2019年4月21日日曜日

ふたつのアフターダーク



村上春樹『アフターダーク』(2004は真夜中の都市を描いている。文章の区切りには時計のイラストが挿入され、「2356分」から「652分」という7時間ほどを舞台にしていることが端的に示されている。わかりやすい時間の明示が小説空間の複雑さを際立たせる構造を持つ。

『アフターダーク』の「私たち」は当初、フローベール『ボヴァリー夫人』第1部第1章の「私たち」とは異なり、「私たち」が物語世界の内部に存在しない。「私たち」は物語を外から眺める立場にあり、「中立を保たなくてはならないというルール」は何度も強調されている。「私たちは知っている。しかし私たちには関与する資格がない」。

ここでジェラール・ジュネットの言説に従って<物語のパースペクティヴを司っている知覚原点>と<語り手>の区別を意識してみると、『アフターダーク』のパースペクティヴは物語の冒頭、「空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、私たち」にもたらされ、その知覚原点は途中で「カメラ」に移動しもする。この「私たちの視点としてのカメラ」はその「カメラ」こそが「何かの気配をそこに感じ取っ」て動きモチーフに焦点を合わせる。すなわち「私たち」は物語の内部に入れないばかりか、自らが物語を司ることもない。

ジュネットの<語りの水準>と<人称>のカテゴリで理解しておけば、それはとりあえずのところ<異質物語世界外的語り手>と考えることができる。その語りは<外的焦点化>が徹底されており、作品の前半においては見えるもの聞こえるものだけしか見ることができないため、作中人物たちの「内部的な問題」が一切描写されない。そのような決定的な外部から見えるものを語る「私たち」はそのまま小説の読者の位置にあり、「私たち」の代表である「私」の声だけが物語の語りとして文字化されているのである。
 
そこには動作とセリフしかないという点において、この作品は一時期、舞台の台本にかなり接近している。登場人物たちがみなカタカナの名前を持つことも、「私たち」にとっては登場人物たちがどのように呼ばれるかその声を聞いたことしかなく、名前が表記されるのを見たことがないからだろう。容易に漢字表記が推測されそうな「タカハシ」でさえそのような表記である。主要な登場人物「マリ」が中国語を話す場面で、「<私の名前はマリ>」という意味の文が四字の漢字で表出することでもそれは印象づけられる。

しかし「タカハシ」は作品の途中から「高橋」と漢字で表記されはじめる。この漢字表記への変化が意図的であることを村上春樹はこのような強調表現で示す。はじめて漢字表記「高橋」が登場する部分である。

 コンビニの店内。タカナシのローファット牛乳のパックが冷蔵ケースの中に置かれている。高橋が『ファイブスポット・アフターダーク』のテーマを口笛で軽く吹きながら、牛乳を物色している。

なぜ「タカハシ」は「高橋」になるのか。この直前、それまで謎の事件の犯人であった「」が「白川」として登場してくることと関係があるはずだ。「白川」の暴力は別の場所に書かれた「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を支払わなくてはならないということ」という「教訓」をどこか想起させる。『アフターダーク』の語り手「私たち」が小説の読者の位置にあると述べたが、これと対置される小説の作者の位置を占めるのが「白川」なのではないか。

白川は机の前で何かを考えながら、銀色のネーム入り鉛筆を指のあいだでくるくるまわしている。浅井エリが目覚めた部屋に落ちていたのと同じ鉛筆だ。veritechというネームが入っている。

veritech(ベリテック)は、日本の複数のアニメを翻案再編集したアメリカのアニメーション作品『Robotech(ロボテック)』内において、「元来は無関係であった各作品を互いに接続」するために「導入された用語である」というwikipedia。『アフターダーク』においてveritechネームの鉛筆は、白川が鉛筆で(おそらくは小説を)書いていることの小道具であると同時に、まさしくベリテックとして「接続」のガジェットとして機能している。

