2019年1月31日木曜日

写真はカメラで撮るものだった


おととい(火曜日)の夜、きのう(水曜日)のお昼ごろ、と2度にわたって旧居住地の甲府で用事があり、通常ならば国道20号線で一本なのですがその風景には最近もはや飽きてしまっています。東京都日野市南平から出発したクルマは八王子で左に折れて、八王子から厚木、平塚、小田原と進み、火曜日の日中は小田原で過ごしまして、夕方から箱根、御殿場、富士吉田、御坂で、甲府でした。水曜日の帰りは疲労困憊で中央フリーウェイ。

この移動の間ツイッターの更新がほぼなかったのはスマホの調子がさいあくだったからです。しかしいまはなにが最悪だったのかわからないほどけろっとしています。かばんの中に入れていた読みかけ本の著者、橋本治の死去のニュースをリツイートできませんでしたがそれほどのツイ廃でもないのでまあ、壊れたら壊れたで東京都日野市南平に帰ってから修理業者をさがしましょうと。そしてスマホは本来電話であるわけですが電話をかけるような場所もないのでそんな困らないといえば困らないんです。が現代のスマホはカメラでもあるのでした。ケータイにカメラ機能がついている機種といない機種とがあった時代を知っているおじさんはまた昔話もしたくなるのですが、それはとりあえずとして、この2日間のスマホ故障期間において私は、写真が撮りたかった。



国道20号線をふらっとはずれてみたものの、とちゅうからは明確に小田原を目指しておりもっといえば小田原競輪場を目指していました。私が前回小田原に行ったのはちょうど一ヶ月前、競輪グランプリ静岡を本場で完全に外した翌日2018年12月31日のことでした。小田原に寄って小田原競輪場を見てかえろう、あるいはスーパー銭湯があるからここに入ろう、みたいな計画で小田原駅に降り立ったものの、競輪グランプリを十数年連続ではずしたショックは大きくドンキホーテ小田原店を見て歩いたあとは駅前の喫茶店で内職の文章を書くだけしてかえってきたのでした。

そのリベンジとして旅行気分が満載で出かけた小田原だったのでスマホがないとなると写真がとれないのが残念だなあとおもったのです。スマホがどれだけかわっても私の撮った写真はすべてgoogleフォトにならんでおり、昨年のミニマリズム運動の際にはスキャナを購入してなんだかよくわからないパンドラの箱的なやつのなかに入った写真も全てスキャンして捨てました。ですので相当昔のフイルムで撮った写真もたとえば修学旅行のクラスの集合写真とかもいまは全部googleフォトにならんでいます。googleフォトはたまにどういう拍子か知りませんが「一年前のきょうの写真」とかぶっこんできたりするのもたのしいですよね。記録と記憶のために私は小田原の写真をできればとりたいと思ったのです。



そこで私がぱっと思いついたのが「写ルンです」でした。若者たちが「写ルンです」をおもしろがっているというニュースを聞いていたので。おじさんは子どもの頃「写ルンです」で写真とってましたから実際に。若者には負けていられません。たぶんこないだ行ったドンキホーテに行けば売ってるでしょう「写ルンです」。小田原競輪場に着いたのは9時半くらい。無料駐車場にとめましたら10時開門までの暇つぶし感覚でドンキホーテ方面に向かって歩き始めました。らば、商店街に写真館がありまして、外からのぞいたら「写ルンです」が大量にぶらさがっているのです。27枚どり900円。この写真館なら現像もしてくれるそうですが、まあ現像は何処でもできますよだってフジフィルムが売ってんすから。仮に現像場所が見つからない場合はまた小田原に来ればいいや。


ということで小田原の写真は「写ルンです」で撮ってきました。「写ルンです」のパッケージを開けたときのあのにおいがまずナツい。それでシャッターを押す音がとても静かだなあと思いました。

スマホのシャッター音のデカさって恥ずかしいですよね。盗撮とかしませんから静かにしてくれないかなあ。とアプリで「無音カメラ」とかありますから使ってみた時期もあるんですが、こんどはシャッター音がしないことに犯罪的な羞恥心があるのです。写真をとること自体が自意識過剰なことでだから恥ずかしくてもしかたないのかなあと思っていたのですが、このたび「写ルンです」で写真を撮っているときには、その手の恥ずかしさが一切無くて、私が驚いたのはそのことでした。

写真をカメラで撮るとき、カメラを構えて画角の構成をきちんと点検してなにしろ小田原できょう撮れる写真は27枚しかダメなんですからねとやっているとほんとうに真剣にやらなくてはならず、恥ずかしがっている暇なんか無いのです。この構えるのに持ちやすい厚みがまたいいですね「写ルンです」。スマホはカメラのように構えるには薄っぺらすぎてなんか気取っているふうになるのが恥ずかしいのかなあ。なんなんでしょう。

また「写ルンです」でとるのもいいし、ちゃんとしたカメラを買ってみるのもたのしいかもなあ。スマホのカメラ機能に自主規制をかけて、写真家になる月間をつくるなど。写真をたのしんで撮る方策をなにか得たいと感じながら。小田原の商店街、小田原城、そして小田原競輪場の写真を27枚とってきました。

まだ現像に出していませんが、計画としては現像から帰ってきた写真をスキャンして捨ててやろうかと思っています。写真を撮るのはたぶん好きですが写真がたまるのは嫌いなので。じゃあ何のためにフィルムでとるの?デジカメは?などなど私にあった手法をしばらく考えていく予定です。



この記事につけた写真(「写ルンです」以外)は2000年代のはじめ、20代なかばだった私が当時持っていたトイカメラでフイルム撮影した写真、を昨年アルバムからひきはがしスキャンしてgoogleフォトに並べたものです。実物は捨てました。このたびの小田原の写真もいつか公開したいと思いますのでたのしみにしていてくださいよろしくおねがいします。

2019年1月28日月曜日

暖房――安物買いの安物買いについて

日本国民は賃貸の住居を選ぶにあたって「エアコンがあるかどうか」を先日まで気にしていたはずでしたがいまやエアコンなんてどの賃貸にもあるようになりました。SUNRISE日本ですね。

嵐が解散いや活動休止になるというニュースを見て、そうだ私はマツジュンが会見で言ってた10年前のベストアルバム持っているんだったと、クラウドを検索してきょうはいちにち嵐を聞いていました。さすがにシングルは買ったことがなかったですが。

私はすっかりおじさんだと思っていたら大野くんと同い年だときょうのきょう気づきました。いちいちどの曲も懐かしくて懐かしい懐かしい言うていました。ツイッターでもここでも一人称を「私」で通してるんですが、きょう嵐について書いたときだけ思わず「ぼく」と言ってしまいました。


嵐はともかくエアコンの話でした。私が引っ越してきた東京都日野市南平の賃貸アパートにもボロボロの黄ばんだ霧が峰がついており、引っ越してきた当初はエアコンをつけてあたたかいあたたかいとよろこんでいました。

しかし私は窓のすぐ外を電車が通っているのに窓をふさぐためのカーテンを購入するのはもったいない乾燥機もあるしと窓を完全に本棚でふさぐことにしたのです。家の中は一日中真っ暗なのですが我が家にはうつ病治療のための人工太陽装置がありますので光はオーケー大丈夫です。

ところがエアコンのすぐ下に本棚が来ることは想定されていないようで、風向きをどうやってもエアコンの風は明らかに部屋に行き渡らなくなり、本棚の天板がカンカンに熱くなるようになりました。これはもう霧が峰をやっても電気代が無駄なだけとなりました。通常なら霧が峰のために本棚を移動するのが本筋かもしれませんが、私にもう本棚を移動する気力は残されていませんでした。

エアコンのコンセントを抜きエアコンのブレーカーを落としました。どんなアパートでも部屋全体のおおもとブレーカーがあり、その下の位のブレーカーのうちひとつは必ず、エアコン専用のブレーカーというのがあるのです。エアコンはそれだけ電気をたくさん使うということですからもう霧が峰ストップとなりました。



