明日から就労移行支援に通う田中は、眼鏡屋で新しいメガネを買った。新しいメガネが欲しいとはこの数週間思っていたことで、都心に用事があるときにはハイセンスなメガネ店を見物していたが、結局は八王子のゾフで5000円のメガネを購入する。
視力検査をしてもらったらきょうまで掛けていたメガネでは視力がよすぎて1.2も完璧に見え、「目が疲れませんか1.0が見える程度に視力を落としませんか」と言われた。視力検査で「目が良い」と言われたのははじめてのことだった。「そんなことありますか」と聞くと、「視力は一日の中でも変化していますから」、と店員は言った。
「それだったら別にいまのメガネの視力でもいいということですね」と尋ねてから、視力は落とさずによく見えるメガネを掛け続けることにした。なにが正解かはわからないし目が疲れるという感覚を田中は知らない。ミニマリストを目指す田中はひとつ増えたメガネの置き場をつくるために、ひとつメガネを捨てることにした。高校生のときに掛けていた茶色のメガネはデイリーヤマザキのチキンカツ弁当のガラと同じ色をしていた。
放送大学の授業
レベルの低い田中はまず「透視図法(遠近法)」ってなんやねんという、講義では「自明」とスルーされた議論にそもそもひっかかった。この疑問を簡単に整理しているのは、布施英利『構図がわかれば絵画がわかる』だ。この本によれば「遠近法の基本原理は、『遠くのものは小さい』ということ」。「小さいものが、どんどん小さくなって、どんどん遠くなると、どうなるか。小さくなるのですから、最後は『点』になります。これが遠近法でいう消失点です」。こういう遠近法を使った構図は、手前が広く奥に消失点がある「三角形の構図」となり、この三角形が「絵画の空間を安定させる」ことになる。
この三角形をどういうふうに設計すると正しい透視図法となるか、これについても勉強し納得したのだけれど、その議論はここでも割愛する。江戸時代の画家は「その議論」を誤解したのである。授業で出てくるような葛飾北斎の「三ツ割の法」は誤解の一例であり、それをジャポニスムのさなかにあるマネがとりこんでいる。その詳しい話は講義に譲って、きょうここで書きたいのは講義で軽く話されたほうの話だ。
遠近法を理論どおりに絵に起こしてみた時、画面のど真ん中に消失点を置いてしまうと、真ん中に描きたいモチーフを置こうとしたときに、そのモチーフがもっとも遠く小さくなってしまう。このことに江戸の浮世絵師たちはわりあい早い段階で気づき、わざと遠近法を崩してモチーフを大きく描いたのではないか、その可能性が講義では指摘されていた。
印刷教材には出てこないが、テレビ講義で紹介される歌舞伎の舞台絵はとても印象的だった。歌舞伎の舞台を描きたいのだから舞台が真ん中にある。しかし遠近法を知ったので視点のすぐ近くの客席や建物の側面にある二階席なんかを描きながら舞台に接近していく。すると舞台上の肝心の役者が消失点に重なって米粒になってしまうという笑い話のようなアレだ。
それはまるで望遠レンズがほしいと嘆く、写真を趣味にしはじめたばかりの田中のようであると田中は思った。裏を返せば写真は絵画と違い、遠近法で現実感を出す必要がそもそもない。拡大縮小が自由自在(ただし見合うレンズがあれば)で、しかも現代においては撮影した後の写真をトリミングして構図を見直すことも可能となっている。
そんな現在において、写真はなにを写すものなんだろう。放送大学の授業が近代という時代の入口について議論を展開しているのに対して、写真家のホンマタカシは著書『たのしい写真』において、近代の出口としての現在を考察している。近代の科学技術によって誕生した写真の当初の役割は写真家が「決定的瞬間」を写し、社会で共有することであった。それに対して現在の写真はどうなっているか。無職の田中さんが一眼レフを買えるこの現代、「大きな物語から小さな物語へ」というポストモダニズムの理論通り、「ものスゴく私的な物語」がテーマになる時代とホンマは言っている。
その物語はどう写すか。ホンマは「「今日の写真」をめぐる状況はとても雑多で多様なんだ」と書いている。それはすなわち、あなたとわたしがちがうから、なのであり当たり前だ。ここはあえて強引に「今日の写真」をまとめて言いたい、と思ったが、どうもこの本を読むと潮流は正反対の方向に二分しているように田中には感じられた。
(1)ひとつはホンマが依拠する、アメリカの生態心理学者ギブソンのアフォーダンスが示すところの、「等価値」な写真だ。「ギブソンが造語した『アフォーダンス』とは、環境の中に情報があるということ、そしてそれには正の情報も負の情報もあり、人間(動物)はその情報を直接知覚することができるということ」。それは「決定的瞬間などはそもそも存在せず」という点において全ての時間を等価値に置いているのと同時に、写真からモチーフという概念を消失させ<だって写ルンです>状態の写真を生んでいることが推察される。そうしたことをも含むキーワードが「あらゆる境界線の曖昧さ」ということになるだろう。
(2)しかし一方で、現代において写真は「美術への接近あるいは美術からの接近」という影響関係の中でも語られているとホンマは指摘する。これに関係するキーワード、写真のあり方が「ストレートからセットアップへ」というものだろう。報道写真のように現実をストレートに写すのではなく、あたかも机の上に果物や花瓶をならべてデッサンの用意をするように、モチーフをセットアップして構図を確定する絵画のようなタイプの写真があるのだ。
この二つの方向性は、田中がまとめれば「(1)究極のリアル」と「(2)究極の虚構」と、ということになる。そしていずれにせよポストモダンとしての現代は、<とにかくよく見える時代>と、やっぱり最後はひとつにまとめられるんじゃなかろうか。見たかったものも、見えなかったものも、見たくなかったものも、とにかく見える、見えてしまう、それが現代である。そしてそれは採りようによって、必ずしも「鮮明」ということに限らない、という複雑さがおもしろい。そう感じているところだ。