だいぶん時間をかけて読んできた
ぼくのヒポコンデリア最悪の状態になり、毎朝、向いあったベッドに目覚めておたがいを発見するたびに、ぼくの妻は、ぼくが眠りながら、鶏ほどにもけたたましく恐怖の叫び声をあげたことを話した。ぼくはいつもオーデンの《タフな心をもった男も、眠っているあいだには涙脆くなる》という詩句で対抗したものの、それはしだいに妻にもぼく自身にも感銘をあたえなくなった。妻は実家からつれてきた大きい犬を躰にひきつけてぼくの夢のなかの怪物を警戒しながら眠るようになった。そしてとうとう、ぼくが眠ったまま大声で二時間も泣きわめくという夜がきた。朝ぼくは決心した。妻もまた、彼女の憐れな夫が、このようなタイプの日常生活を送ることに心理的な犠牲を払っていることを理解していたのでとくに説明はいらなかった。長い引用となったが物語も終盤近く、ここに至るまで何度も「日常生活」という言葉が登場してはいたのだが、この部分にある「このようなタイプの日常生活」というものこそが、通常読者が思い浮かべる「日常生活」なのであり、しかしそれはここに至っても完全に否定される。したがって『日常生活の冒険』という物語を[日常生活]の物語と思っていると読者はつまづくようにこの物語は出来ている。ホテルの朝食メニュのような食卓の描写や近所を犬を連れて散歩する、そんな[日常生活]の場面は一切出てこないのである。では、この作品における「日常生活」とはなになのか。
いま、日常生活の冒険という言葉をつかいながら、ぼくは過去と未来とを吹きぬける自分の内部の風洞に耳をおしつけて、風の近づいた夜更けぼくの生れた谷間のケヤキの梢がたてる音のように、ひとつの遠方からの声が語りかけるのを聞く思いだ。それはぼくと斉木犀吉のぼくらの生涯の三度目の出会いの夜、かれがウイスキーに酔って、ぼくに話した日常生活の冒険についてのかれの意見である。これは作品の冒頭からの引用で、これに続く斉木犀吉の言葉も全部引きたいくらい、この言葉が作品全体を支えるコンセプトのようなものがこれを説明してみれば、「原色動物大図鑑」の話にはじまる斉木犀吉の言うには、「廿世紀人間はたれもかれも核爆弾で殺されるというその目的が異ならないので構成的相違の品種が少ない、というわけなんだよ。そこで、おれは、自分の能力をフルに発揮して、自分だけでも他のホモ・サピエンスとは構成的相違のある別品種になりたいんだよ」、ということなのである。
そのような物語の登場人物たちには、「斉木犀吉」「雉子彦」「鷹子」といったように動物の名前をもつものが多く、作品中の比喩にも動物が多く登場している。人間は動物にたとえられ、それぞれに「日常生活」を生きているのである。本記事最初の引用でも「ぼく」は「鶏」にたとえられていた。
終盤、斉木犀吉の言うとおり、原爆の被害から白血病で死にゆく「暁」という人物を斉木犀吉は意外な方法で[救う]のだが、そのように政治に絡め取られる「廿世紀人間」の層の下に、犬の散歩的な[日常生活]があるとしたとき、この物語が描く「日常生活」はもう一つ下層の心理的な層だ。だから彼らが政治運動に近づけずに失敗するのは[失敗]ではないのだろう。公的な人間に対する、私の深層=真相をめぐる冒険―。
さて、この十二年間ぼくはかなり多くの小説を書いた。大学の友人の妹と結婚することもきめていた。ぼくは、自分の廿五歳の誕生日に結婚するつもりだった。結婚し、二人の子供をつくり廿冊の自分の本に背後から責めたてられ、軽いアルコール中毒になり、癌で死ぬる、さして天才のない作家の生涯のおだやかな線路に、ぼくの機関車は乗ろうとしていたのだ。あらゆる冒険的なるものをあきらめて。あくまで斉木犀吉の友人としてはじまる物語の主人公は、物語が走り出してから突然、小説家であることが判明され、大江健三郎の事実を思わせるエピソードが混入される、この書き方がまたおもしろい。ここでも作者は[私をめぐる冒険]をやってみせている。作品の読みどころは、そうした作品の構造と、ヒポコンデリアの雰囲気とを、捉えることである、と田中は読んだ。
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