2019年3月7日木曜日

砂の中から小石を拾う


夏目漱石の『彼岸過迄』は、漱石が朝日新聞に連載した小説のひとつで、「修善寺の大患」と呼ばれる大病で死にかけた漱石の復帰作だ。「『彼岸過迄』について」という題の連載初回にそのことが作者漱石によって書かれる。「だいたい彼岸過ぎまでの連載になります」と漱石が言っている。それではじまった話は最後に置かれた「結末」という文章で締められる。「結末」を読むとあらすじが全部書いてある。そういうしっかりした外郭をもっている。

ところがその箱の中身はぐちゃぐちゃだ。「破綻している」という評も多いらしい。たしかにこれが新聞小説で、連載終了の期限をそのままタイトルにしましたということになると、「ここで詰まったからこっちの話にしたんやろ」と勘ぐりたくなるのは確かだ。しかし、ただシッチャカメッチャカなのかといえば、そうではないだろう。田中は、それぞれタイトルがついた6つの各章が、奇妙にずれたままバランスを保って重ねられた重箱、のイメージを持った。重箱がずれていることにこそ、美しさを感じる小説だった。

まずこの小説はなんだと説明しようと、冒頭を思い返そうとする。そうすると、ほら、あの青年が、ということになり、田中の記憶力に乏しい頭では主人公の名前を思い出せない。そこでページを繰って調べる。そうそう敬太郎、なかなかいい名前だわと思っていたのに、読んでいるうちに忘れてしまう。敬太郎はシューカツ生だ。「シューカツ生の敬太郎が社会に出ようとする話」、これが『彼岸過迄』のいちばん短い粗筋になると思う。

はじめのうちはなんとなく仕事口を見つけて、みたいなところが見えるのだが、そのうち謎に巻き込まれて探偵のようなことをはじめる。しかし、最初の謎の人物は完全に取り逃がし、外国に行ってしまって、小説の舞台から完全に消える。そこへ次の探偵依頼がもちこまれ、敬太郎はその依頼を真剣に請け負って、ターゲットを追跡する。しかしその探偵内容の報告を依頼主にしたところで、ターゲットは依頼主の知人であり、敬太郎はいわば「水曜日のダウンタウン」的なドッキリにひっかかっていたのだった。

こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後なんかつけるより、直に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、そうして動かない確かな所が分りゃしないかと思うのです。

そんなん、番組にならんかもしれんけど、跡なんかつけるより、直接聞いたらええ話ですやん。そのほうがどんだけ早いか、どんだけ確かやと思ってんすか?バカじゃないんすか?

ということで、実際に話を聞きに行き、そのターゲットの血族(敬太郎の友人である須永市蔵の親族)の話になっていく。その話の章では、話す本人がどんどん事実を話していくものだからそれは話が早いが、その語りにおいて聞き手の、なって言ったっけ、あのシューカツ生、そう敬太郎、という具合に、当初あたかも主人公として登場した敬太郎が、どんどん影の薄い人物になり、消えていくのだ。

これを「破綻」といえばそれまでだが、物語の当初において、敬太郎と同じアパートで、よく風呂に行く仲間だった森本がいつの間にか満州に行ってしまったのと、ちょうど同じだと思う。そしてもっといえば、「『彼岸過迄』に就いて」を書いたぎり引っ込む夏目漱石の姿そのものでもあるように、田中には感じられた。すなわちそれほどに「『彼岸過迄』に就いて」にはナマの漱石を感じるのだ。

そしてこの作品で「もっとも消える」のは、「雨の降る日」と題のつけられた章で死ぬ幼女だ。幼い女の子が亡くなる話、として短編にも読めるような「雨の降る日」という章は、ある種の悲しみを讃えているようでいて、なんだかあっけらかんとした明るさが逆に気になる。そのエピソードがはじまるきっかけになる言葉を「敬太郎がいい出した時、須永と千代子は申し合わせたように笑い出した」というのが、田中にはどうも気になるのだ。その場面だけ読めば、須永と千代子が笑い出した理由は一応説明がつく。しかし、ふつうこの場面でこの話題に対して笑っていいんだろうか、とも思うのだ。

そしてその扱いに応じるように、ちいさな女の子はまるで人形のように原因不明でころりとスイッチが切れたように死ぬ。火葬場で焼かれる。みんな泣いてはいるものの、印象に残るのは須永の態度だ。「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂のなかから小石を拾い出すのと同じ事だ」「こうして見ると、まだ子供が沢山いるようだが、これで一人もう欠けたんだね」

