2019年4月25日木曜日

熟成したワインがお好きでしょう?(さようなら、わたしのワインよ)


平成最後の、令和元年の、ゴールデンウィークを前にして、田中が時代の最後に書いておこうと思うことは、田中はにわは残念ながらもう、ワインを愛していないということだ。ツイッターでもワインをつながりとした友達が多いから、なかなか言えなかったことだが、田中はワインを平成に置いていこうとしている。

あまり大きな声で言うことはできない、と言いつつ、インターネットで声量を調節することは不可能だが、これまでココでも言ったことがあるからいいんだろう。いま無職の、田中の前職は、山梨県でワインに関係する仕事をやっていた。そこで事故にあい(怪我)、いや事故以前から職場に対する不信感がつのっていて、それが事故を契機に爆発して、いや静かに決意をして、するっとそこを辞めて東京都日野市南平に引っ越してきたのだ。

田中はいまでもワインを中心とした文化と、またワインをめぐる科学とに、強い興味を持っていることは、また一方で事実である。特に、山梨県の偉人である麻井宇介に関する興味は尽きない。田中がウィキペディアの執筆をやってみたいと言いつつ時間が無くてできていないが、なぜそう言っているのかというと、ウィキペディアに麻井宇介という項がないからだ。だれかが書いてくれたらそれでよいが、このまま放置されるようなら田中が執筆したいと思っているんである。

ではなぜ田中はワインを捨てるのかといえば、単純な話、田中はほとんど酒が飲めないのである。ワインが仕事であった時代、ワインをたしなむことは義務であったが、そこにタノシミを見出すことはついぞできなかった。飲食文化が理屈として成り立っていることには、その形而上学にはいまでも興味をひかれているものの、ワイン自体のたのしみは、たぶんわかっていないんだろうとおもう。またワインを飲み、酔うと、いまこれも酔った勢いで書いているのだが、酔うとあのワインの職場でのいやな記憶ばかりが、あのワインを愛する人々特有の偏屈が、思い返される。時代の節目とともに、いやなものは捨てるに限る。

まず、言っていなかったが、田中は東京都日野市南平に越してきたとき、山梨県では部屋に付いていた冷蔵庫がココには無いため、冷蔵庫代わりにワインセラーを使用することにしたのだった。そこで職場で習ったとおりに熟成させていたワインは、流しの下につめこまれ、日々消費されたり風呂にぶちまけて香りを楽しんだりされている。そんであともうひとつ、田中の部屋を狭くしている紙束、これは在職中にさんざ勉強した論文のたぐいで、これをもう捨てたらよいようなものの、ただ捨てるのも癪なので、ここに読書感想文のように著作権法にのっとって公開することで、供養していこうと思う。当時、田中がインターネットに頼っていたように、誰かの役にはきっとたつだろうと思う。

New Food Industryという専門誌がある。食品資材研究会が出している。その名の通りの雑誌だが、たまにワインの専門家も寄稿しており、チェックしておく必要のある雑誌だろう。2010年52巻1号に、佐藤充克(山梨大学)「ワインの熟成と成分の変化について―最近の醸造方法と機能性―」という論文が見られる。赤ワインの「熟成」とはなにか、またマイクロオキシデーションに興味がある方も参考になる論文である。

ワインは熟成すると、アントシアニンを含むポリフェノールの重合が進み、色調も紫色から赤、そしてレンガ色になり、味も角が取れてスムースでマイルドになることが知られている。

以上。という感じの切れ味があるこの文章は、論文の冒頭の文章である。ワインの熟成についてわかりやすく書いてある論文として、田中が大変お世話になった論文である。ポリフェノールというのは、植物が自分を守るためにつくっている色素や苦味成分の総称でありまして、ブドウ色のアントシアニンもそうですし、たとえば苦味成分カテキンもブドウには含まれているのですね。ワインが発酵している間にはアントシアニンは変化しないんですが、その後の熟成期間において、アントシアニンはカテキンとくっついていくんです。つまり、アントシアニン・モノマーが減り、重合が進む。それによって色素が安定し、苦味も減るから味がまろやかになると。

さてここで問題なのは、アントシアニンとカテキンの結婚、という反応を媒介する仲人が必要ということで、それがワインの酸化によってうまれるアセドアルデヒドなのですね。ですからアセドアルデヒドだらけのワインは飲めたものではなくなってしまいますが、ほんの少しのアセドアルデヒドは重要と。この手の、ちょっとの毒がワインをうまくする理論、はノムリエの皆さんがよくご存知のところです。で、ちょっとのアセドアルデヒド、ちょっとの酸化を促すための方法が、マイクロオキシデーション、酸素をぶくぶくとポンプで入れる方法である。

また論文をはずれれば、いま話題の、ワインのふるさとジョージアの、土器に入ったワインも、その器を通した微妙な酸化が効いているはずで。日本のワイナリーでもこの手の動きはありますよねと。 そんなことでこの論文のコピーは無事、東京都日野市の廃品回収に出されました。こんな感じで、あと何百もブログが書けるが、書いているうちに飽きてしまったら、ファイルごと廃品回収に出す。さようなら、わたしのワインよ。

2019年4月23日火曜日

劇団ひとりの憂鬱


こないだ書いたことを繰り返せば、発達障害の特性のひとつとされる「過集中」は「緊張」に言い換えることができ、だからといってリラックスリラックスとつぶやくだけではどうにもならない、という話をした。ここでは「過集中=緊張」を「ストレス」という言葉にさらに言い換えてみる。

以下は『精神看護学概論 精神保健』(メヂカルフレンド社)で勉強したことの報告だが、これによればストレスは「ユーストレス」と「ディストレス」に分けられる。「ユーストレス」とは「最適な生産性をもたらすストレス刺激」であり、「適度なストレス刺激は生産性を上げる」のだが、これが過ぎると「効率を低下させるような過剰なストレス刺激」すなわち「ディストレス」となる。

このあらすじは「集中」と「過集中」の論理に相似しており、言い換えの妥当性の担保となるものである。

ストレスを解消しようとするときに、やはりリラックスリラックスと言いたくなるのだが、それは過集中がリラックスリラックスでどうにもならないのとやはり同じである。ストレスに対置される語はリラックスではなく、「コーピング」なのだということはきちんとおさえておくべきだろう。コーピングは「ストレスフルな状況を処理しようとする努力を意味する」。

「問題解決型コーピング」はストレスの原因に直接働きかけることで、情報収集→解決、計画立案、カタルシス(愚痴をこぼす)、といったものがある。もうひとつのコーピングは「情動焦点型コーピング」と言われ、ストレスの原因に対する見方を変える方法だ。楽観的に考える、あきらめる、逃げ出す、無理にでも忘れる、気晴らしをするといったことがある。


このコーピングに関して、田中が通っている就労移行訓練では、「ちがう場をもっておく」ということを習った。家庭でストレスがある。あるいは職場でストレスがある。という時に、ちがう場があれば場の論理が変わるからストレスにちがう見方があらわれるのだという。あるいはもっと単純にいえば「愚痴れる場所を担保しておく」というわけだ。が、これはコミュニケーションがうまい人の話なのではないか。

田中は前職に対する「ちがう場」として地域の読書会というやつに参加していた。まさしく「ちがう場」がほしかったからそこに行っていたのだが、あそこでうまいことおしゃべりするということが苦痛で苦痛でしかたなかった。東京都日野市南平という都市に出てくると、読書会なんて山のように開催されている。しかし田中はもう読書会なんて行かない。読書はひとりでするものだ。

職業訓練を受けるなか、どんどん強くなってくる思いがある。一人で生きていけたらこんな苦労をして訓練をすることなんかないのにな、ということだ。しかしそれはmoneyを得ようとしたとき無理なのである。moneyは田中が印刷してもおもちゃにしかならないからだ。moneyは誰かが田中にくれるのであり、田中はmoneyをくれる人の言うことを聞かなくてはならない。めんどくせえな。と思いながら今週はおもちゃのお金を間違わずに数える訓練をやっている。きょうは一日で43件の小口現金払い出しをやった。疲れた。

2019年4月21日日曜日

ふたつのアフターダーク



村上春樹『アフターダーク』(2004は真夜中の都市を描いている。文章の区切りには時計のイラストが挿入され、「2356分」から「652分」という7時間ほどを舞台にしていることが端的に示されている。わかりやすい時間の明示が小説空間の複雑さを際立たせる構造を持つ。

『アフターダーク』の「私たち」は当初、フローベール『ボヴァリー夫人』第1部第1章の「私たち」とは異なり、「私たち」が物語世界の内部に存在しない。「私たち」は物語を外から眺める立場にあり、「中立を保たなくてはならないというルール」は何度も強調されている。「私たちは知っている。しかし私たちには関与する資格がない」。

