2022年6月22日水曜日

信じて託す――母が認知症(4)


  亡き父の墓石には「絆」という一文字が刻まれている。父が亡くなったのは平成22年(2010年)のことで、「絆」はその当時の流行語であったと思う。ご近所付き合いがなくなった、とかその手の社会学的な問題が、当時のマスコミを賑わせていた。そこでキーワードとなった「絆」は、東日本大震災(2011年)を契機に、より大きなものになっていった。

 私は、そんな流行語を墓石に刻むのは反対だった。実際に口にも出したはずだ。しかし、なにより母が望んだことだったので了承した。ふだん自分の意見をあまり言わない母が、珍しく強く主張したからだった。私には三十年も共に暮らした連れ合いを亡くすという感覚はわからないし、どうせ私が頻繁に墓参りに行くわけでもないし、母のために建てる墓なのだから、母の意見を通そうと思った。世間的には、喪主であり長男である私が建てた父の墓だったが、当時の私には墓を建てる費用を捻出する手立てもなく、実質母が建てた墓でもあった。

 そんな父の十三回忌となる2022年、母は認知症となった。母が認知症、と気づいたとき、私がまず思ったのは、なによりも私自身の生活だった。私が生きていくことを優先しよう、と思った。もちろん医療や介護とつながり、母を支えていくことは必要であるし、重要な問題だった。しかし、同時に、私が潰れてはどうしようもない、と思ったのだ。そのとき、いちばん問題となるのは、やはりお金だった。

 父が亡くなったころ、私の金銭感覚は壊れていて、しょっちゅうお金を使い果たし、なんかいつまでもお金を使えるなァと思っていたら、いつの間にかキャッシュカードでローンに手を出していたりした。親になんど泣きついて、ローンを返してもらったかしれない。いまはお金を使うことと言ったら競輪をやることくらいで、しぜんと貯金ができるくらいになったが、それでも母の生活まで支えるほどの金銭は、私の稼ぎではどうしようもなかった。

 認知症とお金の問題を、母が認知症と気づいたその日から、猛然と調べた。単純な問題として、認知症患者自身がじぶんのキャッシュカードの暗証番号を忘れてしまう、という問題があるのだと知ると、私はすぐに母から暗証番号を聞き出した。聞きにくいことだったが、母がこの先安心して暮らせるように、母のお金の管理を私がしていくようにしていきたい、と伝えた。当然反対されるものかと思ったら、母は案外すんなりとその意見を受け止め、お願いしたい、と言われた。言われたことが、少しさみしかった。

 だが、キャッシュカードの暗証番号を知っていたところで、母の預金を私が下ろして使うことは、たとえ母のための費用であっても、正確には犯罪であるらしかった。実際には目をつぶってやられていることらしいが、私は犯罪におびえながら暮らしていきたくはなかった。また、預金者が認知症であるとわかると、銀行は預金口座を凍結し、引き出すには成年後見人を立てて、ということになるらしかった。そんな面倒なこと、そしてそれを維持するにも多大な費用がかかる。銀行に母の認知症を気づかれる前に、別の仕組みを見つけなくてはならない。

 ということで、話は「信託」にすぐに行き着いた。「信託」には銀行の金融商品としての「商事信託」と、また法律的な書面を家族間で交わして家族が金銭管理を行う「家族信託」とがある。まずは「商事信託」の相談に、母の口座のある銀行とは別の、信託銀行に相談に行った。老親の生活を見守る信託商品の説明を受け、これだ、と思ったが、タイミング的にその相談は、私が母の認知症的な側面に気づき、病院を1回受診し、認知症の検査の予約をとった、という段階でのことだった。
 そのことを銀行員に伝えると、銀行員の顔色がくもった。「商事信託」の商品はたしかに、将来的な認知症の備えを目的とした商品だが、現在認知症でない人、を対象とする商品のため、手続きの間に医師から「認知症」という診断が下ってしまうと、その時点で「商事信託」は組めなくなるのだ。銀行員は「あと3ヶ月くらい早くご相談いただければ…」と残念そうに微笑み、私も微笑み返した。

