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2019年7月13日土曜日

暗闇の中で吟味する


放送大学2019年1学期履修「文学批評への招待」の受講を終えるにあたって、自習型問題のひとつに回答してみた。

エドガー・アラン・ポーの短編「盗まれた手紙」のあらすじはこうだ。女は夫に知られたくない手紙を机の上に放ってしまい、夫に気づかれたくないから夫のいる前でその手紙を片付けられない、ということを察知した盗人が、二人の目前で手紙を盗んでいく。警察はどこに隠したんだといろいろ探すんだが、それを盗人はいっさい隠すことなく、状差(手紙入れ)になかば放置していたのであった、ということをデュパンが見抜くんである。

さて、この物語の始まり方が奇妙だ、と田中は思った。なんか暗闇の中で煙草を吸っているんである。探偵物語の雰囲気がよいですねと、そう単純じゃないのではないか、ということをポイントに、解答を組み立てた。

エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」を読み、「見ることと同一化すること」という観点から、作中のエピソードを拾い出して解釈しなさい。

 エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」の冒頭、デュパンと「私」のもとに警視総監G-氏が訪問する場面は、たしかにG-氏の言う通り「珍妙」な印象を読者に与える。
わたしたちは暗闇のなかに腰をかけていたので、デュパンは立ち上がってランプを灯そうとしたが、しかしけっきょくは灯さないまま再び座り込んだ。というのも、G-氏が、とんでもなく厄介な事件が起こって正式に捜査しなくてはならなくなったので、ついてはわれら二人に相談したい、とくにわが友デュパンの意見を聞きたい、と明かしたからだった。
「もし熟考を要する問題だとしたら」とデュパンは灯心に火をつけるのを控えながら言った。「暗闇の中で吟味するのが得策だろう」
 訪問者を暗闇の中に出迎えるという場面はいかにも「珍妙」で、印象に残る場面だ。しかし、この描写が最終的な事件の解決を示唆していたと理解するとしっくりくる。「暗闇の中で吟味する」とは、(盗まれる/盗まれた)手紙の保持者が手紙に視線をあえて送らないという、物語で反復される構造の隠喩になっているのである。もしくは「反復」が作品の冒頭から既に始まっていたとも言えるわけだ。
 
 手紙の登場以前からはじまっているこの「反復」をデュパンが説明する言葉が「推理する人間の知性を推理する人間の知性と同一化させる方法」すなわち「知的同一化」であるが、この「同一化」identificationはもともとラカンの精神分析理論の用語である。ここでは東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017)にある解説を補助線として、「盗まれた手紙」における「同一化」について改めて考える。

 東によればラカンの精神分析理論における「同一化」は、「想像的同一化」と「象徴的同一化」とで構成されている。「想像的同一化」とは「対象と自分を重ね、そのふるまいをまねること」であるが、「盗まれた手紙」という物語では、テキストでも指摘のある通り「手紙の移動に従って、登場人物はその位置を一つずつ変え」ているため、単純な「ふるまい」の「まね」が繰り返されているわけではない。では、繰り返されているのはなにか。「彼らがなぜそのようなふるまいをするのか、そのメカニズムを理解すること」すなわち「象徴的同一化」が事件を解決に導いているのである。
 
 「象徴的同一化」について東は「人間は見えるもの(イメージ)に同一化するだけでなく、見えないもの(シンボルあるいは言語)に同一化する」と書き、「ラカンはこの見えるものの世界を「想像界」と、見えないものの世界を「象徴界」と名付けた」と解説している。「盗まれた手紙」においてはそのように「見えないもの」を巡る物語が「暗闇のなかで吟味」されているということになる。

2019年4月25日木曜日

熟成したワインがお好きでしょう?(さようなら、わたしのワインよ)


平成最後の、令和元年の、ゴールデンウィークを前にして、田中が時代の最後に書いておこうと思うことは、田中はにわは残念ながらもう、ワインを愛していないということだ。ツイッターでもワインをつながりとした友達が多いから、なかなか言えなかったことだが、田中はワインを平成に置いていこうとしている。

あまり大きな声で言うことはできない、と言いつつ、インターネットで声量を調節することは不可能だが、これまでココでも言ったことがあるからいいんだろう。いま無職の、田中の前職は、山梨県でワインに関係する仕事をやっていた。そこで事故にあい(怪我)、いや事故以前から職場に対する不信感がつのっていて、それが事故を契機に爆発して、いや静かに決意をして、するっとそこを辞めて東京都日野市南平に引っ越してきたのだ。

田中はいまでもワインを中心とした文化と、またワインをめぐる科学とに、強い興味を持っていることは、また一方で事実である。特に、山梨県の偉人である麻井宇介に関する興味は尽きない。田中がウィキペディアの執筆をやってみたいと言いつつ時間が無くてできていないが、なぜそう言っているのかというと、ウィキペディアに麻井宇介という項がないからだ。だれかが書いてくれたらそれでよいが、このまま放置されるようなら田中が執筆したいと思っているんである。

