2022年6月22日水曜日
信じて託す――母が認知症(4)
亡き父の墓石には「絆」という一文字が刻まれている。父が亡くなったのは平成22年(2010年)のことで、「絆」はその当時の流行語であったと思う。ご近所付き合いがなくなった、とかその手の社会学的な問題が、当時のマスコミを賑わせていた。そこでキーワードとなった「絆」は、東日本大震災(2011年)を契機に、より大きなものになっていった。
私は、そんな流行語を墓石に刻むのは反対だった。実際に口にも出したはずだ。しかし、なにより母が望んだことだったので了承した。ふだん自分の意見をあまり言わない母が、珍しく強く主張したからだった。私には三十年も共に暮らした連れ合いを亡くすという感覚はわからないし、どうせ私が頻繁に墓参りに行くわけでもないし、母のために建てる墓なのだから、母の意見を通そうと思った。世間的には、喪主であり長男である私が建てた父の墓だったが、当時の私には墓を建てる費用を捻出する手立てもなく、実質母が建てた墓でもあった。
そんな父の十三回忌となる2022年、母は認知症となった。母が認知症、と気づいたとき、私がまず思ったのは、なによりも私自身の生活だった。私が生きていくことを優先しよう、と思った。もちろん医療や介護とつながり、母を支えていくことは必要であるし、重要な問題だった。しかし、同時に、私が潰れてはどうしようもない、と思ったのだ。そのとき、いちばん問題となるのは、やはりお金だった。
父が亡くなったころ、私の金銭感覚は壊れていて、しょっちゅうお金を使い果たし、なんかいつまでもお金を使えるなァと思っていたら、いつの間にかキャッシュカードでローンに手を出していたりした。親になんど泣きついて、ローンを返してもらったかしれない。いまはお金を使うことと言ったら競輪をやることくらいで、しぜんと貯金ができるくらいになったが、それでも母の生活まで支えるほどの金銭は、私の稼ぎではどうしようもなかった。
認知症とお金の問題を、母が認知症と気づいたその日から、猛然と調べた。単純な問題として、認知症患者自身がじぶんのキャッシュカードの暗証番号を忘れてしまう、という問題があるのだと知ると、私はすぐに母から暗証番号を聞き出した。聞きにくいことだったが、母がこの先安心して暮らせるように、母のお金の管理を私がしていくようにしていきたい、と伝えた。当然反対されるものかと思ったら、母は案外すんなりとその意見を受け止め、お願いしたい、と言われた。言われたことが、少しさみしかった。
だが、キャッシュカードの暗証番号を知っていたところで、母の預金を私が下ろして使うことは、たとえ母のための費用であっても、正確には犯罪であるらしかった。実際には目をつぶってやられていることらしいが、私は犯罪におびえながら暮らしていきたくはなかった。また、預金者が認知症であるとわかると、銀行は預金口座を凍結し、引き出すには成年後見人を立てて、ということになるらしかった。そんな面倒なこと、そしてそれを維持するにも多大な費用がかかる。銀行に母の認知症を気づかれる前に、別の仕組みを見つけなくてはならない。
ということで、話は「信託」にすぐに行き着いた。「信託」には銀行の金融商品としての「商事信託」と、また法律的な書面を家族間で交わして家族が金銭管理を行う「家族信託」とがある。まずは「商事信託」の相談に、母の口座のある銀行とは別の、信託銀行に相談に行った。老親の生活を見守る信託商品の説明を受け、これだ、と思ったが、タイミング的にその相談は、私が母の認知症的な側面に気づき、病院を1回受診し、認知症の検査の予約をとった、という段階でのことだった。
そのことを銀行員に伝えると、銀行員の顔色がくもった。「商事信託」の商品はたしかに、将来的な認知症の備えを目的とした商品だが、現在認知症でない人、を対象とする商品のため、手続きの間に医師から「認知症」という診断が下ってしまうと、その時点で「商事信託」は組めなくなるのだ。銀行員は「あと3ヶ月くらい早くご相談いただければ…」と残念そうに微笑み、私も微笑み返した。
しかし、微笑んではいられないと、信託銀行を出た足で、もう八王子の街を歩きながらスマホで、相談のメールを送ったのが、最終的にたどり着けた「家族信託」の仕組みのはじまりであった。メールの返信は翌日だったが、「家族信託」ならば認知症患者であっても組成することができ、ただそれは本人が仕組みを理解しうなづけるうちにやっておく必要がある、認知症は進行していくものだから、ほんの少しの手遅れということもあるので、早急に手続きを進めたほうが良い、というメールは、宣伝文句だったのかもしれないが、その通りだとしか思えなかった。
それからの日々は、猛スピードだった。最初の相談から「家族信託」の組成まで3ヶ月くらいかかったはずだ。宣伝みたくなるが、相談したのは「ファミトラ」という会社だ。最初の説明と面談には「ファミトラ」の人が家に来てくれた。弁護士の先生に会いに、六本木まで母を連れていく途中で、母は2回も転んだ。浅草の公証役場で、公正証書をつくってもらい、「家族信託」が成立した日、「ファミトラ」の人は雷門の前で記念撮影をしようと言い、そんなんと思ったが、送られてきたその日の写真を母はとても大切に飾っているようである。
正直ギリギリだったと思う。弁護士の前でよだれを垂らし、また幼児のようにしょっちゅう意識を他に向ける母に、意思があると認めてもらえるのか、どきどきしていた。しかし、まだ母は自分の名前が言え、生年月日が言え、弁護士の説明を聞いたあとで、わかりましたか?と質問されると、かすれた声で「子に、信じて、託す、信託」と言ったのだった。その瞬間、私が思い出したのが、父の墓に刻まれた「絆」という一文字のことだ。
読書の好きだった母らしい、信託とは信じて託すことである、という言葉を、私はずっと忘れない。
2022年5月22日日曜日
ワンダーランドカップ
かーぜーのワンダラン かーけーぬけーくー
スカタンスカタン
みどりにつつまれ まもられたせいち
ふたたびよみがえるーあさ めざめのときはいまーきた
かぜがーふくーときー ぎんいーろのかぜー はしるー
かーぜーのワンダラン かーけーぬけーくー
まくがあがるしゅんかん おーとーずれーるー
かーぜーのワンダラン つーかーめテイカチャン
ひかりはーじくーレーサー ま-わーれ
それがワーンダラーン
あさもやのなかーを はしりーつづけてる
かーぜをおいかけるすーがた とーおくでひとりみてーいた
かんせーいあーがるー たたかーいのちをー めざしー
かーぜーのワンダラン あーつーいバートルー
まいおーりたチャーンスを つかみとれー
ひーびーくジャンのね とどーけゴール
はてないゆめー みーちはーつーづーく
それがワーンダラーン
ウイーンヲーン
かーぜーのワンダラン かーけーぬけーくー
まくがあがるしゅんかん おーとーずれーるー
かーぜーのワンダラン つーかーめテイカチャン
ひかりはーじくーレーサー ま-わーれ
それがワーンダラーン
うつのみやけーいりーんー うつのみやけーいりーんー
2022年3月28日月曜日
福祉の波に乗りたい――母が認知症(3)
2022年3月25日
きのうのうちに、実家の近所のタクシー会社を予約し、また「寿司が食べたい」という母のために新宿の小田急地下で寿司を買って、夜中に実家に着いていた。8時にはタクシーに乗り、病院に行く。タクシーの運転手が、近所の細い道の途中で、「こんなとこでこんな時間にやるかね?」と、どうやら駐車違反の切符を切られている人を見つけた。切符を切っているのは警官ではなく、区に委託された目印の蛍光色のベストを着た老人だった。老人の朝は早い。
病院で行う検査は、「リハビリテーション科」「臨床心理検査」という名で予約されていた。臨床心理検査、という言葉をネットで調べると、認知症の記事よりも、発達障害に関するもののほうが多くヒットし、かつて自分が受けた「臨床心理検査」の内容が書いてあった。あの時とだいたい同じことをするらしい。と理解はした上で、では自分の時はどうだったのかといえば、覚えていない。なんとなく精神病院の部屋の雰囲気と、箱庭を使ってお人形さんごっこみたいなことをやらされた、ぼんやりとした記憶だけだった。
母は、自分が認知症という自覚はなく、これが認知症に関わる検査であるという自覚もないが、アタマに関する検査であることは了解しており、さいきんなんとなくアタマがおかしいという自覚はあるようなのだった。「検査をして、薬を決めてもらって、飲みたい」と言っている。そういう自覚があるのなら、あえて認知症という言葉を出さずとも、それでやって行けば良いのだ、と思った。検査はクローズで、私も見ることはできなかった。検査を終えて帰ってきた母に、どうだった?と聞くと、首をひねるジェスチュアをするだけで、なにも話さなかった。
私は私で、単独で部屋に呼ばれ、どのような経緯で今回の検査に至っているかを、またイチから説明した。ヒアリングをするナースは、とりたてて反応をすることなく、ひたすらメモをとっていた。母の検査結果の詳しいところは来週主治医より説明があるが、いちおうの説明としては、「よく転ぶ」という本人の主訴、腕の動きが悪いという身体面の結果、生活面については全て自分で行っているが、高次脳機能に障害がある、これが認知症であるのかどうかは、先生から聞いてください、というまあ順当な話だった。「病名がついていないので、きょうのところはこれを、高次脳機能障害と呼びます」と言うナースの言い方を記憶している。
家に帰って、買っておいた寿司を食べる。また、日野の我が家から担いできた炊飯器を、実家の壊れた炊飯器と交換し、使い方を説明した。先日、炊飯器の中で、メシのかたまりが、お湯の中に浮いているのを見つけたときはびっくりした。母に聞くと「ごはんを炊いているのよ」とあたりまえのように言う。炊飯器のスイッチは入っておらず、ボタンを押しても反応なしで、壊れていた。炊けているごはんを買ってきて、炊飯器の釜にぶち込んでおき、ときどきお湯を足して食べている?話を総合すると、そういうことになるようなのだが、いったいいつからそんなことになっていたのか不明であるのが、恐ろしい。母の手をかけてはいけない、と母の作る食事を食べたいと要求することもなくなっていた。今度からは、無理にでも作らせて、食べなくてはいけない。
午後、地域包括支援センターに出向く。午前中の病院で、書類を書いてもらう確約が得られたので、その結果を持っていくと、介護保険の申請の書類を記入しながら、介護保険の説明を受ける。今後、母の自宅に区から調査員が行って、介護保険の認定がその結果によってなされる。が、おそらく私の話を総合すると、母が「要介護」に認定される可能性は低く、「要支援」であるか、もしくは「非該当」の可能性も結構あるという。そんなに認知症の山は高いのかと驚く。
ネットで読んだ、介護保険のサービスを使いたいのに「非該当」になってしまったという話、を地域包括支援センターにすると、非該当なら非該当で、「一般介護予防事業」という仕組みを使えば、介護保険と同じように、福祉サービスを1割負担で利用できる、という話で安心した。どういう福祉を使うかはこれから考えていくとして、親子が離れて暮らしているのだから余計、週一回なにかの福祉を使うことで、見てもらうというのは重要、という地域包括支援センターの言葉は、私の考えと全く同じで、ほんとうによかった。認定調査の日程調整は、区から私のところに連絡があるはずだが、その連絡があったら地域包括支援センターにも連絡してほしい、とのこと。そうしたら当日は地域包括支援センターも同席してくれて、調査の後直接本人にサービスのおすすめをやってくれるという。