 しかし、微笑んではいられないと、信託銀行を出た足で、もう八王子の街を歩きながらスマホで、相談のメールを送ったのが、最終的にたどり着けた「家族信託」の仕組みのはじまりであった。メールの返信は翌日だったが、「家族信託」ならば認知症患者であっても組成することができ、ただそれは本人が仕組みを理解しうなづけるうちにやっておく必要がある、認知症は進行していくものだから、ほんの少しの手遅れということもあるので、早急に手続きを進めたほうが良い、というメールは、宣伝文句だったのかもしれないが、その通りだとしか思えなかった。

 それからの日々は、猛スピードだった。最初の相談から「家族信託」の組成まで3ヶ月くらいかかったはずだ。宣伝みたくなるが、相談したのは「ファミトラ」という会社だ。最初の説明と面談には「ファミトラ」の人が家に来てくれた。弁護士の先生に会いに、六本木まで母を連れていく途中で、母は2回も転んだ。浅草の公証役場で、公正証書をつくってもらい、「家族信託」が成立した日、「ファミトラ」の人は雷門の前で記念撮影をしようと言い、そんなんと思ったが、送られてきたその日の写真を母はとても大切に飾っているようである。

 正直ギリギリだったと思う。弁護士の前でよだれを垂らし、また幼児のようにしょっちゅう意識を他に向ける母に、意思があると認めてもらえるのか、どきどきしていた。しかし、まだ母は自分の名前が言え、生年月日が言え、弁護士の説明を聞いたあとで、わかりましたか?と質問されると、かすれた声で「子に、信じて、託す、信託」と言ったのだった。その瞬間、私が思い出したのが、父の墓に刻まれた「絆」という一文字のことだ。

 読書の好きだった母らしい、信託とは信じて託すことである、という言葉を、私はずっと忘れない。

2022年5月22日日曜日

ワンダーランドカップ


かーぜーのワンダラン かーけーぬけーくー

スカタンスカタン

みどりにつつまれ まもられたせいち

ふたたびよみがえるーあさ めざめのときはいまーきた

かぜがーふくーときー ぎんいーろのかぜー はしるー

かーぜーのワンダラン かーけーぬけーくー

まくがあがるしゅんかん おーとーずれーるー

かーぜーのワンダラン つーかーめテイカチャン

ひかりはーじくーレーサー ま-わーれ

それがワーンダラーン

あさもやのなかーを はしりーつづけてる

かーぜをおいかけるすーがた とーおくでひとりみてーいた

かんせーいあーがるー たたかーいのちをー めざしー

かーぜーのワンダラン あーつーいバートルー

まいおーりたチャーンスを つかみとれー

ひーびーくジャンのね とどーけゴール

はてないゆめー みーちはーつーづーく

それがワーンダラーン

ウイーンヲーン

かーぜーのワンダラン かーけーぬけーくー

まくがあがるしゅんかん おーとーずれーるー

かーぜーのワンダラン つーかーめテイカチャン

ひかりはーじくーレーサー ま-わーれ

それがワーンダラーン

うつのみやけーいりーんー うつのみやけーいりーんー

2022年3月28日月曜日

福祉の波に乗りたい――母が認知症(3)

2022年3月25日

 きのうのうちに、実家の近所のタクシー会社を予約し、また「寿司が食べたい」という母のために新宿の小田急地下で寿司を買って、夜中に実家に着いていた。8時にはタクシーに乗り、病院に行く。タクシーの運転手が、近所の細い道の途中で、「こんなとこでこんな時間にやるかね?」と、どうやら駐車違反の切符を切られている人を見つけた。切符を切っているのは警官ではなく、区に委託された目印の蛍光色のベストを着た老人だった。老人の朝は早い。

 病院で行う検査は、「リハビリテーション科」「臨床心理検査」という名で予約されていた。臨床心理検査、という言葉をネットで調べると、認知症の記事よりも、発達障害に関するもののほうが多くヒットし、かつて自分が受けた「臨床心理検査」の内容が書いてあった。あの時とだいたい同じことをするらしい。と理解はした上で、では自分の時はどうだったのかといえば、覚えていない。なんとなく精神病院の部屋の雰囲気と、箱庭を使ってお人形さんごっこみたいなことをやらされた、ぼんやりとした記憶だけだった。

