡っているうち、ここがいちばんというホテルが決まり、そこにばかり通っている時期があった。しかし、東京のホテルはどこも一長一短だ。まだ放浪は続く。ホテル自体に文句がなく、ホテルの近隣になにかレジャーがあって、毎週そこにいけばやることが決まっている、というかたちを目指したいものだ。
2021年6月22日火曜日
2019年7月31日水曜日
弱者のユーモアを見る視線の問題
ひとつの単語にすれば「弱者」ということになってしまうだろう、彼らのいる場所を訪ねるようになった理由の一つに、好奇心があることは否定しない。間違いかもしれないが、そう思ったのは、「弱者」への想像力を働かせる筆者は、そのようなスタンスであるからこそ、ほんとうのほんとうに「弱者」ではないという立場にいるのではないか、と田中はそう思った。たとえば田中は発達障害者であり、障害者としてどうどうと、ほかの「弱者」に共感を感じることが、近日、とても多くなった。そういう共感を示す権利を得た、というような思いがある。
けれど、もっと大きな理由が他にあったことに、わたしは、途中で気づいた。それは、その「弱者」といわれる人たちの世界が、わたしがもっとも大切にしてきた、「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、ひどく似ていることだ。
障害者でないと障害者を語れない、というのはちがうだろう。が、一方で、障害者以外の人間が障害者(など)を「弱者」として語ることは、本当に難しいことだと感じた。ただ、この本は、そのような難しいことを、極めてがんばってやっている、という印象は受けた。難しい問題で、このような印象論以上のことは、いま書けない。
田中は大学時代、文学を専攻していて、卒論は高橋源一郎だった。そのころの共感は、彼の作品がたんじゅんに面白かったからだったが、いま田中は障害者となり、そして高橋源一郎が障害者について書いているのを読むというのは、なにが喜ばしいことなのかわからないが、なんだか落ち着くべきところに物事が落ち着いていて、(正しい言い方ではないかもしれないが)うれしくなってしまった。
わたしは、この話を聞いて、ここには、なによりユーモアがある、と思った。三十年もの間、休まずに「デモ」が続いている理由がわかったような気がした。一か所だけ出てくるのがなんだか唐突な印象で、その印象ゆえに印象深い、この本のキーワードの一つが「ユーモア」だろう。「弱者」はその弱点を直視するだけでなく、一歩引いたところに別の構造をもつ強さがある、と高橋源一郎は感じているのではないか。それは障害者として生きていくうえで、田中も見習わなくてはならないと思う一方で、そこに「ユーモア」を見るのは、高橋源一郎が「弱者」を外側から見つめているからなのではないか、という疑問も残る。これが先ほどから繰り返している、この本の難しいところだ。
2019年5月3日金曜日
十年の汗を道後の湯に洗え―人生最大連休遍路(8)令和元年五月三日
令和元年五月三日。きょうは道後温泉を中心に松山市内観光の日。興味のあるものをきちんと選び、情熱をもって観光するとたいへんたのしく、健康にもよい。そうしたまたアプレシオの83番フラット席に帰ってきたので、きょうの観光もこうしてすぐに報告できる。これで3泊連続アプレシオだが、明日は松山を離れる予定になっている。
朝、宿泊しているネットカフェ・アプレシオをじゅうぶんにはやく出発したつもりだったが、路面電車で道後温泉につくとすでにすごい人だった。道後温泉にはおおくの旅館ホテルの他に、いわゆる立寄り湯が3件ある。これらはいずれも早朝から開店しているのだが、いくらなんでも朝の6時から風呂に入りたがるのは田中くらいのものだろうと油断していたのだ。いちばん人気の「本館」は田中が到着した時、すでに40分待ちの列ができていて田中はすんなり諦めた。
待たずに入れたのは「椿の湯」。道後温泉に入りました、というレポートをするため、その手の欲求は満たされるが、銭湯以上でも以下でもなかった。「本館」が人気なのは、風呂に入ったあと和菓子を湯上がりに食べてととのいましたいうやつが人気だったりするらしいのだが、これにしたって並ぶのに疲れちゃって風呂に入っても疲れがとれないなんてことにならないのだろうか。風呂に入るために並ぶなんて、信じられない。そもそも田中はあらゆる行列が嫌いで、並んでまでする価値のあることなんかそうそうない、という持論を持っておる。
