2019年3月31日日曜日

とにかくよく見えルンです


明日から就労移行支援に通う田中は、眼鏡屋で新しいメガネを買った。新しいメガネが欲しいとはこの数週間思っていたことで、都心に用事があるときにはハイセンスなメガネ店を見物していたが、結局は八王子のゾフで5000円のメガネを購入する。

視力検査をしてもらったらきょうまで掛けていたメガネでは視力がよすぎて1.2も完璧に見え、「目が疲れませんか1.0が見える程度に視力を落としませんか」と言われた。視力検査で「目が良い」と言われたのははじめてのことだった。「そんなことありますか」と聞くと、「視力は一日の中でも変化していますから」、と店員は言った。

「それだったら別にいまのメガネの視力でもいいということですね」と尋ねてから、視力は落とさずによく見えるメガネを掛け続けることにした。なにが正解かはわからないし目が疲れるという感覚を田中は知らない。ミニマリストを目指す田中はひとつ増えたメガネの置き場をつくるために、ひとつメガネを捨てることにした。高校生のときに掛けていた茶色のメガネはデイリーヤマザキのチキンカツ弁当のガラと同じ色をしていた。


放送大学の授業「日本美術史の近代とその外部」は透視図法(遠近法)という西洋絵画の技法がなかば誤解された形で鎖国日本の浮世絵に受容され、日本開国後の欧米における「ジャポニスム」がそれを誤解ではなく日本独自の視点として評価するという、相互関係というか誤解のドミノ倒しを論じている。それは大変興味深く刺激的だがなにせレベルが高くて、スゴいトコに頭をつっこんじまったようだ。

レベルの低い田中はまず「透視図法(遠近法)」ってなんやねんという、講義では「自明」とスルーされた議論にそもそもひっかかった。この疑問を簡単に整理しているのは、布施英利『構図がわかれば絵画がわかる』だ。この本によれば「遠近法の基本原理は、『遠くのものは小さい』ということ」。「小さいものが、どんどん小さくなって、どんどん遠くなると、どうなるか。小さくなるのですから、最後は『点』になります。これが遠近法でいう消失点です」。こういう遠近法を使った構図は、手前が広く奥に消失点がある「三角形の構図」となり、この三角形が「絵画の空間を安定させる」ことになる。

この三角形をどういうふうに設計すると正しい透視図法となるか、これについても勉強し納得したのだけれど、その議論はここでも割愛する。江戸時代の画家は「その議論」を誤解したのである。授業で出てくるような葛飾北斎の「三ツ割の法」は誤解の一例であり、それをジャポニスムのさなかにあるマネがとりこんでいる。その詳しい話は講義に譲って、きょうここで書きたいのは講義で軽く話されたほうの話だ。


遠近法を理論どおりに絵に起こしてみた時、画面のど真ん中に消失点を置いてしまうと、真ん中に描きたいモチーフを置こうとしたときに、そのモチーフがもっとも遠く小さくなってしまう。このことに江戸の浮世絵師たちはわりあい早い段階で気づき、わざと遠近法を崩してモチーフを大きく描いたのではないか、その可能性が講義では指摘されていた。

印刷教材には出てこないが、テレビ講義で紹介される歌舞伎の舞台絵はとても印象的だった。歌舞伎の舞台を描きたいのだから舞台が真ん中にある。しかし遠近法を知ったので視点のすぐ近くの客席や建物の側面にある二階席なんかを描きながら舞台に接近していく。すると舞台上の肝心の役者が消失点に重なって米粒になってしまうという笑い話のようなアレだ。

それはまるで望遠レンズがほしいと嘆く、写真を趣味にしはじめたばかりの田中のようであると田中は思った。裏を返せば写真は絵画と違い、遠近法で現実感を出す必要がそもそもない。拡大縮小が自由自在(ただし見合うレンズがあれば)で、しかも現代においては撮影した後の写真をトリミングして構図を見直すことも可能となっている。


そんな現在において、写真はなにを写すものなんだろう。放送大学の授業が近代という時代の入口について議論を展開しているのに対して、写真家のホンマタカシは著書『たのしい写真』において、近代の出口としての現在を考察している。近代の科学技術によって誕生した写真の当初の役割は写真家が「決定的瞬間」を写し、社会で共有することであった。それに対して現在の写真はどうなっているか。無職の田中さんが一眼レフを買えるこの現代、「大きな物語から小さな物語へ」というポストモダニズムの理論通り、「ものスゴく私的な物語」がテーマになる時代とホンマは言っている。

その物語はどう写すか。ホンマは「「今日の写真」をめぐる状況はとても雑多で多様なんだ」と書いている。それはすなわち、あなたとわたしがちがうから、なのであり当たり前だ。ここはあえて強引に「今日の写真」をまとめて言いたい、と思ったが、どうもこの本を読むと潮流は正反対の方向に二分しているように田中には感じられた。

(1)ひとつはホンマが依拠する、アメリカの生態心理学者ギブソンのアフォーダンスが示すところの、「等価値」な写真だ。「ギブソンが造語した『アフォーダンス』とは、環境の中に情報があるということ、そしてそれには正の情報も負の情報もあり、人間(動物)はその情報を直接知覚することができるということ」。それは「決定的瞬間などはそもそも存在せず」という点において全ての時間を等価値に置いているのと同時に、写真からモチーフという概念を消失させ<だって写ルンです>状態の写真を生んでいることが推察される。そうしたことをも含むキーワードが「あらゆる境界線の曖昧さ」ということになるだろう。

(2)しかし一方で、現代において写真は「美術への接近あるいは美術からの接近」という影響関係の中でも語られているとホンマは指摘する。これに関係するキーワード、写真のあり方が「ストレートからセットアップへ」というものだろう。報道写真のように現実をストレートに写すのではなく、あたかも机の上に果物や花瓶をならべてデッサンの用意をするように、モチーフをセットアップして構図を確定する絵画のようなタイプの写真があるのだ。


この二つの方向性は、田中がまとめれば「(1)究極のリアル」と「(2)究極の虚構」と、ということになる。そしていずれにせよポストモダンとしての現代は、<とにかくよく見える時代>と、やっぱり最後はひとつにまとめられるんじゃなかろうか。見たかったものも、見えなかったものも、見たくなかったものも、とにかく見える、見えてしまう、それが現代である。そしてそれは採りようによって、必ずしも「鮮明」ということに限らない、という複雑さがおもしろい。そう感じているところだ。

2019年3月29日金曜日

PENTAXQ10×高尾山


スマホが壊れた旅先で「写ルンです」を使って以来、突如としてカメラを趣味にすることを決めた田中であった。田中の生涯で続いた趣味といったらこれまで読書だけで、そうすると頭の中が言葉で満杯になってしまう。なにかちがう趣味を作りたいと思っていたところだったので写真はちょうどよかった。

当初はフィルムカメラを手に入れる予定だったが、一月ほど前の横浜、年に一度のカメラの大規模展示会「CP+」に出かけてプロのカメラマンのトークショウを聞いていると、どうも写真の初心者はとにかくたくさん撮ってみるのがよいらしいことがわかりデジカメを買うことに決めた。フィルム代を気にせずいろいろ実験できるだろうと考えた。

最初はとにかくわけがわからないのだから安い中古品を購入し、とにかく撮ってみてから次を考えよう。CP+というイベントには中古カメラ市が出ていた。中古カメラ市で目の前にあるカメラをその場でアマゾン検索すると、もっともっと安く同じ機種が手に入ることがわかり、パシフィコ横浜からアマゾンで注文したのがPENTAXQ10である。

このカメラには幾種類かレンズを付け替えることができるのだが、そのレンズのうち基本的な「02」というレンズがついて12000円だった。現在検索してみてもこの値段では見つからないから、なかなかよい買い物であったはずだ。

しかしその旅先である横浜で田中は原因不明の精神衰弱を発症し、その復帰にはだいぶん時間を要した。その間、買ったカメラはそのまんま放り出されていた。そして本日、カメラはようやく始動。ほんとうは明日これをやる予定だったが、明日はどうも雨らしいのできょうに変更になった。カメラをはじめて使ってみる場所は、「高尾山」である。


田中は今年のはじめ東京都日野市南平に引っ越してきた。それを機に弊ブログが開始されたのだったが田中はそもそもが東京生まれだ。実家は23区方面だが、子供時代の田中はよくこちら多摩地区に連れられていた。いまの生活圏にある「多摩動物公園」、またすでに閉園してしまった遊園地「多摩テック」にはさんざん遊びに来ていた。当時オープンしたばかりの「サンリオピューロランド」にも一度きているはずだ。そして高尾山にも。


高尾山はそのふもと高尾山口にある「自動車祈祷殿」という交通安全の神様のところに正月に初詣がてら来て自動車をお祈りしてもらうやつをしていた。また正月以外にも実際に高尾山の頂上までの登山を何度もしている。田中の両親は夫婦共通の趣味として登山をやっており、田中も簡単な登山にはよく連れて行かれたのである。高尾山は途中までケーブルカーやリフトが走っており、気軽に登山ができる山だ。昨日の夜ネットで下調べをしていたら、高尾山は「年間登山者数世界一の山」であるらしい。


とここまでつらつら書いてきた情報(思い出)は、情報としてはそのように記憶されているのだが、実際の情景としての子供時代の記憶は田中の脳裏からほとんど失われている。テレビでタレントなどが、また何かの機会に誰かが、幼年時代の話をしているのを聞くと、よくそんな覚えてるなあと思う。しかし田中にだってある一瞬の映像だけはいくつか保存があり、「高尾山の頂上の少し手前」という感覚とともに記憶している「登山道の映像」が、田中の脳内にはたしかに保存されてあるのだ。写真を趣味にするその初回は、高尾山に行き脳内の映像と同じアングルで写真を撮る、ということに決めた。