 母は、自分が認知症という自覚はなく、これが認知症に関わる検査であるという自覚もないが、アタマに関する検査であることは了解しており、さいきんなんとなくアタマがおかしいという自覚はあるようなのだった。「検査をして、薬を決めてもらって、飲みたい」と言っている。そういう自覚があるのなら、あえて認知症という言葉を出さずとも、それでやって行けば良いのだ、と思った。検査はクローズで、私も見ることはできなかった。検査を終えて帰ってきた母に、どうだった?と聞くと、首をひねるジェスチュアをするだけで、なにも話さなかった。

 私は私で、単独で部屋に呼ばれ、どのような経緯で今回の検査に至っているかを、またイチから説明した。ヒアリングをするナースは、とりたてて反応をすることなく、ひたすらメモをとっていた。母の検査結果の詳しいところは来週主治医より説明があるが、いちおうの説明としては、「よく転ぶ」という本人の主訴、腕の動きが悪いという身体面の結果、生活面については全て自分で行っているが、高次脳機能に障害がある、これが認知症であるのかどうかは、先生から聞いてください、というまあ順当な話だった。「病名がついていないので、きょうのところはこれを、高次脳機能障害と呼びます」と言うナースの言い方を記憶している。

 家に帰って、買っておいた寿司を食べる。また、日野の我が家から担いできた炊飯器を、実家の壊れた炊飯器と交換し、使い方を説明した。先日、炊飯器の中で、メシのかたまりが、お湯の中に浮いているのを見つけたときはびっくりした。母に聞くと「ごはんを炊いているのよ」とあたりまえのように言う。炊飯器のスイッチは入っておらず、ボタンを押しても反応なしで、壊れていた。炊けているごはんを買ってきて、炊飯器の釜にぶち込んでおき、ときどきお湯を足して食べている?話を総合すると、そういうことになるようなのだが、いったいいつからそんなことになっていたのか不明であるのが、恐ろしい。母の手をかけてはいけない、と母の作る食事を食べたいと要求することもなくなっていた。今度からは、無理にでも作らせて、食べなくてはいけない。

 午後、地域包括支援センターに出向く。午前中の病院で、書類を書いてもらう確約が得られたので、その結果を持っていくと、介護保険の申請の書類を記入しながら、介護保険の説明を受ける。今後、母の自宅に区から調査員が行って、介護保険の認定がその結果によってなされる。が、おそらく私の話を総合すると、母が「要介護」に認定される可能性は低く、「要支援」であるか、もしくは「非該当」の可能性も結構あるという。そんなに認知症の山は高いのかと驚く。

 ネットで読んだ、介護保険のサービスを使いたいのに「非該当」になってしまったという話、を地域包括支援センターにすると、非該当なら非該当で、「一般介護予防事業」という仕組みを使えば、介護保険と同じように、福祉サービスを1割負担で利用できる、という話で安心した。どういう福祉を使うかはこれから考えていくとして、親子が離れて暮らしているのだから余計、週一回なにかの福祉を使うことで、見てもらうというのは重要、という地域包括支援センターの言葉は、私の考えと全く同じで、ほんとうによかった。認定調査の日程調整は、区から私のところに連絡があるはずだが、その連絡があったら地域包括支援センターにも連絡してほしい、とのこと。そうしたら当日は地域包括支援センターも同席してくれて、調査の後直接本人にサービスのおすすめをやってくれるという。

 その帰り道、よろず相談所にも立ち寄る。病院の検査に間に合うように、きのう電話をくれて、これまでの見守りの履歴を教えてくれる、という約束だったのに、きのう電話がなかったため、こちらもアポも取らずに突撃する。よろず相談所には区の看板がついていたが、プレハブ小屋だった。引き戸をあけ玄関先で挨拶をすると、「声で思い出した」と先日の女の声が叫んだ。きのうお電話を頂戴できるという話だったんですが、と紳士的にお尋ねすると、さいきん晴れたり雨が降ったりという話から、駅前のスーパーの話、公園で遊んでいる子供の話、きょうは学校は終業式です、などのよろず相談をされ、話をはぐらかしてまーす、という調子で、話をはぐらかされた。