その田中は10時30分から昼食のための行列にならんでいた。いつもなら行列のなかにいるとイライラするか恥ずかしいかどちらかだが、「鯛飯」のためと思ったら心は平安平成令和であった。愛媛県の郷土料理「鯛飯」は、鯛をまるごと米と一緒に炊き上げる「鯛飯」と、鯛の刺身を卵かけご飯で食べるタイプの「宇和島鯛飯」の2種類に大別される。先日、民宿で食べた鯛の刺身が美味しかったので、きょう田中が狙ったのも宇和島鯛飯のほうだ。道後温泉には鯛飯の店も宇和島鯛飯の店もそれぞれ存在し、どの店も開店前から行列ができる。田中が並んだのは宇和島鯛飯の元祖名店として知られる「丸水」。たいへんおいしかった。家でまねをしてもこんなにおいしくはならないだろうとは思ったが、それでもまねをするだろう。地ビール「道後ビールのぼさん」がまたうまかった。あっさりしたビールのうまみがあった。
ところでこの「のぼさん」とは松山出身の文学者である正岡子規の愛称である。このたびの四国遍路のルートが道後温泉を通るとわかったときから田中は、そこで夏目漱石について勉強ができるのではないかと楽しみにしていた。近ごろ田中が立て続けに夏目漱石を読み出しているのは、無職で暇だから、ということなのではあるが、一方で日本の近代という時代のキーパーソンとしての位置づけに興味があるからだ。しかし、実際に道後温泉に来てみると、ご当地の推しメンは圧倒的に「のぼさん」こと正岡子規である。
きょう一日で田中はだいぶん正岡子規に詳しくなり、彼に興味も出てきた。道後温泉には「松山市立子規記念博物館」があり、ここをゆっくり、100yenの音声ガイドも借りて見学をしたら、なかなかおもしろかった。正岡子規は結核により35歳で死んでいる。若い。松山に生まれ、政治家を目指して上京、東大で夏目漱石と親友になる。ベースボールが好きになる。興味が文学に傾いていく。
雑誌記者として従軍、このとき軍医であった森鴎外とも交流がある。「写生文」なる概念また短歌俳句の革新というところにある、「型破り」志向はそのまま近代小説の目標と地続きであり、これはもっときちんと勉強したいと思った。病気になって、療養に道後温泉に帰省。夏目漱石はこの時期に松山で英語の先生をやっており、2人は2ヶ月の間一緒に暮らした。子規は東京に戻り、そのまま病気で死んだ。
松山は、正岡子規の故郷であるが、夏目漱石が英語の先生に来たり、与謝野鉄幹晶子がどうの、なにがどうのと、なんで文士の街なのか。これはひとつに江戸時代の松山藩が松平家の治める「親藩」でありもともと文化的素地がととのっていた、幕末維新期の主人公のひとり長州藩と地理的に近いことも含めて「アツい土地」であったことが大きいようだが、やはりもうひとつには松山という土地が道後温泉という温泉場であったことがかなり大きいんだろう、田中はそう思った。
子規記念博物館は、正岡子規とはまったく関係ないような、松山の歴史をふりかえるところからはじまる。するとかなり初期段階での歴史的記述の例として、聖徳太子が松山を訪れて「いい温泉だなあ」と言った、そういう漢詩を書いたという話からこの物語ははじまるのだ。夏目漱石が松山に来たのは、神経衰弱で中心からいったん降りようと、温泉での転地療養をかねてのことであったはずだ。そして正岡子規も喀血後の療養という形で松山に帰省し、学生時代の親友であったふたりは再会する。
きょうの記事のタイトルに採った正岡子規の言葉、これは東京で十年がんばって働いてきた友人が松山に帰ってきたとき「おつかれ」の意で用いた言葉だそうだが、人間は必ずしもパワーがありあまって動き回るわけじゃないんだよな、みんな病みながら生きていて、死を強く意識するから生への衝動が強くでたりとかさ、とそんなことが今日の見学の一番大きい感想だ。
田中はこれから発達障害者として障害者認定を受けて生きていく準備をしているところだ。また容態が急変するような病気ではないものの腎臓に指定難病をかかえることにもなっている。そうすると「病みながら生きていく」ということについて考えることが、さいきんすごく多い。「十年の汗を道後の湯に洗え」―そうして病人が集まったから文化的に栄えた都市、それが松山・道後温泉であるというまとめは、乱暴ではあるがそれほど間違ってもいないだろうと思う。