そこで近所のリサイクルショップにでかけて買ってきたのが、この2000円のセラミックヒーターです。このリサイクルショップでいちばん安い暖房器具でした。セラミックヒーターは競輪場でおなじみですね。電気で金属板をちんちんに熱くする機械です。パソコンデスクのふもとに置いておくとこれがちょうどよい感じで気に入っていました。しかしわずか3週間ほどで昨日お亡くなりになったのです。スイッチーをいれても電気が通わなくなりました。このセラミックヒーターは2000円で買うにあたり電気は通りますがいつこわれるかわかりませんよと保証はおつけできませんよという意味で2000円ですよとそのように買ったものでしたからまあ仕方ないということになるでしょう。

きのうセラミックヒーターが故障して、さあきょうはまた寒いわということで同じリサイクルショップに出かけて今度は3500円でこのなんていうんでしたかジャギジャギしたかたちの暖房器具を買うてまいりましたのです。オイルヒーターか。今度の器具は3500円で3ヶ月以内に壊れたら返金しますというので安心ですね。この冬はこうして凍死を免れました。


「安物買いの銭失い」という言葉が思い浮かぶわけですが私はそうは思わないねという話がきょうの本題です。2000円の器具が壊れて次に3500円の器具を買いましてこれで5500円でしょう。それでよいではないですか。さいしょから20000円だか30000円の新品の器具を買ってそれをいったい何年使うかもしれないのに! 中古の安物を買うほうがどれだけ賢いかしれません。安物買いというのはイニシャルコストを倹約する方法なのです。「安物買い」が「銭失い」なら高いものを買ったら「もっと銭失いでしょう」ちがいますか。え?

というようなコスト論はもっときちんとした言葉で内職で売文したので、きっといつかインターネットのどこかで有益な情報として取引されることでしょう。お役に立つ情報を文章化するとお金になりますということで私は文章を売り、それを売るだけじゃもったいないから自分のブログを持っていたらもっともうかりますよとみんながいうからこうしてブログを書いています。ぶっちゃけこのブログに広告を貼り付けて儲けようとしているのです。

あの商品のような体裁で目次をつけたりなんだりしたら儲かるらしいと思いながらもしかし私はああいう文章を書くのは仕事だけでいいやと。また競輪のはなしとか書いたらダメな人として認定される可能性がありそうするとブログに広告が貼れなくなるらしいのですがもうそんなんどうでもいいやただブログで日本語を垂れ流すことに決めました。それが気持ちがよいからです。おやすみなさい。

2019年1月27日日曜日

東京都日野市南平競輪愛好会活動報告


無職のおじさんはなんだかんだで忙しく暮らしております。失業保険が減額されない程度の内職をして少しの金を得るとともに知らない知識をどんどん溜め込んでいます。溜め込んだ知識はどこだか私の知らない場所で公開されインターネットの肥やしとなっています。インターネットの肥やしとなった代金を得ているのだと思うとよろこばしい思いがします。がこの内職は知識の収集をする趣味としておこなっているのです。発達障害者である私はこのようなフリーランスで生きることも場合によっては仕方ないと思いつつも、もういちどきちんと会社員をすることのほうに目標を置いています。ただ自分勝手に生きているだけの人生に果たして意味があるだろうかと、これはいろいろご意見もあろうところでしょうが。

一方で私は仕事をしていようがいまいが競輪観戦という公営ギャンブルが好きで、他のギャンブルはしないし興味がわかないので競輪選手はかっこいいなあとか自転車競争はたのしいなあとか競輪というもの自体に魅力を感じていることは間違いないのですがしかし、いましている内職とくらべたら競輪のほうがマネー目的が高いような感じがします。やはりそこは身銭を切っている以上真剣勝負となります。でも仕事ではなく娯楽であるわけですから、とつまり「たのしいこと」と「マネーを得ること」の関係についてもまた、考えるところが多いですね。

内職をやりはじめるといくらでも続けてしまうので、きょうは日曜日だし一日お休みにして競輪を見ましょうと何も考えず立川競輪場まで車で出かけたのですが立川競輪場に到着しましたら立川競輪場がお休みでした。そんなことがあるのです。きょうは松坂記念競輪G3の決勝戦の日なんですよ。そんな日曜日に休みますかなんで休むんですか? 

私がこれまで暮らしてきた土地ではそんな競輪大会の大事な時に休む場所がなかったので大変驚きました。富山競輪場は別の競輪場の券を毎朝7時15分から販売していましたから毎朝それを買ってから会社に行ったりしていました。こないだまで住んでいた山梨県は競輪場のない県ですが家のすぐ近くにある場外車券売場「サテライト双葉」は毎日日本全国どこかでしている競輪大会を見ることができ、競馬競艇オートレース競輪の公営4競技の券が一箇所で全部買えるというたいそうファンキイな施設でした。なんで立川競輪は開けば私のような無職のおじさんが集まるのにきょう閉鎖していたのかさっぱり理屈がわかりません。

立川競輪場近くのセブンイレブンに車を止めて、私の住んでいる東京都日野市南平から一番近い立川競輪場、の次に近い京王閣競輪場は開いているだろうかと調べてみたら開いていました。しかし京王閣競輪場の駐車場は1日800円~1000円かかるというのです。これもまた私にしてみれば驚きです。1月のはじめに立川競輪場で大きな記念競輪大会があることは競輪ファンなら誰でも知っているところ、私も引っ越してきてすぐ立川競輪場に特に意識もせず車で出かけたのでしたが立川競輪場の駐車場は無料なのです。そりゃあそうです富山競輪場だってサテライト双葉だって他にも車で行ったことのある競輪場は多いのですが伊東温泉競輪とか奈良競輪とか高知競輪とかいままで行ったところで駐車場で金を取られたことはなかったはずです。

だって競輪場には金儲けに行くのです。金儲けに行ってハムカツを食べてこのハムカツ代は私が労働した分で食べているのかそれともさっきのレースが当たった金で食べているのかとすっかり迷ってしまうこともしばしばです、が、ハムカツならまだしも駐車料金なんて払えるわけがありません。駐車料金をはらって予想がひとつも当たらなかったらとても笑えません。駐車料金を払って予想が当たって駐車料金がペイされたところでなんやねんということになるでしょう。そもそも立川だって京王閣だって車でなくても自転車で行けばよい距離かもしれませんが、きょうは休みと決めていたので京王閣競輪にきょう行くのもやめになりました。きょうの朝少しだけ頭をよぎっていたのです、立川競輪場まで自転車でいってみようかと。それで立川競輪場が休みだった時のことをかんがえたらもう私は競輪ファンをやめたかもしれないので、自転車で行ってファンをやめたほうがおとくだったかもしれないなあと思いました。

そんなこんなで競輪に集中する一日にするのはやめてスーパーで買い物をしてから家に帰り、インターネットで中継を見ながら投票をしたのは9、10、11、12の4レースでした。8コも投票せずにやり過ごしたのでおとくでしたね。9レースは近藤たつにいがあんな離れるかねとは思いましたが、伏見と林雄一が2番9番の「ニク」で来そうなレースでもあり、柴崎あっくんは外せないだろうと、こんな感じで買いましてさっそく的中。
10レースかなり人気が割れていて買いづらいことこの上ないレースでした。やはり2小倉9井上というのは別線ながら展開的に途中でならびそうなふたり。そして2929ボーイズ(松坂は各レース2番車9番車が強い人になることが多くまた29歳の競輪選手を優遇するという牛肉にとりつかれた競輪場です)の3ほりうちくんが気になるところでした。やっぱりほりうちくんは最後すごかったんですが、8かわむらこうじの番手まくりがそんな信用できないわと思った私ははずしました。松坂牛にとりつかれていたのはどうやら私のほうでした。買いすぎです。
11レース。これは順当にいけばわたなべゆーたというレースですが、今大会いまいちに見えましたからちょっと買いづらいなと。それで出走表をみていたら、これはもしかするとついさっきの10レースの836がもういちどくるんちゃうのん、と普段こういうことはあまりしないのですが、836をもう一度買ってみたりしました。8がまた番手まくりでほーらと思いましたが思っただけで当たりませんでした。
最終12レース決勝戦。地元ということもあり浅井康太に人気が集まるレースですが、それこそ立川記念で清水ひろとくんに負けるようじゃあなあと思ってでも外せはしないでしょうと竹内もいちおう。だけどほんとにこの大会で調子がよかったのは村上ひろゆきと野田源ですねということで、もうこれはわれながらおみごとな予想でした。大正解です。あそこでいつもならひろゆきのコースで野田源が走ることも多い印象があります。私の予想はむしろそっちの可能性のほうがある気がしていて、野田源が優勝ならけっこういい配当になるわえと思っていましたが、やはりこの大会はひろゆきのほうが調子がよかったということになります。調子がいい人はああやって外側をまわっても届くのです。それに対してイマイチの人はウチにさしこみます。野田源と浅井はそうしてからんでいましたね。
ということで松坂記念競輪はむらかみひろゆきが優勝となりました。表彰式で観客の中にこどもがいたようで「よかったねー」とこどもが大声でさけび、ひろゆきがこどもに手を振っているのをみて、ああ競輪ってほんとうに素晴らしいですねと無職のおじさんは泣いていました。きょうの投資は5100円、払い戻しが23090円、よい日曜日となりました。それではまたお会いいたしましょう。明日もまた涙を拭いて生きていきたいと思います。それではさようなら。

