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2019年8月2日金曜日

この界隈の風通し


絲山秋子『絲的ココロエ』によれば、著者は双極性障害をもっている。田中は著者のデビュー当時の作品、そのような精神をモチーフにした作品が好きだったが、最近の作品はよんでいなかった。そもそも絲山がデビューしたころといまとでは、田中の読書量がぜんぜんちがうので仕方ない。双極性障害を中心とした精神に関するエッセイであるこの本を読んでみると、発達障害者の田中はまたしても運命的にこんな記述にぶつかった。
前述した通り私は、発達障害も専門としている主治医からASD(自閉症スペクトラム)の特徴を強くもっているという認識でほぼ間違いないと言われている。
発達障害を主題にした10章から引用しているが、この章に限らず読んでいてうなづくところが多い。完璧主義の話、依存の話、私も以前のんでいたリーマスという薬についても書いてあって勉強になった。発達障害、また精神病界隈でこの本の話を聞いておらず、図書館でたまたま手に取ったら、すごく良い本だったので、界隈のみなさんにぜひオススメしておきたい。
世の中をオフィスのような大きな室内空間にたとえると、私のいる場所は、過集中の灯りに照らされた対象以外は真っ暗闇の虚無である。その代わり手元の灯りはとても明るく高性能だ。物事が立体的に、細部まではっきりと見えるし、記録もできる。ADHDの人にこの話をしたところ「自分の場合はライトが眩しすぎて何もかも目に入ってくる状態」という答えだった。定型の人は全体を見渡せるが、細かいところまで見えるほど明るい照明ではないし、記憶力も劣っているのではないだろうか。
こういうたとえもなかなか鋭いと感じた。すぐ近くに書かれているように、現在、発達障害者ばかりがあつまる施設で日々を暮している田中は、ADHDの人とペアになって仕事をするときに、お互いの障害特性がタッグを組んだら、部屋全体が照らされて「これ最強やな」、と思う経験を何度もしている。

しかしまた、ASDであるらしい田中の過集中は、もっと手元の照明の性能が劣っていて、集中の焦点が役に立たない部分に集まっているような気もして、絲山の書く過集中のようなものならばまた使いようがあるのにと、うらやましく思ってしまった。まあこれがスペクトラムということなわけだが。
だが、発達障害界隈はきわめて閉鎖的な印象だ。グレーゾーンや、スペクトラムのなかで目立たない人、定型発達者にとっては、かかわりにくさが大きな壁となっているのではないだろうか。
こういう指摘もめったに聞かないからはっとしたが、そもそも発達障害者の障害特性として、それこそ「自閉」なのだから閉鎖的になるんじゃないかと思いつつ、またメディアや障害者としてほど苦しんでいない人がおもしろがっているから閉鎖的になるのだとも思いつつ、なのだが一方で、田中も発達障害界隈に息苦しさをさいきん感じることが多くなってきた。

絲山のようにコミュニケーションに長けているわけでもない田中は、自分が閉鎖的であることを承知で、しかしこの界隈は息苦しいとは表明しておきたくなった。そういう意味においても、この本は風通しの良い言葉で書かれているから、とても読みやすかった。

2019年7月19日金曜日

エビリファイの体感


きょうは学校を休んで病院に行ってきました。精神科の定期通院です。医師に相談したことは、とにかく眠いということです。昼過ぎから眠気に襲われ、夕方家に着くまでふらつくように歩き、帰ったらとにかく眠くなる。かなり早く寝ると、真夜中に起きてしまう。しばらく起きていて、朝方もう一度寝る。朝ごはんを食べると、また出かける前に寝ることもある。そのようにこのところの田中の生活は、とにかく睡眠を中心にまわり、乱れていたのでした。

以前にもそういう相談をしていましたが、今回はいよいよ服薬調整となり、まあそういうタイミングを先生もはかっていたところがあるんでしょう。エビリファイ3mgが1mgに変更になりました。まだその生活を試していませんが、おそらくこれでうまくいくのではないかというよい予感があります。ちょうど3が1になるくらいがよいと、学校の言うように薬の種類を変更してもらうのではなく、という予想です。学校が発達障害専門学校なので、学校の先生は医者並みに薬にも詳しく、また医師も学校のことを知っていて、それなりに学校からの意見を尊重してくれます。

