2021年9月25日土曜日

空白(ネタバレ)

 映画『空白』は何も知らないで見るのが一番面白い類の映画である。だから、これから見る人は読まない方が良い。

 タイトルの意味の映像化、という意味で重要なモチーフは、ある登場人物の描く油絵の肖像画の目がいつまで経っても入らない、その目の「空白」だ。その絵を描く登場人物は、絵が下手であるという設定だが、いくら絵が下手でも目を描かずに残しておく、という絵の描き方を、人間は通常はしない。目が白く抜けた肖像画を見て、その印象は、一言で言って文字通りの「間抜け」である。「空白」という意味ありげな文学的なタイトルは、「間抜け」というあからさまな言葉にパラフレーズされる。作品の最後の最後で、油絵はまるで重要な、いっしゅん感動的な持ち出され方をするが、いまさらそんなことをされても間に合っていないのだし、油絵に手を伸ばそうとする登場人物の動きからは、ズコ~という「間抜け」な心の声が聞こえてくる。

 映画のセリフとして、「間抜け」、という言葉はなかったのではないか、と思うが、さらなるパラフレーズを追えば、登場人物が「馬鹿」という言葉を使っていたのを思い出す。その場面の、「馬鹿」という言葉の使われ方は、作品のあらゆる登場人物に当てはまってくる。ある登場人物がビールを飲んで酔った勢いでふと語りだす。父が倒れた時、まさに倒れ苦しんでいる父からの3度もの電話を、登場人物はそれと知らずに無視した。電話がかかってきた時、パチンコが当たっていたからだ。しかし、3度も電話をしてくるくらいなら、救急車を呼べばよかったのだ。救急車を呼ばない父は「馬鹿」だから死んだのだ、と登場人物が言うとき、「馬鹿」という言葉はもちろん自分にも向けられている。

 「馬鹿」とは行動と想いの不一致、その「的外れ」の具合を表した言葉だ。作品の中で起こる出来事は最初から最後まで全て、あたかもなにも起こっていないと思える程に、全てが哀しいほどに「的外れ」である。的から外れたパチンコ玉が釘にあたってあらぬ方向にはじかれるように、「的外れ」な言動は的から外れていたとしても、どこかに当たってはじかれる。その連鎖が作品のあらすじとなるとき、もう一度くだんの肖像画を思い出せば、目がないように大事なことを見逃し、あるいは目の抜けたカブリモノのように表面的なことと内面は一致しない、人間という存在の「空白」ぐあいが、なんどもなんども責め立てるように、苦い後味の作品である。

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