ここでジェラール・ジュネットの言説に従って<物語のパースペクティヴを司っている知覚原点>と<語り手>の区別を意識してみると、『アフターダーク』のパースペクティヴは物語の冒頭、「空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、私たち」にもたらされ、その知覚原点は途中で「カメラ」に移動しもする。この「私たちの視点としてのカメラ」はその「カメラ」こそが「何かの気配をそこに感じ取っ」て動きモチーフに焦点を合わせる。すなわち「私たち」は物語の内部に入れないばかりか、自らが物語を司ることもない。

ジュネットの<語りの水準>と<人称>のカテゴリで理解しておけば、それはとりあえずのところ<異質物語世界外的語り手>と考えることができる。その語りは<外的焦点化>が徹底されており、作品の前半においては見えるもの聞こえるものだけしか見ることができないため、作中人物たちの「内部的な問題」が一切描写されない。そのような決定的な外部から見えるものを語る「私たち」はそのまま小説の読者の位置にあり、「私たち」の代表である「私」の声だけが物語の語りとして文字化されているのである。
 
そこには動作とセリフしかないという点において、この作品は一時期、舞台の台本にかなり接近している。登場人物たちがみなカタカナの名前を持つことも、「私たち」にとっては登場人物たちがどのように呼ばれるかその声を聞いたことしかなく、名前が表記されるのを見たことがないからだろう。容易に漢字表記が推測されそうな「タカハシ」でさえそのような表記である。主要な登場人物「マリ」が中国語を話す場面で、「<私の名前はマリ>」という意味の文が四字の漢字で表出することでもそれは印象づけられる。

しかし「タカハシ」は作品の途中から「高橋」と漢字で表記されはじめる。この漢字表記への変化が意図的であることを村上春樹はこのような強調表現で示す。はじめて漢字表記「高橋」が登場する部分である。

 コンビニの店内。タカナシのローファット牛乳のパックが冷蔵ケースの中に置かれている。高橋が『ファイブスポット・アフターダーク』のテーマを口笛で軽く吹きながら、牛乳を物色している。

なぜ「タカハシ」は「高橋」になるのか。この直前、それまで謎の事件の犯人であった「」が「白川」として登場してくることと関係があるはずだ。「白川」の暴力は別の場所に書かれた「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を支払わなくてはならないということ」という「教訓」をどこか想起させる。『アフターダーク』の語り手「私たち」が小説の読者の位置にあると述べたが、これと対置される小説の作者の位置を占めるのが「白川」なのではないか。

白川は机の前で何かを考えながら、銀色のネーム入り鉛筆を指のあいだでくるくるまわしている。浅井エリが目覚めた部屋に落ちていたのと同じ鉛筆だ。veritechというネームが入っている。

veritech(ベリテック)は、日本の複数のアニメを翻案再編集したアメリカのアニメーション作品『Robotech(ロボテック)』内において、「元来は無関係であった各作品を互いに接続」するために「導入された用語である」というwikipedia。『アフターダーク』においてveritechネームの鉛筆は、白川が鉛筆で(おそらくは小説を)書いていることの小道具であると同時に、まさしくベリテックとして「接続」のガジェットとして機能している。

作品の当初、眠り続けていた「浅井エリ」の部屋には「顔のない男」がおり、「たしかに何かが起ころうとしている」と書かれるが、実の事件は「白川」と「中国人の女」の間にラブホテルの一室という相似した空間で起こり、「エリ」がいよいよ目覚めたときには彼女は本能的に逃げ、結果として「顔のない男」が消えている。「顔のない男」は「マスク」をしていたが、その描写は『アフターダーク』の登場人物の全てに、当初は当てはまっていた。

マスクの真の不気味さは、顔にそれほどぴたりと密着しているにもかかわらず、その奥にいる人間が何を思い、何を感じ、何を企てているのか(あるいはいないのか)、まったく想像がつかないところにある。

小説とは「白川」が起こす事件のように、作者が暴力的にモチーフを暴露する行為であるとした時、『アフターダーク』は当初、その<語り手の人称と視点>の巧妙なカラクリによってその暴力性を封じたものとしてあらわれる。しかしそれは反面、孤独なことである。「私がここにいることを誰も知らない」。登場人物たちの「内部的な問題」が描かれない装置の中ではマスクをしたように、みなが不気味で「交換可能な匿名的事物」である。

それは作中で繰り返し舞台となる「コンビニ」が、またファミリーレストランがその名前を「デニーズ」から「すかいらーく」に変えても、全く同じ意味をしか持たないように。「なぜほかの誰かではないのだろう?その理由はわからない」。つまりは特殊な物語設定が、現代社会に生きる人間の孤独にそのまま重なってしまうのである。読者がこのことに気づく時、「エリ」も目覚める。

このあと『アフターダーク』において語り手「私たち」はしばらく影を潜める。このとき物語を進めている無名の語り手がどこにいるのかをジュネットのカテゴリで再び考えてみれば、上記の考察を補助線とした時、その語り手は<等質世界外的語り手>であり、彼に名前をつけるとすればその名前は「都市」だ。作品の冒頭において「ひとつの巨大な生き物に見える」と「私たち」によって語られたところの。『アフターダーク』はそのように「都市」が語る<三人称小説>として動き始める。

彼女が今やろうとしているのは、自分の目がそこで捉え、自分の感覚がそこで感じていることを、少しでも適切な、わかりやすい言葉に置き換えることだ」。「エリ」はそのように小説の作者から逃れようとしている。作品の中でさまざまに繰り返される、逃げなければ消されるが逃げ切ることは孤独でまた不可能でさえある、というモチーフは全てここに重なる。「たまたま僕だったんだ。別に誰だってよかったんだよ」。そこで最後になって、『アフターダーク』は、小説の効力というものを示すために、結末において再度視点を変えるのだ。

運転手はルームミラーに向かって話しかける。「お客さん、あそこを右に曲がると一方通行がありまして、ちっと遠回りになります。ほかのコンビニなら途中にいくつかありますけど、それじゃいけませんかね?」
「頼まれたものは、そこにしかたぶん売ってないんだ。それにこのゴミも早く捨ててしまいたいし」

終盤、「コンビニ」が「交換可能な匿名的事物」でなくなることは示唆的である。このあと最後に「私たち」という語り手が、冒頭と相似した「ある巨大な都市の情景」を「上空」から描写する。しかし、このクライマックスは冒頭のように「鳥の目を通して」おらず、「私たちはひとつの純粋な視点となって、街の上空にいる」のである。つまりここにおいて「私たち」は<等質世界内的語り手>として、物語世界の「上空」に実在した登場人物となり、「日の出とともにカラスたちが、食料を漁るために、群れを成して街にやってくる。彼らの真っ黒な油っぽい翼が、朝日に光る」と「鳥」を描写して見せるのである。

現代都市に暮らす人間が他者と関係することで暴力と引き換えかもしれないが得られる孤独の解消という「朝日」、それは現代都市において小説が果たしえるかもしれないという「朝日」。ふたつの「アフターダーク」を予感させて、この小説は幕を下ろしている。

2019年4月19日金曜日

私はいつも緊張している


きょう書きたいと思うのは、本日のツイッターで会話の話題とした「過集中」(かしゅうちゅう)の話だ。発達障害者の特性のひとつとして語られる「過集中」これはどういうものなのだろう。田中は発達障害者として認定を受けている者だが、これまで自分が「過集中」つまりは「集中しすぎ」と思ったことがなかった。しかし就労移行訓練で「過集中」が「緊張」と言い換えられる性質のものであると説明された時、じゃあ私はやっぱり「過集中」なんだわえとそう思ったという、この話をする。


私はとにかくいつも、生きていることに緊張している。たとえば何かを話さなくてはならない。発言に際する緊張はきっとニューロティピカルより数段高いレベルにあると、田中は推測する。周りのニューロティピカルを見ても、あるいはテレビジョンのドラマなんかを見ても、そう推察されるのだ。そして発言しなければ発言しなければ、と「過集中」していくのである。すると結果的にその発言は「冗長」となり、ポイントを見失っていることが多い。だから緊張しないで言葉を出すのが一番よいが、そうはできないようにどうやら脳が組んであるらしいので、とにかく発言を一言で終わらせる訓練、というのを田中は施設でやっている。

また発言に込める想いというのも時に尋常でないことがある。発言を終えてみてなんでそんな力説していたんやと思うことが多い。ただこれについては田中の場合、勝手に適当なことを言ってる馬鹿をやりこめようという明らかな意図がある場合があるので(前職場の馬鹿農業大学の馬鹿を想起)なんともいえないのだが、もう永劫に会うことの無い馬鹿を56してやりたいと毎日思い返しているのだから、これはやはり異常なんだ。こういうのも一種の緊張であり、「過集中」とは考えられないだろうか。

一般に「過集中」とはまさしく文字通りで、ある物事に没頭しすぎてしまうことを指す。そういう意味で言うと田中は、これまでの仕事において定時というものを無視して、残業代なんかいらないから残業でやるとこまでやらしてくれと言ったことが、数限りなくある。いままで4回も仕事を辞めている田中は、4つの職場でいずれもそういうことをしてきた。最初の工場では交代の時間が来ても自分のミスで起こった機械トラブルをなおすまでは帰らなかった。次の工場では7時始業なのに5時半から作業していてアルソックに逮捕されたことがある。次の農業でも6時始業なのに真っ暗な2時から草刈した。最後の農業でも真っ暗な夜の9時まで草刈していた。

