2019年2月27日水曜日

インターネットのゴミ


夜、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんからラインで呼ばれた。

聖蹟桜ヶ丘の京王アートマンで藤家具フェアをしている。座椅子がよかったので買ったから見に来なさいという。こういうラインを無視すると、後日、あきらかな復讐が仕掛けられると知っている田中は、ちょうど高幡不動のドトールで本を読んでいたこともあって、そのまま京王線に乗った。

聖蹟桜ヶ丘という場所の話はこのブログでこの前もしたけど、「せいせき」というこのひらがな表記は、夜になるといっそう不気味だった。聖蹟桜ヶ丘セイセキサクラガオカという地名は長すぎるわけで、なんらかの略称が必要だ。このとき前をとるのは自然だが一方で、「聖蹟」という意味不明の煌きは、京王百貨店と京王アートマンしかない聖蹟桜ヶ丘に似つかわしくない。だからひらがなにしたら、余計に怪しくなってしまった。

聖蹟桜ヶ丘の伯母さんを含め、地元民は平板に「セーセキ」と発音するのがふつうだ。はじめて伯母さんの家を訪ねた時、街の人間が「精液」の話ばかりしていて「エロっ」と思ったのをよく覚えている。

聖蹟桜ヶ丘の伯母さんは、レゴブロックでできたような丘の上の団地の、3階の角部屋に住んでいる。チャイムを鳴らし玄関のドアを開けると、聖蹟桜ヶ丘の伯母さんは新しく買ったらしい、大きな丸い背もたれを持つ籐座椅子を玄関に据えて、ドアを睨みつけるように田中の到着を待っていた。手にはインドネシアだかベトナムだかで生産された、安いスマホを持ち、いつでも復讐ができるように用意していた。

目が合うなり聖蹟桜ヶ丘の伯母さんは田中に言った。
「あなた、次の仕事はどうするの? どうせ毎日ぶらぶらしてるんでしょう?」
ぶらぶらしているからあんたのウチに来んのよ来れんのよ、と思ったが話がややこしくなるごとに帰る時間が遅くなるので、
「そうですね。なんでもやるつもりですよ」
と答えた。

いま無職の田中は、暇つぶしにwebライターをしている。田中としての記名記事はここにしかないが、お小遣い程度にしかならない記事にも、相応の時間をかけた調査をおこない、記事にまとめている。実際に仕事をしている時間はとても短い。だから短いなりの収入で、それをハローワークに申請すると、失業保険の減額はない。

webライターをするのだとすれば、調査内容に忠実な記事、役に立つものを生産していきたい。そうでない記事、インターネットのゴミ、を増やすことには心が痛む。心が痛みすぎてストレスになってきたので、編集部の指摘が連続する結果として、いつも記事がゴミになる編集部、との関係を昨日までに全て清算したのだった。

これでこの仕事は完全の完全に赤字事業となったがしかし、全く興味もなかった本に出会い、知識を習得すること自体が財産と考えているので、調査結果を尊重してくれる編集部とは、これからも仕事を継続する予定だ。

ところで「インターネットのゴミ」とはなにか。それはごく一時期ではあったが、ゴミ製造業として暗躍した田中がよく知っている。

テレビか雑誌かでみたようなありきたりな企画。その企画はあくまでテレビや雑誌が得意とするフォーマットなのであって、素人がそれを真似ることになんの意味もない。企画のフォーマットに沿った記事を完成させたところで、結論は編集部の意向と真逆になる。それが真実であり調査結果なのだが、結論を変更させる編集部が存在する。そうして真逆の理論を無理やり構築してやれば、論理が厳しいという。「ひとりよがりがすぎる」と言ってきた編集部にはぶちぎれてやった。はぁ? テメーが言うとおりに言いたくもねえこと言ってやってんの。バカじゃねーの?と。

「趣味と実益を兼ねた」という言葉がある。それは「仕事」のある種理想的な形だと思う。しかしそれが「実益」に傾いていくと「趣味」が毀損されることがある。そんな仕事はする意味がない。いますぐやめなさい。これがこのたびの田中の教訓となった。

インターネットの読者は、文章を読むことにストレスを感じたくないため、文章は短く「ですます調」でなくてはならない。漢字をなるべく少なくして、最後まで読ませる文章をつくる。文字が詰まった印象だと脳にストレスがかかるため、一文ごとに改行。そうしたweb文章のフォーマットがまた、情報の量と質を下げている。

このブログは脳にストレスをかけたくない人は近づかなくてよい。そもそも現代人に向けて執筆していない。数万年後にインターネットのゴミの山から、発達障害がブームのように患者数を増大させた時代の痕跡として発掘されることを目指している。

マジか?

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