2019年1月25日金曜日

愛妻家のコンテキスト



仕事をやめた昨年秋から、私は無職のおじさんをやりつつ、放送大学生(選科履修生)となったのでありました。次の仕事は、発達障害者として脳の特性を研究したうえで、もう最後まで変わらない仕事を見つけるので、時間をかけて選ぶことにしており、そうしたらきっと暇でしょうということで、放送大学生になったのです。

放送大学は4年間で卒業を目指す「全科履修生」のほかに、1年間(2学期)の間好きな科目をチョイスして学ぶ「選科履修生」、半年間(1学期)だけの「科目履修生」の3種類があります。私は暇つぶしのカルチャーセンターなので「選科履修生」をしていますが、それでもいちおう大学生扱いになり、たとえばマイクロソフトofficeを学割で買いましたし、アマゾンプライムも放送大学生の割引を利用しています。



さて、そんな大学生の無職のおじさんも、きょうからは期末テスト期間となりまして、きょうは一科目「問題解決の進め方」という科目のテストを受けてきました。私は東京都日野市南平に引っ越してきたのですが、放送大学の所属校舎(学習センター)は学期ごとの変更しかできず、今学期の期末試験は山梨学習センターに受けに行かないとなりません。放送大学はもちろんのこと、病院関係などなどしばらく山梨に通わなければならない私は、それもあって国道20号線(甲州街道)に便利な東京都日野市南平に住むことになったのです。

放送大学の期末試験は外部に流してはいけないものだそうなので、詳しくは書きませんが、きょうの「問題解決の進め方」は教科書持ち込み可でマークシート部は楽勝であるものの、論述問題がマジで問題解決してみやがれちきしょーいう問題でこれはもう解きながらドキドキワクワクしてニヤついてしまいましたね。こんな知的興奮は久しぶりに味わいました。なにしろ私は学校の勉強が大好きだったのです。次の仕事が決まっても放送大学生は死ぬまでしていく予定です。



「問題解決の進め方」という授業で私がポイントと感じたことは、ツイッター田中はにわ@mrhaniwaで今日の朝、復習生中継をしたのでそれも見てもらいたいですが、ここにひとつだけ繰り返してみると、問題解決のためにはコミュニケーション能力が必要ですよ、という就活論みたいな話が出てくるんですねこの教科書には。

そしてコミュニケーション能力とはなんですかいうていくつかポイントが語られるそのひとつにコンテキスト能力ちゅうのんがありますと。他には行動力とか情報の受信と発信の力とかがコミュニケーション能力なんですが、これはあくまで私の感想でしょうけれど、日本の(しゅーかつの?)コミュニケーション能力って、コンテキスト能力でしょうほとんど。ソンタクってやつ、建前を重んじる力です。

というふうに私はすぐに黒い発言をしてしまいます。私にはコンテキスト能力が圧倒的に欠けているのです。場の空気が読めない、言わなくてよい本音を常にぶっちゃけ続ける。これもまた発達障害なるものの典型的症例と、私は了解しています。訓練してなおしていくべきなのでしょうか。そもそもなおるんでしょうか(なおらないですたぶん)。いまこの文章は「黒いわァ」いうて書いていますが、黒くならないようにならないようにぃぃいうてしてきた、この前の仕事で私はいつのまにか散々誤解され、それにずっと気づけなかったのです。だから次はそんな頭のおかしな人でも働かしてくれる場所を探そうとしています。

試験を受け終えて国道20号線で家に帰ってくる間、クラウドにぶちこんである音楽をカーステレオで聴きながら帰ってきました。映画「何者」の主題歌はシューカツ的なるものへのここに書いたような考えを再びよみがえらせ、しばらく何度も繰り返し流しました。そのあとはコンピュータが自動で「似ている」と判断した曲を次々と流していきました。ああこんな曲もあったなあなどと自動DJに選曲をゆだねて運転を続けていたら、久しぶりに聴いた曲がなんだかとてつもなく美しく感じられ、涙が止まりませんでした。


椎名林檎「愛妻家の朝食」は、いまや日本を代表するsingerとなった彼女が、怪しげなコスプレをしていた若い頃そのヒットの連続のさなかに突如として妊娠結婚を発表し、産休的にメディアから姿をくらました時期のシングル「真夜中は純潔」に収録された作品です。「真夜中は純潔」は妊娠にいたる性行為を、「愛妻家の朝食」は新婚生活を、と私小説的に見えるテーマでありながらも、幾重にも読みを張り巡らせた作品には、当時から圧倒されていました。

「愛妻家の朝食」の歌詞は、幸せな新婚生活を語った後、「ところで」という疑問が提示された後に一気に暗転しています。私は椎名林檎とほぼ同世代なので、椎名林檎が当時若かったようにおじさんも当時は若かったのですが、その当時の私はこのひっくり返し方の文学性みたいなものを素晴らしい作品だと思っていました。実生活で愛に突き進む彼女が、前半で語られている愛を「わざとらしい」とひっくり返す、その文学性に惹かれていたのです。

が、これは文学なんだろうか、ときょう聴いたときにはじめて思ったのです。わざとらしくない愛なんてあるのでしょうか、と。本音でしか語ることのできない、コンテキスト力のない発達障害者には、愛のコンテキストが否定されるさまが当時、さぞかし痛快だったのです。しかし、おじさんになったいま、そのわざとらしいコンテキストが、素直に美しくてうらやましくて、涙が止まりませんでした。成長したのか、ただおじさんになったのかよくわからんのですが、というお話でした。

2019年1月22日火曜日

ビジネススーツと近代のエロス


発達障害者用の就労移行支援事業、その利用待ちの列に並んで1ヶ月ほどになるのでしょうか。まだ連絡はありませんが、はじまったら毎日そこに勉強に行くので、いまのように毎日遊んで暮らす日々は、そう長く続かないでしょう。新しい仕事が何になり、何処で働くのか、まだ何にも決まっていませんが、そのなかですでに決まっていることは、「事務職をする」、ということだけです。

就労移行支援を通じて、数百種類の「事務職」体験の中から、私の狂った脳のなかでも仕組みがよくできているらしい箇所をさがし、その部分のみを切り出してできる、逆に言えばそれ以外のことはなにも気にしなくてもよい、そんな仕事にたどり着く計画です。仕事に関するイメージはまだぼんやりとしかなく、こないだ体験日にやった、システムダウン緊急時の勤怠管理表データの手入力、というワークは、ただひたすらにキーを打つたのしい仕事でしたが、「事務職」にはこの他にも多種多様な「事務職」があるのだと言います。実際にこの施設に通い始めたら、午前中は自分の脳に関する研究、午後はさまざまな種類の模擬仕事をしながら、次の正式な仕事を探していくことになります。

そんな「事務職」をするようになったら、施設に通う服装はカジュアルでよく、また実際の職場にも服装自由な場所というのがある程度には存在するらしいのですが、かなりの確率で「スーツ」を毎日着るようになるのではないかと、さいきんスーツという服に興味が出てきて、紳士服のなんとかに行ったり、スーツなんとかに行ったりしてみています。また街でもスーツを着た会社員のファッションチェックを勝手におこなって、自分が着るときにたのしくなるように計画をしています。


先日、帝京大学の図書館に行って借りてきた、アン・ホランダー『性とスーツ』は、ジャケットにスラックス、ワイシャツにネクタイという服装がどういうふうにできてきたのか、という歴史の本です。それによりますれば、現代の男性ビジネススタイル、それは20世紀初頭の四半世紀のモード、すなわち「モダニズム(近代主義)」に決定されたものです。直線による身体のデザイン(縫い目の明示と実際の体型の隠蔽)、また材料の質感重視で布の色彩は排除する、というスーツスタイルのデザインは、建築の世界におけるコンクリート打ちっぱなし・むき出しの鉄筋・ガラスの強調、また写真の世界における白黒表現の流行と同調したものであります。