これをよく言えば「責任感が強い」ということなのだが、これはやはり異常なのだと思う。就労移行施設では「会社に仕事を置いていける能力をつくろう」という言い方をされている。「集中」のよい状態は、適度な「緊張」のなかにある程度の「リラックス」があるものだと、きょうツイッターで話していた。しかし「過集中」となると、そこにはやはり「緊張」しかないのではないか。会話の相手様がおっしゃっていたところとは違う結論だが、田中はやはりこれが自分でしっくりくる。

となれば重要なのは「どうやってリラックスして生きるか」という問題に焦点がしぼられてくる。田中はとにかく疲れてしまい、夕方はすぐに寝てえらい早く起きるのだ。ようやくいま訓練を始めて、夜が少しだけ延びているが、朝は3時に起きて10時の始業でドアを開けて「おはようございます」と言わなければ言わなければと7時間も緊張している。もの忘れがひどかったり、ミスをおこしたりするのも、元凶は「緊張」にある気がしてならない。リラックス、リラックスと言っていてもはじまらないので、具体的方策をどんどん訓練で試している最中なのであった。

2019年4月18日木曜日

平成最後の災難(令和の奇跡)


きょうは就労移行訓練を休んで、ハローワークに失業認定を受けに行ったのだが、今月は失業保険が下りないことになった。理由は失業認定日がきょうではなく先週だったからだ。気づかぬうちに一週間すっぽかしていたのである。馬鹿。しかしこれをブログに書いたらいいわええと田中はにんまりしてハローワーク八王子に電話をかけたら、「5月11日までに来てもらえたら失業保険の資格喪失は免れることができます」というので田中は「きょう行くつもりだったんで今から伺います」と電話を切った。

なぜ失業認定日を間違えるなんてことが起こったのか。失業保険はその申し込み日によって「型」というものが決定し、その「型」ごとの失業認定日が向こう一年間にわたって最初に決定してしまう。田中は「3型ー木」という人なので、もう失業認定日は会社をやめた昨年11月の時点で今年の11月まで全部決まってあるのだ。田中はその日付を全部スケジュール帳に書き込み、そのスケジュール帳は毎日見ているから、忘れるはずはないのである。

ところが、全国共通のこの「型」による失業認定日は、各ハローワークの都合で「繰上げ認定」という形での変更がかかることがあるのだった。今月、ハローワーク八王子は、平成の終わりから令和のはじめにかけての巨大ゴールデンウイークの前に忙しくなると嫌なので「繰上げ認定」を使っていたのである。先月の認定日、そのことの説明があったはずだ。それをスマホのスケジュール帳に反映した、つもりでいたのだった。

認定日をすっぽかした場合、たとえば親が死んだ、たとえば就職活動(面接)の場合、などそれが証明できる書類をもって後日ハローワークに行けば、問題なく失業保険が下りる。しかしそれ以外の場合、失業保険は下りない。それはそれは厳しい世界なのだ。田中も今月は1ヶ月お金をもらえないことになった。ありえないことだが仮に5月11日までずっと忘れていたとしたら、もう永遠に失業保険が下りないというところであった。

今月もらえない分はいつもらえるのか。と窓口で聞く。もう無理なのかと聞けば「来月以降に受給できる権利は持っています」。わかりにくい。そのまま放り出されたので、次に障害者窓口に行くからそこで詳しく聞いてみようとおもったら、障害者窓口の人間は「まあたいへん大丈夫でしたか」とすっとんきょうな質問をしてくるばかりで、何も知らない。もうええからさっさと相談のハンコ押してくれやいうて、もういちど給付課に戻って説明を詳しくしてもらった。ほんとうにあの障害者窓口は役にたたねえ。ハンコ押すだけなら俺にやらせろと田中は毎月思っている。


「来月以降にもらう権利を持っている」とはいったいどういうことなのか。失業保険を使う際のパスポートにあたるような書類、それは「雇用保険受給資格者証」であり、ここには失業保険に関して大事な数字が2つ書いてある。ひとつは「受給期間満了年月日」であり、これはどんな人でも退職した日の1年後の日付が書かれている。パスポートの有効期限にあたる。もうひとつは「所定給付日数」。これは勤続年数、年齢、田中のように障害があるかどうか(精神病で辞めたかどうか)などにより決定され、田中は300日だ。

毎月認定を受けると「残日数」が印字されていき、これが「0」になったとき失業保険の給付が終わる。今回認定を受けなかった田中は「残日数」が減らなかったということになり、簡単にいえば今回もらえなかった期間分が後ろに一ヶ月ずれた、というかたちになる。有効期限365日のパスポートだが、実際に権利を持つ日は300日である。このとき30日分の認定を受け忘れた。4月にもらえなかったぶんは、実際にはもらえないはずだった11月にずれたのである。よかったですね。

もう一度こういうことがあると、たぶん後ろにずれたとしてもパスポートの有効期限を越えてしまうので、完全に金をどぶに捨てることになる。今回の場合、幸い田中には1ヶ月を耐えるだけの貯金があり、後ろにずれても期限内だったので、なんとかなる次第である。またはやく就職が決まった際なども「再就職手当」の基準が甘くなるなどあるから、もし貯金がたくさんありそして給付日数が少ない方は、この方法を利用すれば最終的な収支がプラスになる可能性もあるのではないか?ないか?わからないので、みなさんそれぞれの場合にあてはめて考えてください。

田中は1ヶ月お金がもらえないというのは悲しいが、その分1ヶ月考える時間が増えたとも思っている。とはいえもらえると思っていたお金がもらえないというのは相当なショックで、きょうは就労移行訓練で習った手順でハローワークの求人検索をして一日過ごそうと思っていたが、あまりのショックで家に帰り一日中ずっと寝ていた。こんなに疲れがたまっていたのかというくらいに目覚めたいまは快調で、ショックにもよい側面はある。ショック療法という言葉もある。

ゴールデンウイークは旅行に行く予定で、もう切符をとってある。もし切符を取っていなかったらこのことでやめにしていた可能性もある。しかし切符を取ってあるしもともと究極の貧乏旅行としての四国遍路を計画していたところなので、予定通りに行ってみようと考えている。合羽を新調しようと思っていたがそれはやめにしてずぶぬれで歩く。太りすぎているので、お金がなくなってたくさん歩いてちょうど痩せるかもしれないからうれしい。

2019年4月17日水曜日

勅使河原くんからの手紙



新札のデザインが発表されて、ネットニュースによれば「ワイドナショー」で古市くんが「ダサい」と強く批判したらしいのだが、田中はテレビジョンを見ておらず素敵なデザインと、絵柄はなんでもよいようなものだが、数字の部分の字体と色使いがなんだか外国みたい、とそんな単純な理由で、田中が思い出したのはもう半世紀近く前、田中が大学生だったころに友人の友人ぐらいにあたる同年輩の勅使河原くんが、アメリカから送ってきた手紙の、封筒に入っていた自由の女神の切手を田中は思い出した。

勅使河原くんは東京都日野市南平の、京王線南平駅前のコンビニエンスストア「サンクス」で、毎晩9時から朝の6時までバイトとして勤務していたため、午前中の講義には出ず4限か5限に大学の顔を出す程度で、賽銭箱の前で手を合わせる老人のラインスタンプで代返を頼んできたのだが、きゃりーぱみゅぱみゅが「りょうのかい」とつぶやくスタンプを田中が送り返していた45年前の日々が思い出した。

オグリキャップというのは令和のはじめころに活躍した競馬の競走馬の名前なので、勅使河原くんはオグリキャップと当時付き合っていて、オグリキャップの友人のタカジアスターゼが田中のゼミ仲間だったようで、そんないびつな四角形の載っている数学の教科書を、勅使河原くんが思いつくと田中は思い出すのだったが、自由の女神の切手はA4のコピー用紙に貼り付けてスキャンして実物は資源ごみの紙束に混ぜて捨てたのを、新紙幣のデザインをみて思い出した。

勅使河原くんはよく田中の家に「サンクス」で売れ残って処分されるおにぎりや弁当を持って朝早く、勅使河原くんの勤務明けに来ては田中の家で寝ていたので、田中は鍵をかけずに授業に出かけ、家に帰ると決まって誰もおらず、鍵のかかっていない無人の家には一度だけだが真っ白な猫が迷い込み、田中が玄関を開けた瞬間に逃げていった、後ろ姿を鮮明に田中は思い出した。

以来、田中はコンビニのおにぎりを食べると勅使河原くんを思い出し、勅使河原くんは気がつくと家に来なくなっていたので、タカジアスターゼに今度のゼミで聞いてみようと思ったら、水曜3限の「比較文学特殊講義」でタカジアスターゼが自殺したと教官が言ったので驚き、あの瞬間の空気もよく思い出すのだが、それ以来オグリキャップとも一度も会うことがなく、そして勅使河原くんにも会わなくなってしばらく後、アメリカから手紙が来たのをいつか思い出した。