その帰り道、よろず相談所にも立ち寄る。病院の検査に間に合うように、きのう電話をくれて、これまでの見守りの履歴を教えてくれる、という約束だったのに、きのう電話がなかったため、こちらもアポも取らずに突撃する。よろず相談所には区の看板がついていたが、プレハブ小屋だった。引き戸をあけ玄関先で挨拶をすると、「声で思い出した」と先日の女の声が叫んだ。きのうお電話を頂戴できるという話だったんですが、と紳士的にお尋ねすると、さいきん晴れたり雨が降ったりという話から、駅前のスーパーの話、公園で遊んでいる子供の話、きょうは学校は終業式です、などのよろず相談をされ、話をはぐらかしてまーす、という調子で、話をはぐらかされた。
母には介護保険のサービスを利用することになりそうだ、という話をよろず相談所にすると、よろず相談所は「そういえば、まだお熱を測っていただいてなかったですよね」と私の額に体温計をあて、その結果は38.6度で、「きょうは晴れてますからねえ」とよろず相談所は言い、なんどもなんども私の体温を測定するが、何時までたっても体温は38度を超えていて、ざまあ、と私は思ったが、よろず相談所は「訪問者の体温」という帳面を取り出し私に記名させると、その体温の欄に「36.2」と記載して、帳面をしまった。
私の体温はどうでもいいので、介護保険の話を強引に続けると、よろず相談所はとつぜん「非該当ですよう!あなたのお母さんは非該当!私は反対よ!ヘルパーなんてまだ早い!」と叫んだので、おどろいた。そこで私は、またイチから母の様子がおかしいと気づいた時からの話をするが、「そんなことありませんよ!」とよろず相談所はなぜか強気である。「じゃあ、オタクはウチの母の何を見たんです!」といよいよこちらもヒートアップよろず相談所。
すると、よろず相談所は言った。「こないだお母さまを訪問したのは、去年の秋!電話の調子がおかしいから見て欲しいと言われて、お宅に上がらしてもらいました!新鮮なおみかんを買ってらっしゃいますぅ!ちゃんと!電話はアタシよくわからないので、NTTさんにつなぎましたぁ!ええ!つなぎましたッ!なにか回線の調子がよくなかったらしくて、電話線の部品を交換してもらったんです!」という。いや、母はそのころから急激に難聴になり、だから私は音量調節のできる新しい電話機を買い、難聴者用の電話拡声器を付けたのだが、そんな話をよろず相談所にしても通じなさそうだったので、その話はしなかった。「だいじょうぶ!新鮮なおみかんを買ってらっしゃいますぅ!ちゃんと!」と新鮮なおみかんの話を、よろず相談所は3回繰り返した。
よろず相談所も区の施設なので、介護保険を使うようになると、ケアプランの会議なんかで顔を出すことになるらしい。げーと思った。認定調査の日も立ち会いたい、とよろず相談所も言ってきたので、丁重にお断りした。しかし、よろず相談所の主張でなるほどと思ったのは、「介護サービスを入れることで、外にでなくていい環境をつくってしまうと、逆効果ですョ!」という話で、それはたしかにそうである。よろず相談所主催の、老人体操教室のパンフレットをもらって、帰宅する。
きのうのうちに、実家の近所のタクシー会社を予約し、また「寿司が食べたい」という母のために新宿の小田急地下で寿司を買って、夜中に実家に着いていた。8時にはタクシーに乗り、病院に行く。タクシーの運転手が、近所の細い道の途中で、「こんなとこでこんな時間にやるかね?」と、どうやら駐車違反の切符を切られている人を見つけた。切符を切っているのは警官ではなく、区に委託された目印の蛍光色のベストを着た老人だった。老人の朝は早い。
病院で行う検査は、「リハビリテーション科」「臨床心理検査」という名で予約されていた。臨床心理検査、という言葉をネットで調べると、認知症の記事よりも、発達障害に関するもののほうが多くヒットし、かつて自分が受けた「臨床心理検査」の内容が書いてあった。あの時とだいたい同じことをするらしい。と理解はした上で、では自分の時はどうだったのかといえば、覚えていない。なんとなく精神病院の部屋の雰囲気と、箱庭を使ってお人形さんごっこみたいなことをやらされた、ぼんやりとした記憶だけだった。
母は、自分が認知症という自覚はなく、これが認知症に関わる検査であるという自覚もないが、アタマに関する検査であることは了解しており、さいきんなんとなくアタマがおかしいという自覚はあるようなのだった。「検査をして、薬を決めてもらって、飲みたい」と言っている。そういう自覚があるのなら、あえて認知症という言葉を出さずとも、それでやって行けば良いのだ、と思った。検査はクローズで、私も見ることはできなかった。検査を終えて帰ってきた母に、どうだった?と聞くと、首をひねるジェスチュアをするだけで、なにも話さなかった。
私は私で、単独で部屋に呼ばれ、どのような経緯で今回の検査に至っているかを、またイチから説明した。ヒアリングをするナースは、とりたてて反応をすることなく、ひたすらメモをとっていた。母の検査結果の詳しいところは来週主治医より説明があるが、いちおうの説明としては、「よく転ぶ」という本人の主訴、腕の動きが悪いという身体面の結果、生活面については全て自分で行っているが、高次脳機能に障害がある、これが認知症であるのかどうかは、先生から聞いてください、というまあ順当な話だった。「病名がついていないので、きょうのところはこれを、高次脳機能障害と呼びます」と言うナースの言い方を記憶している。
家に帰って、買っておいた寿司を食べる。また、日野の我が家から担いできた炊飯器を、実家の壊れた炊飯器と交換し、使い方を説明した。先日、炊飯器の中で、メシのかたまりが、お湯の中に浮いているのを見つけたときはびっくりした。母に聞くと「ごはんを炊いているのよ」とあたりまえのように言う。炊飯器のスイッチは入っておらず、ボタンを押しても反応なしで、壊れていた。炊けているごはんを買ってきて、炊飯器の釜にぶち込んでおき、ときどきお湯を足して食べている?話を総合すると、そういうことになるようなのだが、いったいいつからそんなことになっていたのか不明であるのが、恐ろしい。母の手をかけてはいけない、と母の作る食事を食べたいと要求することもなくなっていた。今度からは、無理にでも作らせて、食べなくてはいけない。
午後、地域包括支援センターに出向く。午前中の病院で、書類を書いてもらう確約が得られたので、その結果を持っていくと、介護保険の申請の書類を記入しながら、介護保険の説明を受ける。今後、母の自宅に区から調査員が行って、介護保険の認定がその結果によってなされる。が、おそらく私の話を総合すると、母が「要介護」に認定される可能性は低く、「要支援」であるか、もしくは「非該当」の可能性も結構あるという。そんなに認知症の山は高いのかと驚く。
ネットで読んだ、介護保険のサービスを使いたいのに「非該当」になってしまったという話、を地域包括支援センターにすると、非該当なら非該当で、「一般介護予防事業」という仕組みを使えば、介護保険と同じように、福祉サービスを1割負担で利用できる、という話で安心した。どういう福祉を使うかはこれから考えていくとして、親子が離れて暮らしているのだから余計、週一回なにかの福祉を使うことで、見てもらうというのは重要、という地域包括支援センターの言葉は、私の考えと全く同じで、ほんとうによかった。認定調査の日程調整は、区から私のところに連絡があるはずだが、その連絡があったら地域包括支援センターにも連絡してほしい、とのこと。そうしたら当日は地域包括支援センターも同席してくれて、調査の後直接本人にサービスのおすすめをやってくれるという。
その帰り道、よろず相談所にも立ち寄る。病院の検査に間に合うように、きのう電話をくれて、これまでの見守りの履歴を教えてくれる、という約束だったのに、きのう電話がなかったため、こちらもアポも取らずに突撃する。よろず相談所には区の看板がついていたが、プレハブ小屋だった。引き戸をあけ玄関先で挨拶をすると、「声で思い出した」と先日の女の声が叫んだ。きのうお電話を頂戴できるという話だったんですが、と紳士的にお尋ねすると、さいきん晴れたり雨が降ったりという話から、駅前のスーパーの話、公園で遊んでいる子供の話、きょうは学校は終業式です、などのよろず相談をされ、話をはぐらかしてまーす、という調子で、話をはぐらかされた。
母には介護保険のサービスを利用することになりそうだ、という話をよろず相談所にすると、よろず相談所は「そういえば、まだお熱を測っていただいてなかったですよね」と私の額に体温計をあて、その結果は38.6度で、「きょうは晴れてますからねえ」とよろず相談所は言い、なんどもなんども私の体温を測定するが、何時までたっても体温は38度を超えていて、ざまあ、と私は思ったが、よろず相談所は「訪問者の体温」という帳面を取り出し私に記名させると、その体温の欄に「36.2」と記載して、帳面をしまった。
私の体温はどうでもいいので、介護保険の話を強引に続けると、よろず相談所はとつぜん「非該当ですよう!あなたのお母さんは非該当!私は反対よ!ヘルパーなんてまだ早い!」と叫んだので、おどろいた。そこで私は、またイチから母の様子がおかしいと気づいた時からの話をするが、「そんなことありませんよ!」とよろず相談所はなぜか強気である。「じゃあ、オタクはウチの母の何を見たんです!」といよいよこちらもヒートアップよろず相談所。
すると、よろず相談所は言った。「こないだお母さまを訪問したのは、去年の秋!電話の調子がおかしいから見て欲しいと言われて、お宅に上がらしてもらいました!新鮮なおみかんを買ってらっしゃいますぅ!ちゃんと!電話はアタシよくわからないので、NTTさんにつなぎましたぁ!ええ!つなぎましたッ!なにか回線の調子がよくなかったらしくて、電話線の部品を交換してもらったんです!」という。いや、母はそのころから急激に難聴になり、だから私は音量調節のできる新しい電話機を買い、難聴者用の電話拡声器を付けたのだが、そんな話をよろず相談所にしても通じなさそうだったので、その話はしなかった。「だいじょうぶ!新鮮なおみかんを買ってらっしゃいますぅ!ちゃんと!」と新鮮なおみかんの話を、よろず相談所は3回繰り返した。
よろず相談所も区の施設なので、介護保険を使うようになると、ケアプランの会議なんかで顔を出すことになるらしい。げーと思った。認定調査の日も立ち会いたい、とよろず相談所も言ってきたので、丁重にお断りした。しかし、よろず相談所の主張でなるほどと思ったのは、「介護サービスを入れることで、外にでなくていい環境をつくってしまうと、逆効果ですョ!」という話で、それはたしかにそうである。よろず相談所主催の、老人体操教室のパンフレットをもらって、帰宅する。
2022年3月27日日曜日
傷は治っても――母が認知症(2)
2022年3月18日
きょうは私は南平でテレワーク。仕事を終えて、すぐ江戸川区に向かう。明日の母通院(救急外来・傷の様子見)が早い時間のため。自分が付き添う必要があるのを忘れて、朝一番がいい、とかおかしな注文をしてしまった。実家に着くと、母は、病院の指示通りに傷口のシートを貼らず、家にある絆創膏を貼っていたのでケンカになる。しかし、傷口のシートの使い方なんか、私も知らない。母が医師からの指示をうなづいて聞いていたので、私が覚える意味はないと、聞いていなかった。馬鹿かと。病院の救急外来は24時間つながるというので、夜中に電話をかけて、看護婦さんに貼り方を習う。こりゃあもう老老介護、いや認認介護の世界である。
