2019年7月31日水曜日

弱者のユーモアを見る視線の問題


高橋源一郎『一〇一年目の孤独 希望の場所を求めて』は、文学者であり障害児の親であり障害者の子であり学生運動の経験者であり…といった筆者がそのような立場から、関心のままに様々な場所に赴くルポルタージュで、そこにぼんやりと設定された共通項は「弱者」なのだが、この言葉が登場しはするものの明確に定義されないので、正確なところはよくわからない難しい本だった。しかしこの文学者の自伝というような内容である、ととりあえず理解しておくことはできる。
 ひとつの単語にすれば「弱者」ということになってしまうだろう、彼らのいる場所を訪ねるようになった理由の一つに、好奇心があることは否定しない。
 けれど、もっと大きな理由が他にあったことに、わたしは、途中で気づいた。それは、その「弱者」といわれる人たちの世界が、わたしがもっとも大切にしてきた、「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、ひどく似ていることだ。
間違いかもしれないが、そう思ったのは、「弱者」への想像力を働かせる筆者は、そのようなスタンスであるからこそ、ほんとうのほんとうに「弱者」ではないという立場にいるのではないか、と田中はそう思った。たとえば田中は発達障害者であり、障害者としてどうどうと、ほかの「弱者」に共感を感じることが、近日、とても多くなった。そういう共感を示す権利を得た、というような思いがある。

障害者でないと障害者を語れない、というのはちがうだろう。が、一方で、障害者以外の人間が障害者(など)を「弱者」として語ることは、本当に難しいことだと感じた。ただ、この本は、そのような難しいことを、極めてがんばってやっている、という印象は受けた。難しい問題で、このような印象論以上のことは、いま書けない。

田中は大学時代、文学を専攻していて、卒論は高橋源一郎だった。そのころの共感は、彼の作品がたんじゅんに面白かったからだったが、いま田中は障害者となり、そして高橋源一郎が障害者について書いているのを読むというのは、なにが喜ばしいことなのかわからないが、なんだか落ち着くべきところに物事が落ち着いていて、(正しい言い方ではないかもしれないが)うれしくなってしまった。

わたしは、この話を聞いて、ここには、なによりユーモアがある、と思った。三十年もの間、休まずに「デモ」が続いている理由がわかったような気がした。
一か所だけ出てくるのがなんだか唐突な印象で、その印象ゆえに印象深い、この本のキーワードの一つが「ユーモア」だろう。「弱者」はその弱点を直視するだけでなく、一歩引いたところに別の構造をもつ強さがある、と高橋源一郎は感じているのではないか。それは障害者として生きていくうえで、田中も見習わなくてはならないと思う一方で、そこに「ユーモア」を見るのは、高橋源一郎が「弱者」を外側から見つめているからなのではないか、という疑問も残る。これが先ほどから繰り返している、この本の難しいところだ。



2019年7月20日土曜日

私という動物たちをめぐる冒険


だいぶん時間をかけて読んできた大江健三郎『日常生活の冒険』をようやく読み終えた。物語の冒頭で結末が語られてしまい、基本的にはそこに向かっていくだけの物語だ。その構造が主人公「ぼく」の「ヒポコンデリア」(ちょっとした身体の異常を、自分で勝手に判断して気に病む精神病的症状。心気症)という作品の主題と結びつき、終始重たい話であった。
ぼくのヒポコンデリア最悪の状態になり、毎朝、向いあったベッドに目覚めておたがいを発見するたびに、ぼくの妻は、ぼくが眠りながら、鶏ほどにもけたたましく恐怖の叫び声をあげたことを話した。ぼくはいつもオーデンの《タフな心をもった男も、眠っているあいだには涙脆くなる》という詩句で対抗したものの、それはしだいに妻にもぼく自身にも感銘をあたえなくなった。妻は実家からつれてきた大きい犬を躰にひきつけてぼくの夢のなかの怪物を警戒しながら眠るようになった。そしてとうとう、ぼくが眠ったまま大声で二時間も泣きわめくという夜がきた。朝ぼくは決心した。妻もまた、彼女の憐れな夫が、このようなタイプの日常生活を送ることに心理的な犠牲を払っていることを理解していたのでとくに説明はいらなかった。
長い引用となったが物語も終盤近く、ここに至るまで何度も「日常生活」という言葉が登場してはいたのだが、この部分にある「このようなタイプの日常生活」というものこそが、通常読者が思い浮かべる「日常生活」なのであり、しかしそれはここに至っても完全に否定される。したがって『日常生活の冒険』という物語を[日常生活]の物語と思っていると読者はつまづくようにこの物語は出来ている。ホテルの朝食メニュのような食卓の描写や近所を犬を連れて散歩する、そんな[日常生活]の場面は一切出てこないのである。では、この作品における「日常生活」とはなになのか。
いま、日常生活の冒険という言葉をつかいながら、ぼくは過去と未来とを吹きぬける自分の内部の風洞に耳をおしつけて、風の近づいた夜更けぼくの生れた谷間のケヤキの梢がたてる音のように、ひとつの遠方からの声が語りかけるのを聞く思いだ。それはぼくと斉木犀吉のぼくらの生涯の三度目の出会いの夜、かれがウイスキーに酔って、ぼくに話した日常生活の冒険についてのかれの意見である。
これは作品の冒頭からの引用で、これに続く斉木犀吉の言葉も全部引きたいくらい、この言葉が作品全体を支えるコンセプトのようなものがこれを説明してみれば、「原色動物大図鑑」の話にはじまる斉木犀吉の言うには、「廿世紀人間はたれもかれも核爆弾で殺されるというその目的が異ならないので構成的相違の品種が少ない、というわけなんだよ。そこで、おれは、自分の能力をフルに発揮して、自分だけでも他のホモ・サピエンスとは構成的相違のある別品種になりたいんだよ」、ということなのである。