 母には介護保険のサービスを利用することになりそうだ、という話をよろず相談所にすると、よろず相談所は「そういえば、まだお熱を測っていただいてなかったですよね」と私の額に体温計をあて、その結果は38.6度で、「きょうは晴れてますからねえ」とよろず相談所は言い、なんどもなんども私の体温を測定するが、何時までたっても体温は38度を超えていて、ざまあ、と私は思ったが、よろず相談所は「訪問者の体温」という帳面を取り出し私に記名させると、その体温の欄に「36.2」と記載して、帳面をしまった。

 私の体温はどうでもいいので、介護保険の話を強引に続けると、よろず相談所はとつぜん「非該当ですよう!あなたのお母さんは非該当!私は反対よ!ヘルパーなんてまだ早い!」と叫んだので、おどろいた。そこで私は、またイチから母の様子がおかしいと気づいた時からの話をするが、「そんなことありませんよ!」とよろず相談所はなぜか強気である。「じゃあ、オタクはウチの母の何を見たんです!」といよいよこちらもヒートアップよろず相談所。

 すると、よろず相談所は言った。「こないだお母さまを訪問したのは、去年の秋!電話の調子がおかしいから見て欲しいと言われて、お宅に上がらしてもらいました!新鮮なおみかんを買ってらっしゃいますぅ!ちゃんと!電話はアタシよくわからないので、NTTさんにつなぎましたぁ!ええ!つなぎましたッ!なにか回線の調子がよくなかったらしくて、電話線の部品を交換してもらったんです!」という。いや、母はそのころから急激に難聴になり、だから私は音量調節のできる新しい電話機を買い、難聴者用の電話拡声器を付けたのだが、そんな話をよろず相談所にしても通じなさそうだったので、その話はしなかった。「だいじょうぶ!新鮮なおみかんを買ってらっしゃいますぅ!ちゃんと!」と新鮮なおみかんの話を、よろず相談所は3回繰り返した。

 よろず相談所も区の施設なので、介護保険を使うようになると、ケアプランの会議なんかで顔を出すことになるらしい。げーと思った。認定調査の日も立ち会いたい、とよろず相談所も言ってきたので、丁重にお断りした。しかし、よろず相談所の主張でなるほどと思ったのは、「介護サービスを入れることで、外にでなくていい環境をつくってしまうと、逆効果ですョ!」という話で、それはたしかにそうである。よろず相談所主催の、老人体操教室のパンフレットをもらって、帰宅する。

2022年3月27日日曜日

傷は治っても――母が認知症(2)


2022年3月18日

 きょうは私は南平でテレワーク。仕事を終えて、すぐ江戸川区に向かう。明日の母通院(救急外来・傷の様子見)が早い時間のため。自分が付き添う必要があるのを忘れて、朝一番がいい、とかおかしな注文をしてしまった。実家に着くと、母は、病院の指示通りに傷口のシートを貼らず、家にある絆創膏を貼っていたのでケンカになる。しかし、傷口のシートの使い方なんか、私も知らない。母が医師からの指示をうなづいて聞いていたので、私が覚える意味はないと、聞いていなかった。馬鹿かと。病院の救急外来は24時間つながるというので、夜中に電話をかけて、看護婦さんに貼り方を習う。こりゃあもう老老介護、いや認認介護の世界である。

 母はこの日、明日の通院をきょうと勘違いして、私がいつまで経っても連れて行きに来ないから、ひとりでタクシーをつかまえて、病院まで行ったのだという。受付で、明日ですね、と言われて、またタクシーに乗り、家に帰ってきたとのこと。そんなおかしなことがおこっていたとは。カレンダーも理解できなくなっているのだ。