これを機会に、のんでわかってきたエビリファイという薬の特徴を書いてみたいと思います。エビリファイは、うつ・統合失調症・双極性障害とともに、発達障害にも使われる薬で、ドーパミンの受容体に作用して、ハイ/ローのちょうど中間のいい感じにする薬です。という公的な説明ですが、それが田中に対してどうはたらくか、それは眠気に代表されるように、「ムダな興奮を抑えている」という感覚の強いクスリです。

これまでの人生で田中は何種類も精神薬を飲んでおり、その中には交通事故で頭を打った時の強力なクスリもありましたが、そういうのをのぞくと、エビリファイがいちばん合っているんじゃないか、という気がしています。眠気には困っていたので、こんかい量を減らしてもらったわけですが、エビリファイにはこれまで感じたことのなかった、精神薬の効果を感じるようになっていて。それは時間がゆったりと流れ、空気がまろやかぁになるという、独特の魔法のような作用です。

朝の時間など、通常あわただしい時でも、時計がゆっくり進んでいて、慌てる必要がありません。そうとう時間が経ってしまったなと時計を見ると、まだ3分しか経ってないやん、というようなことが多くあります。また、以前は喫茶店などゆったり過ごすべき場所に行っても、ひとつことにすぐに飽きてしまい、すぐに脱出して次へ、というところがあったのですが、最近はじっとしていることが多く、じっとしていても全然時間が経たないので、勉強などがほんとうにはかどっています。

クスリの効能をここまで言葉にできるほど実感するのははじめてで、発達障害に詳しい東京都という土地に引っ越してきてよかったと思っています。大塚製薬の採用サイトにエビリファイの開発秘話がありましたので、最後にリンクをはっておきます。
https://www.otsuka.co.jp/recruit/interview/interview-details.html?id=2614

2019年3月27日水曜日

生涯発達障害概論B


この記事のパートAでは発達障害の「障害」というものを解体する実験をおこなったわけだが、本記事Bでは「発達」という言葉のほうに注目する。この言葉はそもそもが心理学の学術用語である。心理学とは、google検索のどあたまにくる定義によれば、「生物体の意識とその表出としての行動とを研究する学問」だ。そして前回も使った教科書『ベーシック発達心理学』によれば、「発達とは、人間が生まれて(受精して)から死ぬまでの心身の変化ととらえることができ、一生涯見られるものであると言える(生涯発達)」、一言で言えば「発達」とは「変化」のことになる。

つまり発達という概念には「時間」が関係している。より具体的には「発達」は「成熟」と「学習」の「相互作用」によって成立する。このあたりをまとめると―

発達=ⅰ+ⅱ(相互作用)
ⅰ成熟…時間の経過とともに遺伝的なものが発現すること=遺伝(ジェネティクス)
ⅱ学習…経験による比較的永続的な行動の変化=後成的遺伝(エピジェネティクス)

成熟が遺伝子DNAの塩基配列に由来するに対して、学習は従来「環境」に左右されると言われてきたが、学者のみなさんは「環境ってなんやねん」とずっと思ってきたんだ。そんなあやふやなものでない、目に見える因子として近年発見されたのが「エピジェネティクス」。一卵性双生児を3歳の時点と50歳の時点で比べると、50歳のほうが差異が大きい。その差異はなにかといえば、同じDNA塩基配列でありながら分子レベルでの変化が生じている、ということが分子生物学の最新の研究で明らかになっている。

アメリカの教育学者ハヴィガーストは言った「生きることは学ぶこと、成長することは学ぶこと」と。いまを生きるわたしたちは、自身が「発達」する上に、学問が「発達」していくので、日々新しい情報を仕入れて消化していかなくてはならない。田中は4月から就労移行支援の学校に通い、障害者雇用してもらえる新しい仕事を目指していくのだが、その学校の体験をここまで何度か受けるなかで、田中の同年代と見えるご学友には一切出くわしていない。みんな若い。この若者たちは子どもの頃に発達障害というものがすでに発見されている世界に生まれたのだ。これに対してすでに中年の田中は、いまさら現実に追いついた精神医学によって「大人の発達障害」という謎のキャッチフレーズをいただくこととなった。

