2019年3月3日日曜日

横浜


田中の両親は高齢出産で田中をこしらえた。このため親戚の各家とはライフサイクルが異なり、両親の性格もあってほとんど親戚づきあいがなかった。いとこはなべて田中の15歳ほど上で、遊んだ思い出など一切ない。田中の祖父は両方とも、田中が生まれる前にはこの世を去っていた。

 父の実家は群馬県の山の中で、平家の落人を祖先とする家系図が残っているとか聞いたこともあったが、もう祖母はおろか父も死んでしまい、田中との関係は完全に消滅した。


母方の祖母が死んだのは平成元年の夏だった。田中はそのとき身近な人間の死というものにはじめて触れた。このショックはもうすぐ平成という時代が終わるというのに癒えない。31年も重いトラウマをかかえ暮らしている。

平成という時代はいうまでもなく、昭和天皇の崩御をもってはじまった。あの時代の暗さを小学2年生で真正面に受けるのはきつかった。そして祖母が死に、また美空ひばりが死んだ。時代論的にはここに手塚治虫を加えることになるのだろうが、あの死に満ちた時代を子どもとして潜り抜けた田中にはなぜか、美空ひばりが死んだことだけが深く刻まれている。
 
田中は子どもの頃、テレビばかり見ていた。美空ひばりが死んですぐ、「美空ひばり物語」というテレビドラマが放送され、エバラ焼肉のたれのおばさん(浅茅陽子)が美空ひばりをやった。


「不死鳥伝説」の美空ひばりが死ぬし、天皇陛下でさえ死を免れないのに、なぜ田中は生きなければならないのか。その疑問を誰も解いてくれないし、田中にも解くことができない。そうして精神が歪んでいった結果、いま田中は無職のおじさんとなっている。

あなたはトラウマを抱えているからまずはトラウマに降りていきましょう、と言うカウンセラーがいると、田中はこの話をとうとうと涙して語る。よくそこまで降りてくれましたね、とたいてい褒められるが、そんなことはどうでもいい。

このトラウマを解いてほしい。お前はなにもしていない。トラウマに気づかないヤツがありがたがって壺を買うのとはわけがちがう。トラウマがそんな簡単に解けるのならそれはトラウマではない。気づかないトラウマを発掘するのはさぞドラマチックなんだろうが、そんなものは大した影響はないから掘り起こさないに限る。

他人の人生で遊ぶな。

父が死んだのは平成のあいだのいつだったか、よく覚えていない。平成のごく初期の数ヶ月で田中の時計は半分とまっているから、その他の記憶は田中にはほぼない。


母の実家は「横浜」と呼ばれ、時々遊びに行くことがあった。祖母ただひとりが田中にとって親戚であった。だから田中には横浜というと祖母なのだが、しかし祖母の家は東急東横線の武蔵小杉の駅前にあった。

今もあるらしい。母の兄も死んだが、その嫁と子どもの家として、あの家はあるらしい。そこを訪ねてみたいという気分はないわけではないが、そこには少し顔を見知った他人が暮らしているのだから、出くわしたらきっと気まずいだろう。 

武蔵小杉はいま、タワーマンションとかいうのが乱立する高級住宅地となり、駅ビルのテナント情報もレジャー情報として消費の対象になっている。若い人々は「ムサコ」と省略するらしく、それに対して原住民は「コスギ」と省略するのがならわしだ。たしかに祖母も「コスギ」と言っていた。

それにも関わらず、田中の家の住民だけがあの地を「横浜」とよんでいたのだ。


武蔵小杉のあたりは、住所で言えば川崎市中原区小杉町となるはずで、横浜市ですらない。「川崎」と呼ぶならまだしもなぜ「横浜」と呼んでいたのか。

武蔵小杉に行くには、地下鉄日比谷線で中目黒まで行って東急東横線に乗るのがルートであった。東横線は「東京と横浜をつなぐ路線」という意味だと習っていたので、終点に「横浜」という駅もあるのになぜ我々は「武蔵小杉」で降りるのか、それはそれは不思議だった。そうたずねると母は必ず言った。「東京駅を通ってもいない東横線が東横線と言っているのだからそんなことは関係ない」。

このやりとりは毎度繰り返された。武蔵小杉のいま思えば駅ビルだったダイエーにはファーストフードのドムドムが入っており、そのポテトはマクドナルドより太いので好きだった。


あまりこの論争が長引いたときに「じゃあきょうは本当の横浜まで行ってみよう」という日があり、その時だけ横浜に行ったことはたしかなのだが、横浜の思い出はなにもない。何ひとつ覚えていない。

武蔵小杉と横浜の間の東横線のどこかの駅から数十分歩いたところに、祖母の墓がある霊園があるはずで、そこにも行った記憶はあるがとにかく歩いたということしか覚えておらず、もう行くことはないだろう。

父の墓でさえ行くたびに管理事務所で墓の場所を教えてもらわないとたどり着かない。墓の持ち主が田中だから田中の運転免許証を見せれば田中家の墓の場所という個人情報は出してもらえる。

よかった。



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