作品の当初、眠り続けていた「浅井エリ」の部屋には「顔のない男」がおり、「たしかに何かが起ころうとしている」と書かれるが、実の事件は「白川」と「中国人の女」の間にラブホテルの一室という相似した空間で起こり、「エリ」がいよいよ目覚めたときには彼女は本能的に逃げ、結果として「顔のない男」が消えている。「顔のない男」は「マスク」をしていたが、その描写は『アフターダーク』の登場人物の全てに、当初は当てはまっていた。

マスクの真の不気味さは、顔にそれほどぴたりと密着しているにもかかわらず、その奥にいる人間が何を思い、何を感じ、何を企てているのか(あるいはいないのか)、まったく想像がつかないところにある。

小説とは「白川」が起こす事件のように、作者が暴力的にモチーフを暴露する行為であるとした時、『アフターダーク』は当初、その<語り手の人称と視点>の巧妙なカラクリによってその暴力性を封じたものとしてあらわれる。しかしそれは反面、孤独なことである。「私がここにいることを誰も知らない」。登場人物たちの「内部的な問題」が描かれない装置の中ではマスクをしたように、みなが不気味で「交換可能な匿名的事物」である。

それは作中で繰り返し舞台となる「コンビニ」が、またファミリーレストランがその名前を「デニーズ」から「すかいらーく」に変えても、全く同じ意味をしか持たないように。「なぜほかの誰かではないのだろう?その理由はわからない」。つまりは特殊な物語設定が、現代社会に生きる人間の孤独にそのまま重なってしまうのである。読者がこのことに気づく時、「エリ」も目覚める。

このあと『アフターダーク』において語り手「私たち」はしばらく影を潜める。このとき物語を進めている無名の語り手がどこにいるのかをジュネットのカテゴリで再び考えてみれば、上記の考察を補助線とした時、その語り手は<等質世界外的語り手>であり、彼に名前をつけるとすればその名前は「都市」だ。作品の冒頭において「ひとつの巨大な生き物に見える」と「私たち」によって語られたところの。『アフターダーク』はそのように「都市」が語る<三人称小説>として動き始める。

彼女が今やろうとしているのは、自分の目がそこで捉え、自分の感覚がそこで感じていることを、少しでも適切な、わかりやすい言葉に置き換えることだ」。「エリ」はそのように小説の作者から逃れようとしている。作品の中でさまざまに繰り返される、逃げなければ消されるが逃げ切ることは孤独でまた不可能でさえある、というモチーフは全てここに重なる。「たまたま僕だったんだ。別に誰だってよかったんだよ」。そこで最後になって、『アフターダーク』は、小説の効力というものを示すために、結末において再度視点を変えるのだ。

運転手はルームミラーに向かって話しかける。「お客さん、あそこを右に曲がると一方通行がありまして、ちっと遠回りになります。ほかのコンビニなら途中にいくつかありますけど、それじゃいけませんかね?」
「頼まれたものは、そこにしかたぶん売ってないんだ。それにこのゴミも早く捨ててしまいたいし」

終盤、「コンビニ」が「交換可能な匿名的事物」でなくなることは示唆的である。このあと最後に「私たち」という語り手が、冒頭と相似した「ある巨大な都市の情景」を「上空」から描写する。しかし、このクライマックスは冒頭のように「鳥の目を通して」おらず、「私たちはひとつの純粋な視点となって、街の上空にいる」のである。つまりここにおいて「私たち」は<等質世界内的語り手>として、物語世界の「上空」に実在した登場人物となり、「日の出とともにカラスたちが、食料を漁るために、群れを成して街にやってくる。彼らの真っ黒な油っぽい翼が、朝日に光る」と「鳥」を描写して見せるのである。

現代都市に暮らす人間が他者と関係することで暴力と引き換えかもしれないが得られる孤独の解消という「朝日」、それは現代都市において小説が果たしえるかもしれないという「朝日」。ふたつの「アフターダーク」を予感させて、この小説は幕を下ろしている。

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