ではなぜ田中はワインを捨てるのかといえば、単純な話、田中はほとんど酒が飲めないのである。ワインが仕事であった時代、ワインをたしなむことは義務であったが、そこにタノシミを見出すことはついぞできなかった。飲食文化が理屈として成り立っていることには、その形而上学にはいまでも興味をひかれているものの、ワイン自体のたのしみは、たぶんわかっていないんだろうとおもう。またワインを飲み、酔うと、いまこれも酔った勢いで書いているのだが、酔うとあのワインの職場でのいやな記憶ばかりが、あのワインを愛する人々特有の偏屈が、思い返される。時代の節目とともに、いやなものは捨てるに限る。

まず、言っていなかったが、田中は東京都日野市南平に越してきたとき、山梨県では部屋に付いていた冷蔵庫がココには無いため、冷蔵庫代わりにワインセラーを使用することにしたのだった。そこで職場で習ったとおりに熟成させていたワインは、流しの下につめこまれ、日々消費されたり風呂にぶちまけて香りを楽しんだりされている。そんであともうひとつ、田中の部屋を狭くしている紙束、これは在職中にさんざ勉強した論文のたぐいで、これをもう捨てたらよいようなものの、ただ捨てるのも癪なので、ここに読書感想文のように著作権法にのっとって公開することで、供養していこうと思う。当時、田中がインターネットに頼っていたように、誰かの役にはきっとたつだろうと思う。

New Food Industryという専門誌がある。食品資材研究会が出している。その名の通りの雑誌だが、たまにワインの専門家も寄稿しており、チェックしておく必要のある雑誌だろう。2010年52巻1号に、佐藤充克(山梨大学)「ワインの熟成と成分の変化について―最近の醸造方法と機能性―」という論文が見られる。赤ワインの「熟成」とはなにか、またマイクロオキシデーションに興味がある方も参考になる論文である。

ワインは熟成すると、アントシアニンを含むポリフェノールの重合が進み、色調も紫色から赤、そしてレンガ色になり、味も角が取れてスムースでマイルドになることが知られている。

以上。という感じの切れ味があるこの文章は、論文の冒頭の文章である。ワインの熟成についてわかりやすく書いてある論文として、田中が大変お世話になった論文である。ポリフェノールというのは、植物が自分を守るためにつくっている色素や苦味成分の総称でありまして、ブドウ色のアントシアニンもそうですし、たとえば苦味成分カテキンもブドウには含まれているのですね。ワインが発酵している間にはアントシアニンは変化しないんですが、その後の熟成期間において、アントシアニンはカテキンとくっついていくんです。つまり、アントシアニン・モノマーが減り、重合が進む。それによって色素が安定し、苦味も減るから味がまろやかになると。

さてここで問題なのは、アントシアニンとカテキンの結婚、という反応を媒介する仲人が必要ということで、それがワインの酸化によってうまれるアセドアルデヒドなのですね。ですからアセドアルデヒドだらけのワインは飲めたものではなくなってしまいますが、ほんの少しのアセドアルデヒドは重要と。この手の、ちょっとの毒がワインをうまくする理論、はノムリエの皆さんがよくご存知のところです。で、ちょっとのアセドアルデヒド、ちょっとの酸化を促すための方法が、マイクロオキシデーション、酸素をぶくぶくとポンプで入れる方法である。

また論文をはずれれば、いま話題の、ワインのふるさとジョージアの、土器に入ったワインも、その器を通した微妙な酸化が効いているはずで。日本のワイナリーでもこの手の動きはありますよねと。 そんなことでこの論文のコピーは無事、東京都日野市の廃品回収に出されました。こんな感じで、あと何百もブログが書けるが、書いているうちに飽きてしまったら、ファイルごと廃品回収に出す。さようなら、わたしのワインよ。

2019年3月16日土曜日

ヘンタイとして生きていく


仕事がない期間は暇だからと放送大学生になった田中は、まいにち大学生の頃よりもよく勉強している。放送大学には卒業をめざす全科履修生と別に短期滞在型の履修生がおり、これで単位をためておいていよいよというところで全科に切り替えて卒業もできる。田中はそのような目論見でいる。

最初から全科履修生にしてしまうと金銭的な縛りもあるしなにより、卒業のために単位をとるという学生時代と同じことを繰り返しても意味がないからだ。興味の赴くままに履修した結果この方向で卒論を書いて卒業できるという道が見えれば、それが一番おもしろいしそれで卒業できたら放送大学で修士をとるのもいいだろうと考えている。

放送大学にはテレビやラジオで受ける授業だけでなく、学習センターで実際の講義を聴く「面接授業」がある。1学期の正規授業は15時間だが面接授業は8時間集中講義のため単位は1単位しかもらえない。しかし学生時代のように教室で講義を受けるのもおもしろいだろうと思って申し込みをしたら受講可能になったので、先生に質問ができるように予習をしている。そのテーマは「実存主義」であり、サルトル、カミュ、ボーヴォワールが取り上げられる。