そのような物語の登場人物たちには、「斉木犀吉」「雉子彦」「鷹子」といったように動物の名前をもつものが多く、作品中の比喩にも動物が多く登場している。人間は動物にたとえられ、それぞれに「日常生活」を生きているのである。本記事最初の引用でも「ぼく」は「」にたとえられていた。

終盤、斉木犀吉の言うとおり、原爆の被害から白血病で死にゆく「」という人物を斉木犀吉は意外な方法で[救う]のだが、そのように政治に絡め取られる「廿世紀人間」の層の下に、犬の散歩的な[日常生活]があるとしたとき、この物語が描く「日常生活」はもう一つ下層の心理的な層だ。だから彼らが政治運動に近づけずに失敗するのは[失敗]ではないのだろう。公的な人間に対する、私の深層=真相をめぐる冒険―。


さて、この十二年間ぼくはかなり多くの小説を書いた。大学の友人の妹と結婚することもきめていた。ぼくは、自分の廿五歳の誕生日に結婚するつもりだった。結婚し、二人の子供をつくり廿冊の自分の本に背後から責めたてられ、軽いアルコール中毒になり、癌で死ぬる、さして天才のない作家の生涯のおだやかな線路に、ぼくの機関車は乗ろうとしていたのだ。あらゆる冒険的なるものをあきらめて。
あくまで斉木犀吉の友人としてはじまる物語の主人公は、物語が走り出してから突然、小説家であることが判明され、大江健三郎の事実を思わせるエピソードが混入される、この書き方がまたおもしろい。ここでも作者は[私をめぐる冒険]をやってみせている。作品の読みどころは、そうした作品の構造と、ヒポコンデリアの雰囲気とを、捉えることである、と田中は読んだ。

一本指の限界の先


タッチタイピングを目指してタイピングをはじめて20日が経過しました。ほとんどを人差し指で入力しているのでは一定以上の速度が出ないと悟った田中は、正しい運指を覚え、覚えたら速度を上げ、するといずれタッチタイピングつまりは手元を見ずともタイプできるようになると、そういう算段でした。

その計画、は続くのですが、強化期間は終了にすることになりました。田中は20日間で正しい運指を身に付け、なんとなく手元を見ずともタイプするところまで成長したのです。さいしょは打ち間違いだらけ、人差し指時代より速度は落ちるし、計画自体が無謀だと思ったこともありましたが、毎日毎日凄まじい成長のスピードを自分でも実感することができました。あとは自然にやっていけばそのうちもっと速く、もっと見ずにタイプできるようになるでしょう。

一日の練習時間は2時間から3時間でした。学校の自習時間を全部タイピングにあて、家でも練習をしました。タイピングを練習するために、キーの押し心地の良い新しいキーボードを購入し(それまでのものは一部キーが壊れていてだましだまし使っていたので)、また教材を揃えて勉強しました。ここではその教材をご紹介いたします。

タイピング練習ワークブック
シンプルで低価格。基本だけを繰り返し練習できます。基礎力が付きます。インターネットの入力訓練サイトに招待されます。この本を買えばいくらでも無料で使えます。

Keyboard Master Ver.6 ~思考の速さでキーを打つ~
練習ソフトはこれです。ゲーム性を抑えたもの、タイムの計測があるのも気に入っています。まだまだこれからも練習していきますが、実際的な文章入力はこのソフトですぐに身につきました。


■イータイピングマスター模擬試験
学校ではこのサイトで何回も模擬試験をやっています。できるとかいって田中はまだ5級生です。一本指では4級生なので、まだまだ伸びしろがあります。伸びしろをつくるために正確な運指を身につけたので、これから一本指の限界の先に向かいます。

