2019年1月15日火曜日

図書館の国で、古典教育について



発達障害者が生きていくためにたどりついた、東京都日野市。無職でもいい、障害者でもいいと、不動産屋の平成3年生まれの青年が、彼の営業成績になるのか、アパートにねじ込んでくれたのでやってきた、ここは見知らぬ土地です。アパートにはじめて見学に行く車中で、平成が終わり新しい時代が来ることを楽しみにしている、と彼は言っていました。わたしは彼に、昭和天皇がなくなる時期の日本の沈んだ様子が、いまもわたしに染みついているような気がして、次の時代こそ華やかに幕が開いてほしいと話しました。三十年なんてあっという間でした。

あれよあれよと越してきた東京都日野市は、どういう意味か「新撰組」を推しており、しかしわたしは新撰組には興味がなく、どうしようかと思っていました。また、東京都日野市には、銭湯、スーパー銭湯の類が一軒もなく、これも残念なことでした。しかし、以前にも書いたとおり、なぜか「図書館」が多い東京都日野市。それはわたしの思い過ごしではなく、調べてみると、日本でいちばん図書貸し出し数の多い自治体、また日本ではじめて移動図書館をはじめた自治体、といった情報が出てきて、書籍が好きなわたしが流れ着く運命を感じ、「次こそ一生の仕事」という覚悟が数年ごとに瓦礫と化すわたしの人生ですが、「図書館の国」東京都日野市に骨をうずめたいと、いまおもっているところです。


高幡不動駅の、京王線と多摩モノレールの連絡通路にあるタリーズは、電源も多くワイファイが飛んでいるので便利なカフェです。そこで内職をしていたら、隣の席の大学生が「天声人語書き写しノート」をしていて、私もやりたくなりました。しかし、大学生の手元をのぞくと、あのノートは、天声人語の実際の記事を切り抜いて、ノートに貼るようにできており、朝日新聞をとっていないわたしには、それは無理な話です。

そうやって切り抜きを貼るために、朝日新聞をとっている人がおり、その売り上げを減らさないように書き写しノートを売っているのです。私が小学生のころから、国語の宿題で天声人語(的なもの)を切り抜いて写せという宿題がありましたが、あのころは全世帯が新聞をとっているのが当たり前で、書き写しノートなんて商品がなくてもよかったのです。


わたしは単純に書写をして、文字をキレイに書く時間をもって、精神を落ち着けたいだけなので、ダイソーで方眼ノートを買い、日野市立高幡図書館で朝日新聞を見せてもらい、書写をすることにしました。高幡図書館は隣の駅の前ですが、家から自転車で15分もあれば着きます。高幡図書館の2階に2席だけですが電源席があり、パソコンを持ち込んで作業をすることが正式に許可されています。ここのワイファイが「なんとか爆速ワイファイ」というやつで、本気で爆速のためオススメです。


ツイッターで報告したように、生放送でyoutubeをしており現在その録画も残っている、明星大学人文学部日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」に行ってきました。図書館でポスターを見て、古典肯定派と古典否定派が戦うという謎の企画にひかれたのです。古典書が燃やされるのか、あるいは古典的な時代また歴史が否定されるのか、そんなことがあるのだろうか、それは大変だと駆けつけたわけですが、その議論は、高校の国語授業の中で「古典」の授業が現に減らされ、必修から「選択科目化」されてきていること、また文科省の政策として、「国立大学は理系中心、文系科目は私立大学に任せる」という方針が出ており、国立大学の日本の古典文学を担当する教授がクビになろうとしている、といったことが現実にもうはじまっている、そうしたことに関する教育学上の議論なのでありました。

しかしそれはそれで、興味深い議論でした。読書好きからすると、そんなことがすでにはじまっているのかと驚き、けしからんと最初は思っていたのですが、これはいわゆる「ゆとり教育」の失敗からはじまった、日本にほんもののエリートを育てるための、新しい教育方針の一環であることがわかり、古典も音楽や美術と同じく芸術科目なのだから、選択でなんの問題もない、という「古典否定派」の意見は、非常に筋が通っていると感じました。