他分野表現との横並びでスーツという表現を見ると、以上のようになりますが、前時代の服装との比較で見ると、より端的に、スーツは「隠すことがエロい」服である、ということができます。スーツ以前の表現において、たとえばお腹のふくらみ(太っている)ことが強調されて裕福さを象徴するようなデザインがとられていたものが、スーツの時代では体型を画一化する方向に動いています。またもっともアケスケなことを言ってしまえば、スーツ以前の男性服においては、股間の「もっこり」が強調されるデザインが常にとられてきたのに対して、スーツのジャケットは股間を絶妙に隠す丈をもち、そして長く立派な性器の象徴的表現としての「ネクタイ」が誕生しているというのです(ほんまでっか?)。

先日、ツイッターでも書いたことですが、有名Youtuberの「はじめしゃちょー」がこの正月、「2019年一年間は動画内で常にスーツを着用する」という宣言をし、彼の一味である「はじめしゃちょーの畑」のメンバーにも全員、スーツ着用を強要する日々が続いています。ここまで書いてきたように、このところスーツのことを考えていたところだったので、この話題についてもずっと考えていました。

「はじめしゃちょー」は2017年、三股だか四股だかの浮気騒動というのが、テレビのワイドショーでも取り上げられるほど話題となりましたが、その際にはスーツを着て謝罪動画なるものをアップしました。今年年頭の「スーツ宣言」において、この話題は直接的ではないものの、しかし明らかに当てに行くように、本人から語られています。「youtuberがスーツを着て動画に出るのは謝罪するときだけという常識を壊したい」というふうに。

が、そんなふうに浮気をごまかすことが目的とは思えない(なにをいまさら)わけで、では彼(ら)がスーツを着ることによって、どんな効果が生まれるのだろう、ということを考えたとき、このただふざけているだけの動画も仕事です、とか、しゃちょーらしくスーツなのかな、とかいろいろ考えるなかで、おそらくはじめしゃちょーは「スーツこそエロい」という服飾史上の事実に気づいて目をつけたのではないか、と私は考えるに至りました。

私が「はじめしゃちょー」の動画をそれほど見ない理由は、彼が常に女子の視線ばかりを意識しているように見えるからで、なにかにつけて彼は女子にもてようもてようとしています。もてようというか、「はじめしゃちょー」ほど自身の裸をネタにしてきたyoutuberはいない、でしょう。「はじめしゃちょーの質問コーナー」動画の過去を振り返れば、そのたいていにおいて彼は全裸になっており、また「はじめしゃちょーの畑」の第一回も、そこに出演するメンバーが全員全裸、というコンセプトからはじまっていました。

しかし近日、多数の男性youtuberがそれぞれの動画で声をあげたように、このところyoutubeにおける「規制」が厳しさを増す一方であり、このたび男性の乳首が映った動画を放映することが禁止になったというのです。それはいったいどういうことなのか、と思わなくもないですが、ともかくそのように奥の手を禁じられたはじめしゃちょーであるからこそ、次なる視覚的エロスによる女性視聴者獲得のため、選んだ扮装が「スーツ」であったのだ、というのが私の読みであるわけです。

そのような視線で「はじめしゃちょーの畑」を観察したらなにかおもしろいことが起こるかもしれないと、あるいは服装史社会史の変革の瞬間があらわれるのではと、スーツのファッションチェックという趣味と実益をかねて、「はじめしゃちょーの畑」を近日チェックしていたのですが、彼らは上着を着ることが少なく、またワイシャツの裾をアウトしており、そのくせネクタイだけは締めて男性器を強調するという、放課後の高校生のようなスタイルで毎日生活しており、そこに萌える女子もいるのかも、と思いつつ、私にはまったく感心するところがなくて、再びチャンネル登録を終了したのでした。


発達障害という脳の異常な個性に、これまでの人生を苦しめられてきた私は、この先「スーツ」を着て「事務職」をすることで、その個性を「隠蔽」し、モダンな社会人として残りの人生をやり過ごしたいと、そう考えている、のですが、実のところ本当に私が好きな服は、子供服のような原色であったりして。きょうも八王子のドンキホーテまで行き、強力ブリーチ剤で髪を金髪にした後、すぐに銀色に染め直しをしました。Youtuberが動画でよく使う、本当に原色に染まるドンキホーテのカラー剤を用いて、中年の精神障害者の人は精神障害で髪の毛の色が落ちてしまったかのようなきれいな銀髪になり、たいへん満足をしております。

2019年1月21日月曜日

「トートロジー」と「パラフレイズ」――EXILE試論――


まもなくフィナーレを迎える「平成」という時代。EXILEはこの時代を代表するパフォーマンス集団のひとつであったでしょう。彼らが中心的な位置づけとする作品群「24karatsシリーズ」の中でもファンの支持が根強いという「24karats STAY GOLD」は、20106月のダブルマキシシングル「FANTASY」において、はじめて発表されました。その後収録されたアルバム「願いの塔」は20113月の発売。この発売直後に東日本大震災が起こったことは偶然とはいえ、時代を「survive」するわたしたちの記憶と渾然一体となり、なおも輝く名曲となっています。



1.トートロジー
ところで「24karatsシリーズ」と申した通り、EXILEには「24karats」と名の付く作品が多数あり、EXILEの活動歴はそれこそ「平成」の全体にわたる長いものですから、特に近年になってファンとなったキッズたちは、この作品相互の関係性、あるいは彼らがステージ衣装として用いる「24karats」というアパレルブランド名との関係、に関してあたまが混乱してしまい、これをどう整理すればよいのか、に関してヤフー知恵袋に質問があふれ、またよくまとまった回答も存在しています。それをうまいこと自分の言葉でパクると、SEOの上位となる記事が書けるのですが、わたしはそんなことには興味がないので、御名答はヤフー知恵袋に譲ります。

ここで問題としたいのは、EXILEはなぜ、キッズたちの頭が混乱するほどに、「24karats」という言葉を多用するのか、ということです。

24カラット」、これは「ゴールド」金の純度をあらわす言葉であり、「金の純度」は「24分法」で表現するのが慣例になっています。「18金のネックレス」などという表現を聞いたことがある方もいるでしょう。「18金」は「18カラット(18karats)」ともいい、全体の「24分の18」が金、残りである「24分の6」は他の金属でできている、という意味です。ならば「24karats」は全体の「24分の24」がまごうことなき金である状態、いわゆる「純金」をあらわす言葉というわけです。

きょう主に扱っている「24karats STAY GOLD」という作品。この歌詞の中では「24karats」という言葉じたいがなんどもなんども登場するのはもちろんのこと、「100%濁り無い純金」、「純度100%」、「桁外れの混じり気ないゴールド」、「唯一無二の計り知れないゴールド」といったかたちで、なんどもなんども「24karats」という概念が繰り返し語られています。「24金がステイゴールド」。なぜでしょうか。

説明するまでもないことなのだと、彼らはきっと答えることでしょう。「24金は24金なのだから」と。仮に18金ならば、それはネックレスになればペンダントにもイヤリングにもなるのですが、24金については24金(純金)であるという以上に、その価値を説明する必要がないのです。それほどに純粋な輝き、その純粋さ自体を生きるよすがとしたい、EXILEはそのように考えるがゆえに、何度だって同じことを繰り返し、キッズを混乱させ続けているのです。

正直言って最初はバカなんじゃないかと思いました。「何度も同じことばっか言いやがって」と。キッズたちもだから混乱していると言っているでしょう? しかし、「トートロジー」すなわち「同語反復」という文学的手法を「作品の魅力」と捉えたならば、どうなるでしょう。「トートロジー」を論理学的に捉えた時、それはすなわち「AならばA」、ということです。その価値があまりにもズレなく揺るがないため、同じことを繰り返さざるを得ない、という発話者の真意が見えてきます。「24karats」の価値は、どのように説明しても説明しきれないほど高貴であるがゆえに、同じ言葉を繰り返すことでしか表現ができない、と彼らは考えているということが推測されるのです。

