前回も引用したこの図。図をクリックすれば飛ぶ場所も同じ。ドイツの精神科医ウタ・フリスのホームページだ。ジェイミー・グッド
しかし私はこのワインの本を読みながら、ジェイミー・グッドが但し書きとして放り投げたものにこそ注目していた。いや、一見放り投げているだけだった、という話になってはいくのだが、ここではいったん放置する。それはウタ・フリスの研究にとってはやはり、主題とされていることだった。
自閉症者は、三角形が動いたところで、そこに感情を見出すことができない。
この図は
これは「共感の欠如」という自閉症の特徴とも関連しているだろう。かつてハンス・アスペルガーは発達障害を「男性的知性の極端なかたち」と主張した。現に発達障害者は男性に多い。女性的な「エンパサイジング」よりも男性的な「システマイジング」に長ける発達障害、という話を簡単にするのは、性の文化的側面からいくらでも批判できることを承知で、しかし性ホルモンの影響という生物学的研究が進んでいることもまた事実であるという。
そもそも発達障害は生物学的な障害だ。遺伝子からしてニューロティピカル(註 ニューロティピカルという言葉もウタ・フリスに習った言葉だ。ニューロ神経がティピカル典型、という意味のこの言葉は、日本語の「健常者」と同じ範囲を指す言葉だろうが、使いよさがジャストなのでこれから田中も使っていく)とは異なる。その遺伝情報は周囲因子の関連で発現したりしなかったりする。そうして自閉症が発現した子どもの脳サイズは大きい。頭周長でみてもニューロティピカルの児童よりも頭が大きいのだ。近年流行の「大人の発達障害」として見出された田中は、子どもの頃の記憶を欠いているが、幼稚園の帽子のサイズに合うものがなく、特注したことを突然思い出した。ともかくそのように発達障害は生物学的な脳の構造、システム、活動レベル、また神経細胞の細部構造に起因している。
一方で、三角形の話は次のようにも説明できる。「自閉症は社会的であろうとする動因を欠如している」。「空気がよめない」みたいな自閉症者の苦労は聞くし、私もその気が大いにあるのをみとめるが、それはここに関係しているだろう。ニューロティピカルは、周囲の人間との関係や、文化的背景、文脈を理解して、それに沿った考えをすることができる。大きい三角形と小さい三角形がぐるぐるしていれば、それは親子かカップルかと読んで「かわいい」と言う、それがこの社会の「空気」なのだ。
そろそろ長くなってきたので、きょうのまとめをする。
自閉症また発達障害は、きょうも見てきたようにさまざまな特徴で語られ、また個人差が大きいものともされる。そこで便利なのが「自閉症スペクトラム」というよく聞かれる考え方だ。ウタ・フリスは同じ本の別の場所では、自閉症スペクトラムの中核にあたる3要素を「自分の世界に入る」「コミュニケーションがとれない」「反復行動と興味の狭さ」とあげているが、このようにポイントが列挙されるだけだと、障害がなだらかに見えるのはよいとしても、「ではこの苦しみはなんなのか」という当事者性は、当事者の中でさえ見失われて、田中は逆に苦しいと感じはじめている。
そこにウタ・フリスはきちんと医学者として答える。「苦しみは苦しみであり、障害は障害である」と。そして脳また神経細胞の違い、という生物学的観察をしている。その流れの中にあって、「空気が読めない」という極めて文化的(つまりは非生物学的)にみえる障害が、実はやはり脳機能による生物学的な困難であるのだ、という、そこからが次の話だ。いろいろと発達障害の要素にあたるものを並べたところで、極めてシンプルに一言で、ウタ・フリスが言い切った発達障害の核心とは。次回、最終回をたのしみにお待ちください(たぶん明日です)。
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