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2019年5月10日金曜日

人間はコンビニおにぎりではなく


きょう片づけた積読本は、平野啓一郎『顔のない裸体たち』(2005)。これはとりあえず、いびつな恋愛小説、もっと端的にはポルノ小説として紹介しうるだろう。
恋愛感情が、性行為という結果に至ることを人は自然と考える。その結びつきは自明である。すると最初にただ性行為だけがある時、その自明さが遡って何か恋愛感情に似たものを捏造するということはあるのだろうか?
男と女が、インターネットの出会い系サイトを通じて、出会う。そうしたサイトに人々は本名を書きこまない。インターネットではハンドルネームというものが使われる。たとえば弊ブログの著者にあたる<田中はにわ>もハンドルネールだ。 しかしここでこの小説では、本名もハンドルネームも同じ<ヤマカッコ>で括られている。同じレベルの記号として扱われているということだ。

男はハンドルネームで出会った女と「性行為」に及ぶ中で、女の「本性」「本当の姿」「正体」を見ることができた、と思うのだが、これらの言葉は本文のなかで太ゴチックであらわされる。つまり、評論でいうところのかっこつきのというやつで、ほんとうは本当の姿なんかないんだよ、ということをこの太ゴチックは強調している。
どんな小説でも言えることだが、本作に於いても、主人公の人生について扱い得る部分は、その全体に比して十分とは言えない。従って、その何処の部分を取り上げるかは、まったく作者の恣意である。
この小説を動かしているのは「作者」 だが、もちろんこれを平野啓一郎とイコールで結ぶことはできない。この「作者」が、女の「性器/生理」「乳房/自慰」「男性経験」といった、ここに並べたのは各章のタイトルだが、こうしたことを並べることで小説になってしまう、性的なこと以外にも女の人生はあったはずなのに、それはなぜなのか、ということに、平野啓一郎は自覚的であるはずだ。
 現代の社会と接するのが面であり、外側であるならば、モザイクのこちら側は裏であり、内側である。そうした発想で、ネットの世界は、常に簡単に内面化してしまう。
 他方で、<吉田希美子>を知る者たちは、当然にその顔のみを知っていて、彼女の裸体を知らなかった。服に隠されているからである。そこで肉体は、何時しか何か、内面的なもののようになってしまっている。
キーワードはずばり「内面」である。人間は服を着て社会生活をしていて、いわゆる心は見ただけではわからない。そこでうちに潜れば潜るほど本当の姿があるというモデリングがいつしか発明された。そのイメージ、なんにたとえるのが正確か考えたが、ここではコンビニで売られているおにぎりという食べ物を用意してみた。


ビニールのパッケージをめくり、海苔、米、と内面へ内面へ潜っていった結果として、具が出てくるという、そんなイメージはどうだろうか。実際にはコンビニのおにぎりは、ビニールパッケージに内面をあらわす表示がついているから、実際の人間と異なるが、人間に「内面」なるものを仮想構築する場合の構造図面は、コンビニおにぎりの断面図と似ているだろう。

しかし内に向かえば向かうほど本当の姿がある、なんてほんとうだろうか(うそだ)。平たく言ってしまったとき、「セックスをすれば相手のことが全部分かったことになるのか」というと、そんなことはポルノの世界の幻想に過ぎない、はずなのに、ポルノ以外の場面でも、あんがい人間はこの「内面」なるものを信じていますよね、というのがこの小説の主張のひとつであり、女はそれとはちがう意見を言っている。
この時、ネットの世界に転げ落ちたこの<ミッキー>が、自分のかけらであるか、それとも自分とはまるで無関係だが、自分に似た何かなのかが、<吉田希美子>には分からなかった。しかしともかくも、自分のような何かだと感じていたことは確かだった。
自分という存在に対するハンドルネームというインターネット上の存在、その関係性について、デジタルネイティブな世代はもうなにも考えないのかもしれないが、インターネットなるものの誕生とともに参入し悪戦苦闘してきた田中の世代は、おそるおそる、どこまでどう書けば自分がどうなってしまうんだろうという、興奮と恐怖の中で、ネットの海に生きてきたのだ。