母はこの日、明日の通院をきょうと勘違いして、私がいつまで経っても連れて行きに来ないから、ひとりでタクシーをつかまえて、病院まで行ったのだという。受付で、明日ですね、と言われて、またタクシーに乗り、家に帰ってきたとのこと。そんなおかしなことがおこっていたとは。カレンダーも理解できなくなっているのだ。
どうして電話してこないの?というと、母は、私は仕事に行ったのだろうと、会社に電話したが繋がらなかった、という。私は母が倒れたりして、家に誰かが救助に来た時用に、実家の壁に、私の勤務先の電話番号を貼ってあったが、その電話は9時から18時までしか繋がらず、それ以外の時間は私の会社は電話線を切っているのである。こんな会社の電話なんか別にいらないねと、紙をはがして捨てた。私のスマホの電話番号の紙も、同じところに貼ってあるが、母は直接私のところにはかけたくないらしい。しかし、今後はもう、この電話しかあなたは私には連絡できません、と宣言しておいた。
台所にマクドナルドのハンバーガーが、先日からずっと置いてある。母にいつ買ったのかと聞くと、「マックのポテト再開の次の日に買いに行ったのよ」と言う。そのニュースをスマホで調べて計算するに、2022年2月8日に買った、ということになる。そんなことはあるだろうか?マックはほんとうに腐らないのだろうか?いや、私は2022年3月5日に実家に帰っているが、そのときはなかったはずである。一口食べてみると、うまいが、気味が悪くて捨てた。
2022年3月19日
朝9時に病院の予約をとってあったが、8時過ぎに病院に着くとすぐに救急外来に案内され、9時前に傷の様子見は終わり、9時半には家に帰っていた。傷の治りはまあ順当で、きのう夜中に貼ったシートは剥がされ、新しいものに貼替え。今後の貼り直し方の再指導があり、今度は私は理解したが、母には無理のようだった。救急外来にくる必要はもうないと言われる。傷の様子がどうしてもおかしいようなら、今後は脳神経内科の診察のあるときに、相談に寄ってください、と言われる。そのとき、そういうことなら傷のシートはもういいだろう。勝手に絆創膏でもテキトーに貼っておけば良い。と思った。あごが一生紫色だろうが、手の甲の皮膚がなかろうが、生きていればいいじゃないか。ということにしよう。
(実際、このあと、医師の指導通りに、シートを貼り直す計画を一応立てたが、母は理解せず、後日、私がまた帰ったときに貼ってやったシートは、数時間後、風呂に入る際に剥がした。シートは防水で、剥がそうとしなければ剥がれない。終了。まあ実際、シートなんか貼らずとも、傷は治ってきている。母は、生きているからである。)
病院に半日は掛かると思ったが、すぐに帰宅となったので、私は自室にこもり、各地に電話相談をした。まずは、区のホームページに書いてあった、江戸川区認知症ホットライン。「母はどうも認知症であり、来週金曜日に詳しい検査、その次の週の木曜日に医師から検査結果の伝達があるが、まあどうも初診の感じで認知症であるのですが、区のどういう制度があるのか知りたいんですけど」という初心者っぽい質問をすると、「そういうことなら、まずは介護保険の申請をして、認定まで行くところから、ということになります」ということであった。なにせ介護保険の仕組みを使っていくことになるらしいことがわかった。
介護保険の申請ということになると、地域包括支援センターに電話してください、との案内で、地域包括支援センターに電話をかけると、「いまさっき認知症ホットラインに電話されていた方ですね?」と言われ、情報がすぐに共有されてあった。もう一度同じ説明をせずに済んで、よかった。「来週金曜日に検査があるんですよね?そのとき病院に行ったら、先生に書類を書いてもらえるかを確認してください。OKと言われたら、その足で来週金曜日にウチに来てください。申請をしましょう」とぐんぐん話が進んでいき、安心する。
母が救急車で運ばれた際、私のところに電話が来たのは、母がつけていた江戸川区の「みまもりふだ」をつけていたおかげである。その「みまもりふだ」の管轄である、江戸川区のよろず相談所にも電話して、お礼を言う。よろず相談所は、地域の高齢者の家を時々訪問する活動もしているらしく、ちょうど母と数ヶ月ごとに話しているという活動員が電話に出ており、「救急車で運ばれたと聞いたから、それはびっくりしたんですよ」、と言われる。その言い方が、なんだか癪だった。
まあこっちが救急車のときのお礼で電話しているんだからそういう話になるのだが、救急車はもういいんである。それはそうと認知症について病院で相談したんですよ。あなたは数ヶ月ごとに母とあっていたのならば、母の様子がおかしいということには気づかなかったのか、という疑問を、そんな強い調子でなく、質問した。すると活動員は、母のことで覚えていることを脈略なく次々と語りだす。それは世間話の内容などで、あまり意味が感じられない、井戸端会議の議事録だった。この人とは、話が合わない。ということが、世の中にはある。
そうだ議事録。訪問しているのならその際の記録をとっているんだろうから、それを開示して欲しい、と私は言った。「時系列にまとめるのに時間がかかるから、来週の金曜日にその記録を病院で説明する必要も出るかもしれないし、来週木曜日にこちらから電話して、報告しますね」と言ってもらえて、いちおう安心した。のだったが、その電話はなんと、かかってこなかったのである――
2022年3月20日日曜日
母が認知症
2022年3月16日
私のスマホには、知らないところからしか電話がかかってこない。それは知っている人間が、母しかいないからだ。電話がかかってくると、記録が残っている電話番号をネットで調べる。すると迷惑電話の噂に必ずヒットするので、その電話番号をブロックする。それがいつもの手順だった。しかし、仕事中にしつこくかかってきていた電話番号を、仕事を終えたあと、酒を飲みながら調べると、母が一人暮らししている実家の近所の総合病院だった。すぐに病院に電話をかける。母の生年月日を伝え、お世話になっていないか、と尋ねてもどうも要領を得ない。実家に電話をかけるが、つながらない。すぐに実家に向かうため、京王線に飛び乗る。行きがてら、会社の上司にメールをして、翌日の休暇を申請。高幡不動で、各駅停車から急行に乗り換える頃、上司から電話をもらった。
実家に着いたのは夜の9時ころだった。母はベッドで寝ていたが、顔に包帯を巻き、また右手に巻いた包帯は、血で真っ赤に染まっていた。母を起こし、事情を聴く。近所で転び、起き上がることができず、知らない奥さんが救急車を呼んでくれ、病院に運ばれたという。病院で、傷の治療と、頭の検査をしたが、大したことがないので、病院の近所でタクシーをつかまえ、帰ってきた、という。それはそうと、手が真っ赤だよ、というと、自分の手でないように、驚いていた。包帯なんかウチにないので、近所に買いに行く。セブンイレブンで、包帯ってありますかね、と聞くと、これなら、と巻くだけなんとか、という商品名の、テープを貼らずに包帯がくっつく、という商品があり、それを貰いつつ、そんなふざけた商品で傷が悪くなったらどうするんやと、22時で閉まる直前のドラッグストアで、白衣を着ている店員をつかまえ、転んで救急車で運ばれて、というところから、傷の大きさや状態までを全部話すと、では、このまくだけなんとかっていうのが、とまくだけなんとかをすすめられたので、まくだけなんとかを3つ買って帰る。
母は自分のことを、息子である私に、まったく話さない。母が乳がんで入院手術をして、抗癌剤治療の通院をおこなっている、とわかったのは、父が肺がんで死んだその日の夜のことだった。今回の転倒も、これで4回目だという。4回とも救急車で運ばれていたのである。では、なぜ今回だけ私のところに病院から電話があったのかといえば、母が自分で区の高齢者見守りサービスに登録しており、その見守りキーホルダーというのをつけていたので、その名札の番号から、区が緊急連絡先として指定されていた私のところに電話があったのだった。手が真っ赤であった当時は、もうそれが心配で心配で、焦っていたが、今になって振り返れば、傷はあくまで傷であり、まあたいしたことないと言えばたいしたことはない。問題は、大事があっても電話をしてこない母の神経の問題であり、それは性格に過ぎないとしても、このところの母はおかしかった。これを機会に、病院にきちんと相談しよう。母は、認知症なのではないか、と。
2022年3月17日
病院に付き添う。まずは救急外来で、傷の様子をみてもらう。包帯を巻き直して、治療は直ぐに終わった。が、受付で、事情を説明してみると、午後に神経内科の診察がある日だから、そこで、転んで頭を打っているから、頭の中も見てもらいましょう、ということにして、相談をしてみたらどうかしら、と非常にスムーズに話が進んだ。実際に、転んだ昨日、CTの検査も受けているので、タイミングとしては申し分ない。病院の近くのイオンで時間を潰して、午後の診察を待った。診察室に入るように言われて、進む母を制止し、看護婦にまずは付き添いの私から相談させてもらえないか、と小声で話すと、そんなことはよくあるという感じで、奥から医師が、どうぞ先付き添いの方お話ききまーす、と明るい声がして、安心した。
私と母は、あまり仲が良くなく、私が発達障害ということもあるのか、すぐ喧嘩になってしまうので、お互いに離れて暮らしたほうが都合が良いと、私が実家に帰るのは、年に一回くらいでした。2022年の正月帰省した、その前の帰省は2021年のゴールデンウイークでした。その時はなんともなかったんですが、2022年の正月、まあこれもやりとりはなんともなかったのですが、ただ一点だけ奇妙なことが起こったのです。それは夕食の時、私と母しかいないのに、母は皿を5枚持ってきて、テーブルに並べたのです。私がそれを指摘すると、母は、みんなで使ったらいいじゃない、と言いました。それは、とても不気味で、私はこれから月一回くらいは様子を見に来よう、と決めたのでした。そのとき、私はスマホに、母の様子をメモることを始め、その表紙に、母の生年月日をメモっていました。昨日、病院から母の生年月日を尋ねられたとき、すらっと言えたのはそのためです。1938年11月26日。
2022年2月も、月の初めの週末に帰省しましたが、そのときも同じように、夕食の際、母は、空の皿をたくさん並べていました。私は、母が区の絵画教室に行っていることを知っていたので、そういう場所で休憩時間に皿をさっと並べて、気を遣うことが癖になっているのかな?と思うことにしました。しかし、また帰省となった3月の5日、その夕食の時、どうして皿を並べるのか、母にまた尋ねると、母は言ったのです。陽子さんも信子さんも、食べたいって言うから、出してるのに、ひょっと見ると、いなくなっちゃうんだもの、と。陽子さんや信子さんは、母の妹の名前ですが、陽子さんも信子さんもすでに亡くなっています。ホラー映画のようなことが、母には起こっているのでした。
その食事の際には、こんなことも聞きました。先日、玄関で鍵がなくなってしまって、困ってお隣さんに助けてもらったことがあったのよ。お隣さんがどんな人なのかも私は知りませんでしたが、すぐにお隣さんを訪ねて、聞いてみると、その母よりも2つ年が上だという老婦人、いつからお隣さんになったのか知らないですが、私は実家を離れてもう20年も経っているので、そういうこともあるのでした。老婦人は言いました。ああ、こないだ、鍵をなくしちゃったって言うから、どうしようかねって、あなたのうちのドアを見たらね、鍵穴と反対側の溝に鍵が刺さっていてね、ここにあるじゃないって言ったら、あらなんでこんなところに、って驚いていましたよ、年をとるといろんなことがあるから、あわてちゃあダメよねって、笑ったわ、って、それは笑い事ではありません。どこにどうやってなんと相談したらいいんだろう、とこのところずっと考えていたのですが、その矢先に、母がこうして救急車で運ばれまして、
