2019年3月6日水曜日

とにかく早く動くこと


仕事を辞めようと決めたときから、田中の行動は早かった。この分野ではなにしろ行動を早くしなくてはならない。それはこの分野には患者が多すぎて、順番がまわってくるまでにえらい時間がかかるからだ。それを待っている間に、待ちきれない人が自殺してしまうんじゃないか、とこれは本気の意見だ。どうにか経路を見つけて生きていかなくてはならないし、探せば必ずみつかる。周りの人も協力して探さなくてはならないし、システムとしてももっと整備されていいはずだ。

ともかく田中も自分の精神安定とともに精神障害者保健福祉手帖の再取得に向けて、前回診察を受けていた病院に連絡を取ったが、やはり予想通り田中に診察の順序が回ってくるには3ヶ月かかる。そんなに待つことはできない。そうして初回診察を受けてから手帖を得るまでには6ヶ月かかる決まりになっているのだ。もっとも前回の診断から手帖まではもっと短時間で、そこには医師の裁量がある程度働くのかもしれない。ともかく田中ははやく障害者手帳を取り戻そうと思った。それに前回の医師のクスリを出すだけの振る舞いにも納得がいっていなかった。

そこですぐに診察をしてくれ、発達障害の診断もできる医者を探して、電話をした日にとびこんだ。6軒目で見つけた。ダメなら診察のために東京に通うことまで考えていたが、あんがい近い場所に見つかった。いま田中はすでに東京都日野市南平に引っ越してきており、その病院に通うためにわざわざ前居住地に出かけている。そして来週ようやく障害者手帖申請用の診断書が発行される予定となっている。それぐらい時間がかかるのだ。


そして今回、もうひとつ動いているのは障害年金の受給である。これも来週には書類が全て揃い、あとは日本国の判断を待つことになってくる。発達障害者も障害年金の受給資格を持っている。これだけ退転職を繰り返し生涯の給料が減っているのだから、年金ぐらいもらってもいいだろう。そして前回の職探しのことを考えても、年金をもらわなければ生活できないのではないか、と考えた。

インターネットをみると、発達障害者の年金申請を助ける業者が多数存在するが、これから相談をはじめる人は業者の見極めが重要だ。お願いしている社労士の先生によれば、業者によっては書類の整え方を指導するだけで、実際は自分がやっているのと何も変わらないのに数十万を要求されるケースも多い、という話だ。

たとえば障害年金を受給申請するにあたっては、人生で初めて精神科を受診した日「初診日」というのが重要になるが、これを確定しその医者のカルテを確認するというのは、素人になかなかできる作業でない。田中が依頼した社労士の先生は「はじめて行った精神科は、学生時代から住んでいた富山県の、たぶん高岡市の、路面電車がそばを走っていて」といったあやふやな情報から探偵のように病院を突き止め、実地に赴いて医師にカルテを確認してもらい、といった作業をしてくださっている。

それで料金は、年金が支給された場合にその最初の月の年金全額、仮に不支給となった場合無料という安心価格だ。(田中に年金が支給されるのはうまくいって秋くらいからだ)。この例を参考に「ちょっとこれは」と思う方があれば、やめたほうがいいと判断してほしい。障害者をだまそうという業者がいるというのは、許せない話だ。


以上、近々次の展開があることが多いため、きょうはこれまでのまとめをしているのだが、もうひとつ大きな転換点を迎えているのは、次の仕事に向けた話だ。仕事を辞めるとき決めていたことは、障害者として仕事をしていくということで。それを見越して年金も準備をはじめたのだが、障害者職業センターに相談をし、「就労移行支援」という福祉サービスの実際を見学するうちに、やはりここじゃないわと思うようになっていった。

就労移行支援のひとつの目的は、社会で暮らすにあたって必要な「自己の障害に関する分析と受容」なのであり、この点については田中もぜひ受けたいと思う内容であった。しかし就労移行支援のもうひとつの目的は、「いわゆる職業訓練」なのである。この内容が棚から指示された物品を必要個数とれますかどうですか、といったレベルのもので、とても田中がこのあと何十年もやる仕事とは思えなかったのだ。

このたび障害者として田中が再就職を望むのは、まったく経験のない事務職である。デスクワークでパソコンに向かっていることのほうが、障害の悪い部分が出ないだろうという判断からだった。しかし、その障害者職業センターでは「事務職と言ったってただ座っていりゃいいわけじゃない」の一点張りだった。そんなことはわかっている、障害者として給料が少ない分できることをやっていくのだ(この言い方が正しいかどうかは今わからない)、と言ったところで、この土地にそんな仕事はないのだった。田中は東京に戻ることを決めた。田中は東京の生まれで、不仲とはいえ実家も東京にあった。

しかし親と暮らすのは最後の手段として、インターネットで「無職 アパート」と探したら家はすぐに見つかり、年の瀬、東京都日野市南平に引っ越してきたのだった。直前までミニマリズムという考え方にはまり、荷物がどんどん少なくなっているなかで必要なものは数日でダンボールにつまり、レンタルのワゴン車で4往復して引っ越した。家が決まった瞬間に、この地の精神科で発達障害のサポートがある病院にはすぐに連絡をいれ、アパートの正式契約のハンコを押す前に精神科の初診の予約を入れた。その予約を入れた初回受診が再来週である。それぐらい精神科の患者列は長い。

東京にならば発達障害者に特化した就労移行支援の施設があり、そこではやはり事務職に特化したプログラムというものが用意されていた。12月に最初の見学と面談、1月に一日事務作業訓練、2月の発達障害者の集い、と就労移行支援の順番待ちも長い時間がかかった。新宿、池袋、秋葉原、川崎、横浜。5箇所のセンターのどこの順番の列にも並べるように選んだ東京都日野市南平だった。そしてようやく池袋から電話が来た。

連絡の内容は「来たければ来週から来れまっせ」ということなのだが、事前の案内もあったとおり、ここからがまた勝負なのである。就労移行支援というのは遊びではなくお役所の仕組みなので、「障害福祉サービス受給者証」というのをもらって、お役所に訓練代を払ってもらうんである。この払ってもらえるようになるまでだいたい一ヶ月かかると言われている。その間、田中がならんで獲得した池袋の席は確保されているので安心だが、それにしても時間がかかるんだ。時間がかかるから待っている間にこの受給者証をもらっておけばいいじゃんと思ったら、そうすると訓練の期間がそれだけ短くなってしまうというのだ。


田中はこれまで何を成してきたわけでもなく、だからこそこの先を真剣に考えているのだが、そうは言っても中年のおじさんであると自覚している。きょうyoutubeで見た同年輩の男もプライベートでスーパーのビニール袋をぶらさげていると大学生と見間違われると言っていた。しかし彼には妻と3人の子があり、整形外科医として日本で一番の腕を持つと紹介されていた。田中には同級生との付き合いもなくなっているので、意識することは少ないがそういう年代なのである。だからこそ、あるいはもっと若い人に伝えたい。目的を達成するためには早く動く必要があるということ。目的に到達するにはそれなりに時間がかかるし、なにより人生は有限だということだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

田中はにわのツイッターもよろしく