田中の学生時代の専門は日本現代文学だったがいまでは「現代」をアップデートできていないし、近代文学はもちろん外国文学もまったく読んでこなかったので、田中には勉強しなくてはならないことがまだまだたくさんある。若いころほど文学に強いこだわりもなくなり、また文系にも限らず、勉強したいことを勉強していくというスタイルだ。

そこできょうの話はカミュの『異邦人』という小説からはじまる。この小説のあらすじは非常に有名である。とはいえ田中は読み進めるまで「あのあらすじが『異邦人』だったのか」という感じで、馬鹿の役得としてこの作品をわくわくしながらまっさらな頭で読み進めた(田中も使う読書メーターで他の方が書いておられるように、新潮文庫版の裏表紙のあらすじは最後の最後の結末まで書いてしまっており、振り返る際には非常に都合がよいが、はじめて読む人は先に見ないようにしましょう)。

外国文学には翻訳という問題が常につきまとう。だからフランス語の原文を読んだ時に同じ感じがするのかどうか授業で先生に聞いてみようと思っているのだ。フランス語には男性名詞・女性名詞の区分があるとも聞いているが、文体に性別は感じられるのだろうか(まだ知らない)。

ともかく田中は主人公の性別を第一部の半分過ぎまで読み違えていた。主人公が性交渉に及ぶ場面になっても田中は同性愛表現としてそれを理解し、3人目の登場人物の視線が書かれることではじめて違和感が生まれて、読みを訂正するに至った。

『異邦人』という作品で起こる重大な事件が、その動機が有名な文句であるように突発的に、論理では説明しようがないことで起こるのだが、ではそれが通常「論理」と対置される「感情」で説明されるのかといえば、主人公は無感情にも思える。

が、性欲にはつよく突き動かされていて、それと同じ部分で犯行に及んだと説明されれば、説明がつくような気もするが、本当のところは放送大学の講義を待つ。

同じようにかどうかわからないが、たまたま田中が『異邦人』の前に読んでいた小説は、性と犯罪が扱われる松浦理英子の『奇貨』だった。この本には「奇貨」と「変態月」の2編が収められているが、いずれの作品でも事件が発生しその事件には「性」の問題が絡む。だからそのような意味において、(「変態月」というタイトルの「変態」は《変身》の意であることが作中で語られるにも関わらず)、この本のテーマは「ヘンタイ」である、と田中は読書メーターに書いた。

しかしこれらの事件は、『異邦人』のように(???)、強い性欲に動かされる形で起こってはいない。むしろ逆であることが重要な点だ。中篇「奇貨」で「事件」を起こすのは主人公の男だが、彼は「あまり性欲が強くなく、女性と楽しく喋っている時に性欲が刺戟されて密着したくなるということがない」と話している。しかし彼は「性感マッサージ店」には行き、性的興味の対象は基本的に女性だ。が、「同性の友達ができない」彼は「小鳥とか、もしかしたらペットになる爬虫類くらいの距離感」で男も見ている。

その「ヘンタイ」性が「事件」を生むのだが、作品が犯人を断罪しているようには感じられず、また田中にはこの犯人がどうしても責められなかった。それは田中も犯人と同じような性的嗜好、もしくは人間関係形成能力である、と感じたからだ。

田中も性的興味は女性にあるけれども、性欲自体がそれほど強くない。一方で同性との関係構築が苦手で、そうであるがゆえに、男を犬猫のように眺めていると自覚している。たとえばユーチューバーの男たちを見る田中の視線は、単純に女性ユーチューバーの美容生活情報に興味がないということ以上に、たのしく遊んでいる男の子がうらやましくかわいいからだ。

いよいよヘンタイの文章になってきたが、作品にはレズビアンの女性が出てきて、主人公ではないがある人物を批判する言葉として、「半端ヘテロ」という言葉が登場する。

――そうだね、セクシュアリティだけじゃなくて、心の根っこみたいなものもたぶん突き詰めてない。だからなのかな、社交性もあれば親切さもあるし頭がよくて会話術も巧みだけど、実のない薄っぺらくてうつろな感じがつきまとうのは。

あやふやな性は人生観のあやふやさからくる、という批判は、やはり作中でレズビアンの女性から出される。田中はこの言葉に少なからずうなずき、また傷ついた。しかしレズビアンの女性が象徴するような<「半端」でない>性、つまりはヘンタイでしかありえない人生がこの作品には描かれ、描かれていることによって肯定されている。肯定されていなければ、あの結末はありえない。

どういうふうだか知らないが脳に異常がある発達障害者の田中は、性に限らずあらゆる意味においてヘンタイなのである。しかしそれはレズビアンがいうような「半端」とはちがう。「半端」は「100%」に対置されているが、「ヘンタイ」は「正常」に対置される一方で、あくまでも別の「態」なのである。発達障害者としてオープン就労を目指していく田中には、ヘンタイとして人生観を突き詰めていくことがますます必要だ、とこの本を読んで考えた。

 

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