同じアングルの写真を撮るということはしゃがんで子供の視線に合わせるということだろうなどと計画を立ててわくわくして登山をしていたのだが、結果から申せば田中が保存していた「高尾山」はどこか知らない全く別の山であることがわかった。


高尾山はもっともっと登山道で、その頂上はもっともっと狭苦しい感じだと記憶していたのだが、頂上には売店がいくつもありビジターセンターなる建物もある。広場のような頂上はまったく記憶の映像とちがうものだった。あれはどこだったんだろう。田中はもう思い当たる場所がなく、田中の父は死に、田中の母は耳が聞こえなくなり、情報はもう検索不可能となってしまった。


本日は乗らずに歩いたケーブルカーの上の駅までがとてつもなく急な石畳の坂。そのあと頂上までは神社の石段をひたすら登るような感じ。とにかく大半が人工的な舗装道。田中が本日使用したのは1号路といわれる道で実際には他のルートもある。帰りは6号路という比較的登山道風なルートを通ってもみたが、なにせ頂上の印象が記憶と完全にちがっているため、脳内の映像を写真で再現するという企画は完全に失敗となった。


登りの際には「頂上近くで念願の写真を撮り、帰りに写真の実験で入ってみよう」と考えていたサル園(高尾山にサル園なんていうものがあることも記憶から抜けていた、一度くらい入ったこともありそうなものだが)も素通りしてさっさと下山した。しかし本記事のここまでに掲載した写真は、カメラ機体の写真を除いて全てPENTAXQ10で本日撮影したものばかりだ。計画が消えたというだけで、撮影散歩自体はたいへんおもしろいものだった。


本日の撮影枚数はなんと523枚である。そりゃあフィルムでやったら無職のおじさんは破産してしまう。しかしデジカメならそれができるのだ。523枚は523のモティーフを撮ったものではない。まだ使い方がなにもわからないため、これをまわしたらどうなるのか、この数字を小さくすると画面が白くなるなあ、などと実験をしながら撮影した。


PENTAXQ10には「FlashAir」というSDカードをつっこんである。そうするとカメラで撮った写真がするするとスマホに移動し、スマホに移動した写真は自動的にgoogleフォトに保存されたのでこれは便利である。いずれ明らかな失敗作は削除することになるだろうが、googleフォトはそんな簡単に満杯にはならないだろうから、しばらくは放置しておきたい。


いまgoogleフォトさんは一生懸命働いて、どんどん通知を送ってきている。この写真はこういう色の具合のほうがきれいじゃないですかなどと勝手に補正をどんどんかけてくる。そうなったらもうどうでもいいよなあという感じはしなくもないが、しかしきれいな写真ができていくのはやっぱりたのしい。


高尾山にはカメラを首に提げたお仲間もたくさんいた。そのみなさんのカメラはやっぱり田中のQ10より大きいしレンズも長い。みなさんが写真を撮っているのをみていると、きっとあれをあんなふうに狙っているのだなあというのがわかる。その人が消えてから同じ場所に立って撮ってみた写真もあるが、どうも想像通りには撮れない。田中の腕がないということもあるし、カメラがちがうということもあるだろう。Q10がなんとなくわかった部分も出たような気はするが、やっぱり一度は基礎の理屈を文章で読んで勉強することに決めた。


4月から定期券で池袋に通うため、池袋→新宿→南平のルートの全駅で途中下車が可能となる。そこで職業訓練終わりの放課後、どこかの駅で降りて撮影をするという写真訓練を実施する予定だ。「多摩動物公園」の思い出はなにひとつ残っていないのだが、なにしろ家の近くであるため、6月ころ障害者手帳がもらえたら「多摩動物公園」の入園料はタダになるはずなので、障害者記念で「多摩動物公園」に動物の写真を撮りに行きたい。


そのためには、きょう写真を撮った感じではもっとズームが効かないと動物の撮影はできないだろう、とわかった。「02」では動物園は無理だ。なので次は「06」のレンズを買おうと思う。というように、写真関連の予定計画はどんどん進んでおり、こうして立派な趣味がひとつ出来上がったのである。うわさによれば、趣味でとった写真をうっぱらってマニをもらう趣味もあるらしいではないか。いずれそれにも挑戦してみたい。

2019年3月28日木曜日

画狂老人卍の「長生きしましょう」


このところは田中が受講している放送大学の「中高年の心理臨床」という授業がらみの話をしている弊ブログ。この授業をとった理由は、もちろん田中が中年になろうとしているからだ。人生の中で中年の入口、それは「ミッドライフクライシス」と言われる危機的な季節。しかしここでこれまでの人生を振り返り、次に向かって踏み出すので「四十にして惑わず」となるらしい。まさしくいま立ち止まっている田中は、ミッドライフクライシスの只中にいる。クライシス田中と呼んでいただきたい。

おじさんになったらもう坂を転がり落ちていくだけだと思っていた。いまも半分はそう思っている。いつだかネットで見かけて以来、特にお酒の席で話すと必ず盛り上がる話がある。田中のすべらない話。子どもの頃の毎日は長く一年は長かった。大人になると一年なんてあっという間だ。そのように心理学的な時間というのは年をとるごとに速く過ぎる。さあ問題です。仮に100歳まで生きるとした時、その人生の心理学的時間の中間地点は何歳の時でしょう。

答えは18歳。だと読んだ記事には書いてあった。なにやら短くなる感覚を数式に落とした計算の結果。とすれば、みなさんだってそうでしょう。もう人生はそう長くはありませんので生き急ぎましょう。ということになる。この話を田中はこれまで4回も別の場所で披露している。そのうち一回の聴衆からは後日、「オレが彼女にプロポーズしたの、こないだの飲み会で田中さんがあんなこと言ったからっすからね」と言われた。それぐらいこの話はすべらない。インターネットって素晴らしいですね。


しかし、前回も書いたように、人間は生涯にわたって「発達」(変化)するのであり、どこまでも成長することが可能である。というひとつの例として「中高年の心理臨床」では江戸時代の画家・葛飾北斎が取り上げられていた。葛飾北斎といえば「富嶽三十六景」、は北斎が60代になってからの作品であるという。葛飾北斎が活躍した時期は江戸時代の後期(幕末)であり、このころには他にも良寛、小林一茶、滝沢馬琴など長生きをし老年になって後世に伝わる作品を生み出した人物が多い、と教科書には書いてあった。

なるほどそうか、北斎は晩年になってから認められた作家なのか、と思っていたところ、ちょうどツイッターで、六本木の森美術館で北斎展をやっているという情報が流れてきて、興味を持った田中は出かけたのだった。その展覧会、現在はすでに終わってしまっていて、なんともタイミングが悪い報告なのだが、田中の思索が芋づる式に連なり、現在もまだ解決に至っていない結果なので、ご容赦いただきまして。

葛飾北斎はその人生の中で30回も名前(作家名)を変えていて、作家名を弟子に売って金儲けをしたりもしている。たしかに「富嶽三十六景」は晩年の作品だが、それ以前にもあらゆる作品を生み出し、ライフステージの大半を画家として生活していた。決して晩年になってから売れた人物というわけではなかった。そして「富嶽三十六景」を描いた時期にはすでに葛飾北斎という名前も捨て「為一(いいつ)」を名乗っていた。


北斎の人生に興味を持って図書館で探した本、狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』は北斎をはじめ、江戸時代の画家8名、の作品にその人生が映っている、という伝記的作家論だ。その読みはそれぞれに興味深く、特に第一章の岩佐又兵衛のトラウマについては、かなり説得力を感じる論説だった。しかし、この本を読むにつれて田中が気になってきたのは、これだけ作者の心理が直に作品に表出するのは、作品が写実的でないからなのではないか。日本の絵画に写実的な要素が導入されるのはいつなのだろう、ということだった。

すると「中高年の心理臨床」の次に勉強をはじめた放送大学の授業「日本美術史の近代とその外部」の冒頭がまさしくその議論で、葛飾北斎についても授業一回を割いて大きく扱われているのだった。葛飾北斎の時代、つまり江戸時代の後期が透視図法≒遠近法の導入時期なのだった。この議論がたいへんおもしろい、というかわからないことが多く、まだ勉強中のため展覧会の報告が遅れてしまった。「日本美術史の近代とその外部」という授業はただ聞いてればわかる授業ではない。透視図法とはなにか、といった素人の疑問をすっ飛ばして、いきなり高度な議論をしているから困っているのである。

が、ここまで聞いていてはっきりわかったことを一言でまとめておけば、葛飾北斎の時代に「浮世絵」は「錦絵」になったのだということだ。透視図法の導入以前、画家はたとえば歌舞伎役者のブロマイド的な版画、あるいは色町の情景といった「浮世」=「ファンタジー空間」を描くしかなかった。しかし、たとえば「富嶽三十六景」のような「錦絵」=色付き版画≒風景画は、もはや「浮世絵」ではない、という定義はわかりやすい話だ。

田中は森美術館の北斎展を、音声ガイドを聴きながら鑑賞していたため放送大学を受講する前でも気づくことができてよかったのだが、北斎が「富嶽三十六景」を描く晩年になってはじめて青色が多用される。これを「北斎の青」というのだそうだが、なぜ葛飾北斎は晩年になって青を使いたがったのか。これは当時「ベロ藍」と呼ばれた化学染料プロシアンブルーを北斎が真っ先に取り入れた結果だという。新しい絵の具によって青が描けるようになった。川が、滝が、波が、空が描けることではじめて「ランドスケープ」が日本の絵画において成立する。というのはなかなかおもしろい。