そのように、事情を私が立て続けに話すのを聴き続けた医師は、頷き、まあレビーかアルツハイマーか、どっちかって気はするよね、と言った。そして、母を診察するといい、母が診察室に入ってくると、医師は老人用の声色と声量になり、はい、では今日は何日か言ってください、と言ったが母は日付を覚えていなかった。でもまあ、私も咄嗟に日付を聞かれても言えないこともあるだろう。はい、では今年は、2せん何年ですか、という質問に母は、2026年と答えた。では、令和何年ですか、と聞かれると、レイワってなんですか、と母は言って、診察は終了となった。認知機能の検査をすることになった。またその日は私も、母のこれまでの様子の聞き取り調査をされることになっている。こうして母の認知症との戦いは、幕を開けたのだった。
私のスマホには、知らないところからしか電話がかかってこない。それは知っている人間が、母しかいないからだ。電話がかかってくると、記録が残っている電話番号をネットで調べる。すると迷惑電話の噂に必ずヒットするので、その電話番号をブロックする。それがいつもの手順だった。しかし、仕事中にしつこくかかってきていた電話番号を、仕事を終えたあと、酒を飲みながら調べると、母が一人暮らししている実家の近所の総合病院だった。すぐに病院に電話をかける。母の生年月日を伝え、お世話になっていないか、と尋ねてもどうも要領を得ない。実家に電話をかけるが、つながらない。すぐに実家に向かうため、京王線に飛び乗る。行きがてら、会社の上司にメールをして、翌日の休暇を申請。高幡不動で、各駅停車から急行に乗り換える頃、上司から電話をもらった。
実家に着いたのは夜の9時ころだった。母はベッドで寝ていたが、顔に包帯を巻き、また右手に巻いた包帯は、血で真っ赤に染まっていた。母を起こし、事情を聴く。近所で転び、起き上がることができず、知らない奥さんが救急車を呼んでくれ、病院に運ばれたという。病院で、傷の治療と、頭の検査をしたが、大したことがないので、病院の近所でタクシーをつかまえ、帰ってきた、という。それはそうと、手が真っ赤だよ、というと、自分の手でないように、驚いていた。包帯なんかウチにないので、近所に買いに行く。セブンイレブンで、包帯ってありますかね、と聞くと、これなら、と巻くだけなんとか、という商品名の、テープを貼らずに包帯がくっつく、という商品があり、それを貰いつつ、そんなふざけた商品で傷が悪くなったらどうするんやと、22時で閉まる直前のドラッグストアで、白衣を着ている店員をつかまえ、転んで救急車で運ばれて、というところから、傷の大きさや状態までを全部話すと、では、このまくだけなんとかっていうのが、とまくだけなんとかをすすめられたので、まくだけなんとかを3つ買って帰る。
母は自分のことを、息子である私に、まったく話さない。母が乳がんで入院手術をして、抗癌剤治療の通院をおこなっている、とわかったのは、父が肺がんで死んだその日の夜のことだった。今回の転倒も、これで4回目だという。4回とも救急車で運ばれていたのである。では、なぜ今回だけ私のところに病院から電話があったのかといえば、母が自分で区の高齢者見守りサービスに登録しており、その見守りキーホルダーというのをつけていたので、その名札の番号から、区が緊急連絡先として指定されていた私のところに電話があったのだった。手が真っ赤であった当時は、もうそれが心配で心配で、焦っていたが、今になって振り返れば、傷はあくまで傷であり、まあたいしたことないと言えばたいしたことはない。問題は、大事があっても電話をしてこない母の神経の問題であり、それは性格に過ぎないとしても、このところの母はおかしかった。これを機会に、病院にきちんと相談しよう。母は、認知症なのではないか、と。
2022年3月17日
病院に付き添う。まずは救急外来で、傷の様子をみてもらう。包帯を巻き直して、治療は直ぐに終わった。が、受付で、事情を説明してみると、午後に神経内科の診察がある日だから、そこで、転んで頭を打っているから、頭の中も見てもらいましょう、ということにして、相談をしてみたらどうかしら、と非常にスムーズに話が進んだ。実際に、転んだ昨日、CTの検査も受けているので、タイミングとしては申し分ない。病院の近くのイオンで時間を潰して、午後の診察を待った。診察室に入るように言われて、進む母を制止し、看護婦にまずは付き添いの私から相談させてもらえないか、と小声で話すと、そんなことはよくあるという感じで、奥から医師が、どうぞ先付き添いの方お話ききまーす、と明るい声がして、安心した。
私と母は、あまり仲が良くなく、私が発達障害ということもあるのか、すぐ喧嘩になってしまうので、お互いに離れて暮らしたほうが都合が良いと、私が実家に帰るのは、年に一回くらいでした。2022年の正月帰省した、その前の帰省は2021年のゴールデンウイークでした。その時はなんともなかったんですが、2022年の正月、まあこれもやりとりはなんともなかったのですが、ただ一点だけ奇妙なことが起こったのです。それは夕食の時、私と母しかいないのに、母は皿を5枚持ってきて、テーブルに並べたのです。私がそれを指摘すると、母は、みんなで使ったらいいじゃない、と言いました。それは、とても不気味で、私はこれから月一回くらいは様子を見に来よう、と決めたのでした。そのとき、私はスマホに、母の様子をメモることを始め、その表紙に、母の生年月日をメモっていました。昨日、病院から母の生年月日を尋ねられたとき、すらっと言えたのはそのためです。1938年11月26日。
2022年2月も、月の初めの週末に帰省しましたが、そのときも同じように、夕食の際、母は、空の皿をたくさん並べていました。私は、母が区の絵画教室に行っていることを知っていたので、そういう場所で休憩時間に皿をさっと並べて、気を遣うことが癖になっているのかな?と思うことにしました。しかし、また帰省となった3月の5日、その夕食の時、どうして皿を並べるのか、母にまた尋ねると、母は言ったのです。陽子さんも信子さんも、食べたいって言うから、出してるのに、ひょっと見ると、いなくなっちゃうんだもの、と。陽子さんや信子さんは、母の妹の名前ですが、陽子さんも信子さんもすでに亡くなっています。ホラー映画のようなことが、母には起こっているのでした。
その食事の際には、こんなことも聞きました。先日、玄関で鍵がなくなってしまって、困ってお隣さんに助けてもらったことがあったのよ。お隣さんがどんな人なのかも私は知りませんでしたが、すぐにお隣さんを訪ねて、聞いてみると、その母よりも2つ年が上だという老婦人、いつからお隣さんになったのか知らないですが、私は実家を離れてもう20年も経っているので、そういうこともあるのでした。老婦人は言いました。ああ、こないだ、鍵をなくしちゃったって言うから、どうしようかねって、あなたのうちのドアを見たらね、鍵穴と反対側の溝に鍵が刺さっていてね、ここにあるじゃないって言ったら、あらなんでこんなところに、って驚いていましたよ、年をとるといろんなことがあるから、あわてちゃあダメよねって、笑ったわ、って、それは笑い事ではありません。どこにどうやってなんと相談したらいいんだろう、とこのところずっと考えていたのですが、その矢先に、母がこうして救急車で運ばれまして、
そのように、事情を私が立て続けに話すのを聴き続けた医師は、頷き、まあレビーかアルツハイマーか、どっちかって気はするよね、と言った。そして、母を診察するといい、母が診察室に入ってくると、医師は老人用の声色と声量になり、はい、では今日は何日か言ってください、と言ったが母は日付を覚えていなかった。でもまあ、私も咄嗟に日付を聞かれても言えないこともあるだろう。はい、では今年は、2せん何年ですか、という質問に母は、2026年と答えた。では、令和何年ですか、と聞かれると、レイワってなんですか、と母は言って、診察は終了となった。認知機能の検査をすることになった。またその日は私も、母のこれまでの様子の聞き取り調査をされることになっている。こうして母の認知症との戦いは、幕を開けたのだった。
2021年10月27日水曜日
発達障害と障害年金
いまの職場に、障害者雇用で採ってもらって、3年目がはじまっている。今週は年に一度の健康診断があり、インフルエンザの予防接種もうけた。今年の冬は、インフルエンザウイルスと新型コロナウイルスの同時流行という見立てが強いようだ。みなさんもお身体を大切になさってください。
さて、障害者雇用について、久しぶりに話したい。発達障害というのは、実は自分でもよくわからないのだ。しかしまァ、それまで仕事がうまくいかなかったのは事実だし、失業のたびになんどもウツの沼に飲み込まれ、発達障害の検査を受けて晴れて発達障害となったのだから、誰にも文句は言わせないのである。だが、診断に安心した反面で、当初は自分でも納得が行かなかった。それが証拠に、前職はいわゆる「クローズ」(発達障害を公言せず)で就業し、やはり仕事がうまくいかなくなって、「実は発達障害なんですよ、ごめんなさいね」と言って、ばっくれたのだった。
もう障害者雇用の職に就くしかない、となったとき、田中がこだわったのは、きちんと生活していけるだけのマネーをどのように得るか、ということだった。やりたいこととは別に、障害者雇用の給料の良さで、いまの会社を選んだのはまぎれもない事実である。おまけに誰にも邪魔はされないし、昇進なんてことも考えなくてよく、電話を取る必要もないのだから、障害者雇用というのはありがたい。しかし、それでも初任給以下の給与で、一体どうやって生きていくんでしょう、ということで、田中は「障害年金がもらえなければ、障害者雇用はあきらめる」という方針で、職探しよりもまっさきに、障害年金の手続きをとったのだった。
いま、田中が障害者雇用で就業しているということは、田中は障害年金をもらっているのである。1ヶ月55000円。これは大きい。京王線南平駅の近所の、つまりは線路沿いの、電車が通るたびに轟音がする貧民窟のようなアパートメントに暮らせば、障害年金だけで家賃と光熱費はまかなえ、給与は食費と貯金にまわせるのである。貯金は、また失業した時のセーフティーネット、だと思っている。が、できれば、いまの職場を失わずに死にたい。障害者雇用は1年更新だが、原則70歳まで雇用してもらえるという契約でやっている。
発達障害者と障害年金について、それをお商売とする業者の、さまざまな文言が、インターネットに無数に漂っているが、田中の経験上、最初の手続き時の書類揃えをきっちりやること、が一番重要なようである。はじめて精神科にかかったのはいつ・どこかを証明するのが、いちばん手間なようであり、また書類を精神科医に丁寧に細かく書いてもらうことも必要らしい。田中は、障害年金を専門とする行政書士の先生を見つけて、依頼した。業者によっては、べらぼうな高額の手数料をとり、手続きは指示をするだけで、実際にはやってくれないというのも多く存在していると聞くが、田中は良い先生にめぐりあった。書類揃えも精神科への書類の書き直し依頼も、全部やってくれて、手数料は障害年金がもらえてから、その初回入金分だけください、というシステムだった。
それにしても、障害年金がもらえなくなったら、どうやって生活していきましょうか、ということはよく考える。そのうち、副業がOKになったら、田中はまっさきに副業に取り掛かるだろう、なにかはわからないが。