この文章自体が、さっきからバカみたいに同じことばかり、繰り返すようになってきました。

ところで彼らは、この歌詞がまさしく「トートロジー」であること自体にも自覚的であるはずです。それを示しているのが、「We only deal with real deal」という一文。意味をとってみれば、「オレたちはホンモノの約束しか信じないぜ」といったあたりになるでしょうが、この英文は「deal」という単語を、動詞→名詞と品詞変更しながら同語反復(トートロジー)しつつ、「real(ホンモノ)」という単語と韻を踏んでいる詩文になっています。

このように彼らは「トートロジー」が、音楽の歌詞における「韻」と関わる「言葉遊び」のテクニックでもあることを自覚した上で、それでもなおトートロジーを「real(ホンモノ)」の表現として研ぎ澄まそうという、彼らの声明をここに聞くことができるのです。

24karats」の純粋性=「ホンモノ」を掴まえる人生を大事にすること、に対する「イミテーションへの警戒」もこの作品の中では語られています。ゴールドを仮に「キラキラ」と表現するとしたとき、そうした「ホンモノ」とよく似た「ギラギラ」な「ニセモノ」が現代には溢れている、というのが彼らの時代認識です。この曲がはじめて収録された作品集のタイトル「FANTASY」がもつ多義的な意味のひとつにも、この「現代におけるニセモノ」の響きがあるでしょう。

「ギラギラ」という言葉のニュアンスは、アブラギッシュで欲にまみれた俗物的なイメージ。これに対する「ホンモノ」「を掴み取れ」という彼らEXILEが発するメッセージは、そのスタイリッシュなダンスパフォーマンスからは想像がつかないほど、実は生真面目で保守的なものなのです。ともすれば辛気臭いメッセージが、スタイリッシュに表現されていることこそが、EXILEの魅力なのかもしれないと、キッズが熱狂する理由をはじめて見た気がしました。



2.パラフレイズ
EXILEが「歴史」を重んじてきたこと、それは「TRIBE(部族)」あるいは「GENERATION(世代)」「三代目」といった言葉のチョイスに端的にあらわれています。きょう扱っている作品でも「世代超えて受け継いでくスタイル」「ウケツガレテ行く意志」といった部分に、歴史性のある視点があらわれています。

ここで重要なのは、彼らの言う「歴史」とは単なる時間の流れではなく、そこに生きる人間から人間へと「継承」される概念であることです。歌詞の中で、彼ら自身のアーティストとしての「歴史」に想いをいたらしめる「FROM JSB TO EX」という言葉は後半で、「from EX to the audience さらにいこうオーディエンスからオーディエンス」と、いま曲を聴くわたしたちに歴史のバトンが手渡される、そんな構造を持っています。

この歴史的な人間関係を、この作品のなかで一語で示しているのが「Fellas(フェラ)です。ついついエロい意味を思い浮かべてしまうこの単語は、まさしく「そんなエロい言葉をふざけて使うくらいオレたち仲いいんだぜッ」と意味を暗に含んで、基本的には男どうしで使う、英語の「仲間(fellow)」のスラング表現です。金属を採掘する人という意味の「digger」(掘る人)がおそらく暗示しているベッドシーン、も含めてこの曲がもっている「さらっとしたエロみ」は、この曲がアメリカのヒップホップ的美意識表現の流れを汲んでいることの証ともいえます。

さてそんな「Fellas」に対置されているのが「haters(ヘイター)、「憎む」という意味の「hate」(ヘイト)に「er」がついて、「憎む人、悪口を言う人、批判してくる人」くらいの意味です。「bunch」は「束」、「bunch of haters」つまり「悪口言ってくるやつら」は「相手シナイ」で、「Fellas」に対して「get ur hands up(拳を突き上げろ!)と繰り返すこの曲は、彼らがさまざまな形で強調してきた「歴史」性が実は、ファンへのメッセージ伝達の手段であった、ということを表現したもの、となっています。すなわち、EXILEにとっての「歴史」とは「仲間」に他ならない。

「仲間史観」と一言にまとめられる、EXILEとそのファンのキッズたちの思想を、よく知られた言葉で指示するならば、それは根本敬→ナンシー関→マツコ・デラックスがいうところの、(「ファンシー」の対立項としての)「ヤンキー」というものになるでしょう。日本のポップカルチャーの発展、またそこにおけるアメリカ文化の受容形態の一としての「ヤンキー」、それの最前線にEXILEがある、ということはこれまで、あまりに当たり前すぎて確認すらされてこなかったことなのではないでしょうか。

本稿で扱っている「24karats STAY GOLD」という作品では、ここまでで見てきたように、歌詞自体にEXILEのアーティスト史が直接的にうたわれ、その歴史が最終的にファンに接続される構造を持っていました。そして、この作品世界を貫く論理が「トートロジー」であることも説明してきました。しかし、「24karats」の「トートロジー」が一瞬ゆらぐ、その瞬間に注目しておくことは、(とくに若いキッズたちが)EXILEをさらに理解することになるでしょうので、最後にこの点に触れたいと思います。

24karats」がこの作品のなかで「24/7」という言葉に言い換えられる。これはここまでの歌詞解説における「トートロジー」という形の「言い換え」とはタイプのちがう「言い換え」、ここにあるのは「パラフレイズ」(意味自体のズラシ)です。金の純度をあらわす「24」が1day=「24hoursと同じ数字であることは、偶然以外のなにものでもないでしょう。ズレることを拒否し続けるための「トートロジー」に立脚する本作が、安易に「パラフレイズ」に頼ったのだとすれば、それは明確な批判の対象となりえます。

つまり、この作品を名作とする立場からは、この「24/7」という「パラフレイズ」自体に積極的な解釈を発見する必要が生じているわけです。

24/7」(トゥエンティーフォーセブン)という言葉は、このスラッシュ込み表記の形で、やはり英語のスラングとして、近年多様されている表現です。この二つの数字は「24時間」「7日間」をそれぞれ意味しており、「24/7」とは店が「年中無休」であること、またもっと一般的には「いつも、ずっと」といった意味になります。

この「ずっと、いつも」という日本語を、歌詞の「24/7」の部分に当てはめれば、確かに意味が通り、この通した意味は、ここまでで考えてきた、作品のメインテーマの、やはり「トートロジー」となっているとも言えます。が、とはいえ、そんな簡単に「24karats」という哲学を「24/7」という別の物事へズラしてよかったのか。ズラすだけの意味がなくてはならないのではないか。

という場合に、ひとつ考えられるのは、この表現を日本のポップソングに文脈に紹介したDREAMS COME TRUEEXILEの関係性がここに刻印されているという読み方です。EXILEのリーダーHIROがダンスチーム「Japanese Soul Brothers」を結成したのは1991年のこと、これが「J Soul Brothers」から「EXILE」へと、まさしく歌詞の通り「FROM JSB TO EX」で現在にいたるわけですが、「Japanese Soul Brothers」としての彼らが1990年代の半ば、DREAMS COME TRUEのライブにダンスパフォーマーとして参加していたことは、彼らの歴史を語る上で外すことのできない事実です。

だいぶ時間が現代に近くなった2014年になって、NHKの音楽番組においてHIRODREAMS COME TRUEのリーダー中村正人と対談をしました。その際、HIROは「全員でひとつのことを創っていこうという考え方を学んだのはドリカムからだった」と、きょう扱っている曲でも主題的に語られている、EXILE特有の「歴史観」、つまりは「仲間=歴史」の「ヤンキー」視点の源泉が、実はDREAMS COME TRUEにあったことを語っているのです(http://www.billboard-japan.com/d_news/detail/21927/)。

日本の歌謡曲からJ-POPの歴史のなかで、アメリカ文化をどのように消化して独自のものとしてきたか、その歴史の現在形のひとつがEXILEであるとするとき、その直系の先祖がDREAMS COME TRUEです。そのDREAMS COME TRUE200011月に発表したシングル、それが「24/7 TWENTY FOUR SEVEN―」でした。

J-POPのドリカム」の熱狂的なシーンが落ち着いた後の、いま聴いても先鋭的な楽曲ですが、日本の大衆はドリカムがこの曲を発表するまで、その大半が「24/7」という英語のスラングを知りませんでした。この曲のプロモーションにおいて、ボーカル吉田美和がテレビ各局の音楽番組で司会者に対して、「24/7」というスラングの意味を盛んに説明していたのが思い出されます。

