2019年3月24日日曜日

グレーゾーンは許さない


米田衆介『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』という本を図書館で借りて読んでいたら、弊ブログで中心的に扱ってきたウタ・フリスという精神科医がまた出てきた。以前詳しく説明した「トップダウンの障害」「自己の不在」としてのウタ・フリスによる発達障害を思考・認知・記憶など脳の「ソフトウエア」の問題と捉え、脳の神経回路という「ハードウエア」の問題として説明する学説と対置させている。その上で筆者は、ウタ・フリスの側に立って「情報処理過剰選択仮説」というかたちでアスペルガーを説明する。

中核がないという以上に「『特定の処理のみが優先されて、他の処理が抑制されてしまう』という偏りがアスペルガー障害の本質なのではないか」という仮説は、以下の図のようにまとめられるとなるほどその通りという感じがする。

この図はとてもよくまとまっていて、どれもこれも当事者としてその通りという感じ。きょうの話題としたいのは、中核的特性のひとつに数えられる「ハイコントラスト知覚特性」である。白黒はっきりさせたい、あいまいを許さないというのがこの特性であるが、フツーの人間社会はあいまいであるから発達障害者は生きづらい、というのがこの本での文脈で、なるほどその通りである。

しかし、弊ブログはここまでに「あいまい」という概念を別の意味で使用してきた。ポストモダンという時代が「あいまい」な方向に進むだろうこと、そのとき「自己の不在」を特徴とする発達障害者は時代に合うはずだ、という弊ブログの主張は真逆に聞こえていたかもしれない。これをきょうは詳しく考えてみたい。

自閉症スペクトラムのイメージ」という図を同じ本から抜いてきた。健常者と発達障害者は「連続的な分布の中で捉えられる」というキャプションがついており、図の中には「グレーゾーン」という中間的な人々が存在する。このように発達障害というものがそもそも「あいまい」な概念であるのだが、田中は発達障害者であるがゆえなのか「グレーゾーン」を名乗る人が許せない。

最近メディアで「グレーゾーン」を名乗る人を見た。「医師の診断は受けていないが自分に発達障害の特性は感じておりいわゆる『グレーゾーン』です」みたいなことを語っていたのだが、それだったらさっさと心理検査をして発達障害者になればいいと田中は思う。または検査の結果、発達障害には該当しないという判断が出ればそれまでだ。おめでとうございます。あなたは健常者である。

田中は4月から就労以降支援を使って、障害者として仕事口を探そうとしている。これは障害者という看板を売り物にするという自覚を持った行為である。そこには障害者としての責任がある。「グレーゾーン」なんていう言葉でどっちにも行けるようにして商売している感じが気に食わねえ。黙ってろと思った。

田中が使っている「あいまい」は、「グレーゾーン」なんていうものとは似ても似つかないものだ。きょう取り上げている本の最後に、アスペルガー障害を生きのびる方法として2つの「戦略」が出てくる。そのひとつは「『心』を理解しようとするのをやめる」ということで、たとえばものをもらったらありがたいと思っていなくても「ありがとう」と言うルールを覚えるといった徹底的な定型化。これは本の中で「社会的フォルマリズム」と呼ばれる。

この「型」に対置されたもうひとつの「戦略」こそが「新しいあいまいのかたち」であるだろう。それは「あえて『心』を探求してみる」ということだ。これまで「心」という型であったもの、そのわからないものを徹底的に白黒つけて細分化し分析していくと、新しい図形が見えるだろう。その図形はこれまでの鮮明な「型」とはちがう形のはずで、その「非ー型」をとりあえずこれまで「あいまい」と呼んできているのだ。

田中はそういう戦略をとりたい。それが発達障害者として生きる田中の責任の取り方だ。弊ブログの近々の予定としては、「発達」ということ、また「記憶」について勉強をして、人間をアップデートしていくことを計画している。
 

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