布施英利『構図がわかれば絵画がわかる』という本を読んでいたら、「色彩遠近法」の話が出てきた。青はその色からして「遠くを描く色」なのだった。『モナリザ』の話はさいしょなんのことを言っているのかわからなかったが、こんど家の近くでダ・ヴィンチに関する講演会があるらしく、図書館の掲示板に貼ってあった講演会のポスターで『モナリザ』を見て納得した。あの肖像画の背景には青い風景があるのだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然の風景の中で、遠くの山を見ると、山は青く霞んで見える、とメモに残しています。空気の層が、光を青く変えているのです。その極限が、青空です。ダ・ヴィンチはこの観察をもとに、風景画を描くに当たって、遠くにある山ほど、青く描きました。自然の理法に即した、色彩による遠近法です。『モナリザ』の風景にも、この色彩の原理が使われています。


「中高年の心理臨床」に強引に話を戻せば、晩年の北斎が名作を世界に残したのは、若いころからの努力がもちろんあってのことだが、新しい絵の具が発売される時代まで生きていたから、ということは大きいのだ。まして技術革新のスピードがちがう現代、一年でも多く生きて、新しい技術を使ってから死んでいきましょうということになる。北斎は晩年、作品に入れるサインに、自分の年齢を書き添えるようになる。そして「100歳まで生きれたらようやくホンモノになれるのに」と言いながら88歳で世を去ったのであった。北斎の最後の号(名前)「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」。その絵は入り口で写真をとったアレで、その絵の前で田中はなんだか泣けて仕方なかった。

「日本美術史の近代とその外部」という授業に関しては、さきにも書いたように「遠近法」についてある程度の納得がいくまで勉強したうえで、授業では字幕でさらっと流された日本の絵画への西洋絵画技法の導入の他例としての、「明暗法」に関して調査、レポートにまとめようと考えている。なにしろ今期の放送大学はレポート提出課題がある授業ばかりを選択してしまったので、そうそうにテーマを組めるものからやっていかないと間に合わない。この過程はまた弊ブログの話題としていきますので、なにとぞよろしく。

2019年3月27日水曜日

生涯発達障害概論B


この記事のパートAでは発達障害の「障害」というものを解体する実験をおこなったわけだが、本記事Bでは「発達」という言葉のほうに注目する。この言葉はそもそもが心理学の学術用語である。心理学とは、google検索のどあたまにくる定義によれば、「生物体の意識とその表出としての行動とを研究する学問」だ。そして前回も使った教科書『ベーシック発達心理学』によれば、「発達とは、人間が生まれて(受精して)から死ぬまでの心身の変化ととらえることができ、一生涯見られるものであると言える(生涯発達)」、一言で言えば「発達」とは「変化」のことになる。

つまり発達という概念には「時間」が関係している。より具体的には「発達」は「成熟」と「学習」の「相互作用」によって成立する。このあたりをまとめると―

発達=ⅰ+ⅱ(相互作用)
ⅰ成熟…時間の経過とともに遺伝的なものが発現すること=遺伝(ジェネティクス)
ⅱ学習…経験による比較的永続的な行動の変化=後成的遺伝(エピジェネティクス)

成熟が遺伝子DNAの塩基配列に由来するに対して、学習は従来「環境」に左右されると言われてきたが、学者のみなさんは「環境ってなんやねん」とずっと思ってきたんだ。そんなあやふやなものでない、目に見える因子として近年発見されたのが「エピジェネティクス」。一卵性双生児を3歳の時点と50歳の時点で比べると、50歳のほうが差異が大きい。その差異はなにかといえば、同じDNA塩基配列でありながら分子レベルでの変化が生じている、ということが分子生物学の最新の研究で明らかになっている。

アメリカの教育学者ハヴィガーストは言った「生きることは学ぶこと、成長することは学ぶこと」と。いまを生きるわたしたちは、自身が「発達」する上に、学問が「発達」していくので、日々新しい情報を仕入れて消化していかなくてはならない。田中は4月から就労移行支援の学校に通い、障害者雇用してもらえる新しい仕事を目指していくのだが、その学校の体験をここまで何度か受けるなかで、田中の同年代と見えるご学友には一切出くわしていない。みんな若い。この若者たちは子どもの頃に発達障害というものがすでに発見されている世界に生まれたのだ。これに対してすでに中年の田中は、いまさら現実に追いついた精神医学によって「大人の発達障害」という謎のキャッチフレーズをいただくこととなった。

「大人の発達障害」という言葉遣いには、本来的に発達障害とは子どもに関するもので、それが子供のうちに気づかれず大人になってしまったかわいそうな人、という響きがある。しかしこれは単純に医学の進歩の問題だ。田中よりもっと上の世代あるいは古代中世の人々にはそんなことに気づかず暮らしていった人々がいたはずで、今後はより早い段階からなんらかの対策がとられるはずで。「大人の発達障害」とは発達障害なるものを発見した社会がうかれて騒いでいるだけの、数年で消えていくはずのワードである。

発達の定義に戻れば、人間は生涯発達する。しかしこの概念自体が近年急速に整備されてきた考え方だ。人間の発達において「初期経験の重要性」はたしかだろう。だから発達障害が先天的な脳機能の相違を理由に子どものころから発現することは確かなのだがしかし、発達障害者は生涯発達に障害があるのか、そんなことはないだろうと思うのである。田中はもう40歳の手前となっているが、ここまで全く発達=変化をしてこなかったとはとても思えない。たしかにうつ病を繰り返し、パニックを起こして仕事が続かずと、困ったことは多いが、それを「発達障害」という言葉で言い表すのは、なんかちがうのである。その違和感は、発達障害という概念にそもそも「生涯発達」という視点が欠けていること、が生んでいるのではないか。

こんな風に考えていくと「発達障害」という言葉が使われなくなる未来はあんがいすぐそこのような気がするのだ。ただしこの言葉はいま現在の世間では通りがいい。ぶっちゃけいまブームなのである。このブームの波に乗って、得をしていかなければ損である。それをわかった上で、一方ではこうして本質を追求していくというのが弊ブログのスタンス。


さて田中は個人的に、もうひとつ事情を抱えている。25歳のときに交通事故にあっている。真後ろから自動車に跳ね飛ばされて、40m宙を舞い、どぶ川の土手みたいなとこに頭から突っ込んだ。地面が土だったのでよかったですね、ということで、傷は頭と膝に切り傷ができただけだった。しかし数日の意識不明ののち、脳がいかれてしばらく精神科に入院していた。この間、意識ははっきりしており運動や食事はしているのだが、記憶はまったくない。あとから聞いた話では、病院の窓ガラスをパンチして割ったり、フルチンで病棟を走り回ったりしたそうだ。「高次脳機能障害」というやつである。

「高次脳機能障害」とは「事故によって脳が損傷されたために、認知機能に障害が起きた状態」だ(保険会社サイトより引用)。この「認知」という言葉は「入力→処理→出力」という脳の基本的な働きのことだが、ASD(自閉症スペクトラム障害)を心理学学説で特徴付けようとした時、そのひとつ「実行機能説」は特に「認知」に関係しているだろう。ASDは「実行機能」すなわち「目標のために行動、思考、感情を制御する能力」に欠陥がある。つまり田中は実は発達障害者ではなく高次脳機能障害者なのではないのか、という疑惑を抱えている。

ただし医師による幼少時の調査にはその傾向が認められるというから発達障害的であったことは間違いないだろうという。しかし現状の発達障害者という判断に、25歳の交通事故がどの程度影響しているのかは、現代の医学では明確な区別ができないと医師にはっきり言われた。それだったら高次脳機能障害者を名乗るよりも発達障害者を名乗ったほうがお得ですよねと、そういうわけで田中は発達障害者をやっているのである。

そして「認知」といったら「認知症」である。前回記事Aでも書いたとおり、田中は放送大学の「中高年の心理臨床」という科目を勉強しているところだが、発達障害的問題として田中が実感している、とにかく物覚えが悪い、これって実は発達障害なのではなく認知症じゃないかと田中は疑っている。物覚えが悪くなりそれにイライラするようになったのは、ここ2年くらいの話だからだ。単純に歳をとりそのように「発達」しただけなんじゃねえの?

認知症患者の「認知リハビリテーションの効果を左右する要因」には、「内的代償法」と「外的代償法」があります、という授業の話はとくに、認知リハビリテーションってまんま就労移行支援じゃん、と思ったことはすでにツイッターでだいぶ前に書いた。内的代償法は個人的なモチベーションを基盤とした周囲の支援、外的代償法はメモやカレンダーなどの補助手段や環境調整。この授業を受けて田中は、電子ノートという文房具を買い、記憶の補助手段を整備した。


まとめておきますと、発達障害はあくまで症状なり特性がある一方で、
1 その呼び名は現代医学の限界として存在しているだろう
2 しかしブームなので利用していったらよい
3 大きく脳機能の問題として見つめなおすと人間の新たな姿が立ち上がる
4 人間は生涯発達するものであって、発達に障害があるわけがない
といったところとなります。

「中高年の心理臨床」という授業の勉強は、病みながら生きた夏目漱石の話、また田中の実生活上の問題である記憶と認知の話など、もう少し勉強をして完結となる。このなかでおもしろいことが発掘されれば、また報告したい。
(今回はカラフルな記事になってしまったが、色の違いは引用元の違いである)

2019年3月26日火曜日

生涯発達障害概論A


発達障害という言葉は「発達」と「障害」で出来ている。このうち「障害」という言葉についてはさいきん議論が盛んだ。「障害」の「害」の字が好ましくないとして「障がい」と書いたり「障碍」と書いたりしてはどうか、という意見があるが、字面にそんな意味があるんだろうかと思って聞いている。「障」の字は「障る」(さわる=差し支えがある)である。田中の感覚からすれば、ストレートに「害」と言ってもらったほうがありがたく、むしろ「障る」というジャパニーズomotenashiな京都嫌味ふうの響きのほうがよほど癪に障る。