 どうして電話してこないの?というと、母は、私は仕事に行ったのだろうと、会社に電話したが繋がらなかった、という。私は母が倒れたりして、家に誰かが救助に来た時用に、実家の壁に、私の勤務先の電話番号を貼ってあったが、その電話は9時から18時までしか繋がらず、それ以外の時間は私の会社は電話線を切っているのである。こんな会社の電話なんか別にいらないねと、紙をはがして捨てた。私のスマホの電話番号の紙も、同じところに貼ってあるが、母は直接私のところにはかけたくないらしい。しかし、今後はもう、この電話しかあなたは私には連絡できません、と宣言しておいた。

 台所にマクドナルドのハンバーガーが、先日からずっと置いてある。母にいつ買ったのかと聞くと、「マックのポテト再開の次の日に買いに行ったのよ」と言う。そのニュースをスマホで調べて計算するに、2022年2月8日に買った、ということになる。そんなことはあるだろうか?マックはほんとうに腐らないのだろうか?いや、私は2022年3月5日に実家に帰っているが、そのときはなかったはずである。一口食べてみると、うまいが、気味が悪くて捨てた。

2022年3月19日

 朝9時に病院の予約をとってあったが、8時過ぎに病院に着くとすぐに救急外来に案内され、9時前に傷の様子見は終わり、9時半には家に帰っていた。傷の治りはまあ順当で、きのう夜中に貼ったシートは剥がされ、新しいものに貼替え。今後の貼り直し方の再指導があり、今度は私は理解したが、母には無理のようだった。救急外来にくる必要はもうないと言われる。傷の様子がどうしてもおかしいようなら、今後は脳神経内科の診察のあるときに、相談に寄ってください、と言われる。そのとき、そういうことなら傷のシートはもういいだろう。勝手に絆創膏でもテキトーに貼っておけば良い。と思った。あごが一生紫色だろうが、手の甲の皮膚がなかろうが、生きていればいいじゃないか。ということにしよう。

(実際、このあと、医師の指導通りに、シートを貼り直す計画を一応立てたが、母は理解せず、後日、私がまた帰ったときに貼ってやったシートは、数時間後、風呂に入る際に剥がした。シートは防水で、剥がそうとしなければ剥がれない。終了。まあ実際、シートなんか貼らずとも、傷は治ってきている。母は、生きているからである。)

 病院に半日は掛かると思ったが、すぐに帰宅となったので、私は自室にこもり、各地に電話相談をした。まずは、区のホームページに書いてあった、江戸川区認知症ホットライン。「母はどうも認知症であり、来週金曜日に詳しい検査、その次の週の木曜日に医師から検査結果の伝達があるが、まあどうも初診の感じで認知症であるのですが、区のどういう制度があるのか知りたいんですけど」という初心者っぽい質問をすると、「そういうことなら、まずは介護保険の申請をして、認定まで行くところから、ということになります」ということであった。なにせ介護保険の仕組みを使っていくことになるらしいことがわかった。

 介護保険の申請ということになると、地域包括支援センターに電話してください、との案内で、地域包括支援センターに電話をかけると、「いまさっき認知症ホットラインに電話されていた方ですね?」と言われ、情報がすぐに共有されてあった。もう一度同じ説明をせずに済んで、よかった。「来週金曜日に検査があるんですよね?そのとき病院に行ったら、先生に書類を書いてもらえるかを確認してください。OKと言われたら、その足で来週金曜日にウチに来てください。申請をしましょう」とぐんぐん話が進んでいき、安心する。

 母が救急車で運ばれた際、私のところに電話が来たのは、母がつけていた江戸川区の「みまもりふだ」をつけていたおかげである。その「みまもりふだ」の管轄である、江戸川区のよろず相談所にも電話して、お礼を言う。よろず相談所は、地域の高齢者の家を時々訪問する活動もしているらしく、ちょうど母と数ヶ月ごとに話しているという活動員が電話に出ており、「救急車で運ばれたと聞いたから、それはびっくりしたんですよ」、と言われる。その言い方が、なんだか癪だった。