その封筒に書かれた住所がそういえば全て日本語で記されていたのだから、あの封筒がアメリカから送られてきたはずはないと、いまとなっては思い返すのだが、ともかく勅使河原くんからの手紙には「いま俺はアメリカにいます」とはじまっていたことを思い出すから、きっとアメリカで書いた文章なんだろうと、勅使河原くんはその封筒に、ニューヨークにあるという日本趣味のバーかなにかの玄関にかかった暖簾から顔を出す、勅使河原くんの写真とともに、その手紙とともに、自由の女神の切手がとても新紙幣のデザインに似ていると、田中はそのように思い出したのである。

聖蹟桜ヶ丘の叔母さんによれば勅使河原くんは、こどものころ言葉を覚えるのがおそく、なんだか気難しい老人のように顔をしかめていることがあったようで、それは田中もおなじだったと聖蹟桜ヶ丘のおばさんが思い出したのは、田中が発達障害と診断されたあとのこと、田中の父が死んだ夜のことだったと思い出した。

勅使河原くんの手紙は、いつもおにぎりをもってくる勅使河原くんと結びつかないほど病んでいて、人は見かけによらないとクールに思っていた大学生の田中がいま、おそらくあのころの勅使河原くんのように、自由を求めていると勅使河原くんからの手紙に書いてあったのだが、田中はその当時に気づきもせず、そういえばおととい勅使河原くんから電話があり、オグリキャップと結婚することになったが、結婚式はやらないからとミュンヘンから電話があったことを思い出した。

2019年4月15日月曜日

喜多川歌麿とトゥールズ=ロートレック



放送大学の授業「日本美術史の近代とその外部」は葛飾北斎(1760-1848)が西洋絵画の遠近法をはじめとする技法を技法書で学んで自身の絵画としたがそこには「誤解」があったこと→その誤解が再び西欧に輸出されて「ジャポニスム」という流行の中で「印象派」を生むことを論じている。

この類例として、講義でも例示があった喜多川歌麿(1735-1806)に関して、ここで詳しく報告する。第一回講義において「江ノ島岩屋(釣り遊び)」の<真一文字の水平線>と<前景-背景の強制接合>に透視図法意識が見られると指摘されていた歌麿は、北斎同様に西洋において評価され西洋画家の作品に影響を及ぼすことはなかったろうか。
 
 エドモン・ド・ゴンクールは講義で紹介された『北斎伝』(1896)の含む日本絵画研究書のシリーズを、まず『歌麿、青楼の画家:十八世紀日本美術』(1891)の執筆からはじめている【1】。林忠正は万博日本パビリオンの展示品を輸出する「起立工商会社」に入社、次第に西洋の日本愛好家から信頼を得る。はやくから日本美術に興味を示していた作家ゴンクールは作品閲覧や資料翻訳において林の協力を得、まずは『歌麿』を出版した。この書物によってゴンクールは称賛を浴び、これが次なる『北斎伝』執筆の勢いとなっている。

 『歌麿』におけるゴンクールの指摘は歌麿の画業の全般に及んでいるが、やはり主要なテーマとして「青楼」すなわち遊郭の女性たちを描いた美人画は大きく注目されている。ゴンクールは、その顔が決して写実的ではなく、「ひどく人間性に欠けるステレオタイプな顔の表情に、あるきびきびした優雅さ、精神的洞察などをこめる」と評している。またゴンクールは「当時あまり言及されることのなかった、浮世絵の広告という役割に注目していた」。

大島清次は「市民革命をすでに経験して、近代的自我に目覚めたフランスの個性主義的精神の基盤と、経済生活のなかで放任されながらも、なお政治的な面でついに桎梏を解かれ得なかった日本の町人階級の囚われの精神構造とでは、本質的に異質な趣味嗜好」が生まれたとして、日本の浮世絵の「デカダンスとグロテスクとエロティックな、ほとんど世界に類を見ない絢爛たる展開が」あると指摘している。しかし、西洋絵画がジャポニスムの影響下に花開かせた「印象派」の中にも、大島がいうところの浮世絵の「正統」であるこうした特異点を、まさしく正統に受け継いだ画家がいた【2】。

 トゥールズ=ロートレック(1864-1901)は「幼い頃の2度にわたる足の怪我で下半身の成長が止まって一種奇形的な体形となり」、一方で「食うに困らず、したがって人におもねる必要も、自分の芸術を売る必要もなかった彼の環境」により近代社会からこぼれ落ちた結果として、いまだ近代を迎えていない日本の浮世絵の「正統」にこそ共鳴した画家である【3】。

 歌麿が「評判の遊女」を題材にしたようにロートレックは「キャバレーの看板女」を描き、また両者は絵画を広告という手段で「庶民生活の中に浸透させようと計った」【4】。放送大学講義の講師、稲賀繁美はポスターと浮世絵の関係を「遠くからでも人目につくには、むしろ肉付け、陰影、透視図法といった、アカデミックな手法は逆効果だった」と端的に表現している【5】。

結論として、両者の関係を示す具体例を提示しておけば、『ロートレックと歌麿展』(山梨県立美術館1980)において歌麿「恋の竹床几」とロートレック「悦楽の女王」の相似が指摘されていたことを報告する。男女が抱き合う構図、陰影のない顔の線描、着衣の色彩表現といった共通点は、明らかな影響関係と見てよいと言えるだろう。以上をもって喜多川歌麿の浮世絵がロートレックに与えた影響に関する報告を終える。

1  小山ブリジット『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』(平凡社、2006
2  大島清次『ジャポニスム 印象派と浮世絵の周辺』(講談社学術文庫、1992)
3  クセール・フレーシュ&ジョゼ・フレーシュ『ロートレック――世紀末の闇を照らす』(創元社、2007)
4  渡部真吾樹「ロートレックと歌麿」(『ロートレックと歌麿展図録』毎日新聞社、1980
5  稲賀繁美『絵画の東方』(名古屋大学出版会、1999)

2019年4月14日日曜日

上野文化の杜の夜


先日、六本木の森美術館に葛飾北斎の浮世絵を見にいったのは現在受講中の放送大学に関連した内容だったことが大きいが、それ以上に純粋な感動というものがたしかにあり、田中はまた近日に芸術鑑賞に出かけようと決めていた。土曜日、就労移行訓練が半日あり内容的には充実していたものの教室の微妙な雰囲気の平日との違いが田中のこころを沈ませ、こういうときこそ美術館に出かけたら元気になるのではないかと田中は考えた。

学校の終わった放課後、田中は上野に出かけた。上野公園の中には多数の美術館博物館動物園があるが、これらの施設は金曜日土曜日に限って20時まで開館している。この仕組みが始まった当初ニュースで見てなるほどおもしろいと思ったきりその仕組み自体を忘れていたが、いったいどの期間どの施設までがこの制度をやっているのか田中は詳しく知らない。ともかく田中が気になっていた東京国立博物館の東寺展のサイトを見ると夜間開館のことが書いてあるので田中は出かけた。


東寺から仏像がたくさんやってくるのかと、その宣伝のビジュアルを見て田中は早合点していたが、「東寺―空海と仏教曼荼羅」という展覧会のため、曼荼羅が主体の展示になっていたことに田中はがっかりしたのが正直なところだ。立体像は最後の広い展示室にたくさんあることはあるが、クライマックスをそこまで引っ張りすぎていてその前の展示に波が無いように感じた。


そこに仏像が集まっているのは東寺の講堂を再現してあるのか、ともかく平面の曼荼羅と同じようにその並びに意味があるという展示。平安京の入り口「羅生門」の左右に作られた都を守る東寺と西寺、そのうち東寺を任されたのが唐で密教を学んで帰国した空海であった。田中にとって空海は、十五年も前から少しずつ進み今月も出かける予定の四国遍路の節々に、香川県出身の空海は、という形で登場する人として認識されていたが、彼が遣唐使に行ったことは知っていても、その後のことはよく知らなかったので勉強になった。


空海が唐で学んできたこと、それは密教の偉大な教えは深すぎて理解がなかなかできないが、それを図で説明するとみんなにわかりやすい、ということがその要点だった。それまで日本の神々は図案化されたことがなかった。仏教の仏が絵に描かれ立像とされるなかで、はじめて神社にも神様の絵や像がつくられることになった。現在田中は、就労移行支援訓練でパワーポイントを勉強している。パワポで聞き手に主張をわかりやすく伝える、この伝統芸能は空海が日本に伝えたのである。空海は日本ではじめてパワポを使った。


うち一像だけは写真撮影が許可されていて、みんな集まっていたので田中も帝釈天をうまく撮ろうとそこに長くいた。その写真をならべてみているがどうだろうか。写真を撮ろうとなるとどう撮ったらうまくなるか考えてモチーフをよく見ることになり、観察の勉強にもなる。また写真には撮れなかったが、御神輿を担ぐ人たちがかぶる面だったかあれはカラフルな立体でたのしい。きのう土曜日は仏像を見るつもりで出かけたから余計に立体がよく見えたのかもしれなかった。


