2019年6月15日土曜日

佐伯祐三幻想



佐伯祐三(1898-1928)の生涯は短く、東京美術学校を卒業した25歳を画家としての出発と見たとき、その画業はわずか5年である。卒業とともにパリに立ちパリに客死している佐伯だが、そのちょうど中間地点に親族の心配に促された日本への帰国があり、一般にその作品は<第一次渡仏期><帰国期><第二次渡仏期>と整理されている。

本稿で問題とするのは、佐伯祐三の<帰国>の画業における意味である。画学生時代から生涯を通じて佐伯と親交の深かった山田新一は「いやがおうでも日本の風物を、取材せざるを得なくなった一カ年半位は、文字通り佐伯の苦悩煩悶、或はスランプの時代といってもさしつかえないのではなかろうか」と書いている(1)

これまで佐伯の視線は常にフランスに向いていたと評され、<帰国>が大きく取り上げられることはなかった。しかし欧州体験が祖国回帰につながるような典型的な動きはなかったにせよ、佐伯祐三がそれまで目も向けなかった日本に、このとき向き合わなかったはずはない。病身の画家自身が命を懸けた短い画業において、只のスランプなどという無為な時間があったとは考えにくいからだ。

それが証拠に<第二渡仏期>があるとは言えないだろうか。すなわち、佐伯祐三の作品に<帰国>が影響を与えたからこそ<第二渡仏期>という区分が存在するのだ。それは単純な時間と場所の区分ではないということである。

<第二渡仏期>の作品の特徴は「『線』の野放図な乱舞」(2)である。熊田司は「《ガス灯と広告》や《カフェのテラス》では、ポスターの文字やイラスト、ガス灯の鉄柱、人物の手足、パイプ椅子やテーブルの等々、すべては等質で跳ね上がるような線描と化し、いくつかの簡素な色面に還元された背景の上で、蠱惑的なダンスを舞うかのようだ」と評している(3)

この線を佐伯祐三が日本画に学んだ可能性をここで指摘する。<帰国期>の日本の風景をモチーフとした作品の評価は一般に低調だが、作品には残らない部分で佐伯が日本を再評価することはなかっただろうか。そのように考える時、小説家の芹澤光治良に対して発したとされる「日本には帰りたくないが、日本に帰って、古い日本の山水と宗教画を見ることで自分の絵を完成できるかも知れないから、あきらめて日本に帰ります」という発言が改めて注目される (4)

安村敏信『線で読み解く日本の名画』(5)は、「日本美術の特色」を「線」に見ようとする試みである。ここで雪舟が発明したと位置づけられる「無重力の線」は、リアリズムの画面から線だけが浮き上がるような特徴をもつもので、日本独特の線の誕生と位置付けられている。その線を受け継いだとされる雪村の線を佐伯祐三と比較してみたい。

佐伯の『リュクサンブール公園』(6)に代表される立木の表現と、雪村の代表作『風濤図』(7)の立木は、描線のスピードを封じ込めたような表現に共通性が見られる。あるいは佐伯のカフェ連作(8)において踊る手足のような一筆書きの椅子をあらわす線の軽やかさは、『風濤図』において最も特徴的な、波頭の「水飴のような粘り気のある線」に似ている。
 
 証拠になる資料が見つからないため、推測の域を出ないことは承知で、ヨーロッパにひたすら憧憬した佐伯祐三が日本画から影響を受けていたことが証明される時、夭折の天才は真に近代日本を代表する洋画家となるだろうという幻想を提示した。

(1)『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版、1980)
(2)(3)(4)熊田司「佐伯祐三――いくつもの出発――」(『佐伯祐三芸術家への道展』図録、練馬区立美術館、2005
(5)安村敏信『線で読み解く日本の名画』(幻戯書房、2015
(6)佐伯祐三『リュクサンブール公園』(新潮日本美術文庫『佐伯祐三』、1997
(7)雪村『風濤図』(上記(5)より)
(8)佐伯祐三『テラスの広告』(新潮日本美術文庫『佐伯祐三』、1997

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