朝、宿泊しているネットカフェ・アプレシオをじゅうぶんにはやく出発したつもりだったが、路面電車で道後温泉につくとすでにすごい人だった。道後温泉にはおおくの旅館ホテルの他に、いわゆる立寄り湯が3件ある。これらはいずれも早朝から開店しているのだが、いくらなんでも朝の6時から風呂に入りたがるのは田中くらいのものだろうと油断していたのだ。いちばん人気の「本館」は田中が到着した時、すでに40分待ちの列ができていて田中はすんなり諦めた。
待たずに入れたのは「椿の湯」。道後温泉に入りました、というレポートをするため、その手の欲求は満たされるが、銭湯以上でも以下でもなかった。「本館」が人気なのは、風呂に入ったあと和菓子を湯上がりに食べてととのいましたいうやつが人気だったりするらしいのだが、これにしたって並ぶのに疲れちゃって風呂に入っても疲れがとれないなんてことにならないのだろうか。風呂に入るために並ぶなんて、信じられない。そもそも田中はあらゆる行列が嫌いで、並んでまでする価値のあることなんかそうそうない、という持論を持っておる。
ところでこの「のぼさん」とは松山出身の文学者である正岡子規の愛称である。このたびの四国遍路のルートが道後温泉を通るとわかったときから田中は、そこで夏目漱石について勉強ができるのではないかと楽しみにしていた。近ごろ田中が立て続けに夏目漱石を読み出しているのは、無職で暇だから、ということなのではあるが、一方で日本の近代という時代のキーパーソンとしての位置づけに興味があるからだ。しかし、実際に道後温泉に来てみると、ご当地の推しメンは圧倒的に「のぼさん」こと正岡子規である。
きょう一日で田中はだいぶん正岡子規に詳しくなり、彼に興味も出てきた。道後温泉には「松山市立子規記念博物館」があり、ここをゆっくり、100yenの音声ガイドも借りて見学をしたら、なかなかおもしろかった。正岡子規は結核により35歳で死んでいる。若い。松山に生まれ、政治家を目指して上京、東大で夏目漱石と親友になる。ベースボールが好きになる。興味が文学に傾いていく。
雑誌記者として従軍、このとき軍医であった森鴎外とも交流がある。「写生文」なる概念また短歌俳句の革新というところにある、「型破り」志向はそのまま近代小説の目標と地続きであり、これはもっときちんと勉強したいと思った。病気になって、療養に道後温泉に帰省。夏目漱石はこの時期に松山で英語の先生をやっており、2人は2ヶ月の間一緒に暮らした。子規は東京に戻り、そのまま病気で死んだ。
松山は、正岡子規の故郷であるが、夏目漱石が英語の先生に来たり、与謝野鉄幹晶子がどうの、なにがどうのと、なんで文士の街なのか。これはひとつに江戸時代の松山藩が松平家の治める「親藩」でありもともと文化的素地がととのっていた、幕末維新期の主人公のひとり長州藩と地理的に近いことも含めて「アツい土地」であったことが大きいようだが、やはりもうひとつには松山という土地が道後温泉という温泉場であったことがかなり大きいんだろう、田中はそう思った。
子規記念博物館は、正岡子規とはまったく関係ないような、松山の歴史をふりかえるところからはじまる。するとかなり初期段階での歴史的記述の例として、聖徳太子が松山を訪れて「いい温泉だなあ」と言った、そういう漢詩を書いたという話からこの物語ははじまるのだ。夏目漱石が松山に来たのは、神経衰弱で中心からいったん降りようと、温泉での転地療養をかねてのことであったはずだ。そして正岡子規も喀血後の療養という形で松山に帰省し、学生時代の親友であったふたりは再会する。
きょうの記事のタイトルに採った正岡子規の言葉、これは東京で十年がんばって働いてきた友人が松山に帰ってきたとき「おつかれ」の意で用いた言葉だそうだが、人間は必ずしもパワーがありあまって動き回るわけじゃないんだよな、みんな病みながら生きていて、死を強く意識するから生への衝動が強くでたりとかさ、とそんなことが今日の見学の一番大きい感想だ。
田中はこれから発達障害者として障害者認定を受けて生きていく準備をしているところだ。また容態が急変するような病気ではないものの腎臓に指定難病をかかえることにもなっている。そうすると「病みながら生きていく」ということについて考えることが、さいきんすごく多い。「十年の汗を道後の湯に洗え」―そうして病人が集まったから文化的に栄えた都市、それが松山・道後温泉であるというまとめは、乱暴ではあるがそれほど間違ってもいないだろうと思う。
午後は道後温泉を少し離れて、バスで「伊丹十三記念館」に出かけた。田中が映画に興味を持った時代がちょうど伊丹十三の時代だったということだけなんだろうが、田中が唯一、すべての作品をみた映画監督それが伊丹十三で、ここに記念館があるんだわとたまたま見つけて訪問したが、これもおもしろい施設だった。一時期ものすごく興味をもっていた人だから、あまり新たな発見というものはなかったが、ああやっぱり伊丹十三のこと好きなんだなと再確認したような気分。映画もまた見返してみたくなってくる。
きょうここに書いておきたいと思ったことは、彼が発行していた雑誌「モノンクル」のことだ。ちょうど田中が生まれたころの雑誌で、実物を手にとったことはないが、この雑誌が「精神分析」をすべての記事の通奏低音にとっていたこと、タイトルがフランス語で「ボクのおじさん」という意味であること、「若い人」に向けた語りであったこと、などは、はっきり言っていま田中がココでやろうとしていることにかなり近い。一時期ツイッターで主語を「おじさん」にしてみていたことがあった田中は、まさしく「モノンクル」的に語りたかったのであるあのとき。
やはりなんだかんだで、年はとるもんなのであり、田中はけっきょく結婚もせず子供もいないから、ではどうやって人類の未来に貢献してから死んでいくかということを、これも最近すごく考えるのだ。だから、おじさんの言うことが、いつか、数万年後でもよいので、誰かの役に立てばよいなあということで、このようにインターネットのゴミを産出し、この貝塚を構築しています、と前にも書きましたね。そんなこともきょう改めて感じたことだった。
それにしても伊丹十三はなぜ死んだのか。そこが完全に記念館でも空白になっている。いつかこの記念館でそのことをきちんと取り上げる日がきてよいのではないですか、というふうに思ったことも最後につけておく。
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