 まあこっちが救急車のときのお礼で電話しているんだからそういう話になるのだが、救急車はもういいんである。それはそうと認知症について病院で相談したんですよ。あなたは数ヶ月ごとに母とあっていたのならば、母の様子がおかしいということには気づかなかったのか、という疑問を、そんな強い調子でなく、質問した。すると活動員は、母のことで覚えていることを脈略なく次々と語りだす。それは世間話の内容などで、あまり意味が感じられない、井戸端会議の議事録だった。この人とは、話が合わない。ということが、世の中にはある。

 そうだ議事録。訪問しているのならその際の記録をとっているんだろうから、それを開示して欲しい、と私は言った。「時系列にまとめるのに時間がかかるから、来週の金曜日にその記録を病院で説明する必要も出るかもしれないし、来週木曜日にこちらから電話して、報告しますね」と言ってもらえて、いちおう安心した。のだったが、その電話はなんと、かかってこなかったのである――

2022年3月20日日曜日

母が認知症

2022年3月16日

 私のスマホには、知らないところからしか電話がかかってこない。それは知っている人間が、母しかいないからだ。電話がかかってくると、記録が残っている電話番号をネットで調べる。すると迷惑電話の噂に必ずヒットするので、その電話番号をブロックする。それがいつもの手順だった。しかし、仕事中にしつこくかかってきていた電話番号を、仕事を終えたあと、酒を飲みながら調べると、母が一人暮らししている実家の近所の総合病院だった。すぐに病院に電話をかける。母の生年月日を伝え、お世話になっていないか、と尋ねてもどうも要領を得ない。実家に電話をかけるが、つながらない。すぐに実家に向かうため、京王線に飛び乗る。行きがてら、会社の上司にメールをして、翌日の休暇を申請。高幡不動で、各駅停車から急行に乗り換える頃、上司から電話をもらった。

 実家に着いたのは夜の9時ころだった。母はベッドで寝ていたが、顔に包帯を巻き、また右手に巻いた包帯は、血で真っ赤に染まっていた。母を起こし、事情を聴く。近所で転び、起き上がることができず、知らない奥さんが救急車を呼んでくれ、病院に運ばれたという。病院で、傷の治療と、頭の検査をしたが、大したことがないので、病院の近所でタクシーをつかまえ、帰ってきた、という。それはそうと、手が真っ赤だよ、というと、自分の手でないように、驚いていた。包帯なんかウチにないので、近所に買いに行く。セブンイレブンで、包帯ってありますかね、と聞くと、これなら、と巻くだけなんとか、という商品名の、テープを貼らずに包帯がくっつく、という商品があり、それを貰いつつ、そんなふざけた商品で傷が悪くなったらどうするんやと、22時で閉まる直前のドラッグストアで、白衣を着ている店員をつかまえ、転んで救急車で運ばれて、というところから、傷の大きさや状態までを全部話すと、では、このまくだけなんとかっていうのが、とまくだけなんとかをすすめられたので、まくだけなんとかを3つ買って帰る。

 母は自分のことを、息子である私に、まったく話さない。母が乳がんで入院手術をして、抗癌剤治療の通院をおこなっている、とわかったのは、父が肺がんで死んだその日の夜のことだった。今回の転倒も、これで4回目だという。4回とも救急車で運ばれていたのである。では、なぜ今回だけ私のところに病院から電話があったのかといえば、母が自分で区の高齢者見守りサービスに登録しており、その見守りキーホルダーというのをつけていたので、その名札の番号から、区が緊急連絡先として指定されていた私のところに電話があったのだった。手が真っ赤であった当時は、もうそれが心配で心配で、焦っていたが、今になって振り返れば、傷はあくまで傷であり、まあたいしたことないと言えばたいしたことはない。問題は、大事があっても電話をしてこない母の神経の問題であり、それは性格に過ぎないとしても、このところの母はおかしかった。これを機会に、病院にきちんと相談しよう。母は、認知症なのではないか、と。