このたび、障害年金の更新の時期が来て、いま通っている精神科に、更新するための書類を作成してもらったら、とんでもない殴り書きで、こりゃ終わったわ、と思ったものだったが、きちんと更新されて、次の更新は4年後です、というハガキがきょう、日本年金機構から届いた。そりゃ発達障害者であることに変わりはないのだから、もらえなくなるほうがおかしいが、それでも初回の丁寧な書類と比べると、どうみても投げやりな書類をみて、これじゃあ通らないんじゃないか、と思ったがフツーに通った。精神障害の障害年金の更新は難しい、という文言も各地で見るのだが、発達障害はまた別なのだろうか? もしくは「難しい」というのも業者の宣伝文句だろうか? 90パーセント以上は更新される、というデータも見たが、このあたりは田中にはどれが正解かわからない。
2021年10月24日日曜日
競輪場とディスタンス
西暦2021年の秋、感染拡大がはじまって一年半となる新型コロナウイルスの勢いが弱まり、緊急事態宣言も解除された。土曜日の京王閣競輪場はよく晴れて、久しぶりに太陽の光を浴びた。弥彦親王杯の準決勝場外売りと本場開催が重なり、入場者数制限5000人が設定されていたが、入場できない人が出ることはなく、競輪場はガラガラだった。ソーシャルディスタンス。入口で手指消毒と体温計測をして入場する。一度も座れたことのない、売店のテーブルにも人は少なく、名物というモツ煮込みの定食をはじめて食べたが、生ぬるく、もう食べることはないだろう。併売の競輪場は、本場のレースと場外のレースがほとんど同時に行われて、いそがしい。本場のゴールを見届けて、場外の中継テレビに移動すると、場外はすでに赤板を迎えているくらいだ。もう少しずらせばいいのに、と競輪ファンは常に言っているが、一向に改善されない。
競輪場に行くと、知らないおじさんが話しかけてくる。これは間違いないので、競輪場に行ったことのない人は、一度行ってみるといい。競輪場は、誰とも話すことのない淋しいおじさんのたまり場であるから、誰でもいいから話がしたいというおじさんが集まっているのだ。喫煙所のベンチでタバコを吸っていると、知らないおじさんがいつの間にか目の前に立っており、「弥彦は難しくてダメだネ」と話しかけてきた。「筋違いばっかりだネ」と返すと、「ああ、だけど本場の5車立てでも当たらないんだから、どうしようもないよネ」とおじさんは笑った。あいまいに微笑み返すと、おじさんはタバコを消して立ち去った。久しぶりに人間と話すと、心が和んだ。
競輪場に通い始めたのは、西暦2006年の春のことだ。雨の日にバイクに乗っていたら、後ろから乗用車に跳ね飛ばされ、3ヶ月の昏睡状態を経て、目覚めたらケガも治っていた。リハビリ期間中、家の近所にあった富山競輪場に毎日通い、自分の命の対価として受け取った慰謝料を全て競輪に使い果たした。100円が700000円になったことが忘れられず、いまでも競輪を続けている。そんな21世紀の初頭、競輪はすでに廃れはじめていたが、それでも適当に競輪場は混んでいて、淋しい人間が多く集まっていた。当時はまだ新型コロナウイルスなんていうものはなく、ソーシャルディスタンスという病理学の概念はなかったが、心理学の用語としてパーソナルスペースという語が既にあった。
人間には、知らない人間に近づかれると、不快に感じる距離というものがある。しかし、淋しい人間は、知らない人間に近づきたくてしようがない。競輪場に行くと、そんな知らないおじさんに、わざとぶつかられるということがよくあった。知らないおじさんは、見知らぬ他人にぶつかることで、自身の存在を証明していた。ぶつかられるたびに、その叫び声が聞こえて、あまりの哀しさに胸が締め付けられたものだった。いや、知らないおじさんにぶつかられると、自分の存在が消えてしまうようで、ぶつかってくるおじさんに気づかれない程度に足を踏みしめて、ぶつかり返したこともあった。競輪がますます廃れ、ソーシャルディスタンスも導入されたいま、競輪場に行って知らないおじさんにぶつかられることはなくなった。それもまた淋しいことだ。
107期の阿部拓真は、以前の職場で仲が良かった後輩と同じ名前なので、見かけるたびに買っており、相性も良い選手だ。京王閣本場の準決勝に乗っており、頭から買ったが、番手の菊池圭尚がわずかに遅れて3着となり、逃してしまった。菊池圭尚はもう金輪際買わない。とこうして歪んだデータを蓄積していくのが、競輪の楽しみである。一日買い続けて、かすったのはそれだけで、本場と場外とで20000円も負けた。昼間は晴れてあたたかだったが、最終レースが終わると風が冷たく、急いで京王線に乗り、家に帰った。京王閣競輪場は、京王線の京王多摩川駅のすぐ近くにあり、レースを観戦していると、高架線を走る京王線もよく見える。
競輪場に行くと、知らないおじさんが話しかけてくる。これは間違いないので、競輪場に行ったことのない人は、一度行ってみるといい。競輪場は、誰とも話すことのない淋しいおじさんのたまり場であるから、誰でもいいから話がしたいというおじさんが集まっているのだ。喫煙所のベンチでタバコを吸っていると、知らないおじさんがいつの間にか目の前に立っており、「弥彦は難しくてダメだネ」と話しかけてきた。「筋違いばっかりだネ」と返すと、「ああ、だけど本場の5車立てでも当たらないんだから、どうしようもないよネ」とおじさんは笑った。あいまいに微笑み返すと、おじさんはタバコを消して立ち去った。久しぶりに人間と話すと、心が和んだ。
競輪場に通い始めたのは、西暦2006年の春のことだ。雨の日にバイクに乗っていたら、後ろから乗用車に跳ね飛ばされ、3ヶ月の昏睡状態を経て、目覚めたらケガも治っていた。リハビリ期間中、家の近所にあった富山競輪場に毎日通い、自分の命の対価として受け取った慰謝料を全て競輪に使い果たした。100円が700000円になったことが忘れられず、いまでも競輪を続けている。そんな21世紀の初頭、競輪はすでに廃れはじめていたが、それでも適当に競輪場は混んでいて、淋しい人間が多く集まっていた。当時はまだ新型コロナウイルスなんていうものはなく、ソーシャルディスタンスという病理学の概念はなかったが、心理学の用語としてパーソナルスペースという語が既にあった。
人間には、知らない人間に近づかれると、不快に感じる距離というものがある。しかし、淋しい人間は、知らない人間に近づきたくてしようがない。競輪場に行くと、そんな知らないおじさんに、わざとぶつかられるということがよくあった。知らないおじさんは、見知らぬ他人にぶつかることで、自身の存在を証明していた。ぶつかられるたびに、その叫び声が聞こえて、あまりの哀しさに胸が締め付けられたものだった。いや、知らないおじさんにぶつかられると、自分の存在が消えてしまうようで、ぶつかってくるおじさんに気づかれない程度に足を踏みしめて、ぶつかり返したこともあった。競輪がますます廃れ、ソーシャルディスタンスも導入されたいま、競輪場に行って知らないおじさんにぶつかられることはなくなった。それもまた淋しいことだ。
107期の阿部拓真は、以前の職場で仲が良かった後輩と同じ名前なので、見かけるたびに買っており、相性も良い選手だ。京王閣本場の準決勝に乗っており、頭から買ったが、番手の菊池圭尚がわずかに遅れて3着となり、逃してしまった。菊池圭尚はもう金輪際買わない。とこうして歪んだデータを蓄積していくのが、競輪の楽しみである。一日買い続けて、かすったのはそれだけで、本場と場外とで20000円も負けた。昼間は晴れてあたたかだったが、最終レースが終わると風が冷たく、急いで京王線に乗り、家に帰った。京王閣競輪場は、京王線の京王多摩川駅のすぐ近くにあり、レースを観戦していると、高架線を走る京王線もよく見える。
2021年9月25日土曜日
空白(ネタバレ)
映画『空白』は何も知らないで見るのが一番面白い類の映画である。だから、これから見る人は読まない方が良い。
タイトルの意味の映像化、という意味で重要なモチーフは、ある登場人物の描く油絵の肖像画の目がいつまで経っても入らない、その目の「空白」だ。その絵を描く登場人物は、絵が下手であるという設定だが、いくら絵が下手でも目を描かずに残しておく、という絵の描き方を、人間は通常はしない。目が白く抜けた肖像画を見て、その印象は、一言で言って文字通りの「間抜け」である。「空白」という意味ありげな文学的なタイトルは、「間抜け」というあからさまな言葉にパラフレーズされる。作品の最後の最後で、油絵はまるで重要な、いっしゅん感動的な持ち出され方をするが、いまさらそんなことをされても間に合っていないのだし、油絵に手を伸ばそうとする登場人物の動きからは、ズコ~という「間抜け」な心の声が聞こえてくる。
映画のセリフとして、「間抜け」、という言葉はなかったのではないか、と思うが、さらなるパラフレーズを追えば、登場人物が「馬鹿」という言葉を使っていたのを思い出す。その場面の、「馬鹿」という言葉の使われ方は、作品のあらゆる登場人物に当てはまってくる。ある登場人物がビールを飲んで酔った勢いでふと語りだす。父が倒れた時、まさに倒れ苦しんでいる父からの3度もの電話を、登場人物はそれと知らずに無視した。電話がかかってきた時、パチンコが当たっていたからだ。しかし、3度も電話をしてくるくらいなら、救急車を呼べばよかったのだ。救急車を呼ばない父は「馬鹿」だから死んだのだ、と登場人物が言うとき、「馬鹿」という言葉はもちろん自分にも向けられている。
「馬鹿」とは行動と想いの不一致、その「的外れ」の具合を表した言葉だ。作品の中で起こる出来事は最初から最後まで全て、あたかもなにも起こっていないと思える程に、全てが哀しいほどに「的外れ」である。的から外れたパチンコ玉が釘にあたってあらぬ方向にはじかれるように、「的外れ」な言動は的から外れていたとしても、どこかに当たってはじかれる。その連鎖が作品のあらすじとなるとき、もう一度くだんの肖像画を思い出せば、目がないように大事なことを見逃し、あるいは目の抜けたカブリモノのように表面的なことと内面は一致しない、人間という存在の「空白」ぐあいが、なんどもなんども責め立てるように、苦い後味の作品である。
タイトルの意味の映像化、という意味で重要なモチーフは、ある登場人物の描く油絵の肖像画の目がいつまで経っても入らない、その目の「空白」だ。その絵を描く登場人物は、絵が下手であるという設定だが、いくら絵が下手でも目を描かずに残しておく、という絵の描き方を、人間は通常はしない。目が白く抜けた肖像画を見て、その印象は、一言で言って文字通りの「間抜け」である。「空白」という意味ありげな文学的なタイトルは、「間抜け」というあからさまな言葉にパラフレーズされる。作品の最後の最後で、油絵はまるで重要な、いっしゅん感動的な持ち出され方をするが、いまさらそんなことをされても間に合っていないのだし、油絵に手を伸ばそうとする登場人物の動きからは、ズコ~という「間抜け」な心の声が聞こえてくる。
映画のセリフとして、「間抜け」、という言葉はなかったのではないか、と思うが、さらなるパラフレーズを追えば、登場人物が「馬鹿」という言葉を使っていたのを思い出す。その場面の、「馬鹿」という言葉の使われ方は、作品のあらゆる登場人物に当てはまってくる。ある登場人物がビールを飲んで酔った勢いでふと語りだす。父が倒れた時、まさに倒れ苦しんでいる父からの3度もの電話を、登場人物はそれと知らずに無視した。電話がかかってきた時、パチンコが当たっていたからだ。しかし、3度も電話をしてくるくらいなら、救急車を呼べばよかったのだ。救急車を呼ばない父は「馬鹿」だから死んだのだ、と登場人物が言うとき、「馬鹿」という言葉はもちろん自分にも向けられている。