「大人の発達障害」という言葉遣いには、本来的に発達障害とは子どもに関するもので、それが子供のうちに気づかれず大人になってしまったかわいそうな人、という響きがある。しかしこれは単純に医学の進歩の問題だ。田中よりもっと上の世代あるいは古代中世の人々にはそんなことに気づかず暮らしていった人々がいたはずで、今後はより早い段階からなんらかの対策がとられるはずで。「大人の発達障害」とは発達障害なるものを発見した社会がうかれて騒いでいるだけの、数年で消えていくはずのワードである。

発達の定義に戻れば、人間は生涯発達する。しかしこの概念自体が近年急速に整備されてきた考え方だ。人間の発達において「初期経験の重要性」はたしかだろう。だから発達障害が先天的な脳機能の相違を理由に子どものころから発現することは確かなのだがしかし、発達障害者は生涯発達に障害があるのか、そんなことはないだろうと思うのである。田中はもう40歳の手前となっているが、ここまで全く発達=変化をしてこなかったとはとても思えない。たしかにうつ病を繰り返し、パニックを起こして仕事が続かずと、困ったことは多いが、それを「発達障害」という言葉で言い表すのは、なんかちがうのである。その違和感は、発達障害という概念にそもそも「生涯発達」という視点が欠けていること、が生んでいるのではないか。

こんな風に考えていくと「発達障害」という言葉が使われなくなる未来はあんがいすぐそこのような気がするのだ。ただしこの言葉はいま現在の世間では通りがいい。ぶっちゃけいまブームなのである。このブームの波に乗って、得をしていかなければ損である。それをわかった上で、一方ではこうして本質を追求していくというのが弊ブログのスタンス。


さて田中は個人的に、もうひとつ事情を抱えている。25歳のときに交通事故にあっている。真後ろから自動車に跳ね飛ばされて、40m宙を舞い、どぶ川の土手みたいなとこに頭から突っ込んだ。地面が土だったのでよかったですね、ということで、傷は頭と膝に切り傷ができただけだった。しかし数日の意識不明ののち、脳がいかれてしばらく精神科に入院していた。この間、意識ははっきりしており運動や食事はしているのだが、記憶はまったくない。あとから聞いた話では、病院の窓ガラスをパンチして割ったり、フルチンで病棟を走り回ったりしたそうだ。「高次脳機能障害」というやつである。

「高次脳機能障害」とは「事故によって脳が損傷されたために、認知機能に障害が起きた状態」だ(保険会社サイトより引用)。この「認知」という言葉は「入力→処理→出力」という脳の基本的な働きのことだが、ASD(自閉症スペクトラム障害)を心理学学説で特徴付けようとした時、そのひとつ「実行機能説」は特に「認知」に関係しているだろう。ASDは「実行機能」すなわち「目標のために行動、思考、感情を制御する能力」に欠陥がある。つまり田中は実は発達障害者ではなく高次脳機能障害者なのではないのか、という疑惑を抱えている。

ただし医師による幼少時の調査にはその傾向が認められるというから発達障害的であったことは間違いないだろうという。しかし現状の発達障害者という判断に、25歳の交通事故がどの程度影響しているのかは、現代の医学では明確な区別ができないと医師にはっきり言われた。それだったら高次脳機能障害者を名乗るよりも発達障害者を名乗ったほうがお得ですよねと、そういうわけで田中は発達障害者をやっているのである。

そして「認知」といったら「認知症」である。前回記事Aでも書いたとおり、田中は放送大学の「中高年の心理臨床」という科目を勉強しているところだが、発達障害的問題として田中が実感している、とにかく物覚えが悪い、これって実は発達障害なのではなく認知症じゃないかと田中は疑っている。物覚えが悪くなりそれにイライラするようになったのは、ここ2年くらいの話だからだ。単純に歳をとりそのように「発達」しただけなんじゃねえの?