と、なんのことはないスピードが落ちてるんじゃないかと、そうも言える現状なのですがしかし、確実に手元を見なくてもタイプができるようになってきています。しゃべるようにパソコンが使える感覚が、少しだけ見えてきて、これからの事務職就業がたのしみになっているところです。

2019年7月19日金曜日

エビリファイの体感


きょうは学校を休んで病院に行ってきました。精神科の定期通院です。医師に相談したことは、とにかく眠いということです。昼過ぎから眠気に襲われ、夕方家に着くまでふらつくように歩き、帰ったらとにかく眠くなる。かなり早く寝ると、真夜中に起きてしまう。しばらく起きていて、朝方もう一度寝る。朝ごはんを食べると、また出かける前に寝ることもある。そのようにこのところの田中の生活は、とにかく睡眠を中心にまわり、乱れていたのでした。

以前にもそういう相談をしていましたが、今回はいよいよ服薬調整となり、まあそういうタイミングを先生もはかっていたところがあるんでしょう。エビリファイ3mgが1mgに変更になりました。まだその生活を試していませんが、おそらくこれでうまくいくのではないかというよい予感があります。ちょうど3が1になるくらいがよいと、学校の言うように薬の種類を変更してもらうのではなく、という予想です。学校が発達障害専門学校なので、学校の先生は医者並みに薬にも詳しく、また医師も学校のことを知っていて、それなりに学校からの意見を尊重してくれます。

これを機会に、のんでわかってきたエビリファイという薬の特徴を書いてみたいと思います。エビリファイは、うつ・統合失調症・双極性障害とともに、発達障害にも使われる薬で、ドーパミンの受容体に作用して、ハイ/ローのちょうど中間のいい感じにする薬です。という公的な説明ですが、それが田中に対してどうはたらくか、それは眠気に代表されるように、「ムダな興奮を抑えている」という感覚の強いクスリです。

これまでの人生で田中は何種類も精神薬を飲んでおり、その中には交通事故で頭を打った時の強力なクスリもありましたが、そういうのをのぞくと、エビリファイがいちばん合っているんじゃないか、という気がしています。眠気には困っていたので、こんかい量を減らしてもらったわけですが、エビリファイにはこれまで感じたことのなかった、精神薬の効果を感じるようになっていて。それは時間がゆったりと流れ、空気がまろやかぁになるという、独特の魔法のような作用です。

朝の時間など、通常あわただしい時でも、時計がゆっくり進んでいて、慌てる必要がありません。そうとう時間が経ってしまったなと時計を見ると、まだ3分しか経ってないやん、というようなことが多くあります。また、以前は喫茶店などゆったり過ごすべき場所に行っても、ひとつことにすぐに飽きてしまい、すぐに脱出して次へ、というところがあったのですが、最近はじっとしていることが多く、じっとしていても全然時間が経たないので、勉強などがほんとうにはかどっています。

クスリの効能をここまで言葉にできるほど実感するのははじめてで、発達障害に詳しい東京都という土地に引っ越してきてよかったと思っています。大塚製薬の採用サイトにエビリファイの開発秘話がありましたので、最後にリンクをはっておきます。
https://www.otsuka.co.jp/recruit/interview/interview-details.html?id=2614

発達障害と国語教育


発達障害者の日常、をひとつのテーマとする弊ブログは、本の話ばかりやっている。それは発達障害者である弊ブログの著者の田中が、読書が好きだからに他ならない。読書においてのみ、田中は救われている。それに比べて現実というのは、わけがわからないことばかりだ。という言い方にもあらわれるように、田中が好きな本はいわゆる文学作品、フィクションである。

「発達障害生徒への配慮」としての「文学読解の軽視」?「ポリコレ以降」の国語教育|矢野利裕|FINDER

ツイッターで流れてきたこの記事について、意見を後日に、と書いてみたはいいが、書くなら早いほうがと、真夜中の中途覚醒時にパソコンを立ち上げた。まずは記事の要約をしてみると―新学習指導要領の国語では「駐車場の利用規約を読み解く問題や、著作権法の条文を読み解く問題などが出題」され、「「契約書が読めさえすれば、論理的思考が身についていると言えるのか」「現代文(評論文)ばかりが重視され、古典や近現代の文学作品を教える時間がさらに削られてしまうのではないか」といった批判や懸念が示されてい」る。

この文学軽視ともいえる事態、新学習指導要領の背景から考えるに、文学は「発達障害をもった生徒(とくに、自閉症傾向のある生徒)に対して過剰負担だ、という議論」の結果であるという話。


