2019年3月1日金曜日

自閉症とeyes(4)田中ってだれやねん(完)

(前回の続きです)

自閉症者は一般に「空気が読めない」。なんでそんな文化的な、つまりは生物学的とは考えづらい問題が発生するのでしょうか、というお話になっていたと思います。そして、前回すでに答えを書いているように、これがやはり生物学的に、すなわち脳機能的な問題として説明されるのだ、ということがポイントになります。


それでは発達障害者の脳がニューロティピカルとくらべて、どのような機能的特徴を持っているのでしょう。ウタ・フリスはここで「脳を前と後にわける」という話をしています。そして発達障害者では、この前後の機能差が大きい。より具体的には、後ろの活動が過多で、そのぶん前が機能不全であると言っているのです。

人間の脳の構造の図解をインターネットで見てみると、顔の表面(前)のほう半分を「前頭葉」と呼んでいる。後ろの部分はいろいろに分かれていますが、前頭葉とそれ以外との間には「中心溝」「外側溝」という名前のミゾがあって、ここで脳の前後がきっぱりわかれています。ウタ・フリスの本にも「前頭葉」以外の言葉が出てこないことから、「脳を前と後ろにわける」という言葉の意味は「前頭葉」とそれ以外、ということだとわかります。 

前頭葉は、人が行動を開始し、または抑制する機能を司ります。さらに、生活をする上で必要な情報を整理、計画して処理、判断することも前頭葉の役割です。加えて、自己を客観的に捉えることや感情をもつこと、言葉を発することができるのも、前頭葉が発達しているからです。(「前頭葉の損傷と傷害」
引用してきた場所からもわかるように、「前頭葉」の役割はいわゆる「高次脳機能」と呼ばれるものですが、ウタ・フリスはこれを端的に「制御」という言葉に代表させ、また別の箇所ではその仕事内容を「理解」であるといっています。これに対置させるかたちで脳の後ろ側がしている仕事は「分析や計算」であり、それを前頭葉という「トップ」に向かって「配送」する「ボトム」の仕事をしている、とウタ・フリスは説明するのでした。

すなわち「自閉症では脳のトップダウン調節が欠如している」のです。引用してきた前頭葉の説明にあるように、「制御」という言葉は自己のうちなるものを抑制するということに留まらず、周囲の状況情報から判断する、まさしく「空気を読む」ということを含む概念です。ウタ・フリスも「制御」は「文化や他の人たちとの社会的な関係によって強力に形作られ」ると書いています。だから発達障害者は「空気が読めない」のです。


しかしウタ・フリスはもっと直接的に、自閉症者の前頭葉機能不全を「自己の不在」という言葉であらわしています。「自閉症とは自己の不在である」。入門書でありながら丁寧に仮説をならべてできているウタ・フリスの本を、あえてわかりやすく抽出したとき、結論にあたる核心はこれです。

このとき自閉症者が「偶発的な事柄にとらわれ」「心の柔軟性」を欠いているようにみえること、これは「かたくなな自己」ではないのか、という反論が予想されます。しかしウタ・フリスはそれはそう見えるだけであって、「制御」に「根拠を持ち合わせていない」自閉症者にはやはり自己が「不在」なのだ、と言っています。

以上ここまで、わかりやすい自閉症の入門書を読みながら、「自己の不在」という発達障害者(田中)の問題の根本に至りました。が、だとすれば、発達障害者が生きる道は、「不在である自己」を生かすことに尽きよう、という話が田中の結論です。「計算や分析」といった得意分野を生かし、「自己」が必要とされる部分はご容赦ねがう「障害者就労」に向かって、田中も動いています。


しかしもっとちがう方法もあるでしょう。この連載はそもそも田中をウタ・フリスという精神医学者に出会わせた『ワインの味の科学』(ジェイミー・グッド)からはじまっていました。『ワインの味の科学』の結論「間主観的」と「自己の不在」は、響きが似ていると感じています。「このワインは黒い果実の味がする」が「正解」とされる場面にあって、その「正解」はあくまでも「空気」なのです。だとすれば「空気が読めない」ことと「ワインをたのしむこと」には何の関係もありません。

そういうふうに人生をたのしむことに、「自己の不在」という言葉は、田中にある種の希望を与えました。そしてこの文章を書いている人は、田中ってだれやねん、と笑いながら毎日このブログを書いています。これも「自己の不在者」として生まれた田中が人生をたのしんでいる方法であるのだなあ、と思いながら、そんで田中ってだれやねん、とまた思うのでした。

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