積読(つんどく)という言葉がある。この言葉はてっきり新語なのかとばかり思っていた。15年ほど前、田中は社会人になってから、積読という言葉を知っただろう。その当時、田中が通じていたなにかのチャンネルにおいて積読という言葉が流行していた記憶が田中にはあった。だから新語なのかと思い、その新語が生まれたのはいつだったのだろうと調べてみたら、積読という言葉の歴史は案外長い。
ともかく本は読まなくても買っておけばそれだけで意味があるという言葉に甘えて田中は本を買いまくってきた。積読の効用を聞けば金銭感覚も計画性もない田中もなにがしかを認めてもらえているような気分だった。しかし田中はそんな人生を改めるべくミニマリストという思想に出会った。ミニマリストにとって積読は着ない服と同じものだ。使わないものは捨てて、ただし残すと決めたものだけは残す。
田中はすでに読み終えている本に関してamazonで売り飛ばしながら、積読の棚に関しても読まないものは新品同然でも売り払い、読みたい積読はつんどくのではなくどんどん読んで売るか残すかを決めている。そのような田中の活動は「田中はにわリサイクル」という屋号のamazon内お店屋さんごっことなっているが、この屋号のホームページのようなものは存在せず各出品のそれぞれの商品ページのなかにまぎれて存在している。田中のツイッターでは出品を随時報告しているので、ツイッターをチェックしてみてください。
そのように積読を解消していく中で十数冊を読んではじめて、はじめて「売らないよ」という大事な本が出てきた。その本は平凡社がつくっている科学者による随筆の選書シリーズ「STANDARD BOOKS」のなかの一冊『岡潔 数学を志す人に』だ。このシリーズの視点そのままに田中も昔から思っていた。理系の学者の書くエッセイはたいていおもしろいと。たぶん理屈の捏ね方が文系頭とはちがうんだと文系頭だろう田中は思っている。
岡潔は明治時代の生まれで、田中が生まれる直前くらいに亡くなっている。数学者だというがいったいどんな数学を研究していたのだろう。この本を読んでもわからない。この本の最初に載っている「生命」というエッセイの最初のページに「大脳前頭葉」という言葉が出てきて、大脳前頭葉について研究中の田中はさっそく興味を持ったのだがそれはたまたまのこと、脳のことはそんな中心的な話題ではなく次第に数学の話になっていくのだろうと思っていたら彼は脳の話ばかりしている。
岡潔はこの本にまとめられている随筆の範疇において、医学者の名前を出さないがその知識を「医学的にも最先端をゆくものではないかと思う」と誇っておりそれなりのブレーンの存在を想像させる。そのブレーンにもいずれたどり着きたいと思うがここではまず、岡潔のエッセイの脳科学の議論がどれほど正確かを見るために、弊ブログで提示しておいた現代精神医学の「脳を前と後に分ける話」を振り返っておこう。
田中をはじめとするニューロマイノイティは、前頭葉の機能が後ろにくらべて機能的に弱いようだ。後ろ側では<分析や計算>などを分担しているのに対して、前頭葉は<高次脳機能>と呼ばれる<制御や理解>を担当している。ここに計算という言葉が出ていたのだった。数学者の岡潔が研究のために使っていたのは後ろのほうのはずだ。なぜ彼はまず前頭葉を語ってしまうのか。この疑問を解くことが人物像を理解することとなるだろう。
これは日本のことだけでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。
代表的なエッセイ『春宵十話』のなかにこんな言葉がある。数学者が脳科学に関心を持つ理由はまずこうした学問上の問題意識なのだ。だから「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は情緒が中心になっているといいたい」という話になり、岡潔のキーワードとも言えよう「情緒」が出てくる。しかし本当のポイントはここからで、情緒というふんわりしたイメージを脳機能の問題にまで具体的に結びつけていたこと、それを理解しておくことが大事なんだろうと思うのだ。
岡潔は脳内に「情緒の中心」というものがあると設定した。そしてそれが「大脳前頭葉」に「結びついている」と考えていた。「情緒の中心だけでなく、人そのものの中心がまさしくここにあるといってよいだろう」。大脳前頭葉の具体的機能については、「調和」「衝動の抑止」「ここからは交感神経、副交感神経系統が出ていて、全身との連絡がついている」「他人の感情がわかるというアビリティ」と現代医学から見てもかなり正確だろう。逆に言えば、このような具体的機能をこそ彼は<情緒>と呼んでいる。
そしてこの<情緒>がないと人間は生きていかれないだろうと岡潔は考えていた。交感神経と副交感神経のバランスが崩れることで、たとえば下痢になり大腸がただれるといった身体的不調が発生することはもちろん、「大脳前頭葉がだめにな」るとそれは「自殺の原因」ともなると言っている。
おそらくは時代のズレで表現は適当でないだろうが、<だめな大脳前頭葉>というものが仮にあるとして、それはたとえば教育がうまくいっていないこと、「計算機やタイプライターのキーをたたきすぎ」といった話が出てくるのだが、ここに田中はニューロマイノリティの脳の形をあてはめる。
おそらくは時代のズレで表現は適当でないだろうが、<だめな大脳前頭葉>というものが仮にあるとして、それはたとえば教育がうまくいっていないこと、「計算機やタイプライターのキーをたたきすぎ」といった話が出てくるのだが、ここに田中はニューロマイノリティの脳の形をあてはめる。
田中の実感としても、ニューロマイノリティの脳は<情緒>なるものをきっと欠いている。だからニューロマイノリティは積読なんて情緒が許せないのではないかと、そんな気がする。ミニマリズムという思想とニューロマイノリティは非常に相性がよい、と直感的に思っている。以前にもどこかに書いたかもしれない。
許せないと書いたが、これまでの田中は許していたから積読を増やしていた。しかしその情緒を味わえていたかといえば、田中の場合、ただ部屋が雑然としていただけであったような気が、いまとなってはしてくる。そう考えたとき、田中はこれまで、またいまでも文学を愛しているような気がしていたが、それもなんだか怪しく思えてきた。
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