午後は道後温泉を少し離れて、バスで「伊丹十三記念館」に出かけた。田中が映画に興味を持った時代がちょうど伊丹十三の時代だったということだけなんだろうが、田中が唯一、すべての作品をみた映画監督それが伊丹十三で、ここに記念館があるんだわとたまたま見つけて訪問したが、これもおもしろい施設だった。一時期ものすごく興味をもっていた人だから、あまり新たな発見というものはなかったが、ああやっぱり伊丹十三のこと好きなんだなと再確認したような気分。映画もまた見返してみたくなってくる。
きょうここに書いておきたいと思ったことは、彼が発行していた雑誌「モノンクル」のことだ。ちょうど田中が生まれたころの雑誌で、実物を手にとったことはないが、この雑誌が「精神分析」をすべての記事の通奏低音にとっていたこと、タイトルがフランス語で「ボクのおじさん」という意味であること、「若い人」に向けた語りであったこと、などは、はっきり言っていま田中がココでやろうとしていることにかなり近い。一時期ツイッターで主語を「おじさん」にしてみていたことがあった田中は、まさしく「モノンクル」的に語りたかったのであるあのとき。
やはりなんだかんだで、年はとるもんなのであり、田中はけっきょく結婚もせず子供もいないから、ではどうやって人類の未来に貢献してから死んでいくかということを、これも最近すごく考えるのだ。だから、おじさんの言うことが、いつか、数万年後でもよいので、誰かの役に立てばよいなあということで、このようにインターネットのゴミを産出し、この貝塚を構築しています、と前にも書きましたね。そんなこともきょう改めて感じたことだった。
それにしても伊丹十三はなぜ死んだのか。そこが完全に記念館でも空白になっている。いつかこの記念館でそのことをきちんと取り上げる日がきてよいのではないですか、というふうに思ったことも最後につけておく。
朝、宿泊しているネットカフェ・アプレシオをじゅうぶんにはやく出発したつもりだったが、路面電車で道後温泉につくとすでにすごい人だった。道後温泉にはおおくの旅館ホテルの他に、いわゆる立寄り湯が3件ある。これらはいずれも早朝から開店しているのだが、いくらなんでも朝の6時から風呂に入りたがるのは田中くらいのものだろうと油断していたのだ。いちばん人気の「本館」は田中が到着した時、すでに40分待ちの列ができていて田中はすんなり諦めた。
待たずに入れたのは「椿の湯」。道後温泉に入りました、というレポートをするため、その手の欲求は満たされるが、銭湯以上でも以下でもなかった。「本館」が人気なのは、風呂に入ったあと和菓子を湯上がりに食べてととのいましたいうやつが人気だったりするらしいのだが、これにしたって並ぶのに疲れちゃって風呂に入っても疲れがとれないなんてことにならないのだろうか。風呂に入るために並ぶなんて、信じられない。そもそも田中はあらゆる行列が嫌いで、並んでまでする価値のあることなんかそうそうない、という持論を持っておる。
ところでこの「のぼさん」とは松山出身の文学者である正岡子規の愛称である。このたびの四国遍路のルートが道後温泉を通るとわかったときから田中は、そこで夏目漱石について勉強ができるのではないかと楽しみにしていた。近ごろ田中が立て続けに夏目漱石を読み出しているのは、無職で暇だから、ということなのではあるが、一方で日本の近代という時代のキーパーソンとしての位置づけに興味があるからだ。しかし、実際に道後温泉に来てみると、ご当地の推しメンは圧倒的に「のぼさん」こと正岡子規である。
きょう一日で田中はだいぶん正岡子規に詳しくなり、彼に興味も出てきた。道後温泉には「松山市立子規記念博物館」があり、ここをゆっくり、100yenの音声ガイドも借りて見学をしたら、なかなかおもしろかった。正岡子規は結核により35歳で死んでいる。若い。松山に生まれ、政治家を目指して上京、東大で夏目漱石と親友になる。ベースボールが好きになる。興味が文学に傾いていく。
雑誌記者として従軍、このとき軍医であった森鴎外とも交流がある。「写生文」なる概念また短歌俳句の革新というところにある、「型破り」志向はそのまま近代小説の目標と地続きであり、これはもっときちんと勉強したいと思った。病気になって、療養に道後温泉に帰省。夏目漱石はこの時期に松山で英語の先生をやっており、2人は2ヶ月の間一緒に暮らした。子規は東京に戻り、そのまま病気で死んだ。