自閉症傾向のある人は、言葉を字義通りに受け取ってしまうため、文脈を把握しながら言外の意を汲み取ることや行間を読むことが苦手です(具体的には、アイロニーの読み取りが困難である傾向があります)。だから自閉症傾向にある生徒は、従来的な国語教育が定型発達の生徒に比べて過剰負担になる、というのです。
つまり、こういうことです――文学作品を読んで「文脈把握の力」を養う授業は、「合理的配慮」に反する。文学作品を読んで文脈を推し量る授業は、ポリティカル・コレクトネス的にアウトである。
―以下この記事について、従来の国語好きの発達障害者としての一意見を書いてみたいと思う。自閉症である田中は、現実世界において「文脈を把握しながら言外の意を汲み取ることや行間を読むことが苦手」なのだが、それはたしかにそうだが、国語の成績はよかったし、いまでも文学作品を読むのが好きだ。

文学には基本的に全てが書かれている。だから現実よりわかりやすいのだ。現実における「言外」はまさしく「言外」なのであり、その類推にこそ困難がある。また、現実は文学のように、戻って読むことができず、だからこそ「文脈」がとりづらいのである。あいまいな情報があいまいなまま止まらず流れていくことに、発達障害者である田中は日々苦しんでいる。文学と現実は、こんなふうにちがう、ということがまずある。

こうした障害に対する「合理的配慮」として、障害者雇用の職場で実際に実施されていることとして、「口頭でのあいまいな指示をせず」、「指示はメールやチャットで行う」、「書面でマニュアルを作成している」、といったものがある。契約書や条文はたしかにあいまいさの排除の極地にあり「マニュアル」に近いものだ――が、現実世界の全てがマニュアル化しはしない以上、時間が止まり全てが文字で確認できる文学作品を使って、学生時代に訓練をしておくことは、発達障害者にこそ大事なことと田中は考える。

「合理的配慮」については以前にも書いたように、障害者の一方的な甘えとしての「配慮」に留まらない「理由に合う(合理)」が必要、という考え方だ。現実世界において、発達障害者は、マニュアルのある企業でただ働く前に、とにかくメモを取って現実世界を文字化し文脈を取る努力をしたり、必要に応じて確認をとることで流れてしまうあいまいを巻き戻すといった、障害に対する対策をとるバーターとしてはじめて配慮を受ける権利を得るのだ。これが現実である。

ハラスメント禁止の国際条約、経団連はなぜ棄権したのか

その訓練として、本を読むことは重要だ。厳しい訓練とパワハラの境界がわからない、とは先日経団連がパワハラについて表明した意見で、ここにポリティカル・コレクトネスの難しいところがあるのを承知で――国語から文学を排除することは、単なる配慮であるのかもしれないが、「合理的配慮」ではないのじゃないか。ともすれば発達障害児の訓練の機会を奪うかもしれない。だから田中は、国語教育から文学作品を排除することに反対である。

2019年7月17日水曜日

ビジネスという名の風


今度こそ仕事を上手くしなくてはならない。仕事をして金を儲けて貯金したい。銀行口座に金が貯まるだけ幸せが増えていく。まだ仕事も決まらないのに田中は、ビジネス書を読んで仕事に備えている。きょう読んだ本は松本利明『ラクして速いが一番すごい』だ。精神障害者だからこそ、ビジネス書を読んで、仕事を構造化して、型どおりにこなしていかなくてはならない。

会社で仕事をする、とはいったいどういうことなのだろうか。そもそも仕事とは、ということを考えると、学校で毎日繰り返されるメッセージ「他人の問題解決をすることで対価を得る」という言葉が思い返され、この本に書いてあるのもそれだと思い至る。仕事は自分よりもまず他人である。そうして仕事をすることではじめて自分が生きるということを、肝に銘じなくてはならない。

自分の価値観より会社の価値観を賢く利用」したほうが、結果的に自分の思うように仕事できる。「やりたい仕事」は捨て、「勝てる仕事」に注力する」というのも理屈は同じだ。自分の意志を一旦置くことで、最終的に自分がラクになるのである。


「みんなでやった」と言いましょう。仕事は1人で完結するわけではありません。関係者1人ひとりに「あなたのおかげでうまくいった。ありがとう」と感謝をすれば、相手はあなたに嫉妬しません。人は自分が落とされたり、誰かが1人だけ抜きん出たりすると嫉妬覚えます。逆に持ち上げられると嫉妬はしません。それどころか「いやいや、あなたのおかげです」とあなたを持ち上げてくれるのです。

長く引用したが、これもこの本に書いてあるとおりに、音声入力でダーッと読み上げて入力した。以前記事を売っていた時にはよくやっていた音声入力を、久しぶりにやった。便利なこともすぐに忘れてしまうから困る。

コンセプト通り、この本はものすごい速さで読める。仕事をしていない田中も、仕事をしている気分にもなった。ビジネスという名の風が、目の前を吹き抜けていく。そんな本だ。仕事について考えたい人にオススメする。

