2019年2月20日水曜日

壊れたスマホで撮った最後の写真について

スマホを買い替えたことは、どうも最近の大きなニュースであったらしく、このブログで何回も何回も書いている。当人としては壊れたその日のうちに、壊れたスマホのメーカー直営店に出向き同じメーカーの安い型落ち品としてのグレードの低く古いスマホに乗り換えたため、壊れる前と後とでは大差がなく色がシルバーから白に変わったという程度だが、なぜだかこれにまつわる事件は多くて書くことになる。


書きたいことが多くてついつい後回しになってしまい、あの日の主たる外出の目的を報告しようと思っていたのを、すっかり忘れていた。あの日はこのブログにも書いた通り、天王洲アイルという街に出かけて、そこになにをしに行ったのかと言えば、「現代の魔法使い」こと落合陽一の写真の個展「質量への憧憬 ~前計算機自然のパースペクティブ~」を見に行ったのだった。

私は落合陽一という天才に触れてみたくて伺い、おそらく他の人もそういう風に見えた半面、立派なカメラを首からぶら下げている若い人が会場には多くて、写真が好きな人ってこんな多いんだ、と思った。なにもわからなかったらどうしよう、と思っていたのだが、写真は写真であり、たのしめた。若いカメラマンたちは会場内でばしばし写真の写真を撮影しており、私もスマホで撮影をした。


会場で販売している本には落合陽一のサインが入っており、サインを拝ませてもらったが、買いはしなかった。ミニマリズムがすっかり身についた私はいま、必死に本の冊数を減らそうとしているからだ。


なんでも言葉に引っ張られる人間なので、私がこの個展でいちばん印象に残っているのは、写真自体よりもむしろ、上記した個展のタイトルと展示室の入り口に掲げられた挨拶文だった。魔法使いはどんどん先に進んでいくばかりなのかと思っていたのだが、メディアアートは見たことないものを見たいから、そして刹那を記憶したいから、というロマンチックな動機から説明されるこの文章で彼は、写真を撮ることが好きでそこには作家性が刻まれるから、といったことを書いている。それはここまで私が勝手にイメージしていた落合陽一からすると、ものすごい懐古的に見えた。

落合陽一のTwitterを見ていると、「弊息子」こと御子息の写真がよく流れてきて、とてもかわいらしい。かわいらしいのだが、なぜ落合陽一は息子の写真を発表し続けているのかが私には疑問で、もしかしてTwitterは公的なものではないですよということなのかな、と思っていたのだが、この文章を読むと見方が変わった。息子がこの姿であるのは今だけだから彼は写真を撮る。それは世界中のどの家庭でも同じ感情のもとに行われる行為であり、そしてそれこそがメディアアーティストとしての彼の原点でもあるということだ。

そのようにこの天才をつかまえるための入り口が、この個展にはきちんとあった、ということを書いておき、この写真に撮ってきた挨拶文は、何回も読み返してもっときちんと理解したいと考えている。


会場のamana squareという場所はとてもわかりにくい場所にあった。と感じたのは、スマホの調子が悪くて、グーグルマップが使えなかったからだろうか。しかし、個展を見た帰り道、駅方面へ広い通りまで出た信号のところで、やはりカメラをさげた青年が完全に道に迷ったふうだったので、なんの気だったかいつもそんなことはしないのに「この道まっすぐですよ」と青年に話しかけてしまった。青年は「?」という風情だったが「落合陽一でしょ?」と私が言うと「ありがとうございます!」と頭を下げて速足で歩いていった。おそらくは個展をみた感動で、ハイテンションになっていたとみえる。



こうして写真を息も絶え絶えで撮った後、スマホは故障し、乗り換えられたのだった。グーグルフォトはすごい。

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