そのような「ドリカム語」、DREAMS COME TRUEの刻印として「24/7」という言葉が登場したのだと読めば、その時にはじめて「トートロジー」ではない「パラフレイズ」が批評性を獲得します。自身の哲学「24karats」には、そうした哲学を学んだ祖先の血として「24/7」というスラングが通奏低音として響いている、というわけなのでした。きょうはこれで終わります。

2019年1月17日木曜日

うち出でてはみない



山梨県には6年暮らしました。住みはじめた頃はじめて習ったこと、それは「山梨ケンミンは家の中でも方角を使う」ということ、<家の「東」に置いた茶碗>とか言うのだということ、それは山梨県にとって常に富士山が南の方角だからだ、ということでしたが、その話を聞いて以来一度も、そんな方角の使い方をする人には出会いませんでした。しかし、富士山はいつも視界にあり、視界に入るたびに「富士山は南」という知識だけが、カラカラと音をたてて回っていました。さようなら。

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける  山部赤人

用事があって前居住地としての山梨県に来たのですが、その用事を済ませたらクルマを飛ばして、静岡県の太平洋岸までやってきました。とはいえ道路標識とカーナビの画面で海を見ただけで実際には見ておらず、ただ静岡県富士市役所近くのこのあたりは、「田子の浦」なのだと知ってすぐに、万葉集を口ずさみました。

富士山麓を飛ばし湖の水面を見てきましたが、富士山も見ていません。田子の浦近くの、きょうの目的地でクルマを止めて外に出ましたが、やはり富士山は見えませんでした。田子の浦という海に船で漕ぎ出でて、その船の上から富士山をみたイメージをこれまでずっともっていました。調べてみると、田子の浦「ゆ」の「ゆ」は「経由」という意味で、ここ田子の浦という海岸を経由して、ちょっと離れたどっかまで歩いていき、視界が開けたとこから富士山を見ました、といううたのようで、船に乗らないどころか、田子の浦はただ通り過ぎただけ、なのだそうです。

「くれたけイン富士山」というビジネスホテルに宿泊すること、がわたしのきょうの目的です。るるぶトラベルでビジネスホテルを「安い順」にならべて、大浴場と朝食バイキングで絞り込み検索をかけて、不思議な名前、と思って、その名前をカーナビに打ち込んで、カーナビの言うとおりに「くれたけイン富士山」にやってきました。


もっと富士山に近い場所、たとえば御殿場ならある程度の土地勘があるのですが、富士市という場所はほとんど何も知らない場所です。しかし、わたしは富士市に来たのではなく、ビジネスホテルに来たので、チェックインをしたら外には出ません。ホテルの駐車場に止めた車、そのすぐ隣には名古屋の手羽先の店がありましたけれども、夕食はいつもどおりアメリカからピザを配達してもらいました。

ビジネスホテルに泊まり、大浴場に入って、朝食バイキングを食べる。これはわたしの趣味です。もっと若いころは、自分の趣味は旅行だ、という思いがもっと強かったのですが、さいきんは旅行ではなくビジネスホテルがわたしの趣味なのだと、強く意識するようになりました。ビジネスホテルの部屋にはどこでも大差はなく、その微差を批評する気もありません。ただビジネスホテルに泊まることがなぜか好きなのです。それはオカシイことなのかなあと思っているうちに、メディアのなかの有名人に、同じ趣味を語る人を見つけるようになりました。

たとえば先日読んだ本でも、「ニート代表」的立ち位置のブロガーpha(ふぁ)、がやはり、ホテルにただ泊まることを趣味にしている話を書いていて、思った通りの記述にはなんどもうなづいたのでした。また、けさスマホに流れてきた芸能ニュースを見て、彼もその仲間だったと思い出しました。


星野源がハマ・オカモトと仲良しであることは、星野源のファンなら誰でもよく知っていることです。正月に二人で旅行をしたという話を、星野源がオールナイトニッポンで話したらしいのですが、よくよく聞けばこの話、二人で旅行をしようというふうに計画が動き出したわけではなく、ホテルのスイートルームを予約して、さあ泊まろうという段になって「ハマくんを誘おう」ということになったようなのでした。

これを読んでわたしが思い出したのは、NHKのコント番組「LIFE」でもう何年前だったでしょう、星野源がリフレッシュ方法を紹介するコーナーみたいなのがあり、そこで彼がホテルにただ泊まるのが趣味だ、という話をしていたことです。ホテルの部屋風呂の浴槽にもぐるのが好きで、お湯から顔を出した瞬間の自分の表情を写真に撮り、その写真をハマ・オカモトに送りつける、という話をしていたのでした。

わたしは星野源の音楽と文章が好きですし、phaの書くものもとても好きです。このように私が彼らを好きなのは、別にそれを最初に意識したわけではないのですが、わたしも含めた彼らが全員、自閉症的(あるいは発達障害的)感性をもっているからだろう、と思っています。自閉症的な彼ら(わたしたち)はなぜ、ビジネスホテルに泊まるのが好きなのか、これはきっとどうにか説明ができるはずだと、ホテルのベッドに横になり考えていました。

正解かどうかわかりませんが、現時点でのわたしの答案、それは、「引きこもる」ことで安心する自閉傾向と、「衝動的計画性」というADHD的特性が、ちょうどよいバランスで組み合わさる交差点に、「ビジネスホテルにただ泊まる趣味」というものがあるような、そんな気がしています。きょうは山梨県にまた戻り、今夜も別のビジネスホテルに泊まる予定です。

2019年1月15日火曜日

図書館の国で、古典教育について



発達障害者が生きていくためにたどりついた、東京都日野市。無職でもいい、障害者でもいいと、不動産屋の平成3年生まれの青年が、彼の営業成績になるのか、アパートにねじ込んでくれたのでやってきた、ここは見知らぬ土地です。アパートにはじめて見学に行く車中で、平成が終わり新しい時代が来ることを楽しみにしている、と彼は言っていました。わたしは彼に、昭和天皇がなくなる時期の日本の沈んだ様子が、いまもわたしに染みついているような気がして、次の時代こそ華やかに幕が開いてほしいと話しました。三十年なんてあっという間でした。

あれよあれよと越してきた東京都日野市は、どういう意味か「新撰組」を推しており、しかしわたしは新撰組には興味がなく、どうしようかと思っていました。また、東京都日野市には、銭湯、スーパー銭湯の類が一軒もなく、これも残念なことでした。しかし、以前にも書いたとおり、なぜか「図書館」が多い東京都日野市。それはわたしの思い過ごしではなく、調べてみると、日本でいちばん図書貸し出し数の多い自治体、また日本ではじめて移動図書館をはじめた自治体、といった情報が出てきて、書籍が好きなわたしが流れ着く運命を感じ、「次こそ一生の仕事」という覚悟が数年ごとに瓦礫と化すわたしの人生ですが、「図書館の国」東京都日野市に骨をうずめたいと、いまおもっているところです。


高幡不動駅の、京王線と多摩モノレールの連絡通路にあるタリーズは、電源も多くワイファイが飛んでいるので便利なカフェです。そこで内職をしていたら、隣の席の大学生が「天声人語書き写しノート」をしていて、私もやりたくなりました。しかし、大学生の手元をのぞくと、あのノートは、天声人語の実際の記事を切り抜いて、ノートに貼るようにできており、朝日新聞をとっていないわたしには、それは無理な話です。

そうやって切り抜きを貼るために、朝日新聞をとっている人がおり、その売り上げを減らさないように書き写しノートを売っているのです。私が小学生のころから、国語の宿題で天声人語(的なもの)を切り抜いて写せという宿題がありましたが、あのころは全世帯が新聞をとっているのが当たり前で、書き写しノートなんて商品がなくてもよかったのです。


わたしは単純に書写をして、文字をキレイに書く時間をもって、精神を落ち着けたいだけなので、ダイソーで方眼ノートを買い、日野市立高幡図書館で朝日新聞を見せてもらい、書写をすることにしました。高幡図書館は隣の駅の前ですが、家から自転車で15分もあれば着きます。高幡図書館の2階に2席だけですが電源席があり、パソコンを持ち込んで作業をすることが正式に許可されています。ここのワイファイが「なんとか爆速ワイファイ」というやつで、本気で爆速のためオススメです。