2019年7月16日火曜日

お祈り上等


きょうもまた1社からお祈りメールが来たのですが、うまくいっている話が消えたのとは違うので、将来が定まってきたと、良い方に考えたいと思う就活おじさんです。きょうは転職活動中にぴったりの本を読みましたので紹介しましょう。

タイトルからしてその通りといわざるを得ない、有無を言わせない感がありますが、海老根智仁『会社を替えても、あなたは変わらない』ですって。学校の教育に従って真面目に転職活動をしていると、本当にそう思います。自分がまずあり、それにあう会社を選ぶのです。田中は次の会社で4社目となるはずですが、はじめて自己分析をきちんとやって職を選ぼうとしているので、うなづくところも多い本でした。
つまり、自分の強みを実現するフィールドとして会社選びをするのであって、会社選びをしてから、そこで自分の強みは生かせるのだろうかと考えるのは順番が間違っているということです。
田中は障害者として生きていくことを決めました。一般枠から障害者枠にチェンジすることで、「障害特性」なるものを会社に説明しなければならないことにはじまり、では自分の強みは逆に何なのかを考えてみると、これまでいかに自分に無理をして仕事をしてきたかがよくわかります。通常ならば、だからといってこれまでの職歴を無視して、ほんとうに自分にあうのはこっちでした、とキャリアチェンジをするのはなかなか難しいことですが、障害者になる、ということで、その枠は案外簡単に飛び越えられます。

障害者の中でも田中は、チャレンジ精神が旺盛であります。でなければ、いままで工場や農家で働いていたのに、急に事務職なんてできません。しかも田中は障害の特性上、どうも事務職の方があっているのです。書類選考で職歴を重視する会社は、そんなおじさんはいりませんとお祈りするのですが、チャレンジ精神と自己分析をきちんと評価してくれる企業様も、この世の中にはあります。そういう会社に勤めなければ意味がないのですから、お祈り上等です。

自分を買ってくれる企業にきちんと採用されるように、この先もしばらく自己分析をさらに進めていきたいと思います。去年の秋に前職を辞めたのですから、1年が経とうとしています。が、この一年は無駄ではなかった。また、ここに至る職歴すら無駄ではなかったと評価してくれる会社に田中は勤めたいと思います。

2019年7月14日日曜日

採用面接に感じる近代


就職活動の面接ラッシュが一息つき、結果はさまざまですが前に向かって進んでいる話もないわけではないので、これ以上タマを撃ってもわけがわからなくなるので、応募を一旦ストップにしました。6月の頭から応募をはじめてここまでの応募は7社にもなりました。弊ブログで以前に紹介した障害者合同面接会に参加したこともありますが、ここまでたくさんの応募を一度にしたのははじめてです。

学校で面接練習をやり面接を受け続けて、気分がずんずん沈んでしまっています。面接は基本的に虚偽のない書類を提出し、それと同じことが言えるかが試されている、同じことが言えないということは書類に嘘があり、人物も信用できないと、そういう試験と認識しています。

そんな書類通りの人物に田中は責任がとれないよ、思うことはいつも変わるんだし、自分の障害特性を受容なんかするわけがない。毎日毎日生きているのだから、障害の程度だって毎日かわるに決まっています。

だけどこう書いてみると、面接選考がうまく進んでいるところは、面接も型どおりではなく、おしゃべりに近いところばかりだから、そういう自由なところに採用してもらえたら、それでいいのかもしれないですね。

人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる。

きのう放送大学の課題を解くにあたって、ラカンの「同一化」概念をわかりやすく解説している本をインターネットに探してみつけたのが、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』という本だ。

ちょうど大学生のころ東浩紀を読んでポストモダンを考えていた田中には、あのころ東が考えていたことがいまこういうことになっているのかと、そういう意味でもおもしろく読んだ。その途中に出てくる一つの段落は結論ではないが、この本の取る立場の表明として大事なポイントの一つと考える。

これに対して、近代という時代は「まじめ」に偏りすぎた時代であった。近代という時代はいまだに社会に色濃く残るから、引用したような「ふまじめ」を含む態度表明がまだまだ目新しい。採用面接に近代を感じるのは、もう最後にしたいと、最後にするために田中の仕事探しは、もう少し続く。

2019年7月13日土曜日

暗闇の中で吟味する


放送大学2019年1学期履修「文学批評への招待」の受講を終えるにあたって、自習型問題のひとつに回答してみた。

エドガー・アラン・ポーの短編「盗まれた手紙」のあらすじはこうだ。女は夫に知られたくない手紙を机の上に放ってしまい、夫に気づかれたくないから夫のいる前でその手紙を片付けられない、ということを察知した盗人が、二人の目前で手紙を盗んでいく。警察はどこに隠したんだといろいろ探すんだが、それを盗人はいっさい隠すことなく、状差(手紙入れ)になかば放置していたのであった、ということをデュパンが見抜くんである。