それに障害は障害だろうと思う。障害物競走も「障がい物競走」にするのだろうか。というのは、発達障害の「障害」はあくまで「障害者手帳」の「障害」だろうと考えるからである。できることならば障害者ではない形で生活したかったが、「障害者手帳」をもらう以上は「障害者」としての責任を持って生活しなくてはならないと、弊ブログは繰り返し主張している。

「障害者手帳」を持つ者にはそれなりのおとくな得点がもらえる。多摩動物公園に無料で入れたり、軽自動車税が安くなったり、高幡不動駅の自転車置き場が無料で使えたり、いろいろ得点があるのではやく障害者手帳がもらえないかと心待ちにしている(申請中)。つまりいくらマスコミやらインターネットやらで「障碍」だ「障がい」だと言ったところで、かえるならまずは「障害者手帳」の表記を変更し、その紐付けで全てが変わるようでないと、得点と責任とが見失われるのではないかということを心配している。

また、「障害」の表記に引っかかるくらいならば、障害という言葉自体を使わない方向のほうに興味関心がある。弊ブログは書物で(いわゆる「健常者」にあたる意味の)「ニューロティピカル」(神経学的典型)という言葉を見つけて以降、この言葉を積極的に採用してきたが、ところで発達障害者じたいを別の言葉で、ニューロティピカルと対になる言葉はないのかなあと思っていたところ、『ベーシック発達心理学』(東京大学出版会)にこの話題が出てきた。

1990年代の後半、自らもASD(自閉症スペクトラム障害=田中と同じ)であるSinger Jは「神経多様性」という概念を提唱した。これは「障害」という捉え方じたいをすっ飛ばし、あくまでも「相違」として捉えるという考え方の刷新であった。

田中が読んだ本には「神経多様性」と日本語で出てきたが、wikipediaで調べてみると「ニューロ・ダイバーシティ」というカタカナ語で登録があり、この項目記事もなかなか読み応えがある。この記事の言葉を使えば、いわゆる発達障害者は「ニューロ・マイノリティ(神経学的少数派)」という言葉であらわすことができる。

そうです、マイノリティであるから私たちは障るんです、ということでして、じゃあ多数派になんでも合わせなくてはならないんですかと、権利運動を起こす権利も「マイノリティ」という視座を得ることで見えてくるのである。LGBTの運動とかがすぐに思い浮かぶ。ああいうのと同じことを私たちだってやっていけばよいということになる。



と「障害」という言葉についてまずは軽く触れておこうと思ったらすっかり長くなってしまったが、田中がそもそも気になっていたのは「障害」よりも「発達」のほうだったんだ。田中は2019年度1学期、放送大学で「中高年の心理臨床」という科目を受講している。2019年1学期は4月にはじまり7月に期末試験があるのだが、教科書を古本で安く仕入れた田中はすでに15回の講義を全て勉強し、まとめに入っているところ。放送大学の授業には「乳幼児・児童の心理臨床」「思春期・青年期の心理臨床」「中高年の心理臨床」と心理臨床シリーズがそろっており、田中は中年になったので「中高年の心理臨床」を受講することにした。

この授業のいちばんはじめに「中年期における主な発達理論」という文言が出てきて、ニューロティピカルの方々はふーんと通り過ぎるところかもしれないが、ニューロマイノリティてか発達障害者の田中は、大人の発達障害らしい田中は、やはり「発達」という言葉に引っかかった。しかも中年も発達するらしいそのとき、大人の発達障害とやらはいったいどうなるんだと。そして高齢期の課題として授業に登場する「認知症」の話題を読んでいると、どうもわれわれニューロマイノリティと認知症者はかなり似ている感じがしてくる。次回、このような視点から「発達」について勉強したことをまとめてみようと考えている。

2019年3月24日日曜日

グレーゾーンは許さない


米田衆介『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』という本を図書館で借りて読んでいたら、弊ブログで中心的に扱ってきたウタ・フリスという精神科医がまた出てきた。以前詳しく説明した「トップダウンの障害」「自己の不在」としてのウタ・フリスによる発達障害を思考・認知・記憶など脳の「ソフトウエア」の問題と捉え、脳の神経回路という「ハードウエア」の問題として説明する学説と対置させている。その上で筆者は、ウタ・フリスの側に立って「情報処理過剰選択仮説」というかたちでアスペルガーを説明する。

中核がないという以上に「『特定の処理のみが優先されて、他の処理が抑制されてしまう』という偏りがアスペルガー障害の本質なのではないか」という仮説は、以下の図のようにまとめられるとなるほどその通りという感じがする。

この図はとてもよくまとまっていて、どれもこれも当事者としてその通りという感じ。きょうの話題としたいのは、中核的特性のひとつに数えられる「ハイコントラスト知覚特性」である。白黒はっきりさせたい、あいまいを許さないというのがこの特性であるが、フツーの人間社会はあいまいであるから発達障害者は生きづらい、というのがこの本での文脈で、なるほどその通りである。

しかし、弊ブログはここまでに「あいまい」という概念を別の意味で使用してきた。ポストモダンという時代が「あいまい」な方向に進むだろうこと、そのとき「自己の不在」を特徴とする発達障害者は時代に合うはずだ、という弊ブログの主張は真逆に聞こえていたかもしれない。これをきょうは詳しく考えてみたい。

自閉症スペクトラムのイメージ」という図を同じ本から抜いてきた。健常者と発達障害者は「連続的な分布の中で捉えられる」というキャプションがついており、図の中には「グレーゾーン」という中間的な人々が存在する。このように発達障害というものがそもそも「あいまい」な概念であるのだが、田中は発達障害者であるがゆえなのか「グレーゾーン」を名乗る人が許せない。

最近メディアで「グレーゾーン」を名乗る人を見た。「医師の診断は受けていないが自分に発達障害の特性は感じておりいわゆる『グレーゾーン』です」みたいなことを語っていたのだが、それだったらさっさと心理検査をして発達障害者になればいいと田中は思う。または検査の結果、発達障害には該当しないという判断が出ればそれまでだ。おめでとうございます。あなたは健常者である。

田中は4月から就労以降支援を使って、障害者として仕事口を探そうとしている。これは障害者という看板を売り物にするという自覚を持った行為である。そこには障害者としての責任がある。「グレーゾーン」なんていう言葉でどっちにも行けるようにして商売している感じが気に食わねえ。黙ってろと思った。

田中が使っている「あいまい」は、「グレーゾーン」なんていうものとは似ても似つかないものだ。きょう取り上げている本の最後に、アスペルガー障害を生きのびる方法として2つの「戦略」が出てくる。そのひとつは「『心』を理解しようとするのをやめる」ということで、たとえばものをもらったらありがたいと思っていなくても「ありがとう」と言うルールを覚えるといった徹底的な定型化。これは本の中で「社会的フォルマリズム」と呼ばれる。

この「型」に対置されたもうひとつの「戦略」こそが「新しいあいまいのかたち」であるだろう。それは「あえて『心』を探求してみる」ということだ。これまで「心」という型であったもの、そのわからないものを徹底的に白黒つけて細分化し分析していくと、新しい図形が見えるだろう。その図形はこれまでの鮮明な「型」とはちがう形のはずで、その「非ー型」をとりあえずこれまで「あいまい」と呼んできているのだ。

田中はそういう戦略をとりたい。それが発達障害者として生きる田中の責任の取り方だ。弊ブログの近々の予定としては、「発達」ということ、また「記憶」について勉強をして、人間をアップデートしていくことを計画している。
 

ココスの朝食バイキング


イオンモール多摩平の森と日野市立病院の間にココスがある。ココスというファミリーレストランは店舗にもよるが、週末に朝食バイキングをやっている。山の中に暮らしていた頃は、中心街のココスでのみ実施されている朝食バイキングが憧れだった。東京都日野市南平に引っ越してきたら、すぐ近所のココスで朝食バイキングがやっている。朝の7時からファミリーレストランに行く人なんかそういないのだろうと思っていたが、大変な混雑だった。


田中が到着したのは7時半頃だと思う。席は半分ほど埋まっており、しかしすぐに座れた。会計は前金制である。アルコールを注文したい人だけテーブルに店員を呼びその分が後会計になるが、さすがに酒を飲んでいる人はいないようだった。休日の午前中イオンモールのフードコートでは缶チューハイを飲む人を多く見かけるため、酒を注文する人がいてもおかしくないだろう。田中が店を出たのは10時少し前だった。この時にはとっくに満席となり入場待ちの列ができていた。


飯とみそしる、カレー、パン5種類、納豆、サラダ類、ポトフ、麻婆豆腐、スクランブルエッグ、肉団子、パスタ、漬物……ファミリーレストランのイメージで、しかもファミレスの中でも高級志向のココスをイメージして行くと、ちょっと残念な感じが否めない。パスタの味がひとつもしない。ポトフの汁にキャベツとウインナーと冷凍フライドポテトを突っ込んで煮てある。これはウチで料理するときの参考にはなるがレストランで食べるものではない。ホテルの朝食バイキングをたくさんやっている田中からすると、この朝食バイキングはかなり下位ランクと言わざるを得ない。


たとえばフライドポテトがそのまま出ていれば、何時間も居座る客が増えるということだろう。しかし田中は負けずに居座り続けた。朝食バイキングにはドリンクバーの代金が含まれてあるから。休日の朝、食事をしつつ本を読むにはなかなか快適な環境であることは間違いない。ファミリーレストランは机が広いし隣の席とも距離があるから勉強をするのに向いている。ふつうにファミレスに入って食事をするよりもだいぶ安く入れるし、時間に対して払ったお金だから席を使うことに引け目がない。フロアの人員削減のための朝食バイキングだろうから店員の目も少なく快適である。休日の朝、エンジンをかけたいときは利用したらよいだろう。


