2019年7月7日日曜日

茜さす空に、シトラス色の光点が


 阿部和重の『□』(シカク)、ときょう話のタネにする小説のタイトルをパソコンの画面に表示するためにタイプしたその瞬間に思いついたことは、多分正解なんじゃないか。この小説家は、タイトル未定で小説を書き出し、それをパソコンに保存しておくにあたって、とりあえず保存するにはタイトルが必要で、とりあえず「□」という記号を使ったのだ。ただの思いつきだから、あっているかどうかわからないが、もっと意味のあるタイトルを付けようと思えば付けられたはずだから、この直感はどうも当たっている気がする。


 
 しかしでは、この作品が未完成なものの垂れ流しなのかといえば、それは違うだろう。いかにもタイトルは『□』というふうに話が流れている。たとえば作品の冒頭、これは最後でもう一度印象的に繰り返される描写だ。それはまるで季節が再び巡ってきたかのようにと書くと、この小説が「春」「夏」「秋」「冬」の4章で構成されることと対応することになるがともかく、その冒頭をここに引用してみたい。いかにも「□」な感じとは、たとえばこういうことだからだ。
 茜さす空に、シトラス色の光点がふたつみっつほど揺らめいている。
 水垣鉄四は困惑しきっている。
 菜の花を食べたら、角貝ササミが死んでしまったのだという。
 三日ぶりに、烏谷青磁が訪ねてきてひょっとそう告げた。烏谷は泣いている。
 この日は四月一日、烏谷青磁があらわれたのは食パンみたいな雲がトースト化した、薄暮時のことだった。
 世間のルールにしたがい、水垣鉄四は当初その話を信じなかった。
 この時代、世間のルールはすでにあらかた形骸化していたが、烏谷青磁は嘘泣きしているようにも見えた。
引用し始めた時には、最初の一行を引用しようと考えていたが、引用し出したら止まらない。引用したくなる文章なのだ。パソコンで打っていて心地よいという意味で、いかにも作り物の人物名は当然、コピペで連ねるとたのしくなってくる。「四月一日」というのはエイプリルフールを指しているだろう。そんな作り物としての小説の冒頭が、空の描写でありながら不思議なデジタルも感じさせるという、一種の「宣言」として機能している。この作品はこの文章のように、リアリズムとデジタリズムを混在させた情報として、存在させるという宣言だ。


 小説のあらすじは、4つのアイテム(それは人体の4つのパーツ)を集めて死者を生き返らせるという、ゲームかライトノベルのようなもので、カニバリズム(食人)があるなど一見グロテスクな内容だが、この作品は最初の宣言があるから、グロテスクには流れないし、ライトノベルにもならない。文章を味わうたのしみがある。こういう小説を純文学というのかもしれないという気すらしてくる。

 ではここに意味はないのだろうか。というと、ないわけではないのかもしれない。季節は流れ、その時間を生きた人間の、人生の意味はこのように語られる。
おまえの出番はとりあえずここまでなんだ、よくやってくれたなご苦労さん。でもみんな食い終わったら、四パーツやおまえのなにもかもがおれやこいつらのなかに取り込まれて血となり肉となって新しい機能としてそれぞれに備わって即座に生まれ変わることになるわけだ。だからおまえにもまだ活躍の場は用意されていると言えるし、どちらかといえばこれから先のほうがそういう機会を数多く得られるだろう。ちがいはおまえという自我が跡形もなくなるってことだけだ。しかしそもそもおまえ今だって主体性なんてないんだから、結局は一個も変わらんってことなんじゃないか。
切り刻まれる肉体や死体が保存されるプールは、真正面の文字面で理解するとグロテスクだが、最初の宣言があるからこの作品の読者には、そうした肉体は「可視化された情報」と理解される。その理解に立つと、人肉を食べる文化のない人間の生活と歴史も、同じようなものなのではないかという感じがしてくる。


 人生の意味、を真正面から考えてしまうと、「□」という記号のように空疎かもしれない。しかしその「□」が生み出し、「おまえ」という場所に保存された情報は、いかようにも生まれなおされ、生き返される。田中は若い頃から自分の子供を作るつもりがなかった。それは検査と覚悟を経た今になれば、発達障害の遺伝子をこの世界に残したくない、ときれいに語ることのできる性質のものだ。では、田中に生きる意味はないのかというと、田中はそうは思っていない。田中が考え生きたという事実は、どこかの誰かに伝承され、田中は何度でも生き返る。それが人間の人生だから、ということになる。

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