しかしよく調べて行かなかったものの入館料が1600円するというのは高い。東寺展をみたついでに、国立西洋美術館の「ル・コルビュジエ展」もみたら楽しいという計画もあったのだが「東寺」が1600円なら「ル・コルビュジエ」も1600円するのだった。高い。高すぎる。こういう施設の料金は精神障害者の健康を助けるため障害者手帳の提示で割引が効くことが多い。田中は障害者手帳を現在申請中だが、一刻もはやく手帳を発行してほしいと言っているのは、無職の田中が次の就職活動に使うからだが、一方では手帳のメリットを生かしてこうした施設で遊び倒そうという計画があるからだ。

少し前の田中ならば、一度決めたことには歯止めが利かず、3200円も使ってしまってから後悔することが多かったが、昨日は素直に3200円は使いすぎだろと思うことができた。一方で、「ル・コルビュジエ」は我慢ができても、同じ美術館のなかの「林忠正」は我慢ができなかった。これを見逃したら一生見ることが無いかもしれないと思ったからだ。そもそも北斎を見にいったのは、北斎の浮世絵がヨーロッパに紹介されて「ジャポニスム」という日本ブームを起こした、という内容の授業を放送大学で受講しているからで、林忠正とはその「ジャポニスム」におけるキーパーソンの一人、いま田中がまさにレポートに書いているところの人なのだった。

運命であった。運命には1600円を払う価値があると思った。が、この日は「ル・コルビュジエ」を見るのには1600円かかるが、通常展だけを見るならば無料開放の日であるとわかった。田中はツイていた。林忠正は通常展の一室で展示されているという。教科書にも出てきたゴンクールの『北斎』(解説書)を実際に見ることができて感動した。放送大学の「日本美術史の近代とその外部」を受講しているみなさんはいま上野に行ったらいいと思う。このへんの詳しい話はまた勉強が進んでから、このブログでも報告する。


しかしきのう一番田中の目を喜ばせたのは、西洋近代美術館の常設展に時代順にならんだ西洋絵画たちだった。いわゆる油絵の歴史はまさしく近代という時代とともにあるもので、その近代という時代は思った以上に短い。キュビスムくらいにくるともうその視界は田中も生きている現代で、明らかに美術の教科書に載っていただろう画家の生没年を見ると田中が生まれてから亡くなっていたりしておどろく。上記の授業を勉強しているということもあるが、昨夜おもしろかったのはやはり印象派とその前後くらいだ。この常設展も写真NGの看板が出ている絵以外はフラッシュをたかなければ写真に撮ることができる。


そうして美術芸術鑑賞をした田中は、気分が晴れたかといえば・・・帰りに聖蹟桜ヶ丘でビールを飲んで帰り目覚めた今朝も気分は沈みなんだか頭がぼんやりして風邪をひいたのではないかと思っていたら眠くなって昼寝をして、そしてようやく元気になってきた。そしてブログを書いたのだが、それにしてもあの学校には行きたくない。はやく仕事を見つけて卒業しようと思った。ともかく障害者手帳をはやく出してほしい。

2019年4月11日木曜日

たぶん医学よりエセ科学


ワイン。それはブドウの果汁からできた酒だが、ブドウの果汁を酒にするのは、甘いブドウの糖分を食べにきた酵母だ。酵母という生き物は糖を食べて、アルコールを排出する、そういう生き物。だからワインはぶどうジュースより甘くなく、アルコールが混じっている。

酵母はその一つを観察していると、人間を含むいろいろな生き物のモデルのように細胞が変化し動くので、生物学の基礎的な研究によく使われる。酵母においてはやくから観察されていた「オートファジー」(はじめは「オートリシス」という言葉のほうが流通していた)は、当初は酵母に独特な現象とも考えられていたが、現在ではそれこそ生き物に共通する現象であったのだと判明しており、この研究で日本人がノーベル賞を受賞したことで、この言葉はいまでは広く知られるところとなっている。

田中はオートファジーという言葉を聞くと、昔していたワインの仕事のことを思い出す。オートファジーとは細胞の中でいらない物質を掃除するような器官がうまれ、細胞の一部であるその器官が細胞自らを自分で食べてきれいにするという、細胞が生き延びるための仕組み。しかし酵母の場合、このオートファジーの仕組みがいつしか暴走をはじめ、ついにはまさしく自らを食べてしまい、死んでしまうのだ。


生物としてはそういうことなのだが、ワインの製造においてはこの酵母の死骸が重要な役割を果たすことがある。「酵母の死骸」とは通常ワインにおいて「滓(おり)」といわれるものだ。が、酵母の死骸は「生きている酵母」とは生死以外の面で、完全に区別される、ということが重要だ。酵母の死骸はオートファジーによって死を迎えることで、物質的に完全に変化しており、味噌汁に蚊の死骸が浮いているのとは根本的にイメージが異なる。その酵母の死骸に触れていたワインはその物質によってこそ、おいしくなるのである。

Aging that involves contact with dying yeast cells is one of the differential processes between sparkling and still wine production. The release of the products of autolysis during this aging step is fundamental for the quality of sparkling wines made by the traditional method. 
死んだ酵母細胞との接触を含む熟成は、スパークリングワインとスティルワインの相違的なプロセスのひとつである。この熟成期間のオートリシス生成物の放出は、トラディショナルメソッドによってつくられるスパークリングワインの品質にとって根本的な要素である。(「ワインメイキングにおけるオートファジー」田中訳) 
トラディショナルメソッドは日本語における「瓶内二次発酵」を意味する。大雑把すぎる言い方を承知で、発酵中のワイン(ブドウ果汁+酵母)を瓶詰する方法ということになり、しぜん瓶の中でワインは滓とともに熟成されていくことになる。またスティルワインという言葉もワインを知らない人には聞きなじみがなかろうが、スパークリングワインの対立項であり、すなわち「しゅわしゅわしないワイン」を意味する。しかし、ここに引用したのは論文の冒頭であり、読み進めるとわかるように、またワイン呑みの間では常識であるように、スティルのなかにも滓との接触で味を向上させる製法がある。それが「シュールリー」と言われるタンク内で滓と接触させながら寝かせる方法であるわけだ。


と知ったようなことを書いてみたのは、田中が本日のインターネットで「オートファジー」という言葉をみたからだった。その言葉はかつて田中が寝食を惜しんで勉強してうつ病を発症したワインのことを思い出させたのだったが、きょうの話それは理化学研究所が流したツイートだが、ワインの話でもなければノーベル賞の話でもなかったので、田中はたいへんにおどろいた。そしてそこにまた現れた文字が「自閉症」、田中の病気であった。まあ切り抜いてきたタイトル通りのことが書いてある。オートファジーについてはまたもっと詳しく勉強しようと思う。

オートファジー機能の欠損が自閉症様行動を誘導

-発達障害や精神疾患の克服に向けた新たな治療戦略に貢献-


そしてこんなものも流れてきた。従来「エセ科学」と退けられてきたようなことと、科学の日進月歩によって新たに判明する意外な真実は、きっと双子のようによく似た者だろう。だから全てのエセ科学を認めよということにはならないが、知らないことを知るというのはそのように恐ろしいことなのだ。

「便移植」で重症の自閉症の子が47パーセント減。

「腸内環境」という言葉にはまだ通販的な、エセのにおいがついている。しかしそれは今後どんどん真実味を帯びていずれは事実となるだろう。田中がこの話を聖蹟桜ヶ丘のおばさんにすると、ポシュレで見たポシュレで見たといって古市憲寿が選んだ防災グッズセット(避難所で退屈しないトランプ付き)をよろこんで買っていた聖蹟桜ヶ丘の叔母さんが、持っていた乳酸菌で腸内環境を整えるタブレットをくれたので、田中もしばらく飲んでみることにした。

トランプなんか持ってたってやる相手もいねえのに何をしとんということだが、テレビジョンでは避難所ではじめて出会う地域住民同士の交流の話も放送されているそうだ。田中にはまだまだ知らない世界がたくさんあり、これからも勉強を続けていかなくてはならない。聖蹟桜ヶ丘の叔母さんがくれたものと同じものをアマゾンで300円安くなくなった時用に買い、田中は聖蹟桜ヶ丘に勝った。

2019年4月7日日曜日

「江戸東京たてもの園」を写真に撮る


ブログをお読みいただきまして毎度有難う存じます。田中はにわを隊長とする南平写真倶楽部のみなさんが本日お出かけしましたのは、東京都小金井市にございます「江戸東京たてもの園」です。レトロな建物がたくさん移築されていますのでカメラファンの間で撮影スポットとして有名です。一時期はプロがモデルを連れて撮影したりして、レトロな町並みでエロい格好をした痴女がみたいなこともやったらしく、以来プロのカメラマンは撮影禁止になりましたが、田中らは素人ですからオーケーです。きょうは春らしい温かな晴れた一日でしたから、カメラを下げた人々がたくさんいました。