田中の目線の前の席の若いカップルが熱心にフィッシャーズのぺけたんの話をしており、田中の背後では高校生男子2人組がクラスメイトの女子がコバシリさんに似ていてかわいいという話で盛り上がっていた。田中が毎日、パソコンの窓を覗いて見ているyoutubeについて、誰かが話している声を街で聞くことが明らかに増えている。田中はふだん田中だけのyoutubeと思っているので、こういうことがあると幻聴かとおもうがどうやら事実であるらしかった。

2019年3月21日木曜日

suica連絡定期券


4月から就労移行支援を受けるため、毎日池袋に行くことが決まった田中。田中の家は京王線の南平にあり、南平から京王線で新宿に出て、新宿から山手線で池袋に行く。suicaを使ってその運賃は500円、一日1000円の交通費が田中の自費負担となる。それを抑えるにあたって田中は人生ではじめて定期券を購入することになった。

学生時代は東京にいたものの自転車で通学しており、大学以降はずっと地方都市で電車を使うことがなく、中年の発達障害者として東京に戻り、はじめて定期券をつくるのであった。定期券は1ヶ月17630円ということで18日以上通うとおとくになるわけである。

京王線はpasmoの会社で、suicaの会社ではない。しかし、経路の一部にsuicaの会社がある場合、suicaの会社の窓口でsuicaの定期券をつくることができる。これを「suica連絡定期券」という。ほんとうは田中は、3ヶ月の定期を買おうと思った。しかし、今年の5月の頭は改元のお祝いがあり、連休が長くなるとそのぶん定期が損になるため、4月だけの定期を使ってみてから、連休中に新しい定期をまたつくることにした。

定期券は、その期間と区間が当てはまれば、そのあいだは完全に乗り降り自由なのだと、定期券の検討をする段になって田中ははじめて知った。田中はすでに、就労移行支援より帰りの途中下車のほうをたのしみにしている。どこの駅でなんど降りてもいいのである。ぶらり途中下車の旅である。ああいう番組はいくら切符代がかかってるのか言ってみろ、とずっと思っていたが、定期券を持っている大人のための番組だったのだとわかった。

ところで田中は、地方都市で暮らした青年時代からsuicaを持っていた。ほとんど電車に乗らないのにsuicaを持っていた理由は、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんにもらったからである。2014年12月20日、この日は東京駅ができて100年の記念日であり、そういうお祭りごとの好きな聖蹟桜ヶ丘の伯母さんは、朝から東京駅に出かけて記念suicaを28枚買い、ほうぼうに配ったのだった。

そんなにsuicaを配る「ほうぼう」が聖蹟桜ヶ丘の伯母さんに対してあるのかわからないが、メールにそう書いてあり、実際メールの数日後にsuicaが郵送されてきた。なぜ28枚かと聞けば、東京駅に電車が到着するホームが28あるからだという。実際に歩いて確かめたから間違いないそうだ。では、なぜそのなかの一枚が田中に届いたのか。これはずっと最近になって、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんに会ったときに聞いたことだが、「だってあなた電車すきでしょう?」というのがその答えだった。

田中は自分が電車が好きかどうかわからない。たしかに子どもの頃は、ごく一般的な子どもなみに電車が好きだったような気がする。しかしそれから何十年も経過し、すっかり中年となり、何が好きかもよくわからず、発達障害だと言われる。

使えるのかどうかもわからず持ち歩いていたsuicaに、東京に引っ越してきてチャージし使い始めたらこれは便利である。切符を毎度買わなくてよいし、電車に乗ってから行き先を変えることができるのもありがたい。このsuicaに定期券のデータを乗っけることができるというので、田中はたいへんよろこんだ。

ところがみどりの窓口で聞くと、「このsuicaは定期券になりません」と言われた。suicaはみんなsuicaなのかと思っていたら、「ふつうのsuica」でないと定期券にはできないのだと言う。suica定期券をつくろうとおもったら新しいsuicaを作るしかないのだった。田中が持っているのは「記念suica」なので定期券にはならないし、suicaを2枚同じパスケースに持っていると、おかしなことになって改札を通れないという。

新しいsuicaをつくるので、古いsuicaにチャージした金を新しいsuicaにうつしてほしいと言ったら、それもできないのだった。東京駅のsuicaには374円はいってある。それはどうするのかと聞くと、それをもし返金するのならそのときは、記念suicaであってもカードは回収するのがルールであるという。カードをガラだけもっていることは、JRのルールではできないのだ。

一瞬、もう東京駅のカードなんかいらないかな、と思った。別に田中が東京駅の歴史をいつまでも絶えることなく保存する必要はないのではないか。もうカードを返却してしまえば、カードのデポジット代金の500円も返ってくる。聖蹟桜ヶ丘の伯母さんの500円がもらえる。カードはあくまでJRさんの所有物であり、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが500円のレンタル料金をJRさんに支払っているのだ。田中は聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが借りたカードをもらったのだから、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが借りパクしたということだろう。

と言葉でいうのは簡単である。一度使い始めてしまったカードを、もう二度と手に入らないカードを、果たして手放してよいのだろうか。聖蹟桜ヶ丘の伯母さんも、もちろん田中だって死んでしまう。なのに東京駅のカードだけを残す理由はあるのだろうか。なぜか罪悪感が付きまとう。みどりの窓口のJRさんも「記念suicaを手放す人はフツーいませんからァ、家でとっておいたらいいじゃないですか」という。

記念suicaも定期券になるようにしたらいいじゃないか。記念suicaは記念品で誰も使わないものなのだろうか。ネットでsuicaの中身を空にする方法を調べたら、方法はいろいろあるが、言ってしまえばちょうどその額をきっかり使うしかないのである。たとえばコンビニで買い物をして「suicaを使い切って、残りを現金で払う」という方法が紹介されていた。

まあそれでいこうと朝、高幡不動のローソンに行き、から揚げ弁当を買い、
「suicaを使い切って、残りを現金で」
「え、それはできません」
田中は全額を現金で支払い、家に帰ってから揚げ弁当を食べ、そのまま一日田中は寝ていた。

2019年3月16日土曜日

ヘンタイとして生きていく


仕事がない期間は暇だからと放送大学生になった田中は、まいにち大学生の頃よりもよく勉強している。放送大学には卒業をめざす全科履修生と別に短期滞在型の履修生がおり、これで単位をためておいていよいよというところで全科に切り替えて卒業もできる。田中はそのような目論見でいる。

最初から全科履修生にしてしまうと金銭的な縛りもあるしなにより、卒業のために単位をとるという学生時代と同じことを繰り返しても意味がないからだ。興味の赴くままに履修した結果この方向で卒論を書いて卒業できるという道が見えれば、それが一番おもしろいしそれで卒業できたら放送大学で修士をとるのもいいだろうと考えている。

放送大学にはテレビやラジオで受ける授業だけでなく、学習センターで実際の講義を聴く「面接授業」がある。1学期の正規授業は15時間だが面接授業は8時間集中講義のため単位は1単位しかもらえない。しかし学生時代のように教室で講義を受けるのもおもしろいだろうと思って申し込みをしたら受講可能になったので、先生に質問ができるように予習をしている。そのテーマは「実存主義」であり、サルトル、カミュ、ボーヴォワールが取り上げられる。

田中の学生時代の専門は日本現代文学だったがいまでは「現代」をアップデートできていないし、近代文学はもちろん外国文学もまったく読んでこなかったので、田中には勉強しなくてはならないことがまだまだたくさんある。若いころほど文学に強いこだわりもなくなり、また文系にも限らず、勉強したいことを勉強していくというスタイルだ。

そこできょうの話はカミュの『異邦人』という小説からはじまる。この小説のあらすじは非常に有名である。とはいえ田中は読み進めるまで「あのあらすじが『異邦人』だったのか」という感じで、馬鹿の役得としてこの作品をわくわくしながらまっさらな頭で読み進めた(田中も使う読書メーターで他の方が書いておられるように、新潮文庫版の裏表紙のあらすじは最後の最後の結末まで書いてしまっており、振り返る際には非常に都合がよいが、はじめて読む人は先に見ないようにしましょう)。

外国文学には翻訳という問題が常につきまとう。だからフランス語の原文を読んだ時に同じ感じがするのかどうか授業で先生に聞いてみようと思っているのだ。フランス語には男性名詞・女性名詞の区分があるとも聞いているが、文体に性別は感じられるのだろうか(まだ知らない)。

ともかく田中は主人公の性別を第一部の半分過ぎまで読み違えていた。主人公が性交渉に及ぶ場面になっても田中は同性愛表現としてそれを理解し、3人目の登場人物の視線が書かれることではじめて違和感が生まれて、読みを訂正するに至った。

『異邦人』という作品で起こる重大な事件が、その動機が有名な文句であるように突発的に、論理では説明しようがないことで起こるのだが、ではそれが通常「論理」と対置される「感情」で説明されるのかといえば、主人公は無感情にも思える。

が、性欲にはつよく突き動かされていて、それと同じ部分で犯行に及んだと説明されれば、説明がつくような気もするが、本当のところは放送大学の講義を待つ。

同じようにかどうかわからないが、たまたま田中が『異邦人』の前に読んでいた小説は、性と犯罪が扱われる松浦理英子の『奇貨』だった。この本には「奇貨」と「変態月」の2編が収められているが、いずれの作品でも事件が発生しその事件には「性」の問題が絡む。だからそのような意味において、(「変態月」というタイトルの「変態」は《変身》の意であることが作中で語られるにも関わらず)、この本のテーマは「ヘンタイ」である、と田中は読書メーターに書いた

