私はノートを書いています。書きながら、思い出しています。色々なことを。このノートが頼みの綱です。順番に思い出しながら書いているのです。しかしもう随分昔のことなので、スラスラとは書けません。肝心なところを避けて書こうとする自分に、打ち克つように心がけています。そして書かなければならないことは、私にはすっかり分かっているのです。嘘は絶対に書きません。全て本当のことを書いています。急いでは駄目です。ゆっくり、時間を掛けて自分の経験を正確に記していかなければなりません。そもそも急ぐ必要などどこにもありません。ここでは、時間はたっぷりあるのですから。
このコマーシャルを思い出す理由はもう一つあって、ここが案外この物語のポイントと踏んでいますが、主人公が少女(こども)である、ということです。タイトルの「ボラード病」とは作品内において、社会の同調圧力を受け入れられない人間を指す語として機能していますが、主人公にその病が見られるのは、主人公がこどもだからなのだ、というフシが読み取れるように書いてあるのです。主人公の母も同じ病気の患者でありつつ、必死にそれを隠すことで生きのび、また主人公に「教育」しようとしています。
終盤、主人公は「同調圧力」の側に引っ張り込まれますが、そのとき主人公は同時に、コミュニケーションの喜びを感じてもいます。ここに至って、この物語は単なる政治的な寓話を脱していると、田中は読みました。すなわち、世の中にはコミュニケーションの文脈というものがあって、それを読み取れるように人間は「発達」していく。しかしそのように「発達」することで大きく損なわれるものもあるし、一方で得られるものもあるのだという、いわゆる少女の成長物語の典型にはまるようにできているのです。
それは周囲の動きに、偶然自分の石拾いの手の動きが同調した瞬間でした。その時、「海塚讃歌」のリズムが不意に体の中に入って来たように感じました。音楽のリズムに、体の動きがピッタリと嵌ったのです。全身が痺れたような気がしました。しかしそれは少しも不快なものではなく、寧ろとても気持ちよいものでした。波に乗る、と言うのでしょうか。ところがそんなことを頭で考えた途端、私は音楽から弾き出されてしまいました。野間夫妻を見ると、彼らは若者たちの倍のリズムで体を動かしていることが分かりました。つまりここにいる人たちは皆、「海塚讃歌」のビートにピタッと合わせて無心に踊っていたのです。私はもう一度そのビートに乗りたいと意図しました。何も考えずに石拾いのスピードを調整するだけで、それは簡単に実現しました。石拾いはダンスなのでした。私はすぐにコツを摑みました。今まで頭の中に壁を作って撥ね返していた「海塚讃歌」という歌に、こんな風に体ごと聴き入ったことはありませんでした。学校で、みんながこの歌を歌う時必ず体を揺らしていたことの意味が、この時初めて分かった気がしました。
発達障害者、なかでもコミュニケーション不全を持つ者としての田中には、同調圧力の恐ろしさと同じくらい、いやそれ以上に、コミュニケーションの輪に入った主人公の喜びに、その「発達」に羨望することになりました。ひらたく言ってしまえばこの物語は、自分が正しいのか、周囲が正しいのか、どちらかわからない、ということを書いているのだと、田中は考えました。
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