日本の某企業が先日ついに、スイスのレマン湖岸で開かれたパーティーにおいて、新製品を発表した。以前から、「新製品を発表する」、「レマン湖で」、「2019年のはじめだぞ」、と企業は消費者の期待をあおる為に情報を小出しにしていた。その分野のマニアたちは、発表前に全貌を知りたがっている。そのような消費者のニーズに答える記事を書いてほしい。田中はかつてこの仕事を請け負った。
そのときスマホで散々調査をしたため、いまでも興味も関心も全くない製品の関連情報がgoogleのオススメとして表示される。googleさんに会うことがあれば、田中はこれ仕事で調べてたんで興味ないです、と伝えてほしい。しかしついにようやくレマン湖で発表されたことは、知ってよかったgoogleさん。
田中がありがちなデータから予想した新製品の形状も、消費増税を根拠としたもっともらしい価格設定や発売時期も、その「大予想!全貌!!」は全て外れていた。ワロタ。編集部の指示のもと発表会の形式まで予想させられ、発表の瞬間の照明の当て方や幕の引き方から、パーティーで出される料理まで全部書いてやったが、それが正解かどうかはもはや調査のしようもない。いまでも検索上位に田中の書いた記事が表示されており、めっちゃ草だ。
田中が読みたくもない文章を、しかし編集部は求め、それが読者が求めているものだと編集部は言う。たとえば「web 文章」とgoogleで検索すると、編集部と同じような文章の書き方指南の記事が、「この指南の記事自体がお手本です」みたいなこと言って、何十と出てくる。えっ。ほんとうでしょうか。と田中はずっと疑っていたのだが、それについて明確に書かれている本があった。
高橋源一郎は、村上春樹と同じ頃に出てきた小説家だ。朝日新聞が先日発表した「平成の三十冊」に村上春樹は2冊入っていたが、高橋源一郎の名前はなかった。なぜ高橋源一郎の名前がないのか、高橋源一郎が一番よくわかっているだろう。高橋源一郎の小説はわかりにくいからだ。が田中は高橋源一郎の小説がとても好きだ。いまでは流石に全てを追えていないが、田中は20年も前、高橋源一郎論を書いて大学を卒業した。
このブログでは、田中が大学時代に影響を受けた本として、橋本治『「わからない」という方法』を紹介しているが、その本はもしかすると高橋源一郎が書評か何かで紹介していたのかもしれない。よく考えればそうでもないと田中が橋本治に手を出すとは思えない。そして今度田中が読んだ高橋源一郎の『今夜はひとりぼっちかい?』という小説のキーワードのひとつも「わからない」なのだった。
人は「わからない」ものにこそ、決定的に捕まってしまうのではないか。それは、「わかりあえる」時代には「わからない」ことなのかもしれない。この作品の文脈を大きく捉えて整理すると、「文学」なるものは「わからない」の側にあるもので、しかし現代は「わかりあえる時代」だから「文学」が読まれなくなった、ということになるのだが、文学論はまたの機会として、ここで田中が興味を持っているのは高橋源一郎のフィールドワークだ。
高橋源一郎は他者の作品の引用を多く含む作家として知られている。この作品にも多くの引用があるが、書店に並ぶ「わかる」とずばり書かれた書籍のタイトルの羅列は、もっとも端的に「時代」をあらわしているだろう。また現代の表現としてtwitterもこの小説では使われるが、この小説の中で、高橋源一郎のアカウントのツイートの引用というかたちで、twitterについて説明しているこの部分は、そうかそういえば、と思った。
なんか変でしょう。競馬の話題ばかりだから? いやそうじゃなくて、順番が逆だから。結果が先で、経過が来て、最後に前提。でも、twitterではこうなる。最近のものが最初に来て、古いものほど後ろになる。新しいものから古いものへと読んでいくのだ。
ふつう、ぼくたちが読んでいるものは、古いものから新しいものへと並ぶ。最後に現在が来る。数千頁を読み終えて、最後の頁をめくると、大団円が来る。それってかなり人工的なことじゃないだろうか。しかし、古いもの→新しいもの、という進み方がふつうに感じられるほどに、ぼくたちの感覚はふつう
ではないのだ。編集部から田中がよく注意を受けるのも、「結論をまず示せ」という「わかりやすさ」だ。そんな文章は文章じゃないし、論理もなにもないな、と田中は思っていたのだが、田中の好きなtwitterがそうだとなると、編集部になんも言えなくなる。高橋源一郎は「ふつう」と言い、田中も「ふつう」と思っていた文章の構造や論理じたいが、現代ではすでにアップデートされつつあるのかもしれないと思った。
現代の空気としてもうひとつ、高橋源一郎が提示しているキーワードが「正しさ」だ。それは東日本大震災を契機に決定的となった空気で、小説の中で高橋源一郎が大学の先生として生徒たちに語る挨拶文は、以前に別の本でも読んだことがあったと思うが、今回また読んであのころを思い出した。
以前にtwitterで書いたことがあり、ここでも必要があれば持ち出すこともあろうが、田中は東日本大震災の前からやっていたtwitterを、東日本大震災直後の混乱の中で、(この文脈にのれば「正しさ」によって潰され)、1年間twitterから離れたことがある。
この世界には、「現場」と「現場」ではない場所の二つしかない。そして、ほんとうのところ、「現場」に住む人たちと「現場」ではない場所に住む人たちは、理解し合うことはできないのかもしれない。
東日本大震災後の言語空間において、もうひとつだけキーワードをあげておけば、それは「現場」だ。こうしてそこにまた「わかりあえる」というワードが出てきて、田中によればこの小説は、こういう輪っかの中でぐるぐるする話になっている。
web文章の内職をやっていて、もうひとつつらいのが「正しさ」を求められることだ。しかし田中はフィクションを書きたいというわけでもなく、やる以上は「正しい」情報を書きたいと思って商品を提出する。ところが何度もキャッチボールをしているうちに、当初の調査で浮き彫りになった事実は、順番をかえてわかりやすく、結論はこっちなのでこっちを見出しにして、などとと叱られているうちに、思っても見ない方向に転がっていくのである。そうしてゴミ玉が完成でクッソワロタとなるのである。
けっきょくゴーストライターだろうが、ストレス解消ブログだろうが、twitterだろうが、高橋源一郎の文学とくらべるわけでもないが、わかりやすさと正しさと現場と、といった問題を、ぐるぐるやっているんだなあと思ったら、ゴーストライターもたのしいしごと、とは田中には思えなかった。それはなぜなんだろう。
写真は聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが焼いてくれたシュークリームだ。田中はいま「シュークリーム 簡単 作り方」というキーワードの商品を受注している。伯母さんのメモをOCRで読み取って、そのまま編集部に送ったら「ぜんぜん簡単じゃない」と付き返された。ファミマでシュークリームを買ってクリームを吸い出し、その口の中のクリームを別のシューに吹き込んでやれば簡単だ。オススメだよ☆
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