仕事がない期間は暇だからと放送大学生になった田中は、まいにち大学生の頃よりもよく勉強している。放送大学には卒業をめざす全科履修生と別に短期滞在型の履修生がおり、これで単位をためておいていよいよというところで全科に切り替えて卒業もできる。田中はそのような目論見でいる。
最初から全科履修生にしてしまうと金銭的な縛りもあるしなにより、卒業のために単位をとるという学生時代と同じことを繰り返しても意味がないからだ。興味の赴くままに履修した結果この方向で卒論を書いて卒業できるという道が見えれば、それが一番おもしろいしそれで卒業できたら放送大学で修士をとるのもいいだろうと考えている。
放送大学にはテレビやラジオで受ける授業だけでなく、学習センターで実際の講義を聴く「面接授業」がある。1学期の正規授業は15時間だが面接授業は8時間集中講義のため単位は1単位しかもらえない。しかし学生時代のように教室で講義を受けるのもおもしろいだろうと思って申し込みをしたら受講可能になったので、先生に質問ができるように予習をしている。そのテーマは「実存主義」であり、サルトル、カミュ、ボーヴォワールが取り上げられる。
田中の学生時代の専門は日本現代文学だったがいまでは「現代」をアップデートできていないし、近代文学はもちろん外国文学もまったく読んでこなかったので、田中には勉強しなくてはならないことがまだまだたくさんある。若いころほど文学に強いこだわりもなくなり、また文系にも限らず、勉強したいことを勉強していくというスタイルだ。
そこできょうの話は
外国文学には翻訳という問題が常につきまとう。だからフランス語の原文を読んだ時に同じ感じがするのかどうか授業で先生に聞いてみようと思っているのだ。フランス語には男性名詞・女性名詞の区分があるとも聞いているが、文体に性別は感じられるのだろうか(まだ知らない)。
ともかく田中は主人公の性別を第一部の半分過ぎまで読み違えていた。主人公が性交渉に及ぶ場面になっても田中は同性愛表現としてそれを理解し、3人目の登場人物の視線が書かれることではじめて違和感が生まれて、読みを訂正するに至った。
『異邦人』という作品で起こる重大な事件が、その動機が有名な文句であるように突発的に、論理では説明しようがないことで起こるのだが、ではそれが通常「論理」と対置される「感情」で説明されるのかといえば、主人公は無感情にも思える。
が、性欲にはつよく突き動かされていて、それと同じ部分で犯行に及んだと説明されれば、説明がつくような気もするが、本当のところは放送大学の講義を待つ。
同じようにかどうかわからないが、たまたま田中が『異邦人』の前に読んでいた小説は、性と犯罪が扱われる
しかしこれらの事件は、『異邦人』のように(???)、強い性欲に動かされる形で起こってはいない。むしろ逆であることが重要な点だ。中篇「奇貨」で「事件」を起こすのは主人公の男だが、彼は「あまり性欲が強くなく、女性と楽しく喋っている時に性欲が刺戟されて密着したくなるということがない」と話している。しかし彼は「性感マッサージ店」には行き、性的興味の対象は基本的に女性だ。が、「同性の友達ができない」彼は「小鳥とか、もしかしたらペットになる爬虫類くらいの距離感」で男も見ている。
その「ヘンタイ」性が「事件」を生むのだが、作品が犯人を断罪しているようには感じられず、また田中にはこの犯人がどうしても責められなかった。それは田中も犯人と同じような性的嗜好、もしくは人間関係形成能力である、と感じたからだ。
田中も性的興味は女性にあるけれども、性欲自体がそれほど強くない。一方で同性との関係構築が苦手で、そうであるがゆえに、男を犬猫のように眺めていると自覚している。たとえばユーチューバーの男たちを見る田中の視線は、単純に女性ユーチューバーの美容生活情報に興味がないということ以上に、たのしく遊んでいる男の子がうらやましくかわいいからだ。
いよいよヘンタイの文章になってきたが、作品にはレズビアンの女性が出てきて、主人公ではないがある人物を批判する言葉として、「半端ヘテロ」という言葉が登場する。
――そうだね、セクシュアリティだけじゃなくて、心の根っこみたいなものもたぶん突き詰めてない。だからなのかな、社交性もあれば親切さもあるし頭がよくて会話術も巧みだけど、実のない薄っぺらくてうつろな感じがつきまとうのは。
あやふやな性は人生観のあやふやさからくる、という批判は、やはり作中でレズビアンの女性から出される。田中はこの言葉に少なからずうなずき、また傷ついた。しかしレズビアンの女性が象徴するような<「半端」でない>性、つまりはヘンタイでしかありえない人生がこの作品には描かれ、描かれていることによって肯定されている。肯定されていなければ、あの結末はありえない。
どういうふうだか知らないが脳に異常がある発達障害者の田中は、性に限らずあらゆる意味においてヘンタイなのである。しかしそれはレズビアンがいうような「半端」とはちがう。「半端」は「100%」に対置されているが、「ヘンタイ」は「正常」に対置される一方で、あくまでも別の「態」なのである。発達障害者としてオープン就労を目指していく田中には、ヘンタイとして人生観を突き詰めていくことがますます必要だ、とこの本を読んで考えた。
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