ペンタックスQ10レンズ05で撮る江戸東京たてもの園。本日の田中の撮影枚数はまたしても250枚です。そのなかの良い写真をざっくりつかんできましたのでご覧に入れたいと思います。


写真部の副部長を務める3丁目の勅使河原さんです。子宝湯の暖簾から出てきたところをパシャリ。さすが勅使河原さん渋いですね。勅使河原さんは駅前のデイリーヤマザキで水曜日の午前中にアルバイトをやっています。勅使河原さんのいる時はホットスナック各種が10円引きですから、みなさんも買いに行ってくださいね。


これはたてものではありませんが、手前の赤い花、背景に桜が満開。レンズ05はマニュアルフォーカスですから、桜にピントを合わせたり手前に持ってきたり、ここだけでずいぶん遊んでいました。その中から一枚。色もきれいにできました。


吉川さんと松永さん、5丁目の今年の会計係の仲良しコンビですね。人物による建物を見る視線がありまして、なかなかいいポージングになりました。二人は多摩平のコメダ珈琲で働いています。シロノワールは吉川さんの担当ですよ。まあそんなことは書くまでもありませんがね。


ペンタックスQ10のいろいろなモード切替でもおもしろい写真が撮れていました。田中が一番好きなのは真ん中の盆栽でしょうか。色鮮やかモードで緑がほんとうにきれいにできました。太陽の当たっている感じも独特でナイスです。


これはモードがどうこうではなく、白黒写真をカメラで撮影したものです。両方に映る老紳士は高橋是清です。江戸東京たてもの園は建物を再現しているのではなく、建物をみんな移築してきて、当時と同じ方角にして建てているのです。そうした建物の中でいちばんきょう印象に残ったのが青山から移設された高橋是清邸でした。226事件で自宅において暗殺された高橋是清。その事件現場に実際に入ることができます。建物の中ではボランティアの方が解説をしてくださり、なるほどと歴史に想いを馳せました。


写真撮影会が終わりまして、南平写真倶楽部のお花見会を開催しました。江戸東京たてもの園は小金井公園のなかにありますが、小金井公園の桜はちょうど満開でした。みなさん思い思いに過ごしていらっしゃいます。この写真の中に勅使河原さんも映っていますが、どこにいるかわかりますか。わからないでしょう。わざとピンボケで撮ってみた写真です。こういうことできるのが05レンズのたのしみとなります。

田中は満開の桜なんて実際に見たのはいつ以来だったでしょう。あんまり記憶がなくて。はっきり記憶しているのはみんなテレビ画面の桜ばかりです。ひとつはジュディマリが解散する時のNHKのドキュメンタリで、タクヤが桜をバックにインタビューに答えていた映像。またひとつは映画『嫌われ松子の一生』で中谷美紀が刑務所から出てきて玉川上水沿いの、と思い出していたら、ここから案外府中刑務所も玉川上水も近いよなと思い至り、行ってみようかなと思ったのですが、あの映画の雰囲気が崩れたらもったいないと思って、そのまま帰ってきました。


南平写真倶楽部は、きょうはお花見会場で現地解散となりました。次回の予定はまだ決まっていないので、希望がある人は連絡をしてください。また新規入会についても田中もしくは勅使河原まで宜しくお願いいたします。

Flash air→スマホ→googleフォト


きょうは気分転換で一日カメラをやりました。田中のカメラはペンタックスQ10。これに購入時についていた標準の望遠レンズ「02」を使っていましたが、もっと寄りたいのでさらなる望遠レンズ「06」が欲しいなあという希望、ここまでが弊ブログ写真部のあらすじでした。

このレンズ「06」は定価が1万数千円と若干お高めです。そこで中古を狙おうと田中は頻繁にネットをチェックしていましたが、どうもこのレンズはかなり人気のようで、時々7000円程度で、また最低価格としては3400円で出たのを田中は見ましたが、どうも掲載の瞬間には売れてしまう。それくらいみんなが狙っているのです。


そこで田中はこのレンズをいったん保留にして、レンズ「05」を先におとくに手に入れました。「05」はトイカメラ風のテレフォト(望遠レンズ)で、オートのピント合わせがわざと効かないようになっています。なのでマニュアル合わせを遊ぶレンズ、ピンぼけもたのしいレンズとなっております。このきょうの写真はまた次の記事にしますが(この記事に載せた写真はスマホで撮りました)。

ここにメモっておくのは、タイトルにあるような作業の手順です。ペンタックスQ10はデジカメですからフイルムではなくSDカードに写真を保存しています。このSDカードを「Flash air」という製品名のものにしておくと、カードが勝手に外部機器に写真を送ってくれるのです。たとえばスマホに「Flash air」という同じ名前のアプリを入れておけば、そのアプリからSDカード内の写真を閲覧できるのでした。


しかし田中がやりたいのは、その写真をスマホで撮影したのと同じくgoogleフォトで保存することです。前回はなんかいじくっているうちに勝手に保存されたのですが、きょうはなかなか上手くできなかったので、きょうできたうまい方法をメモって写真部で共用しておこう、というのがこの記事の趣旨になります。わかりやすい箇条書きにしました。

(1)「Flash air」アプリにおいて写真が閲覧できる状態のとき(繋がっているとき)、画面右最上部にある「キャンセル」という表示を押下する。
→いまはまだ閲覧ができているだけで、写真はSDカード内にしかありません。ここでなぜ「キャンセル」なのかわからないのですがキャンセルするとうまくいきました。
(2)「キャンセル」すると表示される3択の一番上「このネットワークをそのまま使用する」を選択
→これで画像を選択できる状態になります。
(3)3点メニューで「全て選択」して「保存」する
→つまりSDカード内の写真を全てスマホ内にいったん保存します。
(4)この保存されたスマホのフォルダを、googleフォトにおいて「設定」「バックアップと同期」「端末のフォルダのバックアップ」にて指定しておけば、いよいよアップされ、googleフォトの機能でスマホの写真を消去してしまえば完了

どうでしょうか。いちどわかれば簡単にできそうです。みなさんのご参考になれば幸いです。またもっと簡単にできる人は連絡してください。

「どうせ」の真意は


きょうも発達障害者の就労移行支援の話だ。ニューロマイノリティとニューロティピカルを分けるもの、それは端的にはIQ(知能指数)ということになる。世の中には自分のIQなんて知らないよという人も多いだろう。IQはクイズ番組の世界ということになるが、ニューロマイノリティとして障害者と認定されるには必ず知能検査を必要とするため、ニューロマイノリティは必ず自分のIQを知っている。その診断にもっとも多く使われているのが、WAIS(ウエイス=ウェクスラー知能検査)であり、その最新版はWAIS-Ⅳだがまだ現段階では実用されることが少なく、たいていの人がWAIS-Ⅲの数値をデータとして認識している状態だ。

ニューロマイノリティはできることとできないことの差が激しいことを特徴としているが、では何ができて何ができないのかはまさしく千差万別である。田中の場合は、という感じでたいていの人々は「●●ができない」という説明を自分でできるのだが(それを「障害特性」という)田中はそれができずできるようになるために訓練に通っている。現段階でわかっているのは、WAIS-Ⅲの知能指数だけだ。WAIS-Ⅳではその概念じたいが否定されることになるが、WAIS-Ⅲでは全IQを動作性IQと知能性IQにわけるという方針をとっており、それによれば田中の全IQは偏差値がやや低め、しかし言語性IQは高く動作性IQが足を引っ張っている。


それは田中の認識どおりで、職業人生の入口において田中は「言語」を使う仕事に就くことを夢見ていた。しかしそれは夢としてついえた。夢のような職業に就けないことはよくある話だ。その時なにを代わりに選択するかそこからが本当なのだが田中はその選択を間違ったと、今となっては思っている。ひとつの夢がダメだとなったときに田中は田中の「言語」がダメだとそう思ってしまった。以来田中は「動作」の仕事ばかりを選んでは当然できない仕事ばかりすることになってやめてきた。これ以上「動作」を積み上げたところでなにもできない。だから、障害者雇用という仕組みを利用してまた「言語」方向へ舵を取ろうというのが今回の田中の目論見であった。

しかしそれはそれで間違いだと先生は言う。「まずやめるべきなのはあなたのそのゼロヒャクの考え方ですよね」。要するに田中は完璧主義がすぎるのだ。自己PRも障害特性もゼロヒャクの完璧主義では語れない。全部ゼロになってしまう自己肯定感の低さも問題だ。問題ばかりが見えてきて田中はまいっている。そのうえにたくさんの課題が出されている。勉強は好きだからこれは今はたのしいが、そのうち壁にぶつかりこれまた苦しくなるだろう。