しかしこれらの事件は、『異邦人』のように(???)、強い性欲に動かされる形で起こってはいない。むしろ逆であることが重要な点だ。中篇「奇貨」で「事件」を起こすのは主人公の男だが、彼は「あまり性欲が強くなく、女性と楽しく喋っている時に性欲が刺戟されて密着したくなるということがない」と話している。しかし彼は「性感マッサージ店」には行き、性的興味の対象は基本的に女性だ。が、「同性の友達ができない」彼は「小鳥とか、もしかしたらペットになる爬虫類くらいの距離感」で男も見ている。

その「ヘンタイ」性が「事件」を生むのだが、作品が犯人を断罪しているようには感じられず、また田中にはこの犯人がどうしても責められなかった。それは田中も犯人と同じような性的嗜好、もしくは人間関係形成能力である、と感じたからだ。

田中も性的興味は女性にあるけれども、性欲自体がそれほど強くない。一方で同性との関係構築が苦手で、そうであるがゆえに、男を犬猫のように眺めていると自覚している。たとえばユーチューバーの男たちを見る田中の視線は、単純に女性ユーチューバーの美容生活情報に興味がないということ以上に、たのしく遊んでいる男の子がうらやましくかわいいからだ。

いよいよヘンタイの文章になってきたが、作品にはレズビアンの女性が出てきて、主人公ではないがある人物を批判する言葉として、「半端ヘテロ」という言葉が登場する。

――そうだね、セクシュアリティだけじゃなくて、心の根っこみたいなものもたぶん突き詰めてない。だからなのかな、社交性もあれば親切さもあるし頭がよくて会話術も巧みだけど、実のない薄っぺらくてうつろな感じがつきまとうのは。

あやふやな性は人生観のあやふやさからくる、という批判は、やはり作中でレズビアンの女性から出される。田中はこの言葉に少なからずうなずき、また傷ついた。しかしレズビアンの女性が象徴するような<「半端」でない>性、つまりはヘンタイでしかありえない人生がこの作品には描かれ、描かれていることによって肯定されている。肯定されていなければ、あの結末はありえない。

どういうふうだか知らないが脳に異常がある発達障害者の田中は、性に限らずあらゆる意味においてヘンタイなのである。しかしそれはレズビアンがいうような「半端」とはちがう。「半端」は「100%」に対置されているが、「ヘンタイ」は「正常」に対置される一方で、あくまでも別の「態」なのである。発達障害者としてオープン就労を目指していく田中には、ヘンタイとして人生観を突き詰めていくことがますます必要だ、とこの本を読んで考えた。

 

2019年3月12日火曜日

新しいあいまいのかたち


引っ越してきた東京都日野市南平、そこは大学の多い場所であり、図書館の多い場所。当初は、各図書館をまわってあそぼうと考えていたけど、それぞれの大学図書館は登録料をとるし、登録切り替えが毎年4月の図書館もあるなどで、現在行く図書館は限られている。図書館の数が増えたところで読める本には限りがあるし、これでよいのかも。

日野市に7館ある市立図書館は、いちばん家に近い中央図書館のほか、よく行く高幡不動駅から近い高幡図書館、また雨で移動が面倒なときには平山城址公園駅の改札の真ん前にある平山図書館の3館を利用している。そして大学図書館は帝京大学メディアライブラリーがすっかり気に入って大学生のように通っている。

この図書館の特徴である、現役大学生や大学教授による選書の展示、はけっこうな頻度で変わっていて、展示を手にとり借りることもできるため、どの本が人気なのかも通っているとわかる。また大学がどういう本を買うのか、いまどういう研究が盛んなのかも、なんとなくわかる。田中が注目しているというからではなく、発達障害に関する本はどんどん新着している。教育学部があるからということもあるのかもしれない。

田中は大学時代、日本現代文学を専攻し、このまえ書いたように卒論は高橋源一郎論だった。当時はとにかく小説が好きな青年で、小説が読めればそれでよかったのだが、卒論は小説を読んでいるだけではダメなので、高橋源一郎の小説を通じて「ポストモダン」(「近代」という時代のあと)を考える、というのがその趣旨だった。この卒論のことを最近よく思い出している。

発達障害は医学的にニューロティピカルと脳が異なるはずだが、しかし発達障害が苦しいのは近代という枠組によるのではないのか、あるいは近代がいよいよ煮詰まってきたから発達障害がブーム的にスポットを浴びたのではないのか――このあたりが近日の幣ブログの中心課題である。そんな難しいことをやっていましたか、という方がおられましたら、どうぞ読み返しましてカウンターをまわしてやってください。


2019年2月9日、帝京大学総合博物館ミュージアムセミナー 大学で学ぶ日本の歴史中世・近世編 第一回 深谷幸治「戦国の騒乱と天下統一」を聞きに行く。ポストモダンを考えるために「プレモダン」の話を勉強に行ったのである。日本の歴史には古代・中世・近世・近代・現代という時代区分が使われるが、これは日本独自のものだ。つまり、世界的な歴史研究において「近世」はない(「初期近代」にあたる)。

近代(モダン)と比べる、前の時代(プレモダン)は「中世」であり、日本史においては「戦国時代」が「中世末期」であると。このとき「中世」と「近代」をそれぞれ一語であらわせば、「あいまいな中世、を整序する近代」ということになる、という話がこの講義を一言でまとめたものになるだろう。

1467年、応仁の乱は室町将軍家の相続争いに端を発しているが、ここに各地の境界争いや飢饉を解消するための食糧確保などが幾重にも重なった結果として、戦国時代なるたたかいの時代がはじまる。それはとても不思議なことだ。どうしてみんな喧嘩しはじめるのか。しかしおそらくは、中世という「あいまいさ」が行くとこまで行った結果が、その混乱だったということだ。

鎌倉幕府の都道府県警察長官という一役職だった「守護」が、時代の流れとともに勢力を拡大させ、南北朝の争いという国家レベルの枠組み決定に口を出せるようになり、結果的に「戦国大名」として自らが天下統一を目指して戦争をするようになる。これは本来的に決まりがきっちりしていれば、そんなことになるはずがないのだ。近代の決まりを生きている田中からすれば、こんなおかしなことはない。しかしそうなってしまえたのはやはり、「あいまい」だったからのはずだ。

戦いは単純な権力争いである以前に、勝てば食料が得られる、といった実質的な利益を求めてはじまったはずだった。しかし、いちどやってみたらスポーツのようなゲームのような、どっちが勝つかということに人々の興味は集まる。そこで全国トーナメントの試合が一通り行われていく。

一方で、戦っている大名たちもこれ以上戦っていても損だわ、はやく勝って終わりにしたい、ということになり、優勝の織田信長が天下統一を達成した。がすぐに殺され、あとを継いだのが豊臣秀吉。この「織豊政権」がつくった国のしくみが、日本における近代のはじまりだった。たとえば刀狩、たとえば検地、といったかたちであいまいであった権利関係の諸事項を「型」にはめていったのである。

関ヶ原があって、江戸幕府があって、文明開化が、とまあいろいろあったのだが、ともかく織田信長がはじめた日本の近代が、いま終わろうとしている。終わろうとしているということが、田中が大学生だったころ、あるいは生まれたころから、もう何十年も言われている。最終的にどこに線がひかれるか、それは数百年後の歴史学教室で講義されるとして、田中はどうやって新しい生き方をやってから死んでいくかを考えているんである。

近代への反発から次の時代が再びあいまいな方向に向かうのは間違いないだろう。しかし、それはどのような方向のあいまいさであるのか。具体的には、近代のどの「型」を壊すのか。そのとき田中は発達障害者と名指しされた。そうならば、発達障害者というもののあり方から、近代の人間の型を崩してやろう、変えてやろう、というのが幣ブログの最終目標である。

2019年3月10日日曜日

レマン湖発、聖蹟桜ヶ丘行


日本の某企業が先日ついに、スイスのレマン湖岸で開かれたパーティーにおいて、新製品を発表した。以前から、「新製品を発表する」、「レマン湖で」、「2019年のはじめだぞ」、と企業は消費者の期待をあおる為に情報を小出しにしていた。その分野のマニアたちは、発表前に全貌を知りたがっている。そのような消費者のニーズに答える記事を書いてほしい。田中はかつてこの仕事を請け負った。

そのときスマホで散々調査をしたため、いまでも興味も関心も全くない製品の関連情報がgoogleのオススメとして表示される。googleさんに会うことがあれば、田中はこれ仕事で調べてたんで興味ないです、と伝えてほしい。しかしついにようやくレマン湖で発表されたことは、知ってよかったgoogleさん。

田中がありがちなデータから予想した新製品の形状も、消費増税を根拠としたもっともらしい価格設定や発売時期も、その「大予想!全貌!!」は全て外れていた。ワロタ。編集部の指示のもと発表会の形式まで予想させられ、発表の瞬間の照明の当て方や幕の引き方から、パーティーで出される料理まで全部書いてやったが、それが正解かどうかはもはや調査のしようもない。いまでも検索上位に田中の書いた記事が表示されており、めっちゃ草だ。


このブログは田中が田中の書きたいように書きたいものを書く場所なのだが、なんでその場所を作ったとかといえば、内職で求められる文章が自分の書きたいものではないからだった。このことは以前にも書いた気がするが、それをまた書く機会がやってきた。

田中が読みたくもない文章を、しかし編集部は求め、それが読者が求めているものだと編集部は言う。たとえば「web 文章」とgoogleで検索すると、編集部と同じような文章の書き方指南の記事が、「この指南の記事自体がお手本です」みたいなこと言って、何十と出てくる。えっ。ほんとうでしょうか。と田中はずっと疑っていたのだが、それについて明確に書かれている本があった。