この小説が提案するのは、現実世界の存在とインターネット上の存在を、「自分のような何か」として、同じ記号でくくって並立させる考え方だ。そこに上下関係はなく、どちらが本当の姿ということもなく、という点において、平野啓一郎はこの小説で「内面」なるものを否定撤廃しようとしている。それは田中にも感覚的に、どうも正しく感じられた。が、この小説はポルノ小説であると同時に、犯罪小説であり、一つの事件を「筆者」が追ったレポートとして読めるものだ、ということが新たな焦点となる。
少年による凶悪犯罪が起こると、所属していた学校の責任者は、大体、普段は「極ふつうの生徒」だったと声明を出すものだが、これは一種の責任回避の手段である。うっかり、元々要注意生徒だったなどと言おうものなら、忽ち事件の防止責任を問われることになる。本当の姿は分からなかった。そう言っておくのが一番である。
 人間を「内面」モデルで理解した時、犯罪に対してこのような理屈が成り立つ。が、女が言うように、犯罪を犯したのは自分ではない、「自分のような何か」なのだ、ということは、可能なのだろうか。という疑問を感じさせて、この小説は終わっている、と田中は理解した。簡単に言ってしまうと、「内面」には「責任」がつきまとっている。そこで「内面」モデルを否定撤廃するのは結構だが、別存在として切り分け切り分けで考えた時、その責任は誰がとるんだ、という話にならないか。


田中は発達障害者である。精神障害者が事件を起こした時、その精神状態によって減刑無罪といったことになる場合が、即座に想起された。ここには人間を一個人の内面に収束させて責任を取らせるのと、別の論理が働いている。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。田中は発達障害者である。発達障害者なので、事件を起こしてもよいのだろうか。田中だって自分の人生に責任をとる権利はないのだろうか。という観点から、田中はこの小説がつくっている人間の新しいモデリングに、感心しある程度の実効性を感覚的に認めつつも、素直にうなづくことはできなかった。

弊ブログがやろうとしていることは、人間の本質を「内面」ではなく、脳あるいは遺伝子というものに集約させていく方法だ。そのような人間理解に向かって、田中は一生をかけて勉強をしている、ということになる。

 

2019年3月29日金曜日

PENTAXQ10×高尾山


スマホが壊れた旅先で「写ルンです」を使って以来、突如としてカメラを趣味にすることを決めた田中であった。田中の生涯で続いた趣味といったらこれまで読書だけで、そうすると頭の中が言葉で満杯になってしまう。なにかちがう趣味を作りたいと思っていたところだったので写真はちょうどよかった。

当初はフィルムカメラを手に入れる予定だったが、一月ほど前の横浜、年に一度のカメラの大規模展示会「CP+」に出かけてプロのカメラマンのトークショウを聞いていると、どうも写真の初心者はとにかくたくさん撮ってみるのがよいらしいことがわかりデジカメを買うことに決めた。フィルム代を気にせずいろいろ実験できるだろうと考えた。

最初はとにかくわけがわからないのだから安い中古品を購入し、とにかく撮ってみてから次を考えよう。CP+というイベントには中古カメラ市が出ていた。中古カメラ市で目の前にあるカメラをその場でアマゾン検索すると、もっともっと安く同じ機種が手に入ることがわかり、パシフィコ横浜からアマゾンで注文したのがPENTAXQ10である。

このカメラには幾種類かレンズを付け替えることができるのだが、そのレンズのうち基本的な「02」というレンズがついて12000円だった。現在検索してみてもこの値段では見つからないから、なかなかよい買い物であったはずだ。

しかしその旅先である横浜で田中は原因不明の精神衰弱を発症し、その復帰にはだいぶん時間を要した。その間、買ったカメラはそのまんま放り出されていた。そして本日、カメラはようやく始動。ほんとうは明日これをやる予定だったが、明日はどうも雨らしいのできょうに変更になった。カメラをはじめて使ってみる場所は、「高尾山」である。


田中は今年のはじめ東京都日野市南平に引っ越してきた。それを機に弊ブログが開始されたのだったが田中はそもそもが東京生まれだ。実家は23区方面だが、子供時代の田中はよくこちら多摩地区に連れられていた。いまの生活圏にある「多摩動物公園」、またすでに閉園してしまった遊園地「多摩テック」にはさんざん遊びに来ていた。当時オープンしたばかりの「サンリオピューロランド」にも一度きているはずだ。そして高尾山にも。


