2019年3月28日木曜日

画狂老人卍の「長生きしましょう」


このところは田中が受講している放送大学の「中高年の心理臨床」という授業がらみの話をしている弊ブログ。この授業をとった理由は、もちろん田中が中年になろうとしているからだ。人生の中で中年の入口、それは「ミッドライフクライシス」と言われる危機的な季節。しかしここでこれまでの人生を振り返り、次に向かって踏み出すので「四十にして惑わず」となるらしい。まさしくいま立ち止まっている田中は、ミッドライフクライシスの只中にいる。クライシス田中と呼んでいただきたい。

おじさんになったらもう坂を転がり落ちていくだけだと思っていた。いまも半分はそう思っている。いつだかネットで見かけて以来、特にお酒の席で話すと必ず盛り上がる話がある。田中のすべらない話。子どもの頃の毎日は長く一年は長かった。大人になると一年なんてあっという間だ。そのように心理学的な時間というのは年をとるごとに速く過ぎる。さあ問題です。仮に100歳まで生きるとした時、その人生の心理学的時間の中間地点は何歳の時でしょう。

答えは18歳。だと読んだ記事には書いてあった。なにやら短くなる感覚を数式に落とした計算の結果。とすれば、みなさんだってそうでしょう。もう人生はそう長くはありませんので生き急ぎましょう。ということになる。この話を田中はこれまで4回も別の場所で披露している。そのうち一回の聴衆からは後日、「オレが彼女にプロポーズしたの、こないだの飲み会で田中さんがあんなこと言ったからっすからね」と言われた。それぐらいこの話はすべらない。インターネットって素晴らしいですね。


しかし、前回も書いたように、人間は生涯にわたって「発達」(変化)するのであり、どこまでも成長することが可能である。というひとつの例として「中高年の心理臨床」では江戸時代の画家・葛飾北斎が取り上げられていた。葛飾北斎といえば「富嶽三十六景」、は北斎が60代になってからの作品であるという。葛飾北斎が活躍した時期は江戸時代の後期(幕末)であり、このころには他にも良寛、小林一茶、滝沢馬琴など長生きをし老年になって後世に伝わる作品を生み出した人物が多い、と教科書には書いてあった。

なるほどそうか、北斎は晩年になってから認められた作家なのか、と思っていたところ、ちょうどツイッターで、六本木の森美術館で北斎展をやっているという情報が流れてきて、興味を持った田中は出かけたのだった。その展覧会、現在はすでに終わってしまっていて、なんともタイミングが悪い報告なのだが、田中の思索が芋づる式に連なり、現在もまだ解決に至っていない結果なので、ご容赦いただきまして。

葛飾北斎はその人生の中で30回も名前(作家名)を変えていて、作家名を弟子に売って金儲けをしたりもしている。たしかに「富嶽三十六景」は晩年の作品だが、それ以前にもあらゆる作品を生み出し、ライフステージの大半を画家として生活していた。決して晩年になってから売れた人物というわけではなかった。そして「富嶽三十六景」を描いた時期にはすでに葛飾北斎という名前も捨て「為一(いいつ)」を名乗っていた。


北斎の人生に興味を持って図書館で探した本、狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』は北斎をはじめ、江戸時代の画家8名、の作品にその人生が映っている、という伝記的作家論だ。その読みはそれぞれに興味深く、特に第一章の岩佐又兵衛のトラウマについては、かなり説得力を感じる論説だった。しかし、この本を読むにつれて田中が気になってきたのは、これだけ作者の心理が直に作品に表出するのは、作品が写実的でないからなのではないか。日本の絵画に写実的な要素が導入されるのはいつなのだろう、ということだった。

すると「中高年の心理臨床」の次に勉強をはじめた放送大学の授業「日本美術史の近代とその外部」の冒頭がまさしくその議論で、葛飾北斎についても授業一回を割いて大きく扱われているのだった。葛飾北斎の時代、つまり江戸時代の後期が透視図法≒遠近法の導入時期なのだった。この議論がたいへんおもしろい、というかわからないことが多く、まだ勉強中のため展覧会の報告が遅れてしまった。「日本美術史の近代とその外部」という授業はただ聞いてればわかる授業ではない。透視図法とはなにか、といった素人の疑問をすっ飛ばして、いきなり高度な議論をしているから困っているのである。

が、ここまで聞いていてはっきりわかったことを一言でまとめておけば、葛飾北斎の時代に「浮世絵」は「錦絵」になったのだということだ。透視図法の導入以前、画家はたとえば歌舞伎役者のブロマイド的な版画、あるいは色町の情景といった「浮世」=「ファンタジー空間」を描くしかなかった。しかし、たとえば「富嶽三十六景」のような「錦絵」=色付き版画≒風景画は、もはや「浮世絵」ではない、という定義はわかりやすい話だ。

田中は森美術館の北斎展を、音声ガイドを聴きながら鑑賞していたため放送大学を受講する前でも気づくことができてよかったのだが、北斎が「富嶽三十六景」を描く晩年になってはじめて青色が多用される。これを「北斎の青」というのだそうだが、なぜ葛飾北斎は晩年になって青を使いたがったのか。これは当時「ベロ藍」と呼ばれた化学染料プロシアンブルーを北斎が真っ先に取り入れた結果だという。新しい絵の具によって青が描けるようになった。川が、滝が、波が、空が描けることではじめて「ランドスケープ」が日本の絵画において成立する。というのはなかなかおもしろい。

布施英利『構図がわかれば絵画がわかる』という本を読んでいたら、「色彩遠近法」の話が出てきた。青はその色からして「遠くを描く色」なのだった。『モナリザ』の話はさいしょなんのことを言っているのかわからなかったが、こんど家の近くでダ・ヴィンチに関する講演会があるらしく、図書館の掲示板に貼ってあった講演会のポスターで『モナリザ』を見て納得した。あの肖像画の背景には青い風景があるのだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然の風景の中で、遠くの山を見ると、山は青く霞んで見える、とメモに残しています。空気の層が、光を青く変えているのです。その極限が、青空です。ダ・ヴィンチはこの観察をもとに、風景画を描くに当たって、遠くにある山ほど、青く描きました。自然の理法に即した、色彩による遠近法です。『モナリザ』の風景にも、この色彩の原理が使われています。


「中高年の心理臨床」に強引に話を戻せば、晩年の北斎が名作を世界に残したのは、若いころからの努力がもちろんあってのことだが、新しい絵の具が発売される時代まで生きていたから、ということは大きいのだ。まして技術革新のスピードがちがう現代、一年でも多く生きて、新しい技術を使ってから死んでいきましょうということになる。北斎は晩年、作品に入れるサインに、自分の年齢を書き添えるようになる。そして「100歳まで生きれたらようやくホンモノになれるのに」と言いながら88歳で世を去ったのであった。北斎の最後の号(名前)「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」。その絵は入り口で写真をとったアレで、その絵の前で田中はなんだか泣けて仕方なかった。

「日本美術史の近代とその外部」という授業に関しては、さきにも書いたように「遠近法」についてある程度の納得がいくまで勉強したうえで、授業では字幕でさらっと流された日本の絵画への西洋絵画技法の導入の他例としての、「明暗法」に関して調査、レポートにまとめようと考えている。なにしろ今期の放送大学はレポート提出課題がある授業ばかりを選択してしまったので、そうそうにテーマを組めるものからやっていかないと間に合わない。この過程はまた弊ブログの話題としていきますので、なにとぞよろしく。

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