高齢者の運転操作ミスによる交通事故が問題になっています。俳優・杉良太郎が免許を返納して啓発活動としたことも話題となりました。これは難しい問題で自動車なしでは暮らせない地域もあるはずですが、ニュースになるのは不思議と都会ばかり。田舎でも対物自損事故みたいなのは多いのでしょうか。
きょう読んでいた
車が生活の一部になっていた人にとって、認知症になったからといって、車の運転を禁じられることは、まるで自分の手足をもぎ取られたような辛さがあるのです。とくに公共交通機関の少ない田舎で、車の運転を取り上げられるほど辛いことはないと思います。イギリスのように、免許を更新しても車に乗りたいんだという人だけが実地試験を受ければいいのです。何もしないでだめと言われるよりも、実地試験をやってだめと言われたほうがあきらめはつくと思います。現在、高齢者が違反でつかまると免許センターで認知症検査が行われる、 という施策はすでに日本でもあるのだと、このところのテレビニュースで見ました。しかしそうしたことより重要なのは、高齢者でも安全に運転できるクルマが、たとえば自動運転車などが、一刻も早く開発実用化されることだろうと、田中は考えています。
このブログでも書いていたように、田中は今年の初めまでの一時期、webライターのアルバイトをしていました。この時期、自動車関係のメディアに記事を売っていたことがあって。そのとき調べたところでは、ヨーロッパのクルマを中心に自動運転車はすでにある程度実用化されているし、日本車でも安全装備を売りにするクルマはどんどん増えていますよね。さいきんの事故のニュースでも「プリウスロケット」なる言葉があるように、ある車種に限って高齢者事故が多いということも、事実としてあります。
ついつい運転する高齢者を悪者と見てしまいがちですが、悪いのは自動車であり技術の進歩が至らなかったこと、という見方はできないでしょうか。前掲した本を田中が読んだのは、以前にも書いたことがあったように、発達障害と認知症はご近所さんだ、という認識が田中にあるからなのですが、この本で書かれる手帳やスマートフォンの活用はやはり、発達障害に対する方策としても読めるものに思いました。
これを広い視野から捉えなおせば、脳機能の障害は機械に補助を頼るに限る、ということで、以前から田中も思っていたところです。そしてこの文脈に照らせば、その「機械」というやつに「自動運転車」はまさしく当てはまるはずで、事故で犠牲者が出るのは悲しく避けなければならない問題である反面、冷静に考えればこれは人類の機械工学技術が追いつくまでもう少しの辛抱という感じに、田中には見えます。
奇しくも自動運転の電車が衝突する事故も起こったばかりで、どこまで行っても完璧ということはないことを知ったうえで、しかし人間が機械に頼る方向はこの先加速せざるを得ないし、それしか人間のさらなる進歩はないだろうと思っています。
認知症者による著書で、著者がタイトルの通り「笑顔で生きる」その理由を探せば、これも近日、田中が発達障害について考えていることに共通していました。
認知症を隠さなければ、たいていのことができるんじゃないでしょうか。認知症をオープンにすると、みんなやさしいことに気づくと思います。私がこれだけオープンにできるのは、やさしい人とどんどん触れ合っているからです。もちろん、中にはいやな人もいるでしょうが、その人と付き合わなければいいだけです。認知症を隠しているということは、自分のなかの認知症に関するイメージが悪いからで、そのイメージの悪さに自分の首が絞められてしまう。そういった趣旨の論が出てきますが、これもそのまま発達障害にもあてはまるように思います。
脳機能の障害は、生活の工夫とそして機械に頼ることによって、周囲からどんどん見えなくなります。それ自体はよいことですが、見えないがゆえにいざ困ったことが出ると、周囲の驚きも大きい。最初からオープンにしておけば問題にならないことも多かっただろうと、クローズで勤務していた前職のことも、本を読みながら思い出していました。
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