「馬鹿」とは行動と想いの不一致、その「的外れ」の具合を表した言葉だ。作品の中で起こる出来事は最初から最後まで全て、あたかもなにも起こっていないと思える程に、全てが哀しいほどに「的外れ」である。的から外れたパチンコ玉が釘にあたってあらぬ方向にはじかれるように、「的外れ」な言動は的から外れていたとしても、どこかに当たってはじかれる。その連鎖が作品のあらすじとなるとき、もう一度くだんの肖像画を思い出せば、目がないように大事なことを見逃し、あるいは目の抜けたカブリモノのように表面的なことと内面は一致しない、人間という存在の「空白」ぐあいが、なんどもなんども責め立てるように、苦い後味の作品である。
2021年6月22日火曜日
会社の近くのホテルに泊まる
障害者雇用の職場を見つけて、もうすぐ2年となる。私の場合、周りと変わらないパソコン事務作業をしているが、電話の応対を免除してもらっている。電話の応対を我慢してやって、その分のマネーを貰うことを想像してみると、そんなことは到底出来そうにないので、障害者雇用というのはありがたい。周囲とやりとりするのも基本的には業務チャットで行うので、家からリモートワークする日と、会社に出社する日で、やることは全く変わらない。だったらずっとリモートワークでよいようなところだが、みんなは交代で出社して電話の応対もしているので、障害者にも出社の日があり、私が出るぶん誰かがリモートワークになる仕組みである。
就職して半年ほどは、毎日満員電車にゆられて会社に行っていたけれども、ニューノーマルとなったいま、それははるか昔のできごととなっている。あんな生活はもはや信じがたい。私の出社日は月曜日が多いので、月曜日が出社となると、前週金曜日のテレワークが終わってから、さて月曜日までにどのように会社にたどり着こうかと考え始める。週末はスーパー銭湯に行って入浴と読書を繰り返すのが最高の贅沢だったが、緊急事態のためそうした施設は軒並み休業となった。そうして編み出された趣味が、会社の近くのホテルに泊まってから出社する、というものである。
そもそもホテルに目的なく泊まることは、私の趣味のひとつであり、大浴場と朝食バイキングのあるホテルを第一の目的に、出かけることがあった。緊急事態となり、県境を越えることもタブーとなって、私のそうした趣味は、東京都内の、会社の近くのホテルめぐりに移行された。毎週高いホテルに泊まるわけにはいかないので、いまでは大浴場も朝食バイキングもなくても、とにかくホテルに泊まるというだけで満足している。喫煙者なので、喫煙ルームも重要な候補となるが、会社の近くの喫煙所は心得ており、ホテルで吸えなくても文句は言わないことにしている。ホテルで読むように本を抱えていくが、大抵それも読まない。とにかく疲れているので、ホテルに行ったら眠る。また家にテレビジョンがないぶん、ホテルに行くとテレビジョンばかり見ている。徳光と田中律子のバスの旅、相葉くんの料理のやつかバンキシャ、坂上と指原の潰れない店、ミスターサンデーと日曜日に観るものはきまっている。
私は東京都日野市の京王線南平駅の駅前に住んでいるが、会社の最寄駅は地下鉄の青山一丁目である。青山一丁目は駅の名前だけで、東京都港区青山一丁目という住所はない。京王線で新宿に出て、都営大江戸線で青山一丁目に行くのが正規のルートである。私のホテル巡りは、京王線の府中・調布にはじまり、新宿・青山外苑といった会社の近隣・また赤坂見附や永田町のあたりなど、もう数十を制覇しているはずだが、最近のお気に入りは浜松町の近隣である。都営大江戸線の大門駅はJR浜松町駅の近郊となる。浜松町は典型的なオフィス街で、喫茶店が多く、街頭の喫煙所も整備されていて、週末の人出が少ないから、快適な街だ。きのう泊まったホテルは、久しぶりに大浴場があったが、日帰り入浴をやっているため、大変な混雑で辟易としてしまった。いま世間的にもサウナがブームとなっており、面倒なことになったと思っている。しかし、ベッドはキングサイズで、よく眠れた。
東京にはホテルがたくさんあるが、まだここだというホテルには巡り合わない。以前住んでいた山梨県の甲府では、ホテルを巡っているうち、ここがいちばんというホテルが決まり、そこにばかり通っている時期があった。しかし、東京のホテルはどこも一長一短だ。まだ放浪は続く。ホテル自体に文句がなく、ホテルの近隣になにかレジャーがあって、毎週そこにいけばやることが決まっている、というかたちを目指したいものだ。
就職して半年ほどは、毎日満員電車にゆられて会社に行っていたけれども、ニューノーマルとなったいま、それははるか昔のできごととなっている。あんな生活はもはや信じがたい。私の出社日は月曜日が多いので、月曜日が出社となると、前週金曜日のテレワークが終わってから、さて月曜日までにどのように会社にたどり着こうかと考え始める。週末はスーパー銭湯に行って入浴と読書を繰り返すのが最高の贅沢だったが、緊急事態のためそうした施設は軒並み休業となった。そうして編み出された趣味が、会社の近くのホテルに泊まってから出社する、というものである。
そもそもホテルに目的なく泊まることは、私の趣味のひとつであり、大浴場と朝食バイキングのあるホテルを第一の目的に、出かけることがあった。緊急事態となり、県境を越えることもタブーとなって、私のそうした趣味は、東京都内の、会社の近くのホテルめぐりに移行された。毎週高いホテルに泊まるわけにはいかないので、いまでは大浴場も朝食バイキングもなくても、とにかくホテルに泊まるというだけで満足している。喫煙者なので、喫煙ルームも重要な候補となるが、会社の近くの喫煙所は心得ており、ホテルで吸えなくても文句は言わないことにしている。ホテルで読むように本を抱えていくが、大抵それも読まない。とにかく疲れているので、ホテルに行ったら眠る。また家にテレビジョンがないぶん、ホテルに行くとテレビジョンばかり見ている。徳光と田中律子のバスの旅、相葉くんの料理のやつかバンキシャ、坂上と指原の潰れない店、ミスターサンデーと日曜日に観るものはきまっている。
私は東京都日野市の京王線南平駅の駅前に住んでいるが、会社の最寄駅は地下鉄の青山一丁目である。青山一丁目は駅の名前だけで、東京都港区青山一丁目という住所はない。京王線で新宿に出て、都営大江戸線で青山一丁目に行くのが正規のルートである。私のホテル巡りは、京王線の府中・調布にはじまり、新宿・青山外苑といった会社の近隣・また赤坂見附や永田町のあたりなど、もう数十を制覇しているはずだが、最近のお気に入りは浜松町の近隣である。都営大江戸線の大門駅はJR浜松町駅の近郊となる。浜松町は典型的なオフィス街で、喫茶店が多く、街頭の喫煙所も整備されていて、週末の人出が少ないから、快適な街だ。きのう泊まったホテルは、久しぶりに大浴場があったが、日帰り入浴をやっているため、大変な混雑で辟易としてしまった。いま世間的にもサウナがブームとなっており、面倒なことになったと思っている。しかし、ベッドはキングサイズで、よく眠れた。
東京にはホテルがたくさんあるが、まだここだというホテルには巡り合わない。以前住んでいた山梨県の甲府では、ホテルを巡っているうち、ここがいちばんというホテルが決まり、そこにばかり通っている時期があった。しかし、東京のホテルはどこも一長一短だ。まだ放浪は続く。ホテル自体に文句がなく、ホテルの近隣になにかレジャーがあって、毎週そこにいけばやることが決まっている、というかたちを目指したいものだ。
2021年6月19日土曜日
たんじゅんな人間の夜明け
きょうは雨が降っていたが、傘を持つのが面倒で、濡れて歩いた。
フレッシュネスバーガーで本を読んで、 感想を読書メーターに入れた。なんでも飽きてしまう性分だが、 かろうじてTwitterと読書メーターだけは続けていた。 過去の読書メーターの投稿にイイネがついていた。その投稿が、 過去のこのブログの記事へのリンクだった。 自分のブログを久しぶりに読み返した感想は、 いまの自分には書けない、というものだった。 2年近く過去の自分と現在とでは、 中身が全く変わっていると思った。
ブログを放置した期間は、仕事しかしていなかった。あとは東日本大震災か地下鉄サリン事件か和歌山カレー事件についてのYouTubeを繰り返し見て暮らしていた。事件の緊迫感とほの暗さが気分だった。途中で人類は新型コロナウイルスに襲われ、 仕事はテレワークになった。しかし 東京都の3回目の緊急事態宣言はあした終わる。 いずれ4回目もあるだろうがもはや完全に用をなさず、 ワクチンが広まって、 未曾有の騒動もいつしか有耶無耶になるんだろう。
このブログは、健常者が障害者になった、 というところで第一章が終わり、放置されたが、 またなにかを考えてみよう、ときょう思った。 なにも書くことがなくなるから、 つい読書感想文が増えていった第一章だが、 こんどは読書メーターときっちり峻別して、 ここにはふつうの日記を書きたい。 なにを考えて生きたのかを記録したい。いま、また、 生きる気力がわいてきている。
2019年9月2日月曜日
感情を整理する老人
感情の整理が上手い人と下手な人。話がはじまってすぐ、これが上機嫌な人と不機嫌な人にパラフレーズされる。そして、不機嫌な人の、不機嫌になるその過程が、そのまんま自分じゃないか、と思った、ので、そのあとがどんどん進んだ。「感情の豊かな人は、不機嫌になりにくいものです」。感情を出すタイミングを逸して、人は不機嫌になっていくのだ。「ものごとを白か黒かの二分割で判断する」というのも、自分のよくないところだと感じている。その対処法はずばり、勉強すること、そして成長願望を持つことだ。この過程には、わからないという場面が生じるが、これを「二分割」で考えると、黒になってしまう、しかしそこで、少しでもわかった自分を褒めるということが大事なのである。不機嫌な人のダメな部分も当てはまってしまったが、その対処法も現に自分がやろうとしていることだったから、これでよいのだという感じがしたのだった。が、読み終えて読書メーターに登録しようとしたら、数年前に一度読んだことがあった。それならそれで、読んだことを実行できているのだ、と思った。今度はこの本を保管用の書棚に立てた。
尾崎一雄『閑な老人』
ずっと積んであった本の山からも一冊読んだ。6つの短編からなる。いわゆる私小説なので、6篇がほとんど発表順にならんでいると、そこに時間が流れる。神社の松の木が切られ、飼っていた犬が死に、志賀直哉も亡くなる。犬の墓をつくろうと、庭を掘る。「休み休み掘つた。赤土に達すると、縄文式土器の破片が出てきた。この前のときは、土器のほかに、石斧も出たが」。そういう時間の重なりの中に、生きているということだ。山櫻を植えたいと思う。「その松や櫻がどうなるか、私には勿論判る筈もない。しかし、しかし、私は植えたいのだ」。(手放します。下記アマゾンより田中はにわに注文してください)
障害を構造的に職場に開示する
今週から仕事がはじまる。田中は発達障害者として、健常者の職場にまじる。職場は発達障害に理解のある職場であり、これまでにも障害者雇用の実績がある企業だ。そこに入社するにあたって、障害特性を一覧のリストにして、配属先の全メンバーにプリントで配布することになっており、近日はそのリストを作成していた。