認知症患者の「認知リハビリテーションの効果を左右する要因」には、「内的代償法」と「外的代償法」があります、という授業の話はとくに、認知リハビリテーションってまんま就労移行支援じゃん、と思ったことはすでにツイッターでだいぶ前に書いた。内的代償法は個人的なモチベーションを基盤とした周囲の支援、外的代償法はメモやカレンダーなどの補助手段や環境調整。この授業を受けて田中は、電子ノートという文房具を買い、記憶の補助手段を整備した。


まとめておきますと、発達障害はあくまで症状なり特性がある一方で、
1 その呼び名は現代医学の限界として存在しているだろう
2 しかしブームなので利用していったらよい
3 大きく脳機能の問題として見つめなおすと人間の新たな姿が立ち上がる
4 人間は生涯発達するものであって、発達に障害があるわけがない
といったところとなります。

「中高年の心理臨床」という授業の勉強は、病みながら生きた夏目漱石の話、また田中の実生活上の問題である記憶と認知の話など、もう少し勉強をして完結となる。このなかでおもしろいことが発掘されれば、また報告したい。
(今回はカラフルな記事になってしまったが、色の違いは引用元の違いである)

2019年2月28日木曜日

自閉症とeyes(3)生物学的障害


前回も引用したこの図。図をクリックすれば飛ぶ場所も同じ。ドイツの精神科医ウタ・フリスのホームページだ。ジェイミー・グッド『ワインの味の科学』の中に、ウタ・フリスのこの研究の話が出てくるという話を前回したのだった。二つの三角形は二つの三角形であるはずなのに、この三角形をアニメーションで動かすと、人間は二つの三角形が「たわむれている」と図形に感情を見出すものだ。ワインの味だって味を構成する化学物質をただ化学物質として捉えるだけではありませんね、ということだ。

しかし私はこのワインの本を読みながら、ジェイミー・グッドが但し書きとして放り投げたものにこそ注目していた。いや、一見放り投げているだけだった、という話になってはいくのだが、ここではいったん放置する。それはウタ・フリスの研究にとってはやはり、主題とされていることだった。

自閉症者は、三角形が動いたところで、そこに感情を見出すことができない。

この図は『ウタ・フリスの自閉症入門 その世界を理解するために』にも登場する図だ。そこで語られているのは「自閉症者はメンタライジングに課題を有する」という話だ。メンタライジングとは、メンタリストDaiGoという人がやっているような「読心」のことである。彼は優れた観察眼以上に、その観察を言葉にし論理化してショーにすることに長けているわけだが、彼に限らず心を読むことはコミュニケーション中にしぜんに起こることであるらしい。しかし自閉症者はその能力を欠いている。だから三角形は三角形。

これは「共感の欠如」という自閉症の特徴とも関連しているだろう。かつてハンス・アスペルガーは発達障害を「男性的知性の極端なかたち」と主張した。現に発達障害者は男性に多い。女性的な「エンパサイジング」よりも男性的な「システマイジング」に長ける発達障害、という話を簡単にするのは、性の文化的側面からいくらでも批判できることを承知で、しかし性ホルモンの影響という生物学的研究が進んでいることもまた事実であるという。



そもそも発達障害は生物学的な障害だ。遺伝子からしてニューロティピカル(註 ニューロティピカルという言葉もウタ・フリスに習った言葉だ。ニューロ神経がティピカル典型、という意味のこの言葉は、日本語の「健常者」と同じ範囲を指す言葉だろうが、使いよさがジャストなのでこれから田中も使っていく)とは異なる。その遺伝情報は周囲因子の関連で発現したりしなかったりする。そうして自閉症が発現した子どもの脳サイズは大きい。頭周長でみてもニューロティピカルの児童よりも頭が大きいのだ。近年流行の「大人の発達障害」として見出された田中は、子どもの頃の記憶を欠いているが、幼稚園の帽子のサイズに合うものがなく、特注したことを突然思い出した。ともかくそのように発達障害は生物学的な脳の構造、システム、活動レベル、また神経細胞の細部構造に起因している。

