2019年2月26日火曜日
文学のなかの数学のなかの文学の
引っ越してきた東京都日野市は大学の多い街だ。南平駅の駅前にあるスーパーマーケットは数日に一度利用するのに名前が覚えられない。しかし、その大きなスーパーの隣が大学の寮になっていることは知っている。看板が出ているからわかるのである。ただし何大学の寮だかは忘れた。どの大学も南平駅のそう近くにはない。この近辺は坂道が多く、こんな坂道ばかりのところで学生が暮らしているから、この大学は箱根駅伝に出ているんだわ、と思ったことは覚えている。
大学は頻繁に公開授業をする。授業を公開して大学はいったいなんの得になるのか知らない。しかしそれが「地域貢献」であるのならば、田中こそが地域である。授業に参加して得た知識をインターネットにばらまくのは、ごみだらけのインターネット無料域にあって、なかなか有益な仕事なのではないかと考え、無職の田中は授業に出るようにしているのだが、ノートをまんま公開したところで、学生がテストでいい点が取れるわけでもないので、どうにか役に立つ形にしたいと寝かしているうちに、発表の時期を逸する。いや、まだあたためているのだ。
放送大学多摩学習センターは、生徒募集の説明会にあわせて公開講演会を定期的に開いている。田中は仕事が苦しくて仕方なかった時期、多摩学習センター公開講演会に来て、「日本人の自尊感情」の話を聞いて、従業員の自尊心を傷つける企業に身を捧げるのは時間の無駄だわと悟り、退職を決意した。職を失った田中は放送大学の選科履修生となった。東京都日野市に引っ越してきた。再び公開講演会の時期がやってきた。この授業は田中の興味関心にかなり沿ったものであった。放送大学多摩学習センターは東京都日野市にはない。
飯高茂・学習院大学名誉教授が語る、この日のテーマは「文学の中の数学」。この登壇した数学者は東大の教授職を定年で退き、現在は放送大学多摩学習センターの生徒でもあるということだった。「数学を情感たっぷりに語ってみたい」という目標で、きょうは講義する、とはじまった。だとしたらそれって「文学の中の数学」じゃなくて「数学の中の文学」でしょ、と思った。ただ話の冒頭の「九九」の話は大変興味深かった。
「九九」で「ににんがし」「にさんがろく」「にしがはち」と来て「にご、じゅう」となる。これは不思議だ。「にろくじゅうに」はテンポ的にわかるのだが、「にご、じゅう」と1拍あきになるのが、田中は子どもの頃からずっと不満だった。とくに田中は小学校で「九九」をウタで覚えさせられたので、なんで「にこがじゅう」ではダメなのか長いこと気にしていたのだ。
「九九」が庶民にまで広まったのは江戸時代だが、もともとは遣唐使が輸入した概念のひとつであったというのだから、かなり長い歴史なんだ。そのように「九九」は舶来品なのであった。「二二得四」「二三得六」「二四得八」という中国語を日本語で読んでいるから、「九九」はあの読みなのである。それまで「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ」と大和言葉で数えていた日本の人々は、掛け算を丸ごと覚えてしまうことで仕事効率化をはかる中国人に驚いて、数字の読み方から変えていった。だから「九九」は中国語なのである。
「二五一十」「二六十二」というのが中国語の「九九」だ。「いちじゅう」という言い方は現代日本語ではしない。「一」が落ちたかたちとして「にご、じゅう」が誕生した、と講師は言った。しかし現代でも、たとえば「一千万円」の「一」は残っている。なぜ「九九」ではそれが落ちたのかは謎だ、という話であった。
飯高茂には数学の初学者のための書籍も多い、ということだった。先生は自身の著書を会場にまわすと左右の席に配り、「ほしい人は持って帰っていいです」とテキトーなことを言うものだから、本は会場のどこかに吸い込まれて、田中のところまでは一冊もまわってこなかった。放送大学のこの公開講演会は毎回、クリアファイルとボールペンをおみやげに配っているようだが、このボールペンはとても使いやすいボールペンで、前回のオレンジとは色違いをくれたので、それはよかった。ピンクをもらった。
授業はまさしく「文学の中の数学」という話になった。沢木耕太郎『深夜特急』にマカオのカジノにいく話があり、そこでのカジノのサイコロの目の確率を計算するという、いかにも数学の話になっていった。その数式の話はここでは省略だ。数学者は言った。「カジノはカジノが儲かるようにできている。数学がわかっている人はカジノに金を賭けない。確率を計算したらわかるのである」と。
はいはいそりゃあそうでしょうよ、と田中は思った。ギャンブルは田中の得意分野だ。田中だってその程度のことはわかる。わかってるんだよ。授業は実際にカジノをやって確認だ、ということで、パソコンにサイコロを転がすプログラミングをつくってきた先生が、知り合いらしい生徒のおっさんたちを舞台にあげて模擬カジノをやっていたら、講義時間が終わってしまった。ほんとうはもっと数学の話をするつもりだったらしいが、すっかり商店街のゲーム大会のようだった。
本題に入る前の雑談的に教授が持ち出した「宝くじ」の話は、なんとも示唆的であった。知り合いの女性に宝くじのシステム、上記のような当たる確率と控除率を解説して、教授は「宝くじなんか買うのはやめなさい」と言ったという。その時女性は言った、「だって買わなきゃ当たらないじゃない!!!」。教授がそういう話し方をするからだが、このとき会場は大爆笑の渦となった。簡単に言ってしまえば、(バカだなぁオバハン)という意味の笑いなのであるが、私はオバハンがバカだとは思わなかったから、笑いもしなかった。
ギャンブルは買わなきゃ当たらない。これは真理なのである。教授だって言っている。「ギャンブルせざるを得ない場合には、一度だけするべきだ。一度やって勝ったら儲けものだと思ってやめなさい。確率論からしてやればやるほど負けがこむから」。しかし、そういうことでもないわなあ。と思いながら商店街のゲーム大会を見ていて思いついたのは、数学者が確率計算をするソレが「数学」なのだとしたら(いや完全に数学だが)、「だって買わなきゃ当たらないじゃない!!!」というのこそが、「文学」なのである、ということだった。
こうしてみると「文学」は、「数学」と対立させた時、バカで、笑われる対象で、といったふうに見えるところがある。実際、現代日本社会における「評価」と似たところを感じるのだが、それはほんとうにほんとうか。これ以上の話はまだできる頭がないのだが、田中の大きな関心はココにあり、今後もこの話は続けていく。
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飯高茂先生とお付き合いして32年間たった。放送大学の帰りに先生は永井荷風の朗読を聴いているらしい。ふと先生も自分の数学は文学の作者のようだとつぶやいた。
返信削除数学は勉強するのではなくトンネル掘っていくように研究している本人はいくつもの宝物を発見してきた。表現が文学だろうと数学だろうと感動するストーリーには間違いない