さて、この物語の始まり方が奇妙だ、と田中は思った。なんか暗闇の中で煙草を吸っているんである。探偵物語の雰囲気がよいですねと、そう単純じゃないのではないか、ということをポイントに、解答を組み立てた。

エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」を読み、「見ることと同一化すること」という観点から、作中のエピソードを拾い出して解釈しなさい。

 エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」の冒頭、デュパンと「私」のもとに警視総監G-氏が訪問する場面は、たしかにG-氏の言う通り「珍妙」な印象を読者に与える。
わたしたちは暗闇のなかに腰をかけていたので、デュパンは立ち上がってランプを灯そうとしたが、しかしけっきょくは灯さないまま再び座り込んだ。というのも、G-氏が、とんでもなく厄介な事件が起こって正式に捜査しなくてはならなくなったので、ついてはわれら二人に相談したい、とくにわが友デュパンの意見を聞きたい、と明かしたからだった。
「もし熟考を要する問題だとしたら」とデュパンは灯心に火をつけるのを控えながら言った。「暗闇の中で吟味するのが得策だろう」
 訪問者を暗闇の中に出迎えるという場面はいかにも「珍妙」で、印象に残る場面だ。しかし、この描写が最終的な事件の解決を示唆していたと理解するとしっくりくる。「暗闇の中で吟味する」とは、(盗まれる/盗まれた)手紙の保持者が手紙に視線をあえて送らないという、物語で反復される構造の隠喩になっているのである。もしくは「反復」が作品の冒頭から既に始まっていたとも言えるわけだ。
 
 手紙の登場以前からはじまっているこの「反復」をデュパンが説明する言葉が「推理する人間の知性を推理する人間の知性と同一化させる方法」すなわち「知的同一化」であるが、この「同一化」identificationはもともとラカンの精神分析理論の用語である。ここでは東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017)にある解説を補助線として、「盗まれた手紙」における「同一化」について改めて考える。

 東によればラカンの精神分析理論における「同一化」は、「想像的同一化」と「象徴的同一化」とで構成されている。「想像的同一化」とは「対象と自分を重ね、そのふるまいをまねること」であるが、「盗まれた手紙」という物語では、テキストでも指摘のある通り「手紙の移動に従って、登場人物はその位置を一つずつ変え」ているため、単純な「ふるまい」の「まね」が繰り返されているわけではない。では、繰り返されているのはなにか。「彼らがなぜそのようなふるまいをするのか、そのメカニズムを理解すること」すなわち「象徴的同一化」が事件を解決に導いているのである。
 
 「象徴的同一化」について東は「人間は見えるもの(イメージ)に同一化するだけでなく、見えないもの(シンボルあるいは言語)に同一化する」と書き、「ラカンはこの見えるものの世界を「想像界」と、見えないものの世界を「象徴界」と名付けた」と解説している。「盗まれた手紙」においてはそのように「見えないもの」を巡る物語が「暗闇のなかで吟味」されているということになる。

2019年7月7日日曜日

ポストコロニアリズムと「世界文学」


放送大学「ヨーロッパ近代文学の読み方―近代篇」全15回の講義、その最後の回において「翻訳」と「世界文学」について語られたことに関連して、学習した事項をここで報告したい。

テキストにもある通り「世界文学」という概念は、ドイツロマン主義時代のゲーテが「いわゆる国民文学の狭い枠を超えて多様な外の文学の拡がりに目を向けることで、翻訳文学の可能性を提起した」ことにはじまるが、このときゲーテが見ていたのは「「普遍性」という一つの極を志向するという意味で、現在の多極的な異種混淆性をもつ「世界文学」とは趣が異なる」(1)という指摘がある。

目下のところ日本で一番新しい「世界文学全集」を編集した池澤夏樹は、「出発点を今に置く」ことを編集の目標として掲げた時、しぜん収録作品が戦後のものに限られ、また「欧米中心の近代文学の構図も崩れる。この五十年間にはラテン・アメリカやアフリカ、アジアからいい作家がたくさん出てきた。女性作家も多くなった。それはつまり過去には少なすぎたということだけれど」と書いている(2)。

池澤夏樹の編集態度を学術用語に収めようとすると、「ポストコロニアリズム」という言葉が浮かんでくる。ポストコロニアリズムとは植民地主義=近代ヨーロッパ中心主義を脱しようという現代的な動きのことであり、そこには「民族や人種、宗教、ジェンダー、セクシュアリティーなど様々な要因の組み合わせが複雑に関連し合っている」(3)。

この文脈において「翻訳」は、テキストで見ている「外国の文物を受容し血肉と化す」という一極化を超えて、「他者を意識化する」ことで「多重的な世界の中の他者の物語を、重なり合う物語として再読していく可能性をもたら」す、と早川敦子は前掲書で述べている。