一方で、三角形の話は次のようにも説明できる。「自閉症は社会的であろうとする動因を欠如している」。「空気がよめない」みたいな自閉症者の苦労は聞くし、私もその気が大いにあるのをみとめるが、それはここに関係しているだろう。ニューロティピカルは、周囲の人間との関係や、文化的背景、文脈を理解して、それに沿った考えをすることができる。大きい三角形と小さい三角形がぐるぐるしていれば、それは親子かカップルかと読んで「かわいい」と言う、それがこの社会の「空気」なのだ。

そろそろ長くなってきたので、きょうのまとめをする。
自閉症また発達障害は、きょうも見てきたようにさまざまな特徴で語られ、また個人差が大きいものともされる。そこで便利なのが「自閉症スペクトラム」というよく聞かれる考え方だ。ウタ・フリスは同じ本の別の場所では、自閉症スペクトラムの中核にあたる3要素を「自分の世界に入る」「コミュニケーションがとれない」「反復行動と興味の狭さ」とあげているが、このようにポイントが列挙されるだけだと、障害がなだらかに見えるのはよいとしても、「ではこの苦しみはなんなのか」という当事者性は、当事者の中でさえ見失われて、田中は逆に苦しいと感じはじめている。

そこにウタ・フリスはきちんと医学者として答える。「苦しみは苦しみであり、障害は障害である」と。そして脳また神経細胞の違い、という生物学的観察をしている。その流れの中にあって、「空気が読めない」という極めて文化的(つまりは非生物学的)にみえる障害が、実はやはり脳機能による生物学的な困難であるのだ、という、そこからが次の話だ。いろいろと発達障害の要素にあたるものを並べたところで、極めてシンプルに一言で、ウタ・フリスが言い切った発達障害の核心とは。次回、最終回をたのしみにお待ちください(たぶん明日です)。

2019年2月19日火曜日

よるのはなしのつづきのはなし


夕方、南平駅の踏切が開くのを待っていた。カンカンカンカン遮断機がなり、南平には停車しない特急だか急行だか、通り過ぎる轟音を聞いていたら、記憶がフラッシュバックして、手を強く握った。そのせいで、いまも右手の平が青紫色だ。やはり利き手の方が握力が強いという話だ。

という握力の話ではない。いやな記憶ばかりを集めて、煮詰めているという話だ。そしてそれがフラッシュバックする。「フラッシュバック」についてwikipediaで調べると、待ち構えていたようにそこには、「アスペルガー症候群などの広汎性発達障害でもフラッシュバックを引き起こすことがある」との記述がある。だからwikipediaは信用ができるという話になる。

怒りという感情は、発達障害者が手を持て余してしまう大問題だ。そこには対象のなにに注目し、なにを記憶し、なにを忘却し、といったまさしく脳の問題が複雑に絡んでいるように思う。

本来フラッシュバックというのは、おさないころの記憶が不意に呼び起こされることを指す言葉なのだ。しかしそれがなぜ発達障害者にも起こるのか。発達障害者は発達に障害があるから、大人になっておらず、最近の記憶もフラッシュバックする。それは乱暴すぎる言い方だが、ある意味では正解だろう。

健常な発達とは何か知らないが、人間の成人の大多数は記憶になんらかの、おそらくは言語的な整理をつけて、脳に収納するのだ。しかし、子供は(発達障害者は)その整理ができないのである。だから整理ができていない引き出しから、なにかが取り出されようとすると、余計なものが引きずりでてくる。それをフラッシュバックというのだ。

怒りの感情をどう抑えるべきかと、これまでさまざまにやった。

ある場所では、「あなたは怒りをエネルギーにして行動する人だから、それはそれでいいんじゃないの?」と意味のないアドバイスを受けた。それで他人を傷つけるまで徹底的にやってしまうことを、私はずっと恐れてきたのに。