松山は、正岡子規の故郷であるが、夏目漱石が英語の先生に来たり、与謝野鉄幹晶子がどうの、なにがどうのと、なんで文士の街なのか。これはひとつに江戸時代の松山藩が松平家の治める「親藩」でありもともと文化的素地がととのっていた、幕末維新期の主人公のひとり長州藩と地理的に近いことも含めて「アツい土地」であったことが大きいようだが、やはりもうひとつには松山という土地が道後温泉という温泉場であったことがかなり大きいんだろう、田中はそう思った。
子規記念博物館は、正岡子規とはまったく関係ないような、松山の歴史をふりかえるところからはじまる。するとかなり初期段階での歴史的記述の例として、聖徳太子が松山を訪れて「いい温泉だなあ」と言った、そういう漢詩を書いたという話からこの物語ははじまるのだ。夏目漱石が松山に来たのは、神経衰弱で中心からいったん降りようと、温泉での転地療養をかねてのことであったはずだ。そして正岡子規も喀血後の療養という形で松山に帰省し、学生時代の親友であったふたりは再会する。
きょうの記事のタイトルに採った正岡子規の言葉、これは東京で十年がんばって働いてきた友人が松山に帰ってきたとき「おつかれ」の意で用いた言葉だそうだが、人間は必ずしもパワーがありあまって動き回るわけじゃないんだよな、みんな病みながら生きていて、死を強く意識するから生への衝動が強くでたりとかさ、とそんなことが今日の見学の一番大きい感想だ。
田中はこれから発達障害者として障害者認定を受けて生きていく準備をしているところだ。また容態が急変するような病気ではないものの腎臓に指定難病をかかえることにもなっている。そうすると「病みながら生きていく」ということについて考えることが、さいきんすごく多い。「十年の汗を道後の湯に洗え」―そうして病人が集まったから文化的に栄えた都市、それが松山・道後温泉であるというまとめは、乱暴ではあるがそれほど間違ってもいないだろうと思う。
午後は道後温泉を少し離れて、バスで「伊丹十三記念館」に出かけた。田中が映画に興味を持った時代がちょうど伊丹十三の時代だったということだけなんだろうが、田中が唯一、すべての作品をみた映画監督それが伊丹十三で、ここに記念館があるんだわとたまたま見つけて訪問したが、これもおもしろい施設だった。一時期ものすごく興味をもっていた人だから、あまり新たな発見というものはなかったが、ああやっぱり伊丹十三のこと好きなんだなと再確認したような気分。映画もまた見返してみたくなってくる。
きょうここに書いておきたいと思ったことは、彼が発行していた雑誌「モノンクル」のことだ。ちょうど田中が生まれたころの雑誌で、実物を手にとったことはないが、この雑誌が「精神分析」をすべての記事の通奏低音にとっていたこと、タイトルがフランス語で「ボクのおじさん」という意味であること、「若い人」に向けた語りであったこと、などは、はっきり言っていま田中がココでやろうとしていることにかなり近い。一時期ツイッターで主語を「おじさん」にしてみていたことがあった田中は、まさしく「モノンクル」的に語りたかったのであるあのとき。
やはりなんだかんだで、年はとるもんなのであり、田中はけっきょく結婚もせず子供もいないから、ではどうやって人類の未来に貢献してから死んでいくかということを、これも最近すごく考えるのだ。だから、おじさんの言うことが、いつか、数万年後でもよいので、誰かの役に立てばよいなあということで、このようにインターネットのゴミを産出し、この貝塚を構築しています、と前にも書きましたね。そんなこともきょう改めて感じたことだった。
それにしても伊丹十三はなぜ死んだのか。そこが完全に記念館でも空白になっている。いつかこの記念館でそのことをきちんと取り上げる日がきてよいのではないですか、というふうに思ったことも最後につけておく。
2019年4月18日木曜日
平成最後の災難(令和の奇跡)
なぜ失業認定日を間違えるなんてことが起こったのか。失業保険はその申し込み日によって「型」というものが決定し、その「型」ごとの失業認定日が向こう一年間にわたって最初に決定してしまう。田中は「3型ー木」という人なので、もう失業認定日は会社をやめた昨年11月の時点で今年の11月まで全部決まってあるのだ。田中はその日付を全部スケジュール帳に書き込み、そのスケジュール帳は毎日見ているから、忘れるはずはないのである。