職場に障害を開示する、そのタイミングと範囲はケースによってさまざまだろう。そのさまざまにより、開示の影響がよくもわるくも作用する。今回の田中の場合は、職場のほうに経験が有るため、田中はそれに従うことにした。田中は障害者として働くのがはじめてだからだ。一方的に、この方法を押し付けられたわけでもない。田中としても、障害者であることはなるべく広く開示して、ありうるトラブルを事前に避けることが、障害者雇用のメリットと考えているからだ。
しかし、このリストを作るのには、けっこう苦労した。インターネット上に発達障害者の「自分のトリセツ」的な、障害を開示するペーパーの見本はたくさんあるが、こどもようというか、障害が田中よりずっと重い人用というか、しっくりくるものはなかなかみつからなかった。また、どこまで開示するべきなのか、も問題となる。仕事に関係している部分はどこまでなのか、ということだ。
その線引きには、先日まで通っていた就労移行支援の施設と、また採用されるにいたるまでなんども行われた面接と、そこで扱われたり、質問されたりしたこと、が役に立った。たとえば田中は、常になにかに対して強烈な怒りの感情を持っており、だとか、死にたいと思うこともあり、だとか、そういう事実は心理検査からも客観的に明らかなのだが、職場に対してそんなことを言っても意味がない。対処は自分でおこなうものであり、会社に配慮を求めることが思いつかないからだ。
そう、リストは、就活の面接と同じく、①障害特性⇒対策⇒配慮の3段階でまとめるのが適当だろう。ただし障害特性は、必ずしも悪い面だけをまとめる必要もなく、障害であるがゆえに得意とする分野も並べたらいいと思う。それでもどこまでの範囲を書いたらよいかということになり、田中は②作業上、対人面、思考行動という3側面を考えた。①の横軸と②の縦軸で、3×3の表ができ、これを田中は会社に提出することにした。
これで準備は整い、あとは入社日を待つばかり、いや入社前日には例によってハローワークに行く必要があるのだが、他の書類の準備もありますが、なんとかここまでこぎつけたわけである。いまはもう、はやく仕事がしたいという気持ちしかない。
2019年8月29日木曜日
現代のポジティブな厚み
東京オペラシティは京王線の初台駅につながったホール。3階にあるアートギャラリーでは現在「ジュリアン・オピー」展を開催中です。障害者手帳を提示しますと(付き添い1名を含めて)無料でお楽しみいただけます。久しぶりに障害者手帳で遊びに行く元気がありましたから、行ってみましょう。
展覧会の写真撮影は自由でした。これはアクリルのパネルをはりあわせて出来ていました。田中の好きな、色と輪郭線がはっきりしている芸術です。ピクトグラム(絵文字)的なその抽象化はしかし、そうした記号自体と比べたとき、圧倒的に「個性」を感じさせられるものだから、ふしぎです。
展覧会の写真撮影は自由でした。これはアクリルのパネルをはりあわせて出来ていました。田中の好きな、色と輪郭線がはっきりしている芸術です。ピクトグラム(絵文字)的なその抽象化はしかし、そうした記号自体と比べたとき、圧倒的に「個性」を感じさせられるものだから、ふしぎです。
モチーフは人間だけでなく、こうした風景画、また動物や高層ビルなどもありました。そして平面作品だけでなく、立体や映像を使った作品も多く展示されていました。
「解像度が粗い」という説明の仕方もできるかもしれない。「粗い」というか、ちょうどよいその「解像度」を狙って作者は作品をつくっているのだ。広告以上にポップで、ポジティブ。疲れや悩みを感じさせる像はなく、みな健康だ。見ていると元気になってくる。
従来の芸術は、その裏にあるものを、なんらかの雰囲気で示唆してくるのだが、ここにはそれがない。平板であるという意味ではない。厚みがポジティブなのだ。
「ジュリアン・オピー」展は9月23日までです。いちどご覧になりますと、気分がよろしいでしょうから、オススメいたします。
2019年8月19日月曜日
あたらしいしごと
前の仕事を辞めたのは去年の秋で、去年の今頃はというと、仕事を辞めようと決心して職場と相談をはじめたころだった。だからちょうど一年くらいかかって、ようやく次の仕事が決まったということになる。来月の頭から次の仕事に就くことになった。
決まったのは先週末だ。長い長い就職活動だった。めちゃくちゃ長いブランクを経て、というのは就職活動に苦戦したというよりは、発達障害者として障害者雇用の職を得るために必要な時間だったという感じだ。障害者手帳を取得するまでにまず時間がかかり、発達障害者の就労移行支援を受けるために東京に引っ越してきて、訓練の施設に通所して、施設を通して求人に応募、応募してからも何回も面接やら実習やらがあり、ようやくたどり着いたのである。
前にも書いたが、前職は農業であったので、業界そのものが低賃金であった。だから今度の職業は障害者雇用とはいえ、以前の給与より多くもらえる。田中は前職に就くとき、山の中に逃げ込んでセミリタイアなりよ、と思っていたので、給与の低さを気にすることがなかった。しかし、山の中なら精神的にうまくいくなんて幻想であり、また精神を壊して、そして貧乏にも耐えられなくなった。障害者雇用のメリットとしてよく語られるところだが、田中の次の職場も、よくわからない田舎のおじさんが就職できるなんて全く思いもしなかった、全国に名を轟かす大企業であり、それなりに生活も安定できるので、ほんとうによかった。
工場で働いたり、野菜を育てたり、果物をやったりしていた人が、急にトーキョーのビジネスマンとなることは、ふつうの職歴ではなかなかないことだろう。しかも田中はもうすぐ40歳なのであり、転職する期限切れのおじさんだと思っていた。しかし、障害者になります宣言をすると、こういうことができる。就労移行支援の学校は池袋だったが、あたらしい職場は京王線で新宿に出てから、地下鉄で都心に少し入ったところに行く。ほんとうに都会の都会だ。毎日スーツを着ていく。こんな生活ができるとは思ってもみなかった。夢のようだ。
この仕事で定年まで頑張りたいと思う。そのためには、毎日毎日、努力がいるし、考えることが必要なんだと思っている。考え続けることが大事だと思う。そういう感じで、このブログを続けていきたい。引き続きよろしくおねがいします。読んだら、広告をクリックしてください。田中がお金をもらえるので。もう何ヶ月も誰もクリックしていませんので、どうかおねがいいたします。
2019年8月3日土曜日
貧困と運動と精神と
お金がない。来週、ハローワークの失業認定日があり、入金は再来週だ。再来週は障害年金の支給もある。そこまでの辛抱だ。来週は障害者雇用に向けての実習を受ける。もうこの企業に雇ってもらい、お金の苦労から逃れたい。それが本音の本音である。
お金がないと、お金を使えないのだから、出かける必要もない。出かければ、お金がいる。だから出かけない。そういう貧困と精神停滞の素朴な関係は見逃せない。お金があればあったで、過激に浪費をする癖もあるから、一生お金に惑わされるのかと思うと、気が重くなるのだが、それでもお金はないよりは、あったほうがよい。
きょうも一度出かけるまでには、ずいぶん時間がかかった。図書館に行き本を読むことに、お金はかからない。しかし、それをやると、喫茶店に寄りたくなり、そもそも電車に乗る必要もあり、お金がかかる。学校に行くための定期券が切れ、新しい定期券を買うまとまったお金はない。お金がないのだから家にいるべきなのか、しかし家にいると精神が停滞してしまう。という悩み。
しかし東京都日野市に送る書類を作るためには、失業保険関係の書類をコピーして添付する必要があり、出かけることになった。必ず10円は出費の発生する外出だった。コピーを取り、図書館で本を返して、書棚のあいだを歩いていたら、ふと手に取った小説が面白くて、借りてきてしまった。とても分厚い。しかし語り口が軽妙で、読み始めたら止まらなくなった。閉館までではとても読み切れず、いま読む時間があるか、と迷いつつも、やはりこの本を読むと、どうも精神の調子が良くなるだろうと、さいきんさまざまなコストに関する判断基準を、精神、にとることがふつうになった。これも、発達障害の学校に通った大きな収穫である。
スポーツジムには行かなくなってしまい、ジムを解約すべきなのかもしれないが、お金がなくても解約をしてしまうことが精神を沈ませると思って、ムダ金を払い続けている。家を出ると精神がよくなるのには、運動する、ということもきっと関係している。夕方、日差しが弱くなってから、高幡不動→南平の一駅を歩いて帰ることを習慣にしてから、精神状態がすこぶるよい。きょうも歩いて帰ってきた。
これでは運動が足りないと思うから、またジムに行けるようにしたい。ジムに行っていたころは朝早く起きて行っていたのだが、発達障害の薬が強い時期になって、起きられなくなっていかなくなってしまった。いままた薬の影響が減っている。起きれる。しかし面倒だ。近日中に、というのは、次の仕事が始まる前、つまりはいまの学校に通っているうちに、スポーツジムの習慣を復活させたい。
2019年8月2日金曜日
この界隈の風通し
前述した通り私は、発達障害も専門としている主治医からASD(自閉症スペクトラム)の特徴を強くもっているという認識でほぼ間違いないと言われている。発達障害を主題にした10章から引用しているが、この章に限らず読んでいてうなづくところが多い。完璧主義の話、依存の話、私も以前のんでいたリーマスという薬についても書いてあって勉強になった。発達障害、また精神病界隈でこの本の話を聞いておらず、図書館でたまたま手に取ったら、すごく良い本だったので、界隈のみなさんにぜひオススメしておきたい。
世の中をオフィスのような大きな室内空間にたとえると、私のいる場所は、過集中の灯りに照らされた対象以外は真っ暗闇の虚無である。その代わり手元の灯りはとても明るく高性能だ。物事が立体的に、細部まではっきりと見えるし、記録もできる。ADHDの人にこの話をしたところ「自分の場合はライトが眩しすぎて何もかも目に入ってくる状態」という答えだった。定型の人は全体を見渡せるが、細かいところまで見えるほど明るい照明ではないし、記憶力も劣っているのではないだろうか。こういうたとえもなかなか鋭いと感じた。すぐ近くに書かれているように、現在、発達障害者ばかりがあつまる施設で日々を暮している田中は、ADHDの人とペアになって仕事をするときに、お互いの障害特性がタッグを組んだら、部屋全体が照らされて「これ最強やな」、と思う経験を何度もしている。
しかしまた、ASDであるらしい田中の過集中は、もっと手元の照明の性能が劣っていて、集中の焦点が役に立たない部分に集まっているような気もして、絲山の書く過集中のようなものならばまた使いようがあるのにと、うらやましく思ってしまった。まあこれがスペクトラムということなわけだが。
だが、発達障害界隈はきわめて閉鎖的な印象だ。グレーゾーンや、スペクトラムのなかで目立たない人、定型発達者にとっては、かかわりにくさが大きな壁となっているのではないだろうか。こういう指摘もめったに聞かないからはっとしたが、そもそも発達障害者の障害特性として、それこそ「自閉」なのだから閉鎖的になるんじゃないかと思いつつ、またメディアや障害者としてほど苦しんでいない人がおもしろがっているから閉鎖的になるのだとも思いつつ、なのだが一方で、田中も発達障害界隈に息苦しさをさいきん感じることが多くなってきた。
絲山のようにコミュニケーションに長けているわけでもない田中は、自分が閉鎖的であることを承知で、しかしこの界隈は息苦しいとは表明しておきたくなった。そういう意味においても、この本は風通しの良い言葉で書かれているから、とても読みやすかった。