ツイッターで報告したように、生放送でyoutubeをしており現在その録画も残っている、明星大学人文学部日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」に行ってきました。図書館でポスターを見て、古典肯定派と古典否定派が戦うという謎の企画にひかれたのです。古典書が燃やされるのか、あるいは古典的な時代また歴史が否定されるのか、そんなことがあるのだろうか、それは大変だと駆けつけたわけですが、その議論は、高校の国語授業の中で「古典」の授業が現に減らされ、必修から「選択科目化」されてきていること、また文科省の政策として、「国立大学は理系中心、文系科目は私立大学に任せる」という方針が出ており、国立大学の日本の古典文学を担当する教授がクビになろうとしている、といったことが現実にもうはじまっている、そうしたことに関する教育学上の議論なのでありました。

しかしそれはそれで、興味深い議論でした。読書好きからすると、そんなことがすでにはじまっているのかと驚き、けしからんと最初は思っていたのですが、これはいわゆる「ゆとり教育」の失敗からはじまった、日本にほんもののエリートを育てるための、新しい教育方針の一環であることがわかり、古典も音楽や美術と同じく芸術科目なのだから、選択でなんの問題もない、という「古典否定派」の意見は、非常に筋が通っていると感じました。



ただ、「古典否定派」のもうひとつの大きな主張に、「古典はポリコレに反する」というものがあり、わたしはこの件に関しては賛同しがたいなあと思って聞いていました。たとえば古典には男尊女卑的な内容のものがある、これを排除する必要がある、といった話なのですが、キレイキレイで排除していけば差別は解消されるのか、直視することから新しい議論がはじまるはず、またそもそも「コレクト」(正しい)とはなになのか、いまの時代の「コレクト」が、昔はそうでなかったのなら、将来も「コレクト」であるかどうかはわからない、ということは、いま障害者になろうとしているわたしが、考えるべき問題として感じました。

ただやはりこの対決で「古典否定派」に大きくうなづいたもうひとつの点は、(「古典」とは直接関係がない議論ではありますが)、理系の学問に「理学部」という理屈の学問と「工学部」という実学の学問の区分があるのに、文系学問にはそれがない、ということです。わたしは若いころ、国立大学の日本現代文学を扱う文系学部に進みましたが、当時の担当教授は私学あるいは国立の教育学部の国語科に異動となっており、これもそういうことだったのかといまさら思ったのですが、それはともかく、日本現代文学をいわば「理学部的に」研究し、しかし研究者にはならなかった(なれなかった)わたしに、その研究を「工学部的に」生かすキャリアの道は存在せず、結果的にいまのわたしは無職であるのだなあ、と思ったのです。

肯定派と否定派の議論でも、教育=学校の授業は生徒に「幸福」を与えるべき、という点で両者がかみ合う場面がありましたが、「古典肯定派」の、文学のもやもやを学ぶことが現実の課題を解くヒントになるという「幸福」のあり方、対する「古典否定派」の、収入に直結する実学を優先するべきという「幸福」のあり方、これはどちらも正しいのだとは思うのですが、一方で人文科学に、芸術や情緒とは切り離した、実学的な技術の側面を強調した学問分野があれば、文系の人間はもっとかんたんに社会で役に立てるはず、と思いました。たしかに天声人語を書写する「幸福」は、平安時代の仏教徒が仏典を書写していたのに似て、「幸福」ではあるのですが……。

「古典肯定派」は完敗であったのかと言えば、江戸時代の医学書やカルテが漢文で書かれていた、という視点の提示から展開された、「むかしの学問に文系も理系もなかった」という話は、ワンポイント獲得でした。そもそもこのディベートがはじまる前、会場にはやくついてハンドアウトを読みながら開会を待っている時、私が思っていたことはといえば、「なんだあ結局これって文系と理系のケンカなんだあ」ということでした。現代社会ではけっきょく実学として理系のほうが成立していて、文系は役にたたねえと。あるいは心の豊かさを売るしかないと。そうじゃないんだよなあ。文系だってこうやれば実学的なんだぜという仕事のアプローチを、理系のバカに何度も「文系黙ってろ」とつぶされてきた文系のおじさんは、文理を超えたところにほんとうの知識があるはずなんだよなあ、となんども思ってきたのでした。


けっきょく高校で文系理系を選択させるのは大学受験のため、古典は選択科目化が進む中でけっきょくセンター試験に出るから必修科目的であらざるを得ない、といった受験制度の問題もここには絡んでおり、そうやってみていくとやはりこれは「教育」の問題なのであるなあ、と思いました。シンポジウムの観客はわたしのように図書館通いの無職のおじさんはあまりいなかったようで、教育を職業にする人がたくさん集まっていたようですが、わたしはこの先の教育を受ける若者たちになにかを託す立場にはないので、もっといい教育を受けたかったなあという人生に対する後悔を強く感じ、また今後じぶんに取り入れるべき知識のかたちについても考える一日となりました。

明日からしばらく家を離れる必要があり、少なくとも3日はブログが休みになるはずです。この間はツイッターでつぶやきを出していきますので、生存を確認するようにしてください。

2019年1月13日日曜日

平成31年のイオンモール


きょうは「イオンモール多摩平の森」まで、東京に来てから買った自転車で行きました。一番橋から平山橋まで、浅川の堤防の上の道路は、自転車で走るにもジョギングをするにもよい道です。前居住地では、自転車があっても自転車屋がなく、雪で走れない季節も多く、パンクをなおすのも面倒になって、自転車を捨てたのでしたが。

長いこと地方で暮らしていた身からすると、イオンモールの駐車場はもちろん、駐輪場でさえ駐車料金をとることが不思議で、おそらくはそれを疑問に思うこともなく、みなさんがお金を払っているのも不思議です。イオンモールはJR豊田駅の駅前にあり、駅周辺の市営駐輪場も有料の場所が多いのですが、駅から離れた一部の駐輪場は無料のため、私はそこに自転車を止めて、イオンモールまでは歩きました。


先日まで必要があって、「イオンモール」について調査をしていたのですが、昭和生まれの私たちには懐かしい響きの「ジャスコ」という会社が、「イオン」をはじめて名乗ったのは、ちょうど平成元年のことでした。実家近くの「ジャスコ」の、実際の思い出がある一方で、「ジャスコ」という言葉が私に思い出させるのは、嶽本野ばらの(あるいは中島哲也の、または深田恭子の)『下妻物語』ですが、この作品以外でも、いわゆる「オタク」的なサブカル作品のなかで、「ジャスコ」という単語は、何度か象徴的に使われることがあったようです。

それは近年の作品になるにつれて、「三丁目の夕日」的な郷愁を指示しているように見えるのですが、当初(たとえば『下妻』において)「ジャスコ」→「イオン」という記号が表していたのは、日本全国が平板に均質化していくこと、でした。私にとってはいまだにこのイメージがかなり強く、きょうもあまり期待せず暇をつぶしに出かけたつもりでしたが、「イオンモール多摩平の森」には、これまで訪れたイオンモールと同じテナントもあれば、とくに巨大なフードコートの飲食店を中心に、見たことのないテナントもかなり多く、とても楽しかったです。

イオンモールの中ならば天気も時間も関係なくウォーキングができるという趣旨の表示が各地に出ており、とちゅうトイレに立ち寄った際にも個室のドアに「ウォーキングは姿勢よく」とシールが貼ってありました。とくに目的もなく、すべての通路を3回は歩いたでしょう。イヤホンで音楽を聴きながら、ハイキングのように、光るガラスの天井を仰ぎ見て歩きました。


平成のはじめ、その平成という時代そのもののように平板な書割りとして登場したイオンモールは、三十年後のいま、都会の中の「森」あるいは「山」として、ちがう意味をもってきているように見えました。きちんとした文化論を語るには頭が足らないのが残念ですが、たとえば「イオンモール多摩平の森」では「カルディ」に隣に「久世福」があります。「カルディ」がいかにも「平成」のイオンモールであるとしたとき、「久世福」には「次の時代」を感じさせる何かがあると思うのですが、それを「なに」といったらよいのか、私にはまだわかりません。

2019年1月12日土曜日

書を捨てよ、図書館へ通え。



自分が発達障害者であることを認めて生きていこうと決めたら、住む家にあるものを最小限にする「ミニマリズム」が、なぜだか身についてきました。人生に対してある程度の諦めがつき、余生を効率的にこなそうという考えが生まれたのかもしれません。私がこの先できることは、きっと限られています。