2022年3月17日

 病院に付き添う。まずは救急外来で、傷の様子をみてもらう。包帯を巻き直して、治療は直ぐに終わった。が、受付で、事情を説明してみると、午後に神経内科の診察がある日だから、そこで、転んで頭を打っているから、頭の中も見てもらいましょう、ということにして、相談をしてみたらどうかしら、と非常にスムーズに話が進んだ。実際に、転んだ昨日、CTの検査も受けているので、タイミングとしては申し分ない。病院の近くのイオンで時間を潰して、午後の診察を待った。診察室に入るように言われて、進む母を制止し、看護婦にまずは付き添いの私から相談させてもらえないか、と小声で話すと、そんなことはよくあるという感じで、奥から医師が、どうぞ先付き添いの方お話ききまーす、と明るい声がして、安心した。

 私と母は、あまり仲が良くなく、私が発達障害ということもあるのか、すぐ喧嘩になってしまうので、お互いに離れて暮らしたほうが都合が良いと、私が実家に帰るのは、年に一回くらいでした。2022年の正月帰省した、その前の帰省は2021年のゴールデンウイークでした。その時はなんともなかったんですが、2022年の正月、まあこれもやりとりはなんともなかったのですが、ただ一点だけ奇妙なことが起こったのです。それは夕食の時、私と母しかいないのに、母は皿を5枚持ってきて、テーブルに並べたのです。私がそれを指摘すると、母は、みんなで使ったらいいじゃない、と言いました。それは、とても不気味で、私はこれから月一回くらいは様子を見に来よう、と決めたのでした。そのとき、私はスマホに、母の様子をメモることを始め、その表紙に、母の生年月日をメモっていました。昨日、病院から母の生年月日を尋ねられたとき、すらっと言えたのはそのためです。1938年11月26日。

 2022年2月も、月の初めの週末に帰省しましたが、そのときも同じように、夕食の際、母は、空の皿をたくさん並べていました。私は、母が区の絵画教室に行っていることを知っていたので、そういう場所で休憩時間に皿をさっと並べて、気を遣うことが癖になっているのかな?と思うことにしました。しかし、また帰省となった3月の5日、その夕食の時、どうして皿を並べるのか、母にまた尋ねると、母は言ったのです。陽子さんも信子さんも、食べたいって言うから、出してるのに、ひょっと見ると、いなくなっちゃうんだもの、と。陽子さんや信子さんは、母の妹の名前ですが、陽子さんも信子さんもすでに亡くなっています。ホラー映画のようなことが、母には起こっているのでした。

 その食事の際には、こんなことも聞きました。先日、玄関で鍵がなくなってしまって、困ってお隣さんに助けてもらったことがあったのよ。お隣さんがどんな人なのかも私は知りませんでしたが、すぐにお隣さんを訪ねて、聞いてみると、その母よりも2つ年が上だという老婦人、いつからお隣さんになったのか知らないですが、私は実家を離れてもう20年も経っているので、そういうこともあるのでした。老婦人は言いました。ああ、こないだ、鍵をなくしちゃったって言うから、どうしようかねって、あなたのうちのドアを見たらね、鍵穴と反対側の溝に鍵が刺さっていてね、ここにあるじゃないって言ったら、あらなんでこんなところに、って驚いていましたよ、年をとるといろんなことがあるから、あわてちゃあダメよねって、笑ったわ、って、それは笑い事ではありません。どこにどうやってなんと相談したらいいんだろう、とこのところずっと考えていたのですが、その矢先に、母がこうして救急車で運ばれまして、

 そのように、事情を私が立て続けに話すのを聴き続けた医師は、頷き、まあレビーかアルツハイマーか、どっちかって気はするよね、と言った。そして、母を診察するといい、母が診察室に入ってくると、医師は老人用の声色と声量になり、はい、では今日は何日か言ってください、と言ったが母は日付を覚えていなかった。でもまあ、私も咄嗟に日付を聞かれても言えないこともあるだろう。はい、では今年は、2せん何年ですか、という質問に母は、2026年と答えた。では、令和何年ですか、と聞かれると、レイワってなんですか、と母は言って、診察は終了となった。認知機能の検査をすることになった。またその日は私も、母のこれまでの様子の聞き取り調査をされることになっている。こうして母の認知症との戦いは、幕を開けたのだった。

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