2019年7月31日水曜日
弱者のユーモアを見る視線の問題
ひとつの単語にすれば「弱者」ということになってしまうだろう、彼らのいる場所を訪ねるようになった理由の一つに、好奇心があることは否定しない。間違いかもしれないが、そう思ったのは、「弱者」への想像力を働かせる筆者は、そのようなスタンスであるからこそ、ほんとうのほんとうに「弱者」ではないという立場にいるのではないか、と田中はそう思った。たとえば田中は発達障害者であり、障害者としてどうどうと、ほかの「弱者」に共感を感じることが、近日、とても多くなった。そういう共感を示す権利を得た、というような思いがある。
けれど、もっと大きな理由が他にあったことに、わたしは、途中で気づいた。それは、その「弱者」といわれる人たちの世界が、わたしがもっとも大切にしてきた、「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、ひどく似ていることだ。
障害者でないと障害者を語れない、というのはちがうだろう。が、一方で、障害者以外の人間が障害者(など)を「弱者」として語ることは、本当に難しいことだと感じた。ただ、この本は、そのような難しいことを、極めてがんばってやっている、という印象は受けた。難しい問題で、このような印象論以上のことは、いま書けない。
田中は大学時代、文学を専攻していて、卒論は高橋源一郎だった。そのころの共感は、彼の作品がたんじゅんに面白かったからだったが、いま田中は障害者となり、そして高橋源一郎が障害者について書いているのを読むというのは、なにが喜ばしいことなのかわからないが、なんだか落ち着くべきところに物事が落ち着いていて、(正しい言い方ではないかもしれないが)うれしくなってしまった。
わたしは、この話を聞いて、ここには、なによりユーモアがある、と思った。三十年もの間、休まずに「デモ」が続いている理由がわかったような気がした。一か所だけ出てくるのがなんだか唐突な印象で、その印象ゆえに印象深い、この本のキーワードの一つが「ユーモア」だろう。「弱者」はその弱点を直視するだけでなく、一歩引いたところに別の構造をもつ強さがある、と高橋源一郎は感じているのではないか。それは障害者として生きていくうえで、田中も見習わなくてはならないと思う一方で、そこに「ユーモア」を見るのは、高橋源一郎が「弱者」を外側から見つめているからなのではないか、という疑問も残る。これが先ほどから繰り返している、この本の難しいところだ。
2019年7月20日土曜日
私という動物たちをめぐる冒険
だいぶん時間をかけて読んできた
ぼくのヒポコンデリア最悪の状態になり、毎朝、向いあったベッドに目覚めておたがいを発見するたびに、ぼくの妻は、ぼくが眠りながら、鶏ほどにもけたたましく恐怖の叫び声をあげたことを話した。ぼくはいつもオーデンの《タフな心をもった男も、眠っているあいだには涙脆くなる》という詩句で対抗したものの、それはしだいに妻にもぼく自身にも感銘をあたえなくなった。妻は実家からつれてきた大きい犬を躰にひきつけてぼくの夢のなかの怪物を警戒しながら眠るようになった。そしてとうとう、ぼくが眠ったまま大声で二時間も泣きわめくという夜がきた。朝ぼくは決心した。妻もまた、彼女の憐れな夫が、このようなタイプの日常生活を送ることに心理的な犠牲を払っていることを理解していたのでとくに説明はいらなかった。長い引用となったが物語も終盤近く、ここに至るまで何度も「日常生活」という言葉が登場してはいたのだが、この部分にある「このようなタイプの日常生活」というものこそが、通常読者が思い浮かべる「日常生活」なのであり、しかしそれはここに至っても完全に否定される。したがって『日常生活の冒険』という物語を[日常生活]の物語と思っていると読者はつまづくようにこの物語は出来ている。ホテルの朝食メニュのような食卓の描写や近所を犬を連れて散歩する、そんな[日常生活]の場面は一切出てこないのである。では、この作品における「日常生活」とはなになのか。
いま、日常生活の冒険という言葉をつかいながら、ぼくは過去と未来とを吹きぬける自分の内部の風洞に耳をおしつけて、風の近づいた夜更けぼくの生れた谷間のケヤキの梢がたてる音のように、ひとつの遠方からの声が語りかけるのを聞く思いだ。それはぼくと斉木犀吉のぼくらの生涯の三度目の出会いの夜、かれがウイスキーに酔って、ぼくに話した日常生活の冒険についてのかれの意見である。これは作品の冒頭からの引用で、これに続く斉木犀吉の言葉も全部引きたいくらい、この言葉が作品全体を支えるコンセプトのようなものがこれを説明してみれば、「原色動物大図鑑」の話にはじまる斉木犀吉の言うには、「廿世紀人間はたれもかれも核爆弾で殺されるというその目的が異ならないので構成的相違の品種が少ない、というわけなんだよ。そこで、おれは、自分の能力をフルに発揮して、自分だけでも他のホモ・サピエンスとは構成的相違のある別品種になりたいんだよ」、ということなのである。
そのような物語の登場人物たちには、「斉木犀吉」「雉子彦」「鷹子」といったように動物の名前をもつものが多く、作品中の比喩にも動物が多く登場している。人間は動物にたとえられ、それぞれに「日常生活」を生きているのである。本記事最初の引用でも「ぼく」は「鶏」にたとえられていた。
終盤、斉木犀吉の言うとおり、原爆の被害から白血病で死にゆく「暁」という人物を斉木犀吉は意外な方法で[救う]のだが、そのように政治に絡め取られる「廿世紀人間」の層の下に、犬の散歩的な[日常生活]があるとしたとき、この物語が描く「日常生活」はもう一つ下層の心理的な層だ。だから彼らが政治運動に近づけずに失敗するのは[失敗]ではないのだろう。公的な人間に対する、私の深層=真相をめぐる冒険―。
さて、この十二年間ぼくはかなり多くの小説を書いた。大学の友人の妹と結婚することもきめていた。ぼくは、自分の廿五歳の誕生日に結婚するつもりだった。結婚し、二人の子供をつくり廿冊の自分の本に背後から責めたてられ、軽いアルコール中毒になり、癌で死ぬる、さして天才のない作家の生涯のおだやかな線路に、ぼくの機関車は乗ろうとしていたのだ。あらゆる冒険的なるものをあきらめて。あくまで斉木犀吉の友人としてはじまる物語の主人公は、物語が走り出してから突然、小説家であることが判明され、大江健三郎の事実を思わせるエピソードが混入される、この書き方がまたおもしろい。ここでも作者は[私をめぐる冒険]をやってみせている。作品の読みどころは、そうした作品の構造と、ヒポコンデリアの雰囲気とを、捉えることである、と田中は読んだ。
一本指の限界の先
タッチタイピングを目指してタイピングをはじめて20日が経過しました。ほとんどを人差し指で入力しているのでは一定以上の速度が出ないと悟った田中は、正しい運指を覚え、覚えたら速度を上げ、するといずれタッチタイピングつまりは手元を見ずともタイプできるようになると、そういう算段でした。
その計画、は続くのですが、強化期間は終了にすることになりました。田中は20日間で正しい運指を身に付け、なんとなく手元を見ずともタイプするところまで成長したのです。さいしょは打ち間違いだらけ、人差し指時代より速度は落ちるし、計画自体が無謀だと思ったこともありましたが、毎日毎日凄まじい成長のスピードを自分でも実感することができました。あとは自然にやっていけばそのうちもっと速く、もっと見ずにタイプできるようになるでしょう。
一日の練習時間は2時間から3時間でした。学校の自習時間を全部タイピングにあて、家でも練習をしました。タイピングを練習するために、キーの押し心地の良い新しいキーボードを購入し(それまでのものは一部キーが壊れていてだましだまし使っていたので)、また教材を揃えて勉強しました。ここではその教材をご紹介いたします。
シンプルで低価格。基本だけを繰り返し練習できます。基礎力が付きます。インターネットの入力訓練サイトに招待されます。この本を買えばいくらでも無料で使えます。
練習ソフトはこれです。ゲーム性を抑えたもの、タイムの計測があるのも気に入っています。まだまだこれからも練習していきますが、実際的な文章入力はこのソフトですぐに身につきました。
学校ではこのサイトで何回も模擬試験をやっています。できるとかいって田中はまだ5級生です。一本指では4級生なので、まだまだ伸びしろがあります。伸びしろをつくるために正確な運指を身につけたので、これから一本指の限界の先に向かいます。
と、なんのことはないスピードが落ちてるんじゃないかと、そうも言える現状なのですがしかし、確実に手元を見なくてもタイプができるようになってきています。しゃべるようにパソコンが使える感覚が、少しだけ見えてきて、これからの事務職就業がたのしみになっているところです。
2019年7月19日金曜日
エビリファイの体感
以前にもそういう相談をしていましたが、今回はいよいよ服薬調整となり、まあそういうタイミングを先生もはかっていたところがあるんでしょう。エビリファイ3mgが1mgに変更になりました。まだその生活を試していませんが、おそらくこれでうまくいくのではないかというよい予感があります。ちょうど3が1になるくらいがよいと、学校の言うように薬の種類を変更してもらうのではなく、という予想です。学校が発達障害専門学校なので、学校の先生は医者並みに薬にも詳しく、また医師も学校のことを知っていて、それなりに学校からの意見を尊重してくれます。
これを機会に、のんでわかってきたエビリファイという薬の特徴を書いてみたいと思います。エビリファイは、うつ・統合失調症・双極性障害とともに、発達障害にも使われる薬で、ドーパミンの受容体に作用して、ハイ/ローのちょうど中間のいい感じにする薬です。という公的な説明ですが、それが田中に対してどうはたらくか、それは眠気に代表されるように、「ムダな興奮を抑えている」という感覚の強いクスリです。
これまでの人生で田中は何種類も精神薬を飲んでおり、その中には交通事故で頭を打った時の強力なクスリもありましたが、そういうのをのぞくと、エビリファイがいちばん合っているんじゃないか、という気がしています。眠気には困っていたので、こんかい量を減らしてもらったわけですが、エビリファイにはこれまで感じたことのなかった、精神薬の効果を感じるようになっていて。それは時間がゆったりと流れ、空気がまろやかぁになるという、独特の魔法のような作用です。
朝の時間など、通常あわただしい時でも、時計がゆっくり進んでいて、慌てる必要がありません。そうとう時間が経ってしまったなと時計を見ると、まだ3分しか経ってないやん、というようなことが多くあります。また、以前は喫茶店などゆったり過ごすべき場所に行っても、ひとつことにすぐに飽きてしまい、すぐに脱出して次へ、というところがあったのですが、最近はじっとしていることが多く、じっとしていても全然時間が経たないので、勉強などがほんとうにはかどっています。
クスリの効能をここまで言葉にできるほど実感するのははじめてで、発達障害に詳しい東京都という土地に引っ越してきてよかったと思っています。大塚製薬の採用サイトにエビリファイの開発秘話がありましたので、最後にリンクをはっておきます。
https://www.otsuka.co.jp/recruit/interview/interview-details.html?id=2614
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