ところが、全国共通のこの「型」による失業認定日は、各ハローワークの都合で「繰上げ認定」という形での変更がかかることがあるのだった。今月、ハローワーク八王子は、平成の終わりから令和のはじめにかけての巨大ゴールデンウイークの前に忙しくなると嫌なので「繰上げ認定」を使っていたのである。先月の認定日、そのことの説明があったはずだ。それをスマホのスケジュール帳に反映した、つもりでいたのだった。
認定日をすっぽかした場合、たとえば親が死んだ、たとえば就職活動(面接)の場合、などそれが証明できる書類をもって後日ハローワークに行けば、問題なく失業保険が下りる。しかしそれ以外の場合、失業保険は下りない。それはそれは厳しい世界なのだ。田中も今月は1ヶ月お金をもらえないことになった。ありえないことだが仮に5月11日までずっと忘れていたとしたら、もう永遠に失業保険が下りないというところであった。
今月もらえない分はいつもらえるのか。と窓口で聞く。もう無理なのかと聞けば「来月以降に受給できる権利は持っています」。わかりにくい。そのまま放り出されたので、次に障害者窓口に行くからそこで詳しく聞いてみようとおもったら、障害者窓口の人間は「まあたいへん大丈夫でしたか」とすっとんきょうな質問をしてくるばかりで、何も知らない。もうええからさっさと相談のハンコ押してくれやいうて、もういちど給付課に戻って説明を詳しくしてもらった。ほんとうにあの障害者窓口は役にたたねえ。ハンコ押すだけなら俺にやらせろと田中は毎月思っている。
「来月以降にもらう権利を持っている」とはいったいどういうことなのか。失業保険を使う際のパスポートにあたるような書類、それは「雇用保険受給資格者証」であり、ここには失業保険に関して大事な数字が2つ書いてある。ひとつは「受給期間満了年月日」であり、これはどんな人でも退職した日の1年後の日付が書かれている。パスポートの有効期限にあたる。もうひとつは「所定給付日数」。これは勤続年数、年齢、田中のように障害があるかどうか(精神病で辞めたかどうか)などにより決定され、田中は300日だ。
毎月認定を受けると「残日数」が印字されていき、これが「0」になったとき失業保険の給付が終わる。今回認定を受けなかった田中は「残日数」が減らなかったということになり、簡単にいえば今回もらえなかった期間分が後ろに一ヶ月ずれた、というかたちになる。有効期限365日のパスポートだが、実際に権利を持つ日は300日である。このとき30日分の認定を受け忘れた。4月にもらえなかったぶんは、実際にはもらえないはずだった11月にずれたのである。よかったですね。
もう一度こういうことがあると、たぶん後ろにずれたとしてもパスポートの有効期限を越えてしまうので、完全に金をどぶに捨てることになる。今回の場合、幸い田中には1ヶ月を耐えるだけの貯金があり、後ろにずれても期限内だったので、なんとかなる次第である。またはやく就職が決まった際なども「再就職手当」の基準が甘くなるなどあるから、もし貯金がたくさんありそして給付日数が少ない方は、この方法を利用すれば最終的な収支がプラスになる可能性もあるのではないか?ないか?わからないので、みなさんそれぞれの場合にあてはめて考えてください。
田中は1ヶ月お金がもらえないというのは悲しいが、その分1ヶ月考える時間が増えたとも思っている。とはいえもらえると思っていたお金がもらえないというのは相当なショックで、きょうは就労移行訓練で習った手順でハローワークの求人検索をして一日過ごそうと思っていたが、あまりのショックで家に帰り一日中ずっと寝ていた。こんなに疲れがたまっていたのかというくらいに目覚めたいまは快調で、ショックにもよい側面はある。ショック療法という言葉もある。
ゴールデンウイークは旅行に行く予定で、もう切符をとってある。もし切符を取っていなかったらこのことでやめにしていた可能性もある。しかし切符を取ってあるしもともと究極の貧乏旅行としての四国遍路を計画していたところなので、予定通りに行ってみようと考えている。合羽を新調しようと思っていたがそれはやめにしてずぶぬれで歩く。太りすぎているので、お金がなくなってたくさん歩いてちょうど痩せるかもしれないからうれしい。
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