本が好き、本に囲まれた暮らしに喜びを感じてきた私ですが、「国立国会図書館を目指したところで、それは無理な話」と思ったら、中途半端に蔵書を抱えて暮らすことにも疑問が出てきました。現在ほぼ無職である私は、蔵書を売って生活費にしようと、アマゾンマーケットプレイス「田中はにわリサイクル」で本を売り始めています。とはいえこれを本業とするつもりもいまのところなく、そんなに生活費に困っているわけでもない私の出品は、毎日1冊ずつです。出品するたびにツイッター@mrhaniwaにおいて情報を流していますので、よろしければチェックしてみてください。



私が引っ越してきた東京都日野市には、市立の公共図書館が7館もあります。日野市という場所が、どのくらいの広さを持っているのか、まだきちんと把握していないのですが、それにしても多いなあと思います。先日、中央図書館にカードを作りに行き、説明を聞いてきました。それによれば、わたしたち日野市民は、日野市立図書館7館が使えるばかりか、京王線沿線7市図書館連携の制度により、八王子市、府中市、調布市、町田市、多摩市、稲城市の市立図書館を利用する権利も持っているというのです。


またこの地域、東京都の西のほうには大学のキャンパスが多く、各大学の図書館も地域住民を受け入れています。きょう私はそのうちのひとつ、帝京大学八王子キャンパスの図書館に遊びにいきました。私の家の目の前、京王線「南平駅」の隣には「高幡不動駅」があり、ここで京王線は「多摩モノレール」に接続しています。この多摩モノレールの「大塚・帝京大学」駅から歩いてすぐのところに、帝京大学の八王子キャンパスがあります。実際には、家から自転車で通えるくらいの距離という認識なのですが、きょうは小雪舞う肌寒い天気でしたので、無理せず公共交通機関で行きました。

この図書館「帝京大学メディアライブラリーセンター」は、あの「千夜千冊」の松岡正剛氏との共同企画で、学生に対して読書を推進する「共読ライブラリー」プロジェクトを実施しており、館内の随所に、学生同士の書籍を通じた交流がうかがえる本の展示があるなど、なかなか刺激的な図書館です。いま大学は冬休みなのでしょうか、館内に学生は少なく大変静か。ノートパソコンを持っていけば、パソコン用コンセントがあるテーブルがいくらでも使えて便利です。あまり見かけないような大学図書館ならではの書籍をつかって、内職の文章をひとつ仕上げました。

日野市民をはじめ近隣の住人は、500円の登録料をさいしょに一度支払えば、一年ごとの更新時にかかる費用はなく、もらったカードを入口の機械にSuicaのようにかざせば、改札が開いて中に入ることができ、本を借りてくることもできます。このように帝京大学の図書館の利用民となった私ですが、こんな調子で日野市民が利用できる近隣の大学図書館はまだまだたくさんあるようすで、しばらくは各大学図書館訪問を続けようと思っています。

帝京大学で1冊本を借りてきて、高幡不動の喫茶店でそれを読んでいました。また先日の日野市立中央図書館では、「リサイクル資料」として図書館が無料で放出した本を10冊ももらってきました。日野市民は10日に一度、図書館が捨てる本を一人10冊もらう権利をも持っているのです。こうなったならば、本当に本を買う必要なんか全くないなあ……と思いつつ、なかなかこのようなタイミングでは出会えない本、尾崎世界観の小説や、話題のビジネス書『アウトプット大全』を買ってしまおうか、と悩んでいる昨今です。

2019年1月11日金曜日

発達障害者として生きていくための東京都日野市南平



こんにちは。田中はにわです。

これまで7年ほどでしょうか、ツイッターを使ってきました。
ツイッターを続ける一方で、長い文章を書きたくなって、このブログをはじめます。
毎日ここに、私の意見を書いていきますので、それを自己紹介にかえさせてください。
あるいはこのところの様子は、ツイッター@mrhaniwaをご覧ください。
このブログの体裁も、毎日少しづつ整えていきたいと思っています。
ブログとツイッターうまく使い分けて、両方とも生かしていきたいところです。

東京都日野市、京王線南平駅すぐ近く、京王線の線路沿いのアパートに
年末に引っ越してきて、きょうまででほとんど引越し関係の手続きが終わりました。
東京に引っ越してきた理由は、このところのツイッターに書いていた通り、
次の仕事を発達障害オープン就労で目指すため、
「就労移行支援」と呼ばれる福祉サービスの質や、
就職後のサポートまたこの先生きていくうえでの発達障害に関する情報量などが
これまでの数年間を暮らしてきた地方都市と、
東京都では段違いであるから、それに尽きるのですが、
しかし日本の首都である東京都の片隅で、
アーバンライフを満喫する余生というのも、なかなかよいではないか、
と思っているところです。

ツイッターから流れてくださった読者がいらしたら、
異なる文体に戸惑いをお感じの方もおられるかもしれません。
ツイッターの私はかなり「キャラクター化」をはかってきました。
そのほうが「つぶやき」はしやすい、
一方で本音を語りたいなあとか、真面目にうだうだ話したいなあとか、
また私情や地域情報的な、リアルな私の日常をどう表現したらよいのか、
といったところは、このところの悩みのだったように思います。

これもこのところのツイッターで話題にしましたが、
私は雑文ブログ書きのアルバイトをさいきんはじめました。
注文にしたがって、与えられたテーマに沿う内容を
調査して文章にまとめる仕事は私にあっているようで、
幸いにして注文が続いているもので、がんばっていくところなのですが、
一方で、いわば「関係ないこと」を長く文章化していると、
「ほんとうに話したいこと」、というのもたまってくるような感覚があり、
そこでブログをはじめます。
みなさん宜しくお願いします。

きょうはそうしてこのブログの準備をしながら、
内職の文章も一本仕上げ、
それから日野市立病院に今後のサポートに関して相談の電話を入れました。
発達障害者であるという医学的なお墨付きは、
精神障害者手帳というかたちになるのですが、
この手帳を得るためには、ひとつの病院に半年間通って、
そこの医師による診断というものが必要になってきます。
いまから東京の病院で半年間通院するのは、時間がもったいないので
私は前居住地の病院に通い続け、2~3月ころの精神障害者手帳発行を期に、
日野市立病院に転院しようと考えているわけです。
このような計画はきょうまで、私と前居住地の医師との間の、
勝手な計画に過ぎませんでしたが、
それをきょう、日野市立病院にも相談したというわけです。

精神科に関わりがある方はご存知の通り、
現代日本の精神病院は患者があふれていて、
初診の予約をとるといっても2~3ヶ月待ちがザラなのです。
そんなに待たされているうちに死にたくなったらどうすんだといつも思いますが、
本気で死にたくなっちゃった人の想いは、精神科病院には伝わるようにできており、
わたしもこれまでなんどかそのように救われてきましたから、
死にたくなっちゃったら「そんなに待てません」ときっぱり伝えれば伝わります。
ですが、こんどの私の転院は、それほど急を要するものではないので、
3月の終わりの予約をきょう入れて、あとはそれを待って過ごすことになりました。

発達障害は、ときに「二次障害」というかたちで「うつ状態」などを引き起こし、
いま現在のわたしも安定剤と睡眠薬をのんでいます。
しかし、それは「ときにそうなる」というだけで、
発達障害じたいを治す薬はないし、必ずしも医者に通い続ける必要はないのです。
が、発達障害者という「障害者」としての権利を得るために、
「障害者手帳」を持ち続けるためには、
治るはずのない脳の構造上の欠陥であるのに、
定期的に医師の診断書によって、
「このひとやっぱ障害者です」という認定を受けなければなりません。
そのための病院を持っておく必要があるのです。

というように、私は「障害者手帳」を使い倒してこの先を生きていこうとしており、
その権利獲得のために病院に通うのです。
治らない障害ですが、いまさら治そうとは思わなくなったし、
治ってもらったら困りますよね、手帳で得られるメリットが全部とびますから。
という不謹慎な態度で、いま流行りの「発達障害ブーム」の波にのっていきたい。
そう思っているところです。

障害のことだけを書くブログにするつもりもありません。
毎日の日記としていきますので、明日も読みに来てください!!



田中はにわのツイッターもよろしく