高橋源一郎は、村上春樹と同じ頃に出てきた小説家だ。朝日新聞が先日発表した「平成の三十冊」に村上春樹は2冊入っていたが、高橋源一郎の名前はなかった。なぜ高橋源一郎の名前がないのか、高橋源一郎が一番よくわかっているだろう。高橋源一郎の小説はわかりにくいからだ。が田中は高橋源一郎の小説がとても好きだ。いまでは流石に全てを追えていないが、田中は20年も前、高橋源一郎論を書いて大学を卒業した。

このブログでは、田中が大学時代に影響を受けた本として、橋本治『「わからない」という方法』を紹介しているが、その本はもしかすると高橋源一郎が書評か何かで紹介していたのかもしれない。よく考えればそうでもないと田中が橋本治に手を出すとは思えない。そして今度田中が読んだ高橋源一郎の『今夜はひとりぼっちかい?』という小説のキーワードのひとつも「わからない」なのだった。
人は「わからない」ものにこそ、決定的に捕まってしまうのではないか。それは、「わかりあえる」時代には「わからない」ことなのかもしれない。
この作品の文脈を大きく捉えて整理すると、「文学」なるものは「わからない」の側にあるもので、しかし現代は「わかりあえる時代」だから「文学」が読まれなくなった、ということになるのだが、文学論はまたの機会として、ここで田中が興味を持っているのは高橋源一郎のフィールドワークだ。

高橋源一郎は他者の作品の引用を多く含む作家として知られている。この作品にも多くの引用があるが、書店に並ぶ「わかる」とずばり書かれた書籍のタイトルの羅列は、もっとも端的に「時代」をあらわしているだろう。また現代の表現としてtwitterもこの小説では使われるが、この小説の中で、高橋源一郎のアカウントのツイートの引用というかたちで、twitterについて説明しているこの部分は、そうかそういえば、と思った。
なんか変でしょう。競馬の話題ばかりだから? いやそうじゃなくて、順番が逆だから。結果が先で、経過が来て、最後に前提。でも、twitterではこうなる。最近のものが最初に来て、古いものほど後ろになる。新しいものから古いものへと読んでいくのだ。 
ふつう、ぼくたちが読んでいるものは、古いものから新しいものへと並ぶ。最後に現在が来る。数千頁を読み終えて、最後の頁をめくると、大団円が来る。それってかなり人工的なことじゃないだろうか。しかし、古いもの→新しいもの、という進み方がふつうに感じられるほどに、ぼくたちの感覚はふつう 
ではないのだ。
 編集部から田中がよく注意を受けるのも、「結論をまず示せ」という「わかりやすさ」だ。そんな文章は文章じゃないし、論理もなにもないな、と田中は思っていたのだが、田中の好きなtwitterがそうだとなると、編集部になんも言えなくなる。高橋源一郎は「ふつう」と言い、田中も「ふつう」と思っていた文章の構造や論理じたいが、現代ではすでにアップデートされつつあるのかもしれないと思った。


現代の空気としてもうひとつ、高橋源一郎が提示しているキーワードが「正しさ」だ。それは東日本大震災を契機に決定的となった空気で、小説の中で高橋源一郎が大学の先生として生徒たちに語る挨拶文は、以前に別の本でも読んだことがあったと思うが、今回また読んであのころを思い出した。

以前にtwitterで書いたことがあり、ここでも必要があれば持ち出すこともあろうが、田中は東日本大震災の前からやっていたtwitterを、東日本大震災直後の混乱の中で、(この文脈にのれば「正しさ」によって潰され)、1年間twitterから離れたことがある。

この世界には、「現場」と「現場」ではない場所の二つしかない。そして、ほんとうのところ、「現場」に住む人たちと「現場」ではない場所に住む人たちは、理解し合うことはできないのかもしれない。

東日本大震災後の言語空間において、もうひとつだけキーワードをあげておけば、それは「現場」だ。こうしてそこにまた「わかりあえる」というワードが出てきて、田中によればこの小説は、こういう輪っかの中でぐるぐるする話になっている。

web文章の内職をやっていて、もうひとつつらいのが「正しさ」を求められることだ。しかし田中はフィクションを書きたいというわけでもなく、やる以上は「正しい」情報を書きたいと思って商品を提出する。ところが何度もキャッチボールをしているうちに、当初の調査で浮き彫りになった事実は、順番をかえてわかりやすく、結論はこっちなのでこっちを見出しにして、などとと叱られているうちに、思っても見ない方向に転がっていくのである。そうしてゴミ玉が完成でクッソワロタとなるのである。

けっきょくゴーストライターだろうが、ストレス解消ブログだろうが、twitterだろうが、高橋源一郎の文学とくらべるわけでもないが、わかりやすさと正しさと現場と、といった問題を、ぐるぐるやっているんだなあと思ったら、ゴーストライターもたのしいしごと、とは田中には思えなかった。それはなぜなんだろう。


写真は聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが焼いてくれたシュークリームだ。田中はいま「シュークリーム 簡単 作り方」というキーワードの商品を受注している。伯母さんのメモをOCRで読み取って、そのまま編集部に送ったら「ぜんぜん簡単じゃない」と付き返された。ファミマでシュークリームを買ってクリームを吸い出し、その口の中のクリームを別のシューに吹き込んでやれば簡単だ。オススメだよ☆

2019年3月9日土曜日

競輪がいちばん儲かる


田中の就労移行支援がいよいよ始まろうとしている。東京都日野市の場合、就労移行支援を始めるにあたっては、日野市と面談をしてゴーサインをもらう必要がある。その面談の予約をとるためには、これから毎日通おうとしているその施設に、実際に1回行ったことのある人でないと予約を受け付けてくれない。田中はそこにまだ行ったことがなかった。

就労移行支援の相談や一日体験など、昨年末からなんどもやってきたが、これは同じ組織のさまざまな場所で、さっと予約が取れるところを順に使ってきたのだった。田中は、全事業所の順番待ち名簿に名前を入れて、2ヶ月半ほどでようやく池袋事業所に通うことが決まった。たまたま2月のはじめころ、池袋事業所土曜日体験の空きを見つけて予約しておいたのがちょうどよいタイミングとなり、きょう池袋に行くことで日野市に予約を入れる権利を獲得した。

これまで他の事業所を3箇所回ったが、おそらくは池袋がいちばんこじんまりしている。他の場所ではデスクの島が3つあったところもあったが、池袋には2つしかなかった。この島が会社の部署のようなもので、課長役をする人は定年退職後の人と聞いている。ここで実際の事務作業を行いながら、ビジネススキルや面接対策を含めて、発達障害者として生きていく準備をするのだ。

ふだんは月曜日から金曜日までであり、きょう土曜日は少し特別なプログラムの体験だった。まずこの就労移行支援を受けたのちに現在は仕事をしている卒業生の話を聞く。そのあとおかしを食べながら話し合いをした。講演をされた卒業生も「すぐに就職したいというより障害を理解したかった」と言っていて、田中と同じだと思って安心した。ただ、講演者は特別なスキルをもともと持っている人で、そのまま同業の障害者対応のある企業にスライドしていた。また、周囲への配慮を常に考えている人で、とても立派だと思った。

それにくらべると、田中は他人への配慮を欠いている。正直に言って、話し合いとかどうでもいいと思っているのだった。グループで話し合いをしてください、ということになると、だれかが意見を言い出し、ああこの順序で順番がまわってくるんだなあと思って、順番が来たら意見は言うのだが、別に田中の意見なんて誰も聞かなくてもいいと思っており、田中だって誰の意見も聞いていない。

そのような消極的な態度や遠慮といったものこそが場合によっては失礼にあたる(というかすでに田中ははじめから失礼なヤツなのだが)、ということがきょうの話し合いの結論のひとつとしてまとまり、ああ、と田中は思った。


就労移行支援の話が動き出すと、その話の行方が気になって、他の一切に手がつかなくなり、気分も沈んでいる。何もせずに眠る日が多くなってきた。これはよくない。けっきょく仕事第一となって他には何もできず、そしてその仕事が崩壊するという過去と全く同じではないか、と気づいた。それでは、なにをしたらよいのか。ひとつには、仕事以外の収入の手段を持っておく、ということが大事な気がする。もうひとつは打ち込める趣味を見つけることだ。

いま田中は、失業保険をもらいながら、その訓練もできるありがたい時期だ。失業保険が減額されない範囲で、ここに書いているのと同じような文章を売っぱらっている。要らない本をじゃんじゃん売却している。これは単なる不用品処分なのでハローワークには文句がないということだが、しかし値付けにはセドリ的な感覚も必要とされる。今後はISBNのついていない、アマゾンでは売れない資料をオークションで金にすることも考えている。

どれも生活できるレベルにはとうていならない。これを生活できるレベルに育てることにはあまり興味が出ない。しぜんにやっていった結果として、そうなったらそれはよいだろう。しかし、いま田中にもっとも金をすばやくもたらす手段は他ならぬ競輪だ。競輪はアコムのむじんくんだ。競輪はそもそも死んだ父の趣味で、田中はこどものころから見ていたのだ。これは競輪選手が競輪選手になったきっかけとして話すはなしと同じだ。

なぜ田中は競輪選手を目指さず、賭博師となったのだろう。いまでも競輪選手は田中のあこがれだ。レースのユニフォームが白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃、紫、と番号順で決まっているのがいい。ゴレンジャーみたいだからだ。そして応援したとおりになると、金がもらえるシステムである。趣味と実益が兼ねているのだ。このように金がもらえる趣味は他にないだろうか、といま考えている。