さっそく壁に当たっているのがタイピングだ。コンピュータの教育というものを受けたことのない田中は、同じ教室のおそらくは学校教育でコンピュータを習ってきた若者たちと比べて、タイピングが明らかに遅い。タイピングの特訓ソフトを使って訓練をやっているが、あるところまできたらもうこれ以上は速度が上がらなくなってしまった。これはタッチタイピングができていないからだ。小学生の頃からワープロを使ってきたが、大学に入るまでずっとカナ入力をしており、右人差し指一本で入力していた。いまでもその時の悪い癖が残っているし、いったん手をどけてキーの場所を確認しているから遅いのだ。タッチタイピングをできるようにならなくては事務職はムリだろう。

というと先生はまたいう。「それもゼロヒャクですよね。できなくてもムリじゃないです。特に障害者雇用の場合は」。たとえば田中はむかしむかしに簿記検定2級をとったがいまではほとんど忘れている。ほとんど忘れているとなると通常は忘れていたら意味ないですねということになるが、障害者雇用では「昔とったってことは興味があるってことですよねすごいですね」ということになるらしい。教科書をひらけば思い出せるレベル、ということなら仕事について必要になってから勉強すればいいからいまは勉強はやめて、他を先にしましょうということになった。


そして田中は今年のはじめから校正の通信講座を受けている。これも次に仕事に生かせればと思っていたが、障害者雇用において「チェック作業」なる事務職、誤字脱字の指摘と再入力は主要ジャンルのひとつで、ここに生きてくる可能性が出てきた。そうなるとたのしくなってきて、近日勉強のスピードが上がっている。この通信講座は8ヶ月で資格が取れる講座で、ではスピードをあげてなるべく早く資格をとったほうがいいかと尋ねると、「いいえそんなことありません。校正の通信講座をやっているということ自体が評価されます。勉強が大変じゃなければ進めたらいいですが、時間的にむりならやらなくてもいいです」と言われる。

じゃあ何をすればよいのかということになる。毎日きちんと学校に通えること、指示を守れること、報告連絡相談ができること、などである。そういう生徒が企業に求められるという。どうせそういうことになるのか、というのが今の田中の正直な感想だ。田中は障害者雇用といったら、だまってスキルだけを発揮することが重要で、それ以外をご容赦いただけるのかと思ったらそうではないそうだ。一般に障害者雇用の現場では「叱責がない」などの「配慮」があるようだが、「配慮」があるというだけで求められることは人間として同じなのだ。


田中は自分を人間ではないと思ってきた。だからようやく障害者になれて人でなしになれると思っていたがそれは甘かった。この記事を書こうと思ったきっかけは昨夜ツイッターでまわってきた精神科医・名越康文の『人はなぜ「どうせ」思考に陥ってしまうのか』という記事を読んだことだ。人が「どうせ」という精神の空虚感を脱するには、身体に注目することが重要だ、と書いてある。田中もそう思っていたのだ。名越の「精神がダメなら身体に」と田中の「言語がダメなら動作に」「心がイカれているなら資格に」はまったくの相似形だ、「ゼロヒャク思考」というまさにその点において。

だから「ゼロヒャク思考」は完全に否定されるべきものではなく、まさしくの方向転換法であるにちがいないのだが、それを否定してくる障害者雇用の就労以降支援が目指すところはいったいなになのか。「どうせ死んでしまうのになんで生きているの」と「どうせ資格をとっても認められないのになぜ勉強は奨励されるの」も似ている。就労移行支援を受けて一週間の田中がはやくも陥っている空虚感の源泉はこんなかたちをしている。

この空虚を抜ける方法は、より本格的に就労移行支援を受けて実質本意を理解することであると同時に、WAIS-Ⅳが「動作性IQ/言語性IQ」という思考法を捨てた真意を理解することにもあるような気がしており、この点も近日中の調査課題となっている。

2019年4月6日土曜日

たとえば笹塚に住めたら

就労移行支援(しゅうろういこうしえん)とは、障害者総合支援法を根拠とする障害者への職業訓練制度であり、一般就労等を希望し、知識・能力の向上、実習、職場探し等を通じ、適性に合った職場への就労等が見込まれる65歳未満の者を対象とする。
きょうはいきなりウィキペディアのお世話さまとなり、田中の就労以降支援のはじまりを話す。 田中はこの就労移行支援を東京で受けるために東京都日野市南平に転居してきた。順番待ちの列に3ヶ月並び4月1日より実際の訓練がはじまった。田中は訓練生と呼ばれ平日は毎日訓練に通いはじめた。その最初の1週間が終わった土曜日がきょうである。

一週間のオリエンテーション期間でだいたい全てのメニューを一通り体験し、来週から本格的に訓練が動き出す。一日は午前中が模擬会社社員としての職業訓練、午後がレクチャーやディスカッションと自主設定課題。一般的な就活と障害特性の自認と、ワードエクセルパワポと、正確なタイピングの訓練と、会社員体験と、面談と、応募書類添削と、模擬面接と、まあよくやるのである。そんなこと一人では一週間にとても詰まらないが、すごいシステマチックに組んであるから無理なく詰まっている。そうくるか、となる。詳細は外に漏らすなと厳しく言われているが、それもうなづけるほどよくできている。


この就労移行支援は言ってみれば職業訓練の専門学校に通っているふうで、学校もご商売だから学費が必要となってくる。お月謝がだいたい10万円である。週に一度の習い事ではなく毎日のことであるし、これだけメニューがしっかりしているとまあ月々10万円くらいそりゃかかるわなとなる。しかし無職のおじさんに10万円は払えません、という仕組みが就労移行支援という公的な仕組みだといえる。

前年度の収入に応じて負担の割合がかわり、残りは行政が税金で負担してくれるのである。無職の状態からこの制度を使うとなれば全額免除となる。田中の場合、前年度の収入があったため「ふつうにもらっていればたいていは1割負担ですから、月々1万円程度とお考えください」というような説明を事前に受けていた。ことは以前書きましたね。その正式な決定通知も今週東京都日野市から届き、なんと田中は全額免除であるというふうに書いてあったものだから先生も田中もよろこんだ。田中の前職の給料が世間的に見て低かったことがこんなところで幸いした。


施設は池袋駅から少し歩いたところにある。池袋駅は東口に西武百貨店があり西口に東武百貨店があることでおなじみだ。この池袋と東京都日野市南平の間の通勤定期が1万3000円くらい月々かかるが、会社とはちがい交通費はさすがに自腹である。以前は就労移行支援の施設が利用者サービスとして交通費を支給することが多く、現在でもそうした宣伝を出している施設もあるようだが、そういうことは駄目だという話に行政のほうでなってきているらしい。たとえば施設でやった訓練としてやった仕事に対する工賃なんかを交通費と言い換えるなどしているのかもしれないし、まあこのへんは利用者として聞いた話なので専門的なことはわからない。


ともかく定期券を買ったので田中は金曜日の放課後、区間内の全駅を自由に乗り降りしても料金が嵩まない定期券のメリットを体験しようと途中下車をしながら帰ってきた。新宿でルノアールに入って本を読む。笹塚の喫茶店もチェーン店だが「ペリエスプレッソ」なる飲料をはじめてのみおいしかった。480円Suicaで。炭酸水「ペリエ」を「エスプレッソ」に注ぐのである。笹塚は都会だ。


ぎょうさん会社員が乗降しなんで関西弁になったんやかわからしまへんが、笹塚駅前のカルディでは通常イオンモールのカルディの入口ではコーヒーの小さいカップをサービスしてはるとこで、なんとスパークリングワインをサービスしてはり、田中はんはコーヒーよろしく一杯ひっかけて店内をうろついただけやったが、このスパークリングをテイスティングして「おいしいわ、じゃあこれ一本」いうハイソサエティーな笹塚民のなんとおおいこと。笹塚は都会だ。


笹塚で降りてみたのは駅のすぐ近くに銭湯「栄湯」があるからだった。田中はもともと広いお風呂が好きだが東京都日野市にはその手の施設が一軒も無いため近ごろ田中は銭湯をずっと探していた。そして「栄湯」は田中が探していた銭湯の理想の形であった。田中のいう理想とは(1)銭湯価格(東京都460円)である(2)支払いがクレカもしくはSuicaである(3)シャンプーボディーソープ備え付けである、の3か条であった。

東京によい風呂やサウナは多く、じっさい池袋にも多いが軒並み料金が高い。では銭湯にいくとなるとそのために現金を用意するのは面倒(しかし「栄湯」も返却式ロッカーのため100円硬貨は必要だが)。そして仕事にシャンプーを持ち歩くのは面倒でタオルが限界。とおもっていたところに「栄湯」。

よいお風呂だった。ユニットバスの家にはじめて住んでおりまったく温まれないので、近ごろは家で風呂に入るのをやめて全部スポーツジムのシャワーにし、そのうちガスとめてまうかくらいに考えているところ。実際にはジムにいけない日は家でシャワーをやるのでそこまでできないが。「栄湯」に行くために笹塚で降りるということは今後も出てくるだろうと思った。リピート必至というやつである。