高尾山はそのふもと高尾山口にある「自動車祈祷殿」という交通安全の神様のところに正月に初詣がてら来て自動車をお祈りしてもらうやつをしていた。また正月以外にも実際に高尾山の頂上までの登山を何度もしている。田中の両親は夫婦共通の趣味として登山をやっており、田中も簡単な登山にはよく連れて行かれたのである。高尾山は途中までケーブルカーやリフトが走っており、気軽に登山ができる山だ。昨日の夜ネットで下調べをしていたら、高尾山は「年間登山者数世界一の山」であるらしい。


とここまでつらつら書いてきた情報(思い出)は、情報としてはそのように記憶されているのだが、実際の情景としての子供時代の記憶は田中の脳裏からほとんど失われている。テレビでタレントなどが、また何かの機会に誰かが、幼年時代の話をしているのを聞くと、よくそんな覚えてるなあと思う。しかし田中にだってある一瞬の映像だけはいくつか保存があり、「高尾山の頂上の少し手前」という感覚とともに記憶している「登山道の映像」が、田中の脳内にはたしかに保存されてあるのだ。写真を趣味にするその初回は、高尾山に行き脳内の映像と同じアングルで写真を撮る、ということに決めた。


同じアングルの写真を撮るということはしゃがんで子供の視線に合わせるということだろうなどと計画を立ててわくわくして登山をしていたのだが、結果から申せば田中が保存していた「高尾山」はどこか知らない全く別の山であることがわかった。


高尾山はもっともっと登山道で、その頂上はもっともっと狭苦しい感じだと記憶していたのだが、頂上には売店がいくつもありビジターセンターなる建物もある。広場のような頂上はまったく記憶の映像とちがうものだった。あれはどこだったんだろう。田中はもう思い当たる場所がなく、田中の父は死に、田中の母は耳が聞こえなくなり、情報はもう検索不可能となってしまった。


本日は乗らずに歩いたケーブルカーの上の駅までがとてつもなく急な石畳の坂。そのあと頂上までは神社の石段をひたすら登るような感じ。とにかく大半が人工的な舗装道。田中が本日使用したのは1号路といわれる道で実際には他のルートもある。帰りは6号路という比較的登山道風なルートを通ってもみたが、なにせ頂上の印象が記憶と完全にちがっているため、脳内の映像を写真で再現するという企画は完全に失敗となった。


登りの際には「頂上近くで念願の写真を撮り、帰りに写真の実験で入ってみよう」と考えていたサル園(高尾山にサル園なんていうものがあることも記憶から抜けていた、一度くらい入ったこともありそうなものだが)も素通りしてさっさと下山した。しかし本記事のここまでに掲載した写真は、カメラ機体の写真を除いて全てPENTAXQ10で本日撮影したものばかりだ。計画が消えたというだけで、撮影散歩自体はたいへんおもしろいものだった。


本日の撮影枚数はなんと523枚である。そりゃあフィルムでやったら無職のおじさんは破産してしまう。しかしデジカメならそれができるのだ。523枚は523のモティーフを撮ったものではない。まだ使い方がなにもわからないため、これをまわしたらどうなるのか、この数字を小さくすると画面が白くなるなあ、などと実験をしながら撮影した。


PENTAXQ10には「FlashAir」というSDカードをつっこんである。そうするとカメラで撮った写真がするするとスマホに移動し、スマホに移動した写真は自動的にgoogleフォトに保存されたのでこれは便利である。いずれ明らかな失敗作は削除することになるだろうが、googleフォトはそんな簡単に満杯にはならないだろうから、しばらくは放置しておきたい。


いまgoogleフォトさんは一生懸命働いて、どんどん通知を送ってきている。この写真はこういう色の具合のほうがきれいじゃないですかなどと勝手に補正をどんどんかけてくる。そうなったらもうどうでもいいよなあという感じはしなくもないが、しかしきれいな写真ができていくのはやっぱりたのしい。


高尾山にはカメラを首に提げたお仲間もたくさんいた。そのみなさんのカメラはやっぱり田中のQ10より大きいしレンズも長い。みなさんが写真を撮っているのをみていると、きっとあれをあんなふうに狙っているのだなあというのがわかる。その人が消えてから同じ場所に立って撮ってみた写真もあるが、どうも想像通りには撮れない。田中の腕がないということもあるし、カメラがちがうということもあるだろう。Q10がなんとなくわかった部分も出たような気はするが、やっぱり一度は基礎の理屈を文章で読んで勉強することに決めた。