誰にも何も言われず、ただ金だけをもらいたい。きちんと技能を身につけ、その機械的な事務作業の正確さで、ニューロティピカルを黙らせたい。そんなことをするためにこの施設はあるのでないと言われるだろう。かまわない。就労移行支援の話は、今後動き次第、常にここに書いていく。またしばらくは池袋に通勤することになるため、池袋についても書いていきたい。

2019年3月7日木曜日

砂の中から小石を拾う


夏目漱石の『彼岸過迄』は、漱石が朝日新聞に連載した小説のひとつで、「修善寺の大患」と呼ばれる大病で死にかけた漱石の復帰作だ。「『彼岸過迄』について」という題の連載初回にそのことが作者漱石によって書かれる。「だいたい彼岸過ぎまでの連載になります」と漱石が言っている。それではじまった話は最後に置かれた「結末」という文章で締められる。「結末」を読むとあらすじが全部書いてある。そういうしっかりした外郭をもっている。

ところがその箱の中身はぐちゃぐちゃだ。「破綻している」という評も多いらしい。たしかにこれが新聞小説で、連載終了の期限をそのままタイトルにしましたということになると、「ここで詰まったからこっちの話にしたんやろ」と勘ぐりたくなるのは確かだ。しかし、ただシッチャカメッチャカなのかといえば、そうではないだろう。田中は、それぞれタイトルがついた6つの各章が、奇妙にずれたままバランスを保って重ねられた重箱、のイメージを持った。重箱がずれていることにこそ、美しさを感じる小説だった。

まずこの小説はなんだと説明しようと、冒頭を思い返そうとする。そうすると、ほら、あの青年が、ということになり、田中の記憶力に乏しい頭では主人公の名前を思い出せない。そこでページを繰って調べる。そうそう敬太郎、なかなかいい名前だわと思っていたのに、読んでいるうちに忘れてしまう。敬太郎はシューカツ生だ。「シューカツ生の敬太郎が社会に出ようとする話」、これが『彼岸過迄』のいちばん短い粗筋になると思う。

はじめのうちはなんとなく仕事口を見つけて、みたいなところが見えるのだが、そのうち謎に巻き込まれて探偵のようなことをはじめる。しかし、最初の謎の人物は完全に取り逃がし、外国に行ってしまって、小説の舞台から完全に消える。そこへ次の探偵依頼がもちこまれ、敬太郎はその依頼を真剣に請け負って、ターゲットを追跡する。しかしその探偵内容の報告を依頼主にしたところで、ターゲットは依頼主の知人であり、敬太郎はいわば「水曜日のダウンタウン」的なドッキリにひっかかっていたのだった。

こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後なんかつけるより、直に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、そうして動かない確かな所が分りゃしないかと思うのです。

そんなん、番組にならんかもしれんけど、跡なんかつけるより、直接聞いたらええ話ですやん。そのほうがどんだけ早いか、どんだけ確かやと思ってんすか?バカじゃないんすか?

ということで、実際に話を聞きに行き、そのターゲットの血族(敬太郎の友人である須永市蔵の親族)の話になっていく。その話の章では、話す本人がどんどん事実を話していくものだからそれは話が早いが、その語りにおいて聞き手の、なって言ったっけ、あのシューカツ生、そう敬太郎、という具合に、当初あたかも主人公として登場した敬太郎が、どんどん影の薄い人物になり、消えていくのだ。

これを「破綻」といえばそれまでだが、物語の当初において、敬太郎と同じアパートで、よく風呂に行く仲間だった森本がいつの間にか満州に行ってしまったのと、ちょうど同じだと思う。そしてもっといえば、「『彼岸過迄』に就いて」を書いたぎり引っ込む夏目漱石の姿そのものでもあるように、田中には感じられた。すなわちそれほどに「『彼岸過迄』に就いて」にはナマの漱石を感じるのだ。

そしてこの作品で「もっとも消える」のは、「雨の降る日」と題のつけられた章で死ぬ幼女だ。幼い女の子が亡くなる話、として短編にも読めるような「雨の降る日」という章は、ある種の悲しみを讃えているようでいて、なんだかあっけらかんとした明るさが逆に気になる。そのエピソードがはじまるきっかけになる言葉を「敬太郎がいい出した時、須永と千代子は申し合わせたように笑い出した」というのが、田中にはどうも気になるのだ。その場面だけ読めば、須永と千代子が笑い出した理由は一応説明がつく。しかし、ふつうこの場面でこの話題に対して笑っていいんだろうか、とも思うのだ。

そしてその扱いに応じるように、ちいさな女の子はまるで人形のように原因不明でころりとスイッチが切れたように死ぬ。火葬場で焼かれる。みんな泣いてはいるものの、印象に残るのは須永の態度だ。「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂のなかから小石を拾い出すのと同じ事だ」「こうして見ると、まだ子供が沢山いるようだが、これで一人もう欠けたんだね」

死んだ子の親でさえ言う。「生きてる内はそれほどにも思わないが、逝かれて見ると一番惜しいようだね。此処にいる連中のうちで誰か代りになればいいと思う位だ」

ここに書かれていることが『彼岸過迄』の主題であると田中は考えている。つまり人間はそもそもが消えるほどのちっぽけな存在なのだ、ということがまず言える。それは一緒に風呂に通い同じアパートに暮らす友人であろうと、ましてや親子でさえも、その関係は大差なくある日消えるのだ。そしてしかし、死んだ子供の存在は生きている子供の存在によってはじめて確認される。もっと簡単に言うと、「第三者」なる存在によってこそ、真実が発見される、それが人間の社会だ、ということが、『彼岸過迄』には書かれているのだ。

だから敬太郎が「直接本人に聞いた方が早くないっすか?」と探偵ごっこを抜け出し、当人に向き合って話を聞く、という体裁をとる『彼岸過迄』は、その作品の体裁じたいを否定してかかっている、ということになる。そのことは、敬太郎がすっかりほっぽらかしになった作品後半の主題、敬太郎の友人・須永と千代子の関係の話において、鮮明に語られる。簡略にネタバレしてしまえば、須永は千代子のことをそんな好きでもない。ところがそこへイケメン高木が現れた瞬間、須永は高木に対して激しく嫉妬し、結果的に千代子を求める状態になる。つまりは「三角関係」ということなのだが、しかしこれは単純なライバル争いではなく、第二者の登場によってこそ当事者への想いが燃える、というその発火のしかたこそが問題なのだ。

敬太郎は読者と同じ立場で、須永から「須永・高木・千代子」の三角関係の話を聞かされて、そのころにはもう物語から退場しかかっている敬太郎には、なにもする術がない。しかし、『彼岸過迄』をすでに読んだ方ならお分かりの通り、この物語に千代子が初登場するのは、『水曜日のダウンタウン』で敬太郎が探偵をしていた時の、ターゲットに関係する女、としてであった。そしてはっきりとは書かれないもののしかし明らかに、敬太郎は千代子に一目ぼれしているのだ。須永から延々と三角関係の話を、敬太郎はいったいどんな想いで聞いていたのだろう。

と思ったところで、書いてないのだから知らない。ただ、なぜ漱石はそれを書かなかったのか、ということを田中は推測する。それはだって、敬太郎はシューカツ生だからだよ。と漱石は言うだろう。つまり社会に参加するということは、三人以上の関係に身をおき、そのこと自体によって自らが変更を余儀なくされる、ということなのであって、社会にエントリーしただけの敬太郎、相手に話を聞けばわかると思っている敬太郎、追跡と観察で何者かを得ようとする敬太郎、には何かを想う資格もないのだ。それはなかば病床から復帰作を書く漱石自身をも消し去る、ある種のペシミスムでもあるだろう。



『彼岸過迄』はこのところ鞄に入れて持ち歩いていたが、突然の暇ができて一気に読んだのだった。

というのは、いつものように帝京大学付属図書館に遊びに行こうと、南平から高幡不動に出た。さてモノレールで行こうかバスに乗ろうかと思ったところ、京王線の改札の前にはプラカードを持った職員だか学生だかが、帝京大学の受験会場はこちらと案内をしていたのだった。


入学試験のある日に図書館はきっと開いていないだろう、と思いつつ一応調べておこうと思ったらスマホを家に置いてきたことにも気づいた。

そこでせっかく高幡不動まで出たのだから、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんのところに顔を出しておこうと思った。この前の日曜日、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんからLineで、チャーハンを作りすぎたから食べにこないか、と誘われていたのだが、夜の11時半であったため断っている。萬福が「チャーハン!」と言っているスタンプだった。

金萬福はいま群馬だか栃木のホテルの総料理長をしている。

いつものようの聖蹟桜ヶ丘の駅から歩いて団地に到着し、3階の角の部屋のベルを押すと押したとたん、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんがドアのなかですぐ近くから叫んだ。
「はにわさん、あなた傘も差してこなかったの!」

そういわれるまで田中は、きょうが雨であることを全く気にせず、ここまで来たことをひどく後悔した。田中は試しに、いまは雨など降っていないといった嘘をついてみようかと口を開こうとしたが、再び聖蹟桜ヶ丘の伯母さんは金切り声をあげるのだった。

ドアののぞき窓が聖蹟桜ヶ丘の伯母さんの目そのものに見えるくらいに、強い視線をドアから感じた。
「傘もってるじゃないの!また晴れた日に来てちょうだい!」

聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが雨の日には家に誰も入れないということは、田中の記憶から何度となく抜け落ちてしまう。そうして拒絶された田中は聖蹟桜ヶ丘の京王百貨店A館の上、本屋に併設されたカフェでシュークリームを食べながら、いちにち『彼岸過迄』を読んで、読み終えたのである。

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