発達障害という言葉は「発達」と「障害」で出来ている。このうち「障害」という言葉についてはさいきん議論が盛んだ。「障害」の「害」の字が好ましくないとして「障がい」と書いたり「障碍」と書いたりしてはどうか、という意見があるが、字面にそんな意味があるんだろうかと思って聞いている。「障」の字は「障る」(さわる=差し支えがある)である。田中の感覚からすれば、ストレートに「害」と言ってもらったほうがありがたく、むしろ「障る」というジャパニーズomotenashiな京都嫌味ふうの響きのほうがよほど癪に障る。
それに障害は障害だろうと思う。障害物競走も「障がい物競走」にするのだろうか。というのは、発達障害の「障害」はあくまで「障害者手帳」の「障害」だろうと考えるからである。できることならば障害者ではない形で生活したかったが、「障害者手帳」をもらう以上は「障害者」としての責任を持って生活しなくてはならないと、弊ブログは繰り返し主張している。
「障害者手帳」を持つ者にはそれなりのおとくな得点がもらえる。多摩動物公園に無料で入れたり、軽自動車税が安くなったり、高幡不動駅の自転車置き場が無料で使えたり、いろいろ得点があるのではやく障害者手帳がもらえないかと心待ちにしている(申請中)。つまりいくらマスコミやらインターネットやらで「障碍」だ「障がい」だと言ったところで、かえるならまずは「障害者手帳」の表記を変更し、その紐付けで全てが変わるようでないと、得点と責任とが見失われるのではないかということを心配している。
また、「障害」の表記に引っかかるくらいならば、障害という言葉自体を使わない方向のほうに興味関心がある。弊ブログは書物で(いわゆる「健常者」にあたる意味の)「ニューロティピカル」(神経学的典型)という言葉を見つけて以降、この言葉を積極的に採用してきたが、ところで発達障害者じたいを別の言葉で、ニューロティピカルと対になる言葉はないのかなあと思っていたところ、
1990年代の後半、自らもASD(自閉症スペクトラム障害=田中と同じ)であるSinger Jは「神経多様性」という概念を提唱した。これは「障害」という捉え方じたいをすっ飛ばし、あくまでも「相違」として捉えるという考え方の刷新であった。
田中が読んだ本には「神経多様性」と日本語で出てきたが、wikipediaで調べてみると
そうです、マイノリティであるから私たちは障るんです、ということでして、じゃあ多数派になんでも合わせなくてはならないんですかと、権利運動を起こす権利も「マイノリティ」という視座を得ることで見えてくるのである。LGBTの運動とかがすぐに思い浮かぶ。ああいうのと同じことを私たちだってやっていけばよいということになる。
と「障害」という言葉についてまずは軽く触れておこうと思ったらすっかり長くなってしまったが、田中がそもそも気になっていたのは「障害」よりも「発達」のほうだったんだ。田中は2019年度1学期、放送大学で
この授業のいちばんはじめに「中年期における主な発達理論」という文言が出てきて、ニューロティピカルの方々はふーんと通り過ぎるところかもしれないが、ニューロマイノリティてか発達障害者の田中は、大人の発達障害らしい田中は、やはり「発達」という言葉に引っかかった。しかも中年も発達するらしいそのとき、大人の発達障害とやらはいったいどうなるんだと。そして高齢期の課題として授業に登場する「認知症」の話題を読んでいると、どうもわれわれニューロマイノリティと認知症者はかなり似ている感じがしてくる。次回、このような視点から「発達」について勉強したことをまとめてみようと考えている。
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