きょう片づけた積読本は、
恋愛感情が、性行為という結果に至ることを人は自然と考える。その結びつきは自明である。すると最初にただ性行為だけがある時、その自明さが遡って何か恋愛感情に似たものを捏造するということはあるのだろうか?男と女が、インターネットの出会い系サイトを通じて、出会う。そうしたサイトに人々は本名を書きこまない。インターネットではハンドルネームというものが使われる。たとえば弊ブログの著者にあたる<田中はにわ>もハンドルネールだ。 しかしここでこの小説では、本名もハンドルネームも同じ<ヤマカッコ>で括られている。同じレベルの記号として扱われているということだ。
男はハンドルネームで出会った女と「性行為」に及ぶ中で、女の「本性」「本当の姿」「正体」を見ることができた、と思うのだが、これらの言葉は本文のなかで太ゴチックであらわされる。つまり、評論でいうところのかっこつきのというやつで、ほんとうは本当の姿なんかないんだよ、ということをこの太ゴチックは強調している。
どんな小説でも言えることだが、本作に於いても、主人公の人生について扱い得る部分は、その全体に比して十分とは言えない。従って、その何処の部分を取り上げるかは、まったく作者の恣意である。この小説を動かしているのは「作者」 だが、もちろんこれを平野啓一郎とイコールで結ぶことはできない。この「作者」が、女の「性器/生理」「乳房/自慰」「男性経験」といった、ここに並べたのは各章のタイトルだが、こうしたことを並べることで小説になってしまう、性的なこと以外にも女の人生はあったはずなのに、それはなぜなのか、ということに、平野啓一郎は自覚的であるはずだ。
現代の社会と接するのが面であり、外側であるならば、モザイクのこちら側は裏であり、内側である。そうした発想で、ネットの世界は、常に簡単に内面化してしまう。キーワードはずばり「内面」である。人間は服を着て社会生活をしていて、いわゆる心は見ただけではわからない。そこでうちに潜れば潜るほど本当の姿があるというモデリングがいつしか発明された。そのイメージ、なんにたとえるのが正確か考えたが、ここではコンビニで売られているおにぎりという食べ物を用意してみた。
他方で、<吉田希美子>を知る者たちは、当然にその顔のみを知っていて、彼女の裸体を知らなかった。服に隠されているからである。そこで肉体は、何時しか何か、内面的なもののようになってしまっている。
ビニールのパッケージをめくり、海苔、米、と内面へ内面へ潜っていった結果として、具が出てくるという、そんなイメージはどうだろうか。実際にはコンビニのおにぎりは、ビニールパッケージに内面をあらわす表示がついているから、実際の人間と異なるが、人間に「内面」なるものを仮想構築する場合の構造図面は、コンビニおにぎりの断面図と似ているだろう。
しかし内に向かえば向かうほど本当の姿がある、なんてほんとうだろうか(うそだ)。平たく言ってしまったとき、「セックスをすれば相手のことが全部分かったことになるのか」というと、そんなことはポルノの世界の幻想に過ぎない、はずなのに、ポルノ以外の場面でも、あんがい人間はこの「内面」なるものを信じていますよね、というのがこの小説の主張のひとつであり、女はそれとはちがう意見を言っている。
この時、ネットの世界に転げ落ちたこの<ミッキー>が、自分のかけらであるか、それとも自分とはまるで無関係だが、自分に似た何かなのかが、<吉田希美子>には分からなかった。しかしともかくも、自分のような何かだと感じていたことは確かだった。自分という存在に対するハンドルネームというインターネット上の存在、その関係性について、デジタルネイティブな世代はもうなにも考えないのかもしれないが、インターネットなるものの誕生とともに参入し悪戦苦闘してきた田中の世代は、おそるおそる、どこまでどう書けば自分がどうなってしまうんだろうという、興奮と恐怖の中で、ネットの海に生きてきたのだ。
この小説が提案するのは、現実世界の存在とインターネット上の存在を、「自分のような何か」として、同じ記号でくくって並立させる考え方だ。そこに上下関係はなく、どちらが本当の姿ということもなく、という点において、平野啓一郎はこの小説で「内面」なるものを否定撤廃しようとしている。それは田中にも感覚的に、どうも正しく感じられた。が、この小説はポルノ小説であると同時に、犯罪小説であり、一つの事件を「筆者」が追ったレポートとして読めるものだ、ということが新たな焦点となる。
少年による凶悪犯罪が起こると、所属していた学校の責任者は、大体、普段は「極ふつうの生徒」だったと声明を出すものだが、これは一種の責任回避の手段である。うっかり、元々要注意生徒だったなどと言おうものなら、忽ち事件の防止責任を問われることになる。本当の姿は分からなかった。そう言っておくのが一番である。人間を「内面」モデルで理解した時、犯罪に対してこのような理屈が成り立つ。が、女が言うように、犯罪を犯したのは自分ではない、「自分のような何か」なのだ、ということは、可能なのだろうか。という疑問を感じさせて、この小説は終わっている、と田中は理解した。簡単に言ってしまうと、「内面」には「責任」がつきまとっている。そこで「内面」モデルを否定撤廃するのは結構だが、別存在として切り分け切り分けで考えた時、その責任は誰がとるんだ、という話にならないか。
田中は発達障害者である。精神障害者が事件を起こした時、その精神状態によって減刑無罪といったことになる場合が、即座に想起された。ここには人間を一個人の内面に収束させて責任を取らせるのと、別の論理が働いている。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。田中は発達障害者である。発達障害者なので、事件を起こしてもよいのだろうか。田中だって自分の人生に責任をとる権利はないのだろうか。という観点から、田中はこの小説がつくっている人間の新しいモデリングに、感心しある程度の実効性を感覚的に認めつつも、素直にうなづくことはできなかった。
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