ニューロマイノリティはできることとできないことの差が激しいことを特徴としているが、では何ができて何ができないのかはまさしく千差万別である。田中の場合は、という感じでたいていの人々は「●●ができない」という説明を自分でできるのだが(それを「障害特性」という)田中はそれができずできるようになるために訓練に通っている。現段階でわかっているのは、WAIS-Ⅲの知能指数だけだ。WAIS-Ⅳではその概念じたいが否定されることになるが、WAIS-Ⅲでは全IQを動作性IQと知能性IQにわけるという方針をとっており、それによれば田中の全IQは偏差値がやや低め、しかし言語性IQは高く動作性IQが足を引っ張っている。
それは田中の認識どおりで、職業人生の入口において田中は「言語」を使う仕事に就くことを夢見ていた。しかしそれは夢としてついえた。夢のような職業に就けないことはよくある話だ。その時なにを代わりに選択するかそこからが本当なのだが田中はその選択を間違ったと、今となっては思っている。ひとつの夢がダメだとなったときに田中は田中の「言語」がダメだとそう思ってしまった。以来田中は「動作」の仕事ばかりを選んでは当然できない仕事ばかりすることになってやめてきた。これ以上「動作」を積み上げたところでなにもできない。だから、障害者雇用という仕組みを利用してまた「言語」方向へ舵を取ろうというのが今回の田中の目論見であった。
しかしそれはそれで間違いだと先生は言う。「まずやめるべきなのはあなたのそのゼロヒャクの考え方ですよね」。要するに田中は完璧主義がすぎるのだ。自己PRも障害特性もゼロヒャクの完璧主義では語れない。全部ゼロになってしまう自己肯定感の低さも問題だ。問題ばかりが見えてきて田中はまいっている。そのうえにたくさんの課題が出されている。勉強は好きだからこれは今はたのしいが、そのうち壁にぶつかりこれまた苦しくなるだろう。
さっそく壁に当たっているのがタイピングだ。コンピュータの教育というものを受けたことのない田中は、同じ教室のおそらくは学校教育でコンピュータを習ってきた若者たちと比べて、タイピングが明らかに遅い。タイピングの特訓ソフトを使って訓練をやっているが、あるところまできたらもうこれ以上は速度が上がらなくなってしまった。これはタッチタイピングができていないからだ。小学生の頃からワープロを使ってきたが、大学に入るまでずっとカナ入力をしており、右人差し指一本で入力していた。いまでもその時の悪い癖が残っているし、いったん手をどけてキーの場所を確認しているから遅いのだ。タッチタイピングをできるようにならなくては事務職はムリだろう。
というと先生はまたいう。「それもゼロヒャクですよね。できなくてもムリじゃないです。特に障害者雇用の場合は」。たとえば田中はむかしむかしに簿記検定2級をとったがいまではほとんど忘れている。ほとんど忘れているとなると通常は忘れていたら意味ないですねということになるが、障害者雇用では「昔とったってことは興味があるってことですよねすごいですね」ということになるらしい。教科書をひらけば思い出せるレベル、ということなら仕事について必要になってから勉強すればいいからいまは勉強はやめて、他を先にしましょうということになった。
そして田中は今年のはじめから校正の通信講座を受けている。これも次に仕事に生かせればと思っていたが、障害者雇用において「チェック作業」なる事務職、誤字脱字の指摘と再入力は主要ジャンルのひとつで、ここに生きてくる可能性が出てきた。そうなるとたのしくなってきて、近日勉強のスピードが上がっている。この通信講座は8ヶ月で資格が取れる講座で、ではスピードをあげてなるべく早く資格をとったほうがいいかと尋ねると、「いいえそんなことありません。校正の通信講座をやっているということ自体が評価されます。勉強が大変じゃなければ進めたらいいですが、時間的にむりならやらなくてもいいです」と言われる。
じゃあ何をすればよいのかということになる。毎日きちんと学校に通えること、指示を守れること、報告連絡相談ができること、などである。そういう生徒が企業に求められるという。どうせそういうことになるのか、というのが今の田中の正直な感想だ。田中は障害者雇用といったら、だまってスキルだけを発揮することが重要で、それ以外をご容赦いただけるのかと思ったらそうではないそうだ。一般に障害者雇用の現場では「叱責がない」などの「配慮」があるようだが、「配慮」があるというだけで求められることは人間として同じなのだ。
田中は自分を人間ではないと思ってきた。だからようやく障害者になれて人でなしになれると思っていたがそれは甘かった。この記事を書こうと思ったきっかけは昨夜ツイッターでまわってきた精神科医・名越康文の『人はなぜ「どうせ」思考に陥ってしまうのか』という記事を読んだことだ。人が「どうせ」という精神の空虚感を脱するには、身体に注目することが重要だ、と書いてある。田中もそう思っていたのだ。名越の「精神がダメなら身体に」と田中の「言語がダメなら動作に」「心がイカれているなら資格に」はまったくの相似形だ、「ゼロヒャク思考」というまさにその点において。
だから「ゼロヒャク思考」は完全に否定されるべきものではなく、まさしくの方向転換法であるにちがいないのだが、それを否定してくる障害者雇用の就労以降支援が目指すところはいったいなになのか。「どうせ死んでしまうのになんで生きているの」と「どうせ資格をとっても認められないのになぜ勉強は奨励されるの」も似ている。就労移行支援を受けて一週間の田中がはやくも陥っている空虚感の源泉はこんなかたちをしている。
この空虚を抜ける方法は、より本格的に就労移行支援を受けて実質本意を理解することであると同時に、WAIS-Ⅳが「動作性IQ/言語性IQ」という思考法を捨てた真意を理解することにもあるような気がしており、この点も近日中の調査課題となっている。
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