4月から定期券で池袋に通うため、池袋→新宿→南平のルートの全駅で途中下車が可能となる。そこで職業訓練終わりの放課後、どこかの駅で降りて撮影をするという写真訓練を実施する予定だ。「多摩動物公園」の思い出はなにひとつ残っていないのだが、なにしろ家の近くであるため、6月ころ障害者手帳がもらえたら「多摩動物公園」の入園料はタダになるはずなので、障害者記念で「多摩動物公園」に動物の写真を撮りに行きたい。


そのためには、きょう写真を撮った感じではもっとズームが効かないと動物の撮影はできないだろう、とわかった。「02」では動物園は無理だ。なので次は「06」のレンズを買おうと思う。というように、写真関連の予定計画はどんどん進んでおり、こうして立派な趣味がひとつ出来上がったのである。うわさによれば、趣味でとった写真をうっぱらってマニをもらう趣味もあるらしいではないか。いずれそれにも挑戦してみたい。

2019年2月7日木曜日

ウズベキスタンの商人

きょうは一日、新しいことが何もできず、敗戦処理のような仕事ばかりしていた。見かたによっては新しいことをしているからアタマが疲れてしまう。そして処理的な作業はやはりそれに追い討ちをかける。なぜこんな仕事をしているのか。きょうこんなことをする予定はなかったのだ。

突如としてスマートフォンを昨日、買い換えたのである。スマホの端末代を分割で毎月の通信費にするのはただの借金生活でしかないと知って以来、スマホはとにかく安い金額のものを一括でと決めている。そんなふうに選んだ前回の機種は、韓国だかインドネシアだかの発音できない謎メーカーのしかも型落ち品で、家電量販店の在庫処分的なものを当時1万円で買ったのだった。2年くらい前である。


そのスマホが近日調子を悪くしていたことはここでも書いていたことだ。なにが調子悪かったのかといえば、まず充電がひたすら遅い。そしてせっかく充電された電池がすぐに空になる。それから使っているとすぐにスイッチが切れて再起動になる、といったことである。

これは調べてみるにバッテリーが寿命なのであり、まあ近いうちに修理に出すことになるだろうと、街を歩きながら修理をするとしたらどこでどうすればよいのかと考えていた。たとえばiphoneのバッテリー交換を即日でしてしまう業者は、この日本の首都Tokyoにはいくらもあるのだが、その店でこの台湾だかシンガポールだかのスマートフォンも修理することはできるのだろうか。



昨日はまったく知らないところに遊びに行った。その土地は天王洲アイルてなんじゃそらいう名前の街。浜松町から羽田空港に向かう東京モノレールの浜松町の次の駅である。おかしな名前の街になにをしにいったのかはまた近日中に書くとして、天王洲アイルの駅でモノレールを降りた瞬間、スマホの電源がまた落ちたのである。去り行くモノレールの写真を撮ろうと連写していたら、画面が真っ暗になった。ついさっき新宿のカフェで充電をして、なんとかなりましょうとやってきたところなのにだ。

知らない街でスマホを持たないということは、これはもうどうにもならない。グーグルマップの通りに歩こうとなにも道順を調べていないし、なんならもう行く場所の名前すら覚えていなかった。天王洲アイルという謎の土地、とりあえずセルフうどん屋で釜玉うどんを食べてどうするか考える。あしたもういちど来るしかないのじゃないか、しかしきっと目的地はすぐそばのはず、がそこは大きな施設ではないのでどこかで道を尋ねても誰も知らないだろう。帰るか。

が、帰ろうとしたときファミリーマートがあり、ファミリーマートにはモバイルバッテリーが売ってあるのだった。いままでずっと迷っていたモバイルバッテリーをこんな形で買う日が来ようとは。購入してつなげると再び画面が映り、グーグルマップが使えた。目的地までモバイルバッテリーをつなぎっぱなし、目的地では写真も撮影でき充実した天王洲アイルだったのだが、再び天王洲アイルのモノレール駅に着いたとき、いよいよモバイルバッテリーの電池も使い果たしてしまった。