このように「ヨーロッパ近代文学」を学び、最後に翻訳と世界文学という視座に行き着いたとき、私たちは「ヨーロッパ近代文学」という枠組み自体を否定しなければならないことになる。それは「ヨーロッパ文学の読み方―近代篇」という講義の枠組の性質上、なかば反則技なのかもしれないが、大事な視点と感じたためここに報告した。

(1)早川敦子『翻訳論とは何か 翻訳が拓く新たな世紀』(彩流社2013)
(2)池澤夏樹「世界文学全集ですよ」(『完全版池澤夏樹の世界文学リミックス』河出書房新社2011)
(3)野口勝三「ポストコロニアリズム」(『知恵蔵』朝日新聞社2007)

茜さす空に、シトラス色の光点が


 阿部和重の『□』(シカク)、ときょう話のタネにする小説のタイトルをパソコンの画面に表示するためにタイプしたその瞬間に思いついたことは、多分正解なんじゃないか。この小説家は、タイトル未定で小説を書き出し、それをパソコンに保存しておくにあたって、とりあえず保存するにはタイトルが必要で、とりあえず「□」という記号を使ったのだ。ただの思いつきだから、あっているかどうかわからないが、もっと意味のあるタイトルを付けようと思えば付けられたはずだから、この直感はどうも当たっている気がする。


 
 しかしでは、この作品が未完成なものの垂れ流しなのかといえば、それは違うだろう。いかにもタイトルは『□』というふうに話が流れている。たとえば作品の冒頭、これは最後でもう一度印象的に繰り返される描写だ。それはまるで季節が再び巡ってきたかのようにと書くと、この小説が「春」「夏」「秋」「冬」の4章で構成されることと対応することになるがともかく、その冒頭をここに引用してみたい。いかにも「□」な感じとは、たとえばこういうことだからだ。
 茜さす空に、シトラス色の光点がふたつみっつほど揺らめいている。
 水垣鉄四は困惑しきっている。
 菜の花を食べたら、角貝ササミが死んでしまったのだという。
 三日ぶりに、烏谷青磁が訪ねてきてひょっとそう告げた。烏谷は泣いている。
 この日は四月一日、烏谷青磁があらわれたのは食パンみたいな雲がトースト化した、薄暮時のことだった。
 世間のルールにしたがい、水垣鉄四は当初その話を信じなかった。
 この時代、世間のルールはすでにあらかた形骸化していたが、烏谷青磁は嘘泣きしているようにも見えた。
引用し始めた時には、最初の一行を引用しようと考えていたが、引用し出したら止まらない。引用したくなる文章なのだ。パソコンで打っていて心地よいという意味で、いかにも作り物の人物名は当然、コピペで連ねるとたのしくなってくる。「四月一日」というのはエイプリルフールを指しているだろう。そんな作り物としての小説の冒頭が、空の描写でありながら不思議なデジタルも感じさせるという、一種の「宣言」として機能している。この作品はこの文章のように、リアリズムとデジタリズムを混在させた情報として、存在させるという宣言だ。


 小説のあらすじは、4つのアイテム(それは人体の4つのパーツ)を集めて死者を生き返らせるという、ゲームかライトノベルのようなもので、カニバリズム(食人)があるなど一見グロテスクな内容だが、この作品は最初の宣言があるから、グロテスクには流れないし、ライトノベルにもならない。文章を味わうたのしみがある。こういう小説を純文学というのかもしれないという気すらしてくる。

 ではここに意味はないのだろうか。というと、ないわけではないのかもしれない。季節は流れ、その時間を生きた人間の、人生の意味はこのように語られる。
おまえの出番はとりあえずここまでなんだ、よくやってくれたなご苦労さん。でもみんな食い終わったら、四パーツやおまえのなにもかもがおれやこいつらのなかに取り込まれて血となり肉となって新しい機能としてそれぞれに備わって即座に生まれ変わることになるわけだ。だからおまえにもまだ活躍の場は用意されていると言えるし、どちらかといえばこれから先のほうがそういう機会を数多く得られるだろう。ちがいはおまえという自我が跡形もなくなるってことだけだ。しかしそもそもおまえ今だって主体性なんてないんだから、結局は一個も変わらんってことなんじゃないか。
切り刻まれる肉体や死体が保存されるプールは、真正面の文字面で理解するとグロテスクだが、最初の宣言があるからこの作品の読者には、そうした肉体は「可視化された情報」と理解される。その理解に立つと、人肉を食べる文化のない人間の生活と歴史も、同じようなものなのではないかという感じがしてくる。