ただ、「古典否定派」のもうひとつの大きな主張に、「古典はポリコレに反する」というものがあり、わたしはこの件に関しては賛同しがたいなあと思って聞いていました。たとえば古典には男尊女卑的な内容のものがある、これを排除する必要がある、といった話なのですが、キレイキレイで排除していけば差別は解消されるのか、直視することから新しい議論がはじまるはず、またそもそも「コレクト」(正しい)とはなになのか、いまの時代の「コレクト」が、昔はそうでなかったのなら、将来も「コレクト」であるかどうかはわからない、ということは、いま障害者になろうとしているわたしが、考えるべき問題として感じました。

ただやはりこの対決で「古典否定派」に大きくうなづいたもうひとつの点は、(「古典」とは直接関係がない議論ではありますが)、理系の学問に「理学部」という理屈の学問と「工学部」という実学の学問の区分があるのに、文系学問にはそれがない、ということです。わたしは若いころ、国立大学の日本現代文学を扱う文系学部に進みましたが、当時の担当教授は私学あるいは国立の教育学部の国語科に異動となっており、これもそういうことだったのかといまさら思ったのですが、それはともかく、日本現代文学をいわば「理学部的に」研究し、しかし研究者にはならなかった(なれなかった)わたしに、その研究を「工学部的に」生かすキャリアの道は存在せず、結果的にいまのわたしは無職であるのだなあ、と思ったのです。

肯定派と否定派の議論でも、教育=学校の授業は生徒に「幸福」を与えるべき、という点で両者がかみ合う場面がありましたが、「古典肯定派」の、文学のもやもやを学ぶことが現実の課題を解くヒントになるという「幸福」のあり方、対する「古典否定派」の、収入に直結する実学を優先するべきという「幸福」のあり方、これはどちらも正しいのだとは思うのですが、一方で人文科学に、芸術や情緒とは切り離した、実学的な技術の側面を強調した学問分野があれば、文系の人間はもっとかんたんに社会で役に立てるはず、と思いました。たしかに天声人語を書写する「幸福」は、平安時代の仏教徒が仏典を書写していたのに似て、「幸福」ではあるのですが……。

「古典肯定派」は完敗であったのかと言えば、江戸時代の医学書やカルテが漢文で書かれていた、という視点の提示から展開された、「むかしの学問に文系も理系もなかった」という話は、ワンポイント獲得でした。そもそもこのディベートがはじまる前、会場にはやくついてハンドアウトを読みながら開会を待っている時、私が思っていたことはといえば、「なんだあ結局これって文系と理系のケンカなんだあ」ということでした。現代社会ではけっきょく実学として理系のほうが成立していて、文系は役にたたねえと。あるいは心の豊かさを売るしかないと。そうじゃないんだよなあ。文系だってこうやれば実学的なんだぜという仕事のアプローチを、理系のバカに何度も「文系黙ってろ」とつぶされてきた文系のおじさんは、文理を超えたところにほんとうの知識があるはずなんだよなあ、となんども思ってきたのでした。


けっきょく高校で文系理系を選択させるのは大学受験のため、古典は選択科目化が進む中でけっきょくセンター試験に出るから必修科目的であらざるを得ない、といった受験制度の問題もここには絡んでおり、そうやってみていくとやはりこれは「教育」の問題なのであるなあ、と思いました。シンポジウムの観客はわたしのように図書館通いの無職のおじさんはあまりいなかったようで、教育を職業にする人がたくさん集まっていたようですが、わたしはこの先の教育を受ける若者たちになにかを託す立場にはないので、もっといい教育を受けたかったなあという人生に対する後悔を強く感じ、また今後じぶんに取り入れるべき知識のかたちについても考える一日となりました。

明日からしばらく家を離れる必要があり、少なくとも3日はブログが休みになるはずです。この間はツイッターでつぶやきを出していきますので、生存を確認するようにしてください。

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