田中がさいきん通いはじめたジムは「エニタイムフィットネス」という世界中にチェーン店を持つ24時間フィットネスの日野南平店だが、笹塚の駅前にもエニタイムフィットネスがあった。エニタイムフィットネスは日野南平店でもらった鍵で、世界中のエニタイムフィットネスに入れるので、たまには笹塚で運動をして帰るのもよいかもしれない。

しかし日野南平店のエニタイムフィットネスと笹塚のエニタイムフィットネスではお月謝が1000円ちがう。笹塚のほうが高いのだ。エニタイムフィットネスはそういう仕組みなのである。では笹塚に住むとなるとどうなのだろうと、帰りの電車の中で笹塚の賃貸物件の相場を見ておどろいた。おどろいたというか東京の家賃としては相場だろう金額である。今週の学校で「生活費を見直そう」の講義で聞いた金額と同じだ。

南平の駅前にも不動産屋が何軒かありそこでチラシを見ると、笹塚よりやや安いが同じといってもいいだろう。田中は無職でも家を貸すという使命を帯びた闇の不動産屋に飛び込んだおかげで、相場の半値以下いや3分の1に近い金額で暮らせている。田中にとっては南平の不動産屋のチラシでさえおどろくような高額物件なのだ。


そうして生活にかかるお金のことを考えながら、次の仕事のことをぼんやりと考えて家まで帰った。次の仕事のためならまたそこに便利な場所に引っ越そうとどこかで漠然とおもっていたが、おそらくそれは現実的でないとはっきりわかった。田中はしばらく東京都日野市南平の素晴らしく安いアパートに暮らそう。ここから通える仕事をさがそう。それは京王線の沿線+山手線の丸の中くらいのイメージだ。そうして定期券で途中下車をして東京を感じて暮らしていきたい。そんな明るい未来を少しだけ見た。


混むのがいやだから田中はめちゃくちゃ朝早くの各駅停車で池袋に出てしまってからカフェで本を読んで暮らしているが、実際にはいまのスケジュール(10時開始)のためにもっともおそく家をでるタイミングは8時半過ぎでよいことを田中は知っている。それくらい東京都南平は都心に近くこんな場所にあっては破格の家賃で暮らしているのだ。これを手放すほうはない。

就労移行支援は東京都日野市のすばやい対応で実現した。精神科は日野私立病院にかかっている。障害者手帳はやはり東京都日野市に申請しさすがにこれはまだ届かないものの、すでになかば障害者と認められ障害者手当(月1万円)の支給がはじまった。こんな制度は前居住地にはなかった。自立支援医療の受給者証もおととい東京都日野市から届いた。学費だけでなく医療費も東京都日野市は面倒みてくれる。

田中は腎臓も悪く指定難病IgA腎症の患者だがこれも日野私立病院のお世話になりはじめた。難病医療費の受給者証もくれる。そして難病手当(月1万円)の支給もはじまっている。こんな制度も前居住地にはなかった。東京都日野市はとにかく手厚い。生活とはお金であり、お金とは東京都日野市南平であると感じた夜。恵まれたいまの暮らしを手放さないと決めた。

2019年4月3日水曜日

情緒なし


積読(つんどく)という言葉がある。この言葉はてっきり新語なのかとばかり思っていた。15年ほど前、田中は社会人になってから、積読という言葉を知っただろう。その当時、田中が通じていたなにかのチャンネルにおいて積読という言葉が流行していた記憶が田中にはあった。だから新語なのかと思い、その新語が生まれたのはいつだったのだろうと調べてみたら、積読という言葉の歴史は案外長い。由来・語源辞典の「積ん読」の項には明治31年の用例が載っていた。

ともかく本は読まなくても買っておけばそれだけで意味があるという言葉に甘えて田中は本を買いまくってきた。積読の効用を聞けば金銭感覚も計画性もない田中もなにがしかを認めてもらえているような気分だった。しかし田中はそんな人生を改めるべくミニマリストという思想に出会った。ミニマリストにとって積読は着ない服と同じものだ。使わないものは捨てて、ただし残すと決めたものだけは残す。

田中はすでに読み終えている本に関してamazonで売り飛ばしながら、積読の棚に関しても読まないものは新品同然でも売り払い、読みたい積読はつんどくのではなくどんどん読んで売るか残すかを決めている。そのような田中の活動は「田中はにわリサイクル」という屋号のamazon内お店屋さんごっことなっているが、この屋号のホームページのようなものは存在せず各出品のそれぞれの商品ページのなかにまぎれて存在している。田中のツイッターでは出品を随時報告しているので、ツイッターをチェックしてみてください。



そのように積読を解消していく中で十数冊を読んではじめて、はじめて「売らないよ」という大事な本が出てきた。その本は平凡社がつくっている科学者による随筆の選書シリーズ「STANDARD BOOKS」のなかの一冊『岡潔 数学を志す人に』だ。このシリーズの視点そのままに田中も昔から思っていた。理系の学者の書くエッセイはたいていおもしろいと。たぶん理屈の捏ね方が文系頭とはちがうんだと文系頭だろう田中は思っている。

岡潔は明治時代の生まれで、田中が生まれる直前くらいに亡くなっている。数学者だというがいったいどんな数学を研究していたのだろう。この本を読んでもわからない。この本の最初に載っている「生命」というエッセイの最初のページに「大脳前頭葉」という言葉が出てきて、大脳前頭葉について研究中の田中はさっそく興味を持ったのだがそれはたまたまのこと、脳のことはそんな中心的な話題ではなく次第に数学の話になっていくのだろうと思っていたら彼は脳の話ばかりしている。

岡潔はこの本にまとめられている随筆の範疇において、医学者の名前を出さないがその知識を「医学的にも最先端をゆくものではないかと思う」と誇っておりそれなりのブレーンの存在を想像させる。そのブレーンにもいずれたどり着きたいと思うがここではまず、岡潔のエッセイの脳科学の議論がどれほど正確かを見るために、弊ブログで提示しておいた現代精神医学の「脳を前と後に分ける話」を振り返っておこう。

田中をはじめとするニューロマイノイティは、前頭葉の機能が後ろにくらべて機能的に弱いようだ。後ろ側では<分析や計算>などを分担しているのに対して、前頭葉は<高次脳機能>と呼ばれる<制御や理解>を担当している。ここに計算という言葉が出ていたのだった。数学者の岡潔が研究のために使っていたのは後ろのほうのはずだ。なぜ彼はまず前頭葉を語ってしまうのか。この疑問を解くことが人物像を理解することとなるだろう。

これは日本のことだけでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。

代表的なエッセイ『春宵十話』のなかにこんな言葉がある。数学者が脳科学に関心を持つ理由はまずこうした学問上の問題意識なのだ。だから「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は情緒が中心になっているといいたい」という話になり、岡潔のキーワードとも言えよう「情緒」が出てくる。しかし本当のポイントはここからで、情緒というふんわりしたイメージを脳機能の問題にまで具体的に結びつけていたこと、それを理解しておくことが大事なんだろうと思うのだ。

岡潔は脳内に「情緒の中心」というものがあると設定した。そしてそれが「大脳前頭葉」に「結びついている」と考えていた。「情緒の中心だけでなく、人そのものの中心がまさしくここにあるといってよいだろう」。大脳前頭葉の具体的機能については、「調和」「衝動の抑止」「ここからは交感神経、副交感神経系統が出ていて、全身との連絡がついている」「他人の感情がわかるというアビリティ」と現代医学から見てもかなり正確だろう。逆に言えば、このような具体的機能をこそ彼は<情緒>と呼んでいる。

そしてこの<情緒>がないと人間は生きていかれないだろうと岡潔は考えていた。交感神経と副交感神経のバランスが崩れることで、たとえば下痢になり大腸がただれるといった身体的不調が発生することはもちろん、「大脳前頭葉がだめにな」るとそれは「自殺の原因」ともなると言っている。


おそらくは時代のズレで表現は適当でないだろうが、<だめな大脳前頭葉>というものが仮にあるとして、それはたとえば教育がうまくいっていないこと、「計算機やタイプライターのキーをたたきすぎ」といった話が出てくるのだが、ここに田中はニューロマイノリティの脳の形をあてはめる。

田中の実感としても、ニューロマイノリティの脳は<情緒>なるものをきっと欠いている。だからニューロマイノリティは積読なんて情緒が許せないのではないかと、そんな気がする。ミニマリズムという思想とニューロマイノリティは非常に相性がよい、と直感的に思っている。以前にもどこかに書いたかもしれない。

許せないと書いたが、これまでの田中は許していたから積読を増やしていた。しかしその情緒を味わえていたかといえば、田中の場合、ただ部屋が雑然としていただけであったような気が、いまとなってはしてくる。そう考えたとき、田中はこれまで、またいまでも文学を愛しているような気がしていたが、それもなんだか怪しく思えてきた。

簡単に書いてしまえば、脳の前後は文系/理系という区別となにか関係があるのだろうか、という問題だ。おそらくニューロマイノリティには理系が多いだろうと思うのだが、文系のニューロマイノリティだと思っていた田中はいったいなんなんだろうという疑問が大きくなってきて、これはまたいずれの宿題としたい。

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