2019年3月6日水曜日
これからはオープンな組織を目指そう
田中は職場で些細なことに感情を爆発させ、うつ病と診断されて退転職を繰り返してきた。繰り返す中で「大人の発達障害」という言葉に出会い、これに違いないと田中は思った。思った当時、田中は相変わらず精神のバランスを失って、精神科に通っていた。そこでは統合失調症という診断を受けていた。医師に相談をすると、医師は「たしかに統合失調症にしては幻聴幻覚が全くないことには疑問があった」と心理検査の手配をしてくれた。そうして田中は「発達障害者」と認定されたのである。
精神障害者保健福祉手帖はわりとすぐに手に入った記憶がある。しかしそれを持っていたからなにかが始まる予感が全くなかった。発達障害という診断名がついてほっとしたという話はよく聞く。それは田中の場合も全く同じだったが、ほっとするだけだなとも思った。その診断を得たところで自然と道が開ける期待を持っていたことが田中の誤算であった。そこで発達障害者として生きる道をきちんと考えれば、いまと同じ経路が4年も前に見つかっていたかもしれない。
田中はハローワークで仕事を見つけてクローズで就職した。ハローワークは障害者に限らず仕事で精神に変調をきたした人間には専用の窓口があり、情報は生涯コンピュータ管理されるためその烙印が剥がされることはない。窓口の職員はオープンとクローズのメリット、デメリットを詳しく説明したが、当時の田中が選んだのは仕事の内容と給料だった。東京出身の田中は両親との折り合いが悪く、長い間東京を離れていた。その土地のオープン就労にはいわゆる軽作業しかなく、その仕事に面白みを感じられるとは思えなかった。またなによりその給料では生活できないという仕事しかなかった。ニューロティピカルとくらべて給料が下がること自体には我慢できたが、そのおこづかいみたいな給料はなんだ。障害者は全員親に食わせてもらえるわけではないと思った。
手帖を持っていても使う機会がない、使ったら使った瞬間、会社に障害者であることがバレるから、と取得した障害者手帳を返納した。仕事をしながら発達障害をサポートしてくれる場所、あるいは発達障害者の自助グループなどを探したが、見つかるのは結局カウンセリングや半分宗教のような医療機関ばかりだった。関わったひとつについては警察から詐欺事件の被害者として連絡が来て事情を電話で長く話したが、もしかしたら署で話を聞かせてもらいたいというところまで行って警察からの連絡は途絶えた。その話を書きたいのだが、きょうインターネットで検索をしてもその組織はまだ営業を続けているから、捜査に影響があってはいけないので詳細はまだ書けない。
そうしてまた問題が起こり会社を辞めることになった。この詳細も自分で説明できるほどまだ整理がついていない。しかしなにしろ辞めると決めた段になって田中は、職場に対して発達障害であることを打ち明けて辞めることにした。その情報は全社員が共有するというわけではなく、上層部だけが知ることになったようだったが、そのあとの全体朝礼などで上層の社員が唐突に、「これからはオープンな組織を目指そう」というすっからかんのスローガンを毎朝ぶちあげたのには笑った。「オープンに」「オープンな」と嫌味のように上司が語るのは、本来クローズにしておいたほうが組織運営は円滑だろう半分悪口みたいな報告ばかりで、こうやって組織がひとつ倒れるのなら愉快痛快であると田中は思った。4年間もオープン/クローズの問題を伊達に考えてはいなかった。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