 人生の意味、を真正面から考えてしまうと、「□」という記号のように空疎かもしれない。しかしその「□」が生み出し、「おまえ」という場所に保存された情報は、いかようにも生まれなおされ、生き返される。田中は若い頃から自分の子供を作るつもりがなかった。それは検査と覚悟を経た今になれば、発達障害の遺伝子をこの世界に残したくない、ときれいに語ることのできる性質のものだ。では、田中に生きる意味はないのかというと、田中はそうは思っていない。田中が考え生きたという事実は、どこかの誰かに伝承され、田中は何度でも生き返る。それが人間の人生だから、ということになる。

駒場東大前散歩

以前、毎日の気分を表にチェックする方法を紹介しましたが、それからの数週間、月曜日から金曜日まで学校に行って、土曜日になると何をしたらいいかわからなくなってしまい気分が沈むということが続いていたため、今週はそれに備えて事前に計画を立てて、無理やりにでも出かけることにしたら、今週末はずいぶん気分よく過ごしています。学校に行くために毎日新宿駅を通るのですが、新宿駅にはいろいろな美術館のポスターが掲示されており、いちばん興味のあるものに出かけました。


日本民藝館は田中の住む南平から京王線を使って、駒場東大前駅からすぐの場所にあります。現在の展覧会は「食の器」。柳宗悦(1889-1961)民藝運動の基本編みたいな展示会で、眺めていると心が落ち着きます。普段使いの食器の美しさは特に、柳家で実際に使用されていた器の展示に感じることができました。民藝品には基本的に解説などがなく、ただそれを眺め、実際には使うことで美を感じるので、理屈がないからここに書く事も特になくて困るのですが、料理が載ってるさまを思い浮かべたりして、のんびり過ごしました。障害者手帳を使うと入館料は500円です。


日本民藝館のすぐ近くには、加賀藩主前田家の洋館邸宅が無料公開されており、ここも見学してきました。さらに近くには日本近代文学館、もちろん東京大学があり駒場博物館もありますが、昨日は疲れていたので、前田邸のなかでソファに座って本を読んで帰ってきました。見学者がそれほど多くないので、良い場所を見つけて本を読むのはおすすめの過ごし方です。読んだ本の感想はまた別の記事にしたいと思います。


2019年7月6日土曜日

だから私はクルー


田中の就職活動が行き詰まりを見せて、ブログも進まないので、たまには聖蹟桜ヶ丘のおばさんのことを書きたい。これまできちんと書いてこなかったが、聖蹟桜ヶ丘のおばさんは今月で十三回忌を迎えたことになる。聖蹟桜ヶ丘の街はずれを流れる多摩川の河川敷で、夜中に散歩をしていたらしい聖蹟桜ヶ丘の叔母さんは、鉄パイプのようなもので背後から頭を殴られて、朝のジョガーがそれを発見するまでレンガ色の舗装のうえに倒れていたのである。殺人事件の時効は本国では廃止されており、今でも7月の命日には刑事から手紙が来るが、もう無理だろういまさら誰が捕まりに来るのか。

ところで聖蹟桜ヶ丘のおばさんはマクドナルドホールディングスではフィレオフィッシュしか食さなかった。決して肉より魚という人ではなかったが、トマトという野菜が嫌いで、また朝マックでも通常時間帯でもいつも同じものを食べたいからと、聖蹟桜ヶ丘のおばさんはフィレオフィッシュをいつも選んでいた。きょう駒場東大前のマクドナルドに入ったらまだ朝マックの時間で、フィレオフィッシュのセットと口にした瞬間、田中は聖蹟桜ヶ丘のおばさんのことを思い出したのであった。もうすぐ刑事から手紙のくる季節であると。高幡不動の駅前の商店街では七夕祭りをやっていた。

―労働とは何でしょうか。フィレオフィッシュがのったトレーに敷かれた紙にはこんなことが書いてありますよ。「働く時間もお休みも自由に決められる。やさしい仲間が支えてくれる。自分にあった仕事が見つかる。サポートも手厚く職場に馴染める。だから私は、クルー」。マクドナルドホールディングスではスマイルを販売しているというけれど、メニュウにスマイルが掲載されているのか、少し前に見たような気がするけれど、きょうは見つからなかったわ。いつもフィレオフィッシュしか頼まない私には、関係のないことかもしれないと思いました。あなたもクルーになったらいいじゃないの。どうですか―。

田中は今回に限らずこれまで何度も仕事がうまくいかなくなってきた人間だから、これがいつの失業時代のことかもうわからないのだが、田中のパソコンの中からついこの間、聖蹟桜ヶ丘のおばさんが田中に送ってきた、電子メールの文章が発掘されたので紹介した。いつもはアイスコーヒーを頼むのに、きょうに限ってオレンジジュースを飲みたくなったのは、聖蹟桜ヶ丘のおばさんが田中用にオレンジジュースを勝手に頼んでいたことを思い出したからに違いない。

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