またちがう場所では「前世が戦国時代の足軽」と言われ、だからなんですかという話だが、成仏できていないと、小さなこけしみたいなのを買わされそうになった。

ある時は意識高い系の交流会に出かけ、流行の「アンガーマネジメント」について勉強した。すると私がアンガーマネジメントについて勉強していることをどこからか聞きつけた会社の後輩が、朝礼のスピーチの時にいかにも得意げに、なんども私の顔を見て、「アンガーマネジメントとは6秒我慢すれば怒りが収まるというもので…」と、インターネットで検索すれば一番上に書いてあるようなことを話して、

殴ってやろうかと思った。これはほんとうに殴ってやろうかと思ったのだ。しかし殴らなかった。殴らなかったからいいでしょう、思うだけならば。

この朝礼のTのスピーチを聞いているときの感情も、あああの時の、としっかり時間のタグがついたかたちで週に1度はフラッシュバックする。フラッシュバックは「いつだかわからない怒り」という形ではやってこないのだ。殴ってやりたい。また会うことがあれば会った瞬間に殴ってやりたい。

しかし無理だろう。そういう出来事があったことは記憶しているが、Tの顔はもうとっくに忘れてしまったからだ。会っても誰だかわからない。この出来事があったのは2017年くらいのこと、まだ2年経っていないが、顔は忘れてしまった。したり顔であったT、という記憶だけを残して。

必要ないことは忘れるに限る、とはよく言ったものだが、それならば全部忘れたらよいのに、脳の中が整理できていないから、いやな感情がヘンなとこにつっかかっているのだ。たとえば「怒った経験を紙に書きだす」といった療法がある。ためこんではいけないらしい。実際、私の脳には大量の怒りの感情がため込まれている。

もう十年以上前、私は交通事故でひかれた。ケガ自体はたいしたことがなかったのに、ぶつかられたショックで脳がおかしくなり、4か月入院した。毎日起きてから寝るまで病院内を全裸で歩き回り、大声で叫んで窓ガラスをたたき割り、富山県高岡市長の指令が出て私はベッドに両手足をしばられ監禁されていた。

「ふだん感情をため込んでいるとショックでそれが溢れだすんですよ」と退院時に精神科の主治医に言われたことを覚えている。私をひいたヤツの名前はやはりはっきりと記憶している。こうして怒りの経験を書き出すたびに、ぐつぐつと鍋が煮詰まっていく。

しかしいま事故自体の記憶や謝りに来た犯人の顔はさっぱりと記憶のかなたになった。そして良い記憶はすっからかんとなり、覚えていなければならないこともすぐに忘れてしまう。薬をのまなくちゃ、と薬のケースを出してきて、さて、ちょっと暖房をつけようか、とやって、もう薬のことを忘れている。

朝昼晩と薬をのまなくてはならない。しかしそのように、のまないと決めているのではなく、のみたくても忘れてしまうのだ。夜は睡眠薬をのまないと眠れないので、眠れなくなったら薬を思い出すふうにできている。朝は50パーセントぐらいの飲み率、昼は完全にのめない。

しかし最近、昼の安定剤を忘れると、しゃんしゃんするようになった。だから、しゃんしゃんしたら夕方に昼の分をのむ。魚のにおいがするDHAのつぶをのんで、血液さらさらにしている。そのうちグルコサミンとコンドロイチンをのんで、膝の痛みをとりにかかるかもしれない。あるいは小さなこけしみたいなのを薬局で、自立支援医療で買わされるかもしれない。

薬がのめないのだから、怒りを抑える技術を学んだところで習慣化できない。フラッシュバックに限らず、怒りが爆発しやすいたちだ。こないだ、発達障害者の集いに出かけたら、同じく広汎性発達障害の診断を受けた若者が登壇し、「ちょっとしたことですぐ怒るという性格は、就労移行支援を受けている間に治した」という言い方をしていた。やはり全般的な障害特有の傾向なのだ。そして順番待ちをしている就労移行支援を信じて、待っている。

昨日の夜、Twitterで書いて寝落ちした話、をここに完結させておく。

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