2019年7月19日金曜日

発達障害と国語教育


発達障害者の日常、をひとつのテーマとする弊ブログは、本の話ばかりやっている。それは発達障害者である弊ブログの著者の田中が、読書が好きだからに他ならない。読書においてのみ、田中は救われている。それに比べて現実というのは、わけがわからないことばかりだ。という言い方にもあらわれるように、田中が好きな本はいわゆる文学作品、フィクションである。

「発達障害生徒への配慮」としての「文学読解の軽視」?「ポリコレ以降」の国語教育|矢野利裕|FINDER

ツイッターで流れてきたこの記事について、意見を後日に、と書いてみたはいいが、書くなら早いほうがと、真夜中の中途覚醒時にパソコンを立ち上げた。まずは記事の要約をしてみると―新学習指導要領の国語では「駐車場の利用規約を読み解く問題や、著作権法の条文を読み解く問題などが出題」され、「「契約書が読めさえすれば、論理的思考が身についていると言えるのか」「現代文(評論文)ばかりが重視され、古典や近現代の文学作品を教える時間がさらに削られてしまうのではないか」といった批判や懸念が示されてい」る。

この文学軽視ともいえる事態、新学習指導要領の背景から考えるに、文学は「発達障害をもった生徒(とくに、自閉症傾向のある生徒)に対して過剰負担だ、という議論」の結果であるという話。


自閉症傾向のある人は、言葉を字義通りに受け取ってしまうため、文脈を把握しながら言外の意を汲み取ることや行間を読むことが苦手です(具体的には、アイロニーの読み取りが困難である傾向があります)。だから自閉症傾向にある生徒は、従来的な国語教育が定型発達の生徒に比べて過剰負担になる、というのです。
つまり、こういうことです――文学作品を読んで「文脈把握の力」を養う授業は、「合理的配慮」に反する。文学作品を読んで文脈を推し量る授業は、ポリティカル・コレクトネス的にアウトである。
―以下この記事について、従来の国語好きの発達障害者としての一意見を書いてみたいと思う。自閉症である田中は、現実世界において「文脈を把握しながら言外の意を汲み取ることや行間を読むことが苦手」なのだが、それはたしかにそうだが、国語の成績はよかったし、いまでも文学作品を読むのが好きだ。

文学には基本的に全てが書かれている。だから現実よりわかりやすいのだ。現実における「言外」はまさしく「言外」なのであり、その類推にこそ困難がある。また、現実は文学のように、戻って読むことができず、だからこそ「文脈」がとりづらいのである。あいまいな情報があいまいなまま止まらず流れていくことに、発達障害者である田中は日々苦しんでいる。文学と現実は、こんなふうにちがう、ということがまずある。

こうした障害に対する「合理的配慮」として、障害者雇用の職場で実際に実施されていることとして、「口頭でのあいまいな指示をせず」、「指示はメールやチャットで行う」、「書面でマニュアルを作成している」、といったものがある。契約書や条文はたしかにあいまいさの排除の極地にあり「マニュアル」に近いものだ――が、現実世界の全てがマニュアル化しはしない以上、時間が止まり全てが文字で確認できる文学作品を使って、学生時代に訓練をしておくことは、発達障害者にこそ大事なことと田中は考える。

「合理的配慮」については以前にも書いたように、障害者の一方的な甘えとしての「配慮」に留まらない「理由に合う(合理)」が必要、という考え方だ。現実世界において、発達障害者は、マニュアルのある企業でただ働く前に、とにかくメモを取って現実世界を文字化し文脈を取る努力をしたり、必要に応じて確認をとることで流れてしまうあいまいを巻き戻すといった、障害に対する対策をとるバーターとしてはじめて配慮を受ける権利を得るのだ。これが現実である。

ハラスメント禁止の国際条約、経団連はなぜ棄権したのか

その訓練として、本を読むことは重要だ。厳しい訓練とパワハラの境界がわからない、とは先日経団連がパワハラについて表明した意見で、ここにポリティカル・コレクトネスの難しいところがあるのを承知で――国語から文学を排除することは、単なる配慮であるのかもしれないが、「合理的配慮」ではないのじゃないか。ともすれば発達障害児の訓練の機会を奪うかもしれない。だから田中は、国語教育から文学作品を排除することに反対である。

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