モバイルバッテリーは販売時、電気が少しだけ入った状態で売っているので、また充電したらよいし、きょうはもううちに帰るだけだから別に大丈夫なのだがしかし。ここでブチ切れたんである。たまにこういうことがある。もうがまんができないのである。きょうスマホを修理しなくては気がすまなくなってしまった。先ほどまで見ていたのである。私が持っているタスマニアだかウズベキスタンだかのスマホメーカーが日本でただ一箇所、永田町にショップを持っており、ここに行けば即日で2000円でバッテリー交換ができると、そう書いてあった。


地下鉄の出口の番号も覚えていた。その番号の出口を出たら道の反対側を眺めれば、そのショップがあると、もう電池が切れたとき用に全てを記憶してあったのだ。記憶どおりに地下鉄を駆使してショップにたどり着いた。はるばるきたぜタジキスタン、もうここにくれば安心だ。受付の書類をつくりますとどうみてもこのショップには日本人しかいなかった派遣社員かアルバイトか。もうはよう2000円でバッテリー交換をしてくださいと、そう訴えたのだが、それはかなわなかった。

まずあんたはどこで2000円という情報を見たのか知らないが、それはバッテリーの代金であり工賃が別に5000円かかりますと。じゃあ7000円で修理できますね、というといや、いやそれがですねそれだけ電気が入るのが遅いのはなぜかといえば、たとえばこの充電コードの差込口がですね、ルーペで見ると歪んでいるんです。ほう、ではそのルーペをちょっと貸してください、というといやお客様が見てもわからないとおもいますよとボスニアヘルツェゴビナが言う。カチンとくる。それにねえこのコードの差込口にポケットだかカバンだか知りやせんが繊維くずが詰まっておりましてもうこのスマホだめなんですよ、とスウェーデンが言うのだ。いやだからルーペかして素人でもゴミがつまってんのくらいわかりますからね。ルーペヲオカシスルコトハデキカネマー。はァ?いうてですね。

ではその差込口の部分を替えたらいいでしょうというと、この部分の部品も2000円である。じゃあ9000円払ってなおるんならそれでお願いします。といったらソレデモインデスケドネーソレデモインデスケドネーと繰り返すケニア人。デモネー20000円出セバ新品ガゲットデキルヨデキルデキルヨネー。あのですね9000円でなおるんなら9000円でなおしますよといってもこいつ聞かねんだわ。価格は倍になりますがこのあとのことを考えると絶対に損はさせませんという、それはなんとなくはわかるまた壊れるとかそういうことを言っているのだろう。しかし新しいものにしたってまた2年もすれば壊れるその程度のものをオタクは製造販売してはるわけでしょう。イニシャルコストとランニングコスト、この話ももうここで、しましたよね。

だけどそれ以上にね、私はショックだったのだ。日本で唯一のショップを、日本の首都の中心の中心に構えて、それだけ自社の製品をジャパニーズに大切にしてもらおうというその店が、そんな古いもんは捨てて新しいの買ってくらさいと、ただの家電量販店みたいなことを言うとは思わなかったのだ。じゃあおめえさ、なんのために永田町にショップ開いとんがよと。押し問答をしながら呆れてしまって、もういますぐこのショップを飛び出してどこかのビックカメラに行って安い新しいスマホを買ってしまおうと思い私は、もういいと。

本来は36000円だが修理に来たあなただから20000円だというそのニュージーランドのスマートフォンを買うたったのである。


疲れた。さっと立ち寄って修理して帰るつもりで昼に入店し、一連の押し問答を終えて新しいスマホを手に中南米あたりのショップを出たときはもう、まっくらな夜になっていたのだった。ショップを出たらすぐとなりのサンマルクカフェでチョコクロをかじりながら初期設定をはじめて、その設定の残りをきょうも一日していたというわけです。この話のポイントがいったいどこにあるのか、言い争いをしていたこともありとにかく心がかき混ぜられて、いまも不安定な感じがして気持ち悪いのですがしかし、なぜだか突然最新のスマートフォンを手に入れてみるとたしかに動作が滑らかできびきびもしていて、明日くらいからは疲労も忘れて、機嫌よく生きていけそうな気がしている。

古いスマホはwifiが飛んでいる家の中でコードに常時接続しておく限りはいまのところタブレット的に不自由なく使えるため、家に帰ってスマホがいじりたい気分のときは古い機械を使い、新しい電話は充電位置を決めて家では触らないことにした。

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