死んだ子の親でさえ言う。「生きてる内はそれほどにも思わないが、逝かれて見ると一番惜しいようだね。此処にいる連中のうちで誰か代りになればいいと思う位だ」

ここに書かれていることが『彼岸過迄』の主題であると田中は考えている。つまり人間はそもそもが消えるほどのちっぽけな存在なのだ、ということがまず言える。それは一緒に風呂に通い同じアパートに暮らす友人であろうと、ましてや親子でさえも、その関係は大差なくある日消えるのだ。そしてしかし、死んだ子供の存在は生きている子供の存在によってはじめて確認される。もっと簡単に言うと、「第三者」なる存在によってこそ、真実が発見される、それが人間の社会だ、ということが、『彼岸過迄』には書かれているのだ。

だから敬太郎が「直接本人に聞いた方が早くないっすか?」と探偵ごっこを抜け出し、当人に向き合って話を聞く、という体裁をとる『彼岸過迄』は、その作品の体裁じたいを否定してかかっている、ということになる。そのことは、敬太郎がすっかりほっぽらかしになった作品後半の主題、敬太郎の友人・須永と千代子の関係の話において、鮮明に語られる。簡略にネタバレしてしまえば、須永は千代子のことをそんな好きでもない。ところがそこへイケメン高木が現れた瞬間、須永は高木に対して激しく嫉妬し、結果的に千代子を求める状態になる。つまりは「三角関係」ということなのだが、しかしこれは単純なライバル争いではなく、第二者の登場によってこそ当事者への想いが燃える、というその発火のしかたこそが問題なのだ。

敬太郎は読者と同じ立場で、須永から「須永・高木・千代子」の三角関係の話を聞かされて、そのころにはもう物語から退場しかかっている敬太郎には、なにもする術がない。しかし、『彼岸過迄』をすでに読んだ方ならお分かりの通り、この物語に千代子が初登場するのは、『水曜日のダウンタウン』で敬太郎が探偵をしていた時の、ターゲットに関係する女、としてであった。そしてはっきりとは書かれないもののしかし明らかに、敬太郎は千代子に一目ぼれしているのだ。須永から延々と三角関係の話を、敬太郎はいったいどんな想いで聞いていたのだろう。

と思ったところで、書いてないのだから知らない。ただ、なぜ漱石はそれを書かなかったのか、ということを田中は推測する。それはだって、敬太郎はシューカツ生だからだよ。と漱石は言うだろう。つまり社会に参加するということは、三人以上の関係に身をおき、そのこと自体によって自らが変更を余儀なくされる、ということなのであって、社会にエントリーしただけの敬太郎、相手に話を聞けばわかると思っている敬太郎、追跡と観察で何者かを得ようとする敬太郎、には何かを想う資格もないのだ。それはなかば病床から復帰作を書く漱石自身をも消し去る、ある種のペシミスムでもあるだろう。



『彼岸過迄』はこのところ鞄に入れて持ち歩いていたが、突然の暇ができて一気に読んだのだった。

というのは、いつものように帝京大学付属図書館に遊びに行こうと、南平から高幡不動に出た。さてモノレールで行こうかバスに乗ろうかと思ったところ、京王線の改札の前にはプラカードを持った職員だか学生だかが、帝京大学の受験会場はこちらと案内をしていたのだった。


入学試験のある日に図書館はきっと開いていないだろう、と思いつつ一応調べておこうと思ったらスマホを家に置いてきたことにも気づいた。

そこでせっかく高幡不動まで出たのだから、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんのところに顔を出しておこうと思った。この前の日曜日、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんからLineで、チャーハンを作りすぎたから食べにこないか、と誘われていたのだが、夜の11時半であったため断っている。萬福が「チャーハン!」と言っているスタンプだった。

金萬福はいま群馬だか栃木のホテルの総料理長をしている。

いつものようの聖蹟桜ヶ丘の駅から歩いて団地に到着し、3階の角の部屋のベルを押すと押したとたん、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんがドアのなかですぐ近くから叫んだ。
「はにわさん、あなた傘も差してこなかったの!」

そういわれるまで田中は、きょうが雨であることを全く気にせず、ここまで来たことをひどく後悔した。田中は試しに、いまは雨など降っていないといった嘘をついてみようかと口を開こうとしたが、再び聖蹟桜ヶ丘の伯母さんは金切り声をあげるのだった。

ドアののぞき窓が聖蹟桜ヶ丘の伯母さんの目そのものに見えるくらいに、強い視線をドアから感じた。
「傘もってるじゃないの!また晴れた日に来てちょうだい!」

聖蹟桜ヶ丘の伯母さんが雨の日には家に誰も入れないということは、田中の記憶から何度となく抜け落ちてしまう。そうして拒絶された田中は聖蹟桜ヶ丘の京王百貨店A館の上、本屋に併設されたカフェでシュークリームを食べながら、いちにち『彼岸過迄』を読んで、読み終えたのである。

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