2022年3月20日日曜日

母が認知症

2022年3月16日

 私のスマホには、知らないところからしか電話がかかってこない。それは知っている人間が、母しかいないからだ。電話がかかってくると、記録が残っている電話番号をネットで調べる。すると迷惑電話の噂に必ずヒットするので、その電話番号をブロックする。それがいつもの手順だった。しかし、仕事中にしつこくかかってきていた電話番号を、仕事を終えたあと、酒を飲みながら調べると、母が一人暮らししている実家の近所の総合病院だった。すぐに病院に電話をかける。母の生年月日を伝え、お世話になっていないか、と尋ねてもどうも要領を得ない。実家に電話をかけるが、つながらない。すぐに実家に向かうため、京王線に飛び乗る。行きがてら、会社の上司にメールをして、翌日の休暇を申請。高幡不動で、各駅停車から急行に乗り換える頃、上司から電話をもらった。

 実家に着いたのは夜の9時ころだった。母はベッドで寝ていたが、顔に包帯を巻き、また右手に巻いた包帯は、血で真っ赤に染まっていた。母を起こし、事情を聴く。近所で転び、起き上がることができず、知らない奥さんが救急車を呼んでくれ、病院に運ばれたという。病院で、傷の治療と、頭の検査をしたが、大したことがないので、病院の近所でタクシーをつかまえ、帰ってきた、という。それはそうと、手が真っ赤だよ、というと、自分の手でないように、驚いていた。包帯なんかウチにないので、近所に買いに行く。セブンイレブンで、包帯ってありますかね、と聞くと、これなら、と巻くだけなんとか、という商品名の、テープを貼らずに包帯がくっつく、という商品があり、それを貰いつつ、そんなふざけた商品で傷が悪くなったらどうするんやと、22時で閉まる直前のドラッグストアで、白衣を着ている店員をつかまえ、転んで救急車で運ばれて、というところから、傷の大きさや状態までを全部話すと、では、このまくだけなんとかっていうのが、とまくだけなんとかをすすめられたので、まくだけなんとかを3つ買って帰る。

 母は自分のことを、息子である私に、まったく話さない。母が乳がんで入院手術をして、抗癌剤治療の通院をおこなっている、とわかったのは、父が肺がんで死んだその日の夜のことだった。今回の転倒も、これで4回目だという。4回とも救急車で運ばれていたのである。では、なぜ今回だけ私のところに病院から電話があったのかといえば、母が自分で区の高齢者見守りサービスに登録しており、その見守りキーホルダーというのをつけていたので、その名札の番号から、区が緊急連絡先として指定されていた私のところに電話があったのだった。手が真っ赤であった当時は、もうそれが心配で心配で、焦っていたが、今になって振り返れば、傷はあくまで傷であり、まあたいしたことないと言えばたいしたことはない。問題は、大事があっても電話をしてこない母の神経の問題であり、それは性格に過ぎないとしても、このところの母はおかしかった。これを機会に、病院にきちんと相談しよう。母は、認知症なのではないか、と。

2022年3月17日

 病院に付き添う。まずは救急外来で、傷の様子をみてもらう。包帯を巻き直して、治療は直ぐに終わった。が、受付で、事情を説明してみると、午後に神経内科の診察がある日だから、そこで、転んで頭を打っているから、頭の中も見てもらいましょう、ということにして、相談をしてみたらどうかしら、と非常にスムーズに話が進んだ。実際に、転んだ昨日、CTの検査も受けているので、タイミングとしては申し分ない。病院の近くのイオンで時間を潰して、午後の診察を待った。診察室に入るように言われて、進む母を制止し、看護婦にまずは付き添いの私から相談させてもらえないか、と小声で話すと、そんなことはよくあるという感じで、奥から医師が、どうぞ先付き添いの方お話ききまーす、と明るい声がして、安心した。

 私と母は、あまり仲が良くなく、私が発達障害ということもあるのか、すぐ喧嘩になってしまうので、お互いに離れて暮らしたほうが都合が良いと、私が実家に帰るのは、年に一回くらいでした。2022年の正月帰省した、その前の帰省は2021年のゴールデンウイークでした。その時はなんともなかったんですが、2022年の正月、まあこれもやりとりはなんともなかったのですが、ただ一点だけ奇妙なことが起こったのです。それは夕食の時、私と母しかいないのに、母は皿を5枚持ってきて、テーブルに並べたのです。私がそれを指摘すると、母は、みんなで使ったらいいじゃない、と言いました。それは、とても不気味で、私はこれから月一回くらいは様子を見に来よう、と決めたのでした。そのとき、私はスマホに、母の様子をメモることを始め、その表紙に、母の生年月日をメモっていました。昨日、病院から母の生年月日を尋ねられたとき、すらっと言えたのはそのためです。1938年11月26日。

 2022年2月も、月の初めの週末に帰省しましたが、そのときも同じように、夕食の際、母は、空の皿をたくさん並べていました。私は、母が区の絵画教室に行っていることを知っていたので、そういう場所で休憩時間に皿をさっと並べて、気を遣うことが癖になっているのかな?と思うことにしました。しかし、また帰省となった3月の5日、その夕食の時、どうして皿を並べるのか、母にまた尋ねると、母は言ったのです。陽子さんも信子さんも、食べたいって言うから、出してるのに、ひょっと見ると、いなくなっちゃうんだもの、と。陽子さんや信子さんは、母の妹の名前ですが、陽子さんも信子さんもすでに亡くなっています。ホラー映画のようなことが、母には起こっているのでした。

 その食事の際には、こんなことも聞きました。先日、玄関で鍵がなくなってしまって、困ってお隣さんに助けてもらったことがあったのよ。お隣さんがどんな人なのかも私は知りませんでしたが、すぐにお隣さんを訪ねて、聞いてみると、その母よりも2つ年が上だという老婦人、いつからお隣さんになったのか知らないですが、私は実家を離れてもう20年も経っているので、そういうこともあるのでした。老婦人は言いました。ああ、こないだ、鍵をなくしちゃったって言うから、どうしようかねって、あなたのうちのドアを見たらね、鍵穴と反対側の溝に鍵が刺さっていてね、ここにあるじゃないって言ったら、あらなんでこんなところに、って驚いていましたよ、年をとるといろんなことがあるから、あわてちゃあダメよねって、笑ったわ、って、それは笑い事ではありません。どこにどうやってなんと相談したらいいんだろう、とこのところずっと考えていたのですが、その矢先に、母がこうして救急車で運ばれまして、

 そのように、事情を私が立て続けに話すのを聴き続けた医師は、頷き、まあレビーかアルツハイマーか、どっちかって気はするよね、と言った。そして、母を診察するといい、母が診察室に入ってくると、医師は老人用の声色と声量になり、はい、では今日は何日か言ってください、と言ったが母は日付を覚えていなかった。でもまあ、私も咄嗟に日付を聞かれても言えないこともあるだろう。はい、では今年は、2せん何年ですか、という質問に母は、2026年と答えた。では、令和何年ですか、と聞かれると、レイワってなんですか、と母は言って、診察は終了となった。認知機能の検査をすることになった。またその日は私も、母のこれまでの様子の聞き取り調査をされることになっている。こうして